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日本がアメリカの属国であることは、日米安保条約が締結された時点から明白なことであり、日本の政治方針が「年次改革要望書」その他の形でアメリカから指示されているのは公然たる事実であるにも関わらず、マスコミにそのような意見や考えが載ることはほとんど無い。マスコミとは政府の広報機関であると私が言う所以である。
その政府自体が、民間の一部の人間の意志で動かされている、という考えは「陰謀論」と呼ばれ、一笑に付されるというのが常である。もちろん、これもマスコミによって作られてきた気風である。
私の知人なども、そうしたマスコミと教育による洗脳で頭がこちこちに固まっている人間が多いから、私はふだんの会話で彼らにこのブログに書いているような話はしない。我々の日常の会話とはそういうものだ。相手のレベルに合わせて話しているわけだ。
ブログでは、不特定多数の人間に向けて本音の話をしていて、その中には、こうした話の通じる人間がいるからこそ、少数ではあっても継続的に読んでくれる人間も出てくるわけである。
それはおそらく他の人のブログでもそうだろう。そういう意味で、ブログを読むということ、他人のホームページを読むということは、高度な自己教育である。実際、私自身、インターネット情報に触れるようになってから、知識のレベルが格段に上がったと思っている。ところが、先に書いたような「教育とマスコミに洗脳された人々」の目から見れば、おそらく私は「陰謀論で頭がおかしくなったのだ」となるだろう。
さて、次回は、「陰謀論」の大本である「シオン長老の議定書」について書くことにする。これは偽書であるという意見もあるが、明らかに現在の世界がこの思想によってコントロールされているのは、それを読めば明らかであるから、まだこの書を読んだことのない人のために一部を抜粋し、解説を加えてみるわけだ。
次回に、乞う、ご期待。
追記:今、上の文章を読み返したところ、「明らかに現在の世界がこの思想によってコントロールされているのは、それを読めば明らかであるから」などと、「明らか」が重言になっている。他人の文章を否定する際に、このような文章のミスを取り上げて「こういうレベルの頭の人間の発言なのだから、見るまでもない」などとやるのがそういう連中の常套手段の一つだが、どういう反応があるか面白いから、わざとこのままにしておこう。文章のミスなど、いちいち気にしていてはいられない。PR -
箴言家としてのニーチェについて
私は哲学者としてのニーチェにはほとんど興味は無いし、それ以前に、哲学の書物を読みこなす能力も無いが、箴言家としてのニーチェは面白いと思っている。もっとも、その箴言の中には理解不可能なものも多いのだが、理解できる部分だけでも十分に面白い。その一部をここで私なりに分析・解釈してみたい。
その前に、ニーチェの特徴をまとめておこう。彼は何よりも、人間心理の鋭い洞察家である。だからこそ、優れた箴言や警句が書けたのである。次に、彼は「力」というものに強烈なオブセッション(強迫観念)を抱いていた。裏返せば、自らの弱さに強いコンプレックスを感じていたのではないかと想像できる。その劣等感は、たとえば生物としての女性の強さへの劣等感である。そのために、彼の警句の中には、女性の知性への軽蔑の言葉が多い。あるいは、彼は性的不能者ではなかったか、とも思われる。もちろん、彼は梅毒患者だったから、性的交渉がまったくなかったことは無いだろうが、梅毒を移されたこと以外にも、女性に痛い目に合わされた事がありそうである。あるいは社会的な不遇が、彼の無力感と劣等感、不満の原因だったかもしれない。いずれにしても、彼は「力」というものに強烈な憧れを抱き、それが彼の「超人思想」となったのだろう。そして、その「超人」とは現世的な宗教的道徳的桎梏を物ともしない人間なのである。たとえば、チェザーレ・ボルジア(最近は、チェーザレ・ボルジアと表記する人が多いが)のような大悪党などが、彼の憧れる超人だったのではないかと思われる。したがって、彼の箴言の中には、世俗の道徳を軽蔑して、悪を礼賛する言葉が多い。
であるから、彼の箴言は、彼と似た体質の人間、つまり、頭はある程度いいが、本質的には気が弱くて、その弱さに深い劣等感を抱いている人間(西尾某などのことだが)に強くアピールする言葉が多い。そうでない人間から見れば、彼の箴言の多くは詩人的な無根拠の断定か虚勢であるから、丸飲みにはできない。しかし、人間性に対する彼の洞察力は素晴らしいものだから、いろいろと分析・解釈する価値は十分にあるだろう。
これから挙げる箴言は、『善悪の彼岸』から抜き出したものである。その第四章が「箴言と間奏曲」という章名で、そこからほとんど抜粋した。訳は竹山道夫で、文章が古いが、そこがニーチェっぽい感じもする。時々、意味不明の文もあるが、そこは「解釈」と「推測」で片づけよう。
1 ただ一人への愛は一種の野蛮である。何となれば、それは他のすべての者の犠牲において行われるゆえに。神への愛もまたしかり。
[解説] 特に解説の必要もない、分かりやすい箴言である。恋愛至上主義者への強烈な嫌みではあり、また「神への愛」を絶対視するキリスト教徒への嫌みでもある。もちろん、「兼愛」説(「兼愛」とは無差別愛である)の墨子という偉人を2000年以上も前に持っている東洋人にとっては、特に驚く思想ではない。ともあれ、一人に対して絶対の愛を捧げるということは、他のすべての人間を無視することだ、ということを、恋愛至上主義者は考えるべきだろう。恋愛とは、危険な爆弾、あるいは劇薬なのである。幾つになっても恋愛をしていたい、などとノタマう馬鹿な女は、性欲やちょっとした胸のときめきを恋愛だと思っているのだろうが、そんなものは恋愛などではない。
2 「われこれをなしたり」――わが記憶はかくいう。「われこれをなせしことなし」――わが矜持はかくいい、いって枉(ま)げぬ。このとき、ついに譲るは記憶である。
[解説] 「これ」が、(恥ずべき行為)のことであると明確にしないから、いわくありげな物々しい箴言に見えるが、要するに、我々はいつも自分で自分を騙すものだ、ということである。自分の記憶でさえも我々はねじ曲げて、自分の都合の良いように作り変える。言い換えれば、事件に利害関係のある当事者の証言ほど当てにならないものは無い、ということである。自分の記憶が自分を騙すことをも知らない素朴な人間には有益な箴言であろう。
3 いたわりつつ殺す手を見たことのない者は、人生をきびしく見た人ではない。
[解説] ニーチェ本人はどうなのだ、と聞きたくなる言葉だ。だいたい、哲学者という人種は現実の厳しさと格闘しているはずはない、と私は思うのだが。――「いたわりつつ殺す」とは、「泣いて馬謖を斬る」みたいなことか。愛する人間でも切り捨てねばならない場面が現実人生にはある、ということだろうが、その時、除去される人間から見れば、いたわりつつだろうが、非情に切り捨てようが、同じことである。結局、これは切り捨てる側を甘やかす言葉にすぎない。つまり、権力者擁護のおべんちゃらだ。ニーチェの思想を一言で言えば、「力は正義なり」という俗な言葉になるのであり、それを「超人思想」などと麗々しく言うから偉そうに見えるだけである。ただし、神の支配の下に人間性が抑圧されていた時代ならば、神を捨てて、人間が自分だけの力で生きることを求めたのは優れた反抗だっただろう。しかし、神が存在しない場合の世界は、力のみが支配する野獣の世界なのかどうか。人間の歴史は、力の支配から理性の支配へという進化の過程であるべきであり、「超人思想」などというものは、結局は自分を超人だと思いこんだ傲慢な狂人を生み出すだけのものだろう。
4 一人の人間の性欲の程度と性質とは、その人間の精神の最高の頂にまで及ぶ。
[解説] 意味深なような、下らないような箴言だが、ニーチェの性欲、あるいは男女関係へのこだわりを示す言葉として取り上げた。この言葉は、性欲を賞賛した言葉とも、精神を見下した言葉とも取れるが、いずれにしても、性欲と精神がシンクロするならば、哲学者こそが性的超人でもあるという馬鹿げた結論になる。もちろん、そんなはずはないのであって、むしろ哲学者は性的には弱者であるにきまっているのである。マルキ・ド・サドなどを哲学者とすれば、話は別だが。逆に、哲学者への軽蔑の言葉としてみよう。すると、いくら偉そうなことを言っていても、お前の下半身以上のレベルには、お前は達せないのだよ、という皮肉になる。このほうが面白いと言えば面白い。
5 おのれを蔑む者も、侮蔑者としてなおおのれを敬う。
[解説] これは面白い。人間のナルシシズムを見事に突いた箴言である。逆に、この言葉こそが、ニーチェ自身がいかに(哲学上の)ナルシストであったかを如実に示している。解説の必要も無い箴言だが、念のために言えば、己を蔑む自分は、侮蔑者として、蔑まれる自分よりは認識の高みにいるわけだから、そこに自己満足がある、ということである。
6 女性たちすら、すべての私心ある虚栄の背後に、なお無私なる侮蔑を蔵している。――「女性」に対して。
[解説] 現代のフェミニスト活動家から、「メイル・ショービニスト・ピッグ」(男性優越主義者の豚!)と罵声を浴びそうな発言だが、この箴言については私は是非の判断ができない。多くの文学者が、「女性の敵は女性である」という趣旨の事を言っているが、それは「男の敵は男である」というのと同じことであり、なぜわざわざ女を貶めるのかが私には理解できないのである。しかし、その手の女性蔑視の発言に比べても、このニーチェの発言は相当にひどい。なぜなら、女性の女性への侮蔑を「無私なる侮蔑」つまり、客観的認識による侮蔑だと言っているからである。つまり、女は客観的に見て侮蔑されるべき存在だと言っているわけだ。そんな事を私がちらりとでも考えたと知ったら、私の女房が私をどうするか、恐ろしいことである。
7 感情をきびしく縛れば、精神には多くの自由を与えることができる。
[解説] これはいい言葉である。ロシアの神秘思想家グルジェフは、知性の中心と感情の中心は別だと言ったが、我々の知的思考がいかに感情によって邪魔されるかを知っている者は、すべてこのニーチェの言葉に賛同するだろう。ただ、問題は、どうすれば感情を縛ることができるのか、ということだが。それができれば、臨済の「随所に主となる」という理想が実現できたということであろう。
8 男子の成熟――小児のとき遊戯の際に示したあの真剣味を、ふたたび見いだしたこと。
[解説] これはニーチェの箴言の中の最高のものだろう。蛇足的に解釈すれば、この真剣味は、「遊戯的真剣」でなければならない。つまり、義務的真剣ではなく、それを楽しんでやりながら、真剣であるということだ。こうした真剣さが、人生を最高に意味のあるものにする。「遊びをせんとや生まれけん、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ揺るがるれ」という『梁塵秘抄』の今様は、その人生の秘鑰(秘密を明らかにする鍵)を如実に表した名歌である。
9 いかに? 偉人とは? 私が見るのはつねにただ、みずからの理想を演ずる俳優にすぎない。
[解説] 偉人の内容を「世間的に成功した人物」と定義すれば、そうかもしれない。だが、偉大な芸術家、偉大な思想家、偉大な科学者が、ニーチェのこの言葉に当てはまらないことは明瞭だろう。軍人、政治家、実業家などなら、当てはまるだろうが。誰だったか忘れたが、ナポレオンの言葉の多くは、(たとえば、『崇高と滑稽の差はただ一歩のみ』などだが)俳優の言葉にこそふさわしいと言っている。実際、ナポレオンは、ナポレオンを演じた俳優であったのだろう。現代社会に、俳優やタレント上がりの政治家が多いのは当然だということである。彼らは、黒幕(脚本家)に与えられた台本を上手く演ずれば、それでいいのである。
10 今日、認識する者は自己を獣に化せる神として感じたいと願う。
[解説] 当のニーチェ自身がそうだったんだろうな、というのがこれを読んでの感想だ。「俺をただの獣と思うなよ。俺の中には神がいるんだぞ」と威張りたいのである。
11 道徳的現象なるものは存在しない。あるのはただ、現象の道徳的解釈である。
[解説] 当たり前でしょう、という感じだが、当時のドイツ哲学界には、わざわざそう言わねばならないような状況があったのかも知れない。もちろん、現在でも頭の悪い人間の中には、道徳が現象自体に付随していると思う者もいるかもしれない。そういう人間は、たとえばライオンが兎を噛み殺すことをも「悪」だと言うのである。もちろん、これは幼児的思考にすぎないのだが。現象は、人間の解釈を待って始めて道徳的かそうでないかの価値を備えるのである。
12 しばしば、犯罪者は自分の行為に価するだけの成長を遂げていない。彼はそれを小さくいいなし、誹謗する。
[解説] 「誹謗する」とは、もちろん、「犯罪自体を誹謗する」ということだ。つまり、ニーチェにとっては、犯罪は偉大な行為なのである。なぜなら、それはこの世の道徳をうち破る、力に満ちあふれた行為だから、ということだろう。ニーチェ信者ではない私からは、なぜ力があるのがそんなに賞賛されねばならないのかがわからないのだが。力のある人間は、弱者を虐げて権力をふるう。弱者は力では支配されない世の中を作ろうと努力する。どちらが人類にとって素晴らしいことか、考えるまでもないことである。しかも、弱者自身(ニーチェはそうだと私は思う)が強者を賞賛するに至っては、哀れとしか言いようがない。
13 犯罪人に有利な材料として、その行為の恐怖の美しさを引用しうるほどに、技巧のある弁護士は稀である。
[解説] 稀なのは当然で、現実の法廷でそんな弁護には何の価値も無く、一顧もされないからである。芸術家はしばしば、美を云々するが、一般大衆にとっての美は、犯罪などとは無縁の常識的な美にすぎない。そして、この点では、芸術家よりも一般大衆が正しい。芸術の虚構は虚構の中にとどめておけばいい。現実の犯罪と美は無関係でいいのである。
14 われらの虚栄心がもっとも傷つけられるのは、われらの矜持が傷つけられたときである。
[解説] あまりにくだらない箴言なので、かえって私の誤読かとも思ってここに挙げてみた。矜持が実体的な内容を伴わないときに、それを虚栄と言うのだ、と私は考えるのだが、矜持が傷つけられるとは、実体的な内容がありながら、それが他者に軽視されたり無私されたりして傷つくということだろう。それならば、それは矜持が傷つけられたのであって、虚栄心が傷つけられたことにはなるまい。また、矜持と虚栄心が同じだとすれば、これは「雨が降る日は天気が悪い」と言うのと同じ様な言葉である。それとも、以上は私の誤読で、元の文には、もっと深い意味があるのだろうか?
15 性愛についての異常な期待と、この期待の羞恥――。これあるがゆえに、女性ははじめからすべての自分の観点をそこなう。
[解説] ニーチェの女性論はすべて偏見に満ちているが、その女性論の大半は、本当は男性にもあてはまるものなのである。この箴言もそうで、若い男女なら誰でもニーチェのこの言葉は当てはまるのであり、特に女性にだけ通用する言葉ではない。そういう「観点」で見たら、ニーチェ自身の「観点」も、何かの先入観でそこなわれているような感じである。
16 愛か憎しみかが共演しないと、女性は下手な役者である。
[解説] 役者を下手だという評論家が正しいのか、それともその評論家に演技を見る目が無いのか。言うまでもなく、演技に関しては、平均的な男性は平均的な女性のはるかに下のレベルなのである。何より、日常生活における女性のあの如才なさこそが、女性の演技力を示しているではないか。現代は、男性と女性の差にほとんど意義の無い時代だから、男性も安心して女性の演技力に学んではいるが、まだまだ女性の方が上だろう。
17 われらの人生の偉大な時期は、われらの悪をわれらの善と呼びあらためる勇気を得るときにある。
[解説] またしても悪の称揚である。そんなに悪が好きなら、志願して刑務所にでも入りなさい、と言いたいところである。このように悪を賛美したニーチェが、どれほどの悪を為したというのか。神への反抗を主題とする哲学的な書物でさえも、詩の形で韜晦しなくては発言できなかったような弱虫人間であるニーチェに、本物の悪事を犯す度胸などあったはずは無いのである。
18 げに意味深いかな――。神が著作家たらんとしたとき、まずギリシア語を学び、しかも平人以上によくは学ばなかった。
[解説] この箴言は私には良くわからない。神の著作とは聖書だろうし、その聖書の最初の版がギリシア語で書かれたことは私も知ってはいるが、それがなぜ神の著作なのかが分からない。まさか、神についての著述が神の著作ということにはならないだろう。しかし、ここでは、神がギリシア語を学んで、聖書を書いたとされている。これは何かの皮肉なのか。では、どういう意味の皮肉なのか。聖書の文章が下手糞だと言っているのか。それとも、こんな下手糞な文章を神が書いたはずはないし、神が許容するはずもないから、キリスト教あるいはユダヤ教はインチキだと言いたいのか。いずれにしても、もってまわったような皮肉である。まあ、神が人間の言葉を学ぶというイメージには、ある種のユーモアが無いこともないが。
19 蓄妾さえも腐敗させられた。――婚姻によって。
[解説] またしても女性差別の言葉だ。どうしてニーチェという人は、自分の雄(オス)性をこうもアピールしたがるのか。まるで、東京都の某知事みたいである。言っていることは、「男は、女が欲しければ、幾らでも妾として飼えばいいのじゃ。結婚などという、一人の女に縛られるような習慣は糞くらえなのじゃ」ということである。
20 民族とは、六、七人の偉大な人間へと至らんがために、自然がなす迂回である。――まことに、さらにかれらをも迂回せんがために。
[解説] で、そうした偉大な人間が出て、何になるの、といったところである。偉大な人間とは、その他のあらゆる人間に恩恵を与えるから、偉大な人間なのであり、無数の平凡人がいなければ、「偉大な人間」などに意味は無いのである。人類の歴史が、数人の偉大な人間しかいなかったらと想像してみると、この言葉の馬鹿らしさがわかるだろう。それに、偉大さの基準はどこにあるのか。一般大衆や平凡人を軽蔑する人間は、自分はそうではないという妄想の持ち主がほとんどであるようだが、それはおそらく彼らが、一般大衆にその価値を認めてもらえなかったことへの恨みのせいではないかという気がする。
21 悪魔は神に対してもっとも広い視野をもっている。このゆえに、彼は神からかくも遠ざかっている。――げに、悪魔こそは認識のもっとも古き友なるかな。
[解説] 前半と後半のつながりが今一つ良くわからない。神から遠ざかることが、認識の必要条件だ、ということなのだろうか。つまり、ドグマからの解放だ。ここでの悪魔とは、ただ、神からもっとも遠くにあることの象徴なのだろう。別に、認識と悪事が結びつくわけではないだろう。ニーチェ流の芝居がかった台詞にすぎない。そこが詩人だとも言えるが。
22 両性は互いに相手について自己を欺いている。すなわち、かれらは根底においては、ただおのれを(あるいは、よりやさしくいえば、おのれの理想を)尊び愛しているにすぎないからである。
[解説] 一般的な恋愛の実相という点ではそうも言えるかもしれない。スタンダールの「結晶作用」は、このニーチェの言葉をより優しく、美しく言ったものである。ただし、これは恋愛が過大に評価されている西欧においては意味のある「冷水かけ」であるが、恋愛や結婚にもっと落ち着いた態度で臨む東洋ではあまり意味のない言葉である。もっとも、現代では東洋人にも恋愛教信者が多くなっているから、若い男女に恋愛の実相をこのように教えることは悪くはない。ただし、そのために、真の恋愛も失われることになるだろうが。真の恋愛においては、自分よりも相手が優先されるのであり、そうでない「恋愛」は、ただ性欲と所有欲と虚栄心の混合物にすぎない。ニーチェなどに真の恋愛がわかっていたかどうか、怪しいものである。
23 パリサイ的性格は善良なる人間の堕落したものではない。これをかなりもちあわせていることは、むしろすべて善良であることの条件である。
[解説] パリサイ的性格とは、イエスによって神殿から追い払われた連中、つまり、偽善的信仰者のことだろうが、ニーチェのこの言葉は善と偽善について、なかなかいい所を突いている。我々は簡単に「偽善は駄目」と言いたがるが、偽善とは何か。それは表面的にではあれ、善行をすることである。人間の内面を外から見る手段が無い以上、心からの善行と偽善とには行為としての区別は無いのである。偽善を嫌う人間はまた善行をもしないものである。つまり、偽善がいやだという口実で、善行をさぼるのが、こうした連中の特徴なのである。これにくらべて、パリサイ人は少なくとも、表面的行為の点では他人から非難されることはしないだけでなく、善行をもやるのである。これはすなわち、彼らが善良であることの謂いである。『徒然草』に「狂人の真似だと言って、大通りを走れば、それは狂人である」というような言葉がある。「聖人の真似だと言って聖人の行為をすれば、それは聖人である」とも言ったかと思うが、ニーチェのこの言葉は同じ趣旨ではないだろうか。
24 人間がおのれをたやすく神と思いこまずにいるのは、下腹部のゆえである。
[解説] 「下腹部」とは言うまでもなく、「性器」のことである。竹山道夫はそれをお上品に下腹部と書いてあるが、ニーチェの原文ではどうなのか。言っていることは、ニーチェでなくても、ルネサンスの作家、哲学者、モラリストあたりの誰でも言いそうなことである。日本には昔から(それほど昔でもないか)「下半身に人格は無い」と言う名台詞がある。これは人生の実相を知らないうぶな若い女性のすべてに教えておくべき言葉だろう。どんなに紳士的な男でも、時と状況では野獣となる、ということである。
25 一人の女性が学問に対する愛好心をもつとき、それは通常、彼女に性的欠陥が伏在することを示す。すでに不妊という事実が、ある程度の趣味の男性化の因となる。男性は、いわば「不妊動物」である。
[解説] ニーチェにしてはまともな女性論かもしれない。女性は、それ自体「物を生む性」であるから、学問・芸術などで欲求不満を解消する必要は無いはずだ。だが、現代の女性は、子供を生むことだけでは「生産欲求」を満足できないようである。そこで、子供を生むだけにとどまらず、子供を自分の理想に育てようとして、たいていは失敗し、子供を駄目にすることが多いようだ。あるいは、本人が「生産的」「創造的」と信じる何かの活動(かつては男性の活動であったものがほとんどだ)に邁進する。こうして、男性化した女性と、もともと「不妊動物」である男性が現代社会を作ることになるが、これが良い社会かどうかは判断が難しい。人生を自己実現の場と考えれば、不妊動物たちが非生物的生産にいそしむ社会も、案外と満足した一生を与える場なのかもしれない。男性が不妊動物であるという指摘は、ニーチェにしては上出来である。学問・芸術・政治はその不妊動物たちのはかない遊びから作られたバベルの塔なのだろう。その中に、ベートーベンの第七番や、トルストイの「戦争と平和」があることを思うと、不妊動物であることも、必ずしも悪くは無いという気がする。 -
最近のベストセラーに、ニーチェの「超訳」というものがあるらしい。私にはニーチェの哲学が現代人にとって意義があるとは思えないのだが、それがベストセラーになるのはなぜか。
ニーチェの功績が、キリスト教を否定し、神に依存しない生き方を称揚したところにあるとすれば、もはや最初から神を信じていない現代人がニーチェを読む意義はどこにあるのか。
ニーチェを読めば自分も「超人」になれるのでは、という幻想的期待感のためにニーチェがブームになっているのなら、それはお門違いだろう。
まあ、ニーチェの価値とは、要するに、キリスト教が社会的拘束力を持っていた時代において、人間解放の声をあげたという、歴史的価値だけではないかと思う。
夏目漱石の『我輩は猫である』に次のような一節がある。
「とにかく人間に個性の自由を許せば許すほどお互いの間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチェが超人などをかつぎ出すのも全くこの窮屈のやり所がなくなってしかたなしにあんな哲学に変形したものだね。ちょっと見るとあれがあの男の理想のように見えるが、ありゃ理想じゃない、不平さ。個性の発達した十九世紀にすくんで、隣の人には心おきなくめったに寝返りも打てないから、大将、やけになってあんな乱暴を書き散らしたのだね。あれを読むと壮快と言うよりむしろ気の毒になる。あの声は勇猛精進の声じゃない、どうしても怨恨痛憤の音だ。」
私はニーチェをほとんど読んでもいないのだが、瞥見しただけでも、まさしく「怨恨痛憤の音」であると読み取れる。いったい何に対する怨恨痛憤か。それは、自分を正当に評価してくれない世間への怨恨痛憤だろう。あるいは女にもてない恨みかもしれない。その恨みが、超人というファンタジーを産み出したわけだ。まあ、そういうファンタジーに自分を同化させて一時の慰めを得るのも悪くはない。だが、ニーチェの哲学が、現実生活を生きる上で意義があるかと言えば、ほとんどの人にとっては、意義はないだろう。
ニーチェ流の考え方がどういうものか知りたい人のために、次回は『善悪の彼岸』の中から、その箴言の一部を取り上げ、解説を加えよう。 -
少し前のアメリカマスコミでのタイガー・ウッズ叩きは異常だったが、「政治の世界に偶然は無い」のであり、マスコミとは政府の広報機関なのだから、これは米政府、および米政府を操る者の意思であったのだろう。
これは、「阿修羅」への投稿意見の一つだが、ターガー・ウッズ叩きは、近い内にアメリカがデフォルト(支払い不能宣言)し、国家破産する布石だという。つまり、彼らがオバマを大統領にしたのはアメリカの国家破産の時の大統領を黒人にしておくことで、白人への免罪符を手に入れるためだったという読みだ。そして、タイガー・ウッズ叩きは、「だから黒人は駄目なのだ」という国民への刷り込みであり、オバマ大統領も同じく「だから黒人は駄目なのだ」という結果になるというわけだ。
まあ、オバマが大統領になった過程は非常に怪しげなものだったし、私もオバマは最初から信じていなかったが、民族差別を国民操作に利用するこのやり方は、ユダヤ人迫害を利用して国際金融家が自分たちへの攻撃をうまく逃れたそのやり方にそっくりである。
戦後60年以上もたちながら、毎年のようにハリウッドでユダヤ人迫害批判の映画が作られることを疑問にも思わない人間がほとんどだから、彼らはいつまでも安泰なのである。もちろん、国際金融家は、ユダヤ人迫害で被害など受けていないというのが私の考えだ。
そして、米大統領は国際金融家の代理人にすぎない、というのは、それほど妄想的な考えだとは思わないのである。 -
では、私・徽宗皇帝が登極したとして、どのように組閣するか。
前から書いているように、現在の政治家の中で亀井静香、鈴木宗男の二人を私は結構買っているのだが、鳩山由紀夫も、そう悪くはない。何しろ、私財を擲って、日本の政治を変えようとして、それに成功したのだから、世間の人間は彼を過小評価しすぎである。民主党では、もちろん小沢、菅も優れた人材だ。
しかし、現在の政治の世界にいる人間の中からだけ選ぶのではあまり面白くないので、インターネットの世界の隠れた逸材も入閣してもらおう。本名は知らないので、ハンドルネームで書く。ついでに、役職名も、今の内閣の役職名は面倒なので、昔風にする。
総理大臣 白石隆 (「奇兵隊」で調べよ)
副大臣 亀井静香
大蔵大臣 あっしら氏 (「阿修羅」で調べよ)
外務大臣 鈴木宗男
文部大臣 マスターヴィジョン氏
自治大臣 菅直人
法務大臣 福島瑞穂
官房大臣 バルセロナから愛をこめて氏(阿修羅で調べよ)
厚生大臣 きっこ氏
通産大臣 広瀬隆
総理大臣に選んだ白石隆氏は、「奇兵隊」というホームページに寄稿していた人物だが、その識見の高さは、現在の日本の中でもトップクラスだと思う。別に徽宗皇帝の知人ではないから、仲間ぼめなどではない。
小沢一郎は政治家としての能力は高いが、案外と演技力が無いから、民主党の党務に専念するのが適役だろう。鳩山由紀夫も民主党党首の仕事だけでよい。べつに与党党首が総理大臣も兼務する必要はない。
まあ、これは単なるお遊びだが、世間には埋もれた人材がたくさんいると思う。女優やタレント、もとスポーツ選手や新興宗教信者などが代議士になり、閣僚になるというような流れは、もうお仕舞にしてほしいものである。 -
実は、私、徽宗皇帝は沖縄の人間なのだが、頭が宇宙的なので普段は沖縄のことを考えることはない。だから、このブログでも沖縄のことを話題にしたことはない。そのうち、気が向いたら、沖縄の話もしよう。
私は生活能力が欠如した人間なので、社会の下層部にいて、収入も生活保護すれすれなのだが、世界全体の幸福が一番の願いなので、多分、サラリーマンなどをやるよりは、世界連邦の大統領になるのが一番の適職ではないかと思う。いや、大統領という演技能力の必要な俗な職務よりは、やはり皇帝となって、俗務は宰相に任せ、自分は趣味に生きるのが、一番向いているのではないだろうか。私が皇帝の家系に生まれなかったのは、つくづく残念である。
もっとも、日本の皇室などに生まれたら、一挙手一投足がマスコミに報道され、動物園の檻の中で人々に眺められながら生きるようなものだろうが。
本物の徽宗皇帝は、書家としても画家としても超一流の人間だったが、皇帝としては無能だったとされている。しかし、彼が絵を書き、書を書く余裕が持てたのは、少なくとも皇帝の家系に生まれたからである。現代の人間は皇帝家に生まれなくても、こうしてインターネットでブログを書くくらいの余裕はあるわけだ。 -
ヤフーブログの方には、さきほどやっとアクセスでき、投稿したところである。インターネットのセキュリティという奴は、不便なことこの上ない。それが無いと不心得者がインターネットを悪用するから、こうしたセキュリティ管理が必要になるのだろうが、一部の人間の悪行のために、全体が迷惑を蒙るわけだ。
「自分だけならいいだろう」
という些細な悪事が積み重なるとどうなるか。「水になったワイン」という話がある。
ある小さな村で長年教師をやり、人々に尊敬されていた先生が定年退職することになり、村人たちは相談して、引退記念として、酒好きなその先生にワインを一樽贈ることにした。村人たちが全員、瓶一本のワインを持ち寄り、それを樽に詰めて先生に贈るのである。ところが、贈呈式が終わり、にこにこ顔で樽を開けた先生は、奇妙な顔になった。樽の中はまったくの水だったのである。
お分かりのとおり、村人たちは、いざ、ワインを樽に入れるという時に、自分のワインが惜しくなり、「自分だけなら分からないだろう」と思って、水を瓶に入れて、それを樽に入れたのである。
そして、そうしたのが実は村人全員だったために、樽の中は完全な水に変わったのである。
この村人たちは全員が善人であり、退職する先生を尊敬していた。にもかかわらず、「自分だけならいいだろう」という些細な誘惑が、この先生へのプレゼントを台無しにし、がっかりさせる結果になったわけである。 -
ヤフーブログにあるもう一つの「徽宗皇帝のブログ」にアクセスできなくなった。あちらの方は、もしかしたらそのまま閉鎖せざるを得なくなるかもしれない。原因は不明である。忍者ブログの「徽宗皇帝」では、キリスト教批判や西欧批判の記事がたくさんあるから、不穏当なブログであるとしてさる筋から妨害される可能性もあると考えていたが、あちらの方は娯楽的語学学習などの話題が中心だったから、内容面から妨害される可能性は少ないと考えていた。まあ、使っているパソコンが古いために、セキュリティ認証が受けられないとかいった理由かもしれない。それもおかしな話ではある。ブログ作者本人がアクセスできないとは、いったい、何のための、誰のためのセキュリティなのか。まあ、無料ブログだったから、私本人が文句を言う筋合いは無いが、毎日少しでも読んでくれる人がいるのが楽しみだっただけに残念である。
もしかしたら、これまであちらのブログで書いてあった記事を、今後、こちらに移植することもあるかもしれない。自分で言うのも何だが、けっこう反応の良い記事もあったのである。
インターネットの世界は、素人にはわからないことが多いものである。 -
「分裂勘違い君劇場」より転載。かなり前の記事だが、現在の日本の状況を、かなり正確に分析していると思う。表現に過激な部分があるので、すべてを文字通りに受け取る必要は無いが、現代の日本で生きるヒントにはなるはずだ。ただし、私としては、「農業の工業化」という方法、あるいは「農業株式会社」という方法で日本が自給自足の道を歩むことで、「新しい日本の物語」が描けると思っている。
以下、転載。
もう、日本という物語は、終わったのだ。
いま、トヨタは、恐るべきスピードで、次々と、世界中に工場を建設している。
そして、日本の熟練工を世界中に派遣して、現地の人々に、技術を伝承している。
さらに、最近では、もはや、外国人の熟練工が、外国人の熟練工を育て始めている。
ゆくゆくは、だんだん日本人でなくてはならない必要性が薄れていくだろう。
いまや、トヨタは、急速に日本への依存度を弱めてきているのだ。
そして、これは、トヨタに限ったことではない。
もはや、日本の経済力を支えている企業は、植物ではない。
日本という土地から動くことのできない木や草ではない。
もはや、どこの国へでも行ける、動物になりつつあるのだ。
こういう中で、企業に増税を課せば、次に建てる工場を、どこの国にするか、という経営会議で、どんな意志決定が下されるかは、だいたい想像がつくだろう。
企業に増税したくても、増税できない状況に政府が追い込まれている、というのは、そういうことなのだ。
もちろん、今すぐに、という話ではない。
日本が今まで営々と築き上げてきた産業集積があるからだ。
しかし、その残照が続くのは、もはや、そう長いことではない。
世界中に張り巡らされていくインターネット回線は、発展途上国に、英語圏の産業集積へのアクセスを、ますます容易にしている。
それによって、英語圏の産業集積は、ますます価値を増大させ、日本という言語の壁のなかに閉じこめられた日本の産業集積の力は、相対的に衰退していく。
そして、ますますパワーアップしていく英語圏の産業集積に、より自由にアクセスできるようになった発展途上国の人々と、相対的にますますショボくなっていく日本の産業集積に依存する日本人との落差は縮まっていき、日本人だけ特別のゲタをはかせては、もらえなくなっていく。
確かに、いまの労働環境は、酷い。福祉政策もひどい。改善しなければならないところは山ほどある。
一刻も早く、窮地にいる人々を救うべく、具体的な効果のある政策を打ち出さねばならない。
しかし、一方で、こういう風に、世界が音を立てて変化していくとき、いくら声高に、企業を非難し、
最低賃金を引き上げる法律を作り、同じ賃金のまま労働時間を短くするよう規制を作り、
コストのかかる正社員の数を増やすように要求し、
生活保護手当の支給基準をゆるめ、また、支給金額を増やせと、政府に訴えたところで、
歴史の歯車が逆回転し出すのだろうか?
そんなふうに企業に規制をかければ、日本の経済力を支えている企業は、
新規採用も、新規工場も、新規出店も、極力、日本ではなく、
外国で行うようにするだけだ。
要するに、日本から、どんどん雇用が失われていくだけだ。
企業からの税収も減り、ますます福祉予算が枯渇して、生活保護手当基準が厳しく
なっていくだけだ。
もう、映画は終わったのだ。いつまでも、未練たらしくエンドロールを眺め続けてもしょうがない。
いまはまだ十分すぎるほど暖かいけれども、映画館の暖房は切られ、館内の隅の方ではすでに冷気が忍び寄ってきている。
外には、木枯らしが吹き荒れているが、まだ日は明るい。
完全に日が沈み、凍てつく夜が訪れる前に、今夜の暖をとれるねぐらを見つけにいかなきゃならない。
ぶっちゃけ、いまの生活水準は、幻影なのだ。
一人あたりのモノの割り当てが半分になったら、生活の全てを、半分にしなきゃならないのだ。
もちろん、全てのモノが半分になったわけじゃない。
人間らしい暮らしをする人間の数の増加以上に、急激に供給量が増大しているものもある。
また、人間自身の労働によって生み出されるモノやサービスは、人間の増大に比例して増えていくから、問題はない。
しかし、石油にしろ、レアメタルにしろ、魚にしろ、供給量がさほど増えてないモノは、あまりにも多いのだ。
もっと正確に言うと、
(1)供給が制約されてしまうもの
(2)供給を制約することができるもの
の一人当たりの割り当てが減っているのだ。
このうち、(1)は、石油とかレアメタルみたいなヤツだ。
そして、(2)の「供給を制約することができるもの」とは、ネットワーク外部性や特許やブランドによって、「独占」することのできるものだ。
つまり、ウィンドウズとかワードとかエクセルとかインテルCPUとかイーベイとか、タミフルとか、プロザックとか、ゲノム創薬とかルイヴィトンとかナイキとかだ。
この2つのものの、相対的な価値がどんどん上昇しているので、労働の相対的な価値が、どんどん低下しているのだ。
労働の絶対的な価値は、少しも変わってないのに。
結局、国際貿易は、ババ抜きゲームなのだ。
確かに、貿易することによって、豊かになることはあっても、貧しくなることなんて、原理的にあり得ない。
しかし、いままでずっと貿易によって安価に手に入れることができていたものが、供給が制約されることによって、
安価に手に入れられなくなると、貿易によって豊かになっていた生活は、急速に貧しくなっていく。
そのとき、貧しくならずに、逆に豊かになっていくのは、供給が制約されているモノを手にしている人々だ。
すなわち、石油や、レアメタルや、ウィンドウズや、インテルCPUや、タミフルを牛耳っている人々だ。
何も牛耳れなかった人たちは、ババを引いたのだ。
しかし、だからといって、マイクロソフトやナイキだのの独占企業に就職すれば、
経済的に豊かな人生が保証されるなんてことは無い。
供給が制約される/できるものを牛耳っているのは、その会社の所有者であって、
その会社の社員ではないからだ。
むしろ、ナイキの海外工場では、幼い子供たちが、不衛生な工場の中に閉じこめられ、奴隷のようにでたらめな低賃金で、体をこわすほどの長時間働かされている。
供給が制約されているモノをなにも牛耳っていない普通の人々は、ババを引いてしまったのだ。
僕たちは、そろそろ、自分がババを引いてしまったという現実に、気がつかなきゃならないのだ。
だから、今は、多くのモノを、諦めるべき時なのだ。
もっと生活規模を縮小すべきなのだ。
もっと安い家賃の部屋に引っ越そう。できれば、ショップ99の近所に。
新刊なんか買わずに、ブックオフで十分だ。図書館で十分だ。ネットの無料コンテンツで十分だ。
高価な服やバッグやアクセサリーをほしがる女の子とはさっさと手を切ろう。
海外の安宿を泊まり歩くバックパッキングでも、一食30円の屋台のタコスでも、現地の人たちに混じって、陽気に楽しめる気だてのよい女の子とつきあおう。おしゃれな服なんていらない。穴の開いたジーンズをはいて、薄汚れたリュックサックを背負って、化粧もせずに、ブラブラすればいいじゃないか。
伴侶とも、子供たちとも、貧乏暮らしを楽しもう。
高いレストランで食事をするのもやめだ。
おいしいものを食べたければ、自分たちで、おいしい料理を工夫しよう。
ちょっとした工夫で、驚くほど簡単に、安くておいしいものなんて作れちゃうものなのだ。
子供にも、無理にお金をかける必要はない。
高い塾に行かせたり、家庭教師をつけるより、自分で教えよう。子供と一緒に勉強しよう。
サービス残業までして、無理して会社に貢献しても、いつまでも正社員でいられる保証なんてない。
正社員という既得権益の賞味期限は、もう切れかけていることに、気がつかなきゃならない。
ましてや、このまま順調に昇進し続けると思いこむなんて、いつか白馬にまたがった王子様と結ばれることを夢見る少女のようなメンタリティだ。
もう映画は終わって、エンドロールが流れているんだよ。
それよりも、まだぬくもりの残っているうちに、お金とスキルをためよう。
会社の都合で、たくさんのプロジェクトを押しつけられて、疲弊するのはばからしい。
うまく立ち回って、つまらないプロジェクトからは、逃げ回り、スジのいい一つのプロジェクトだけに専念しよう。
そこでじっくりと納得のいくまでいい仕事をし、自分のスキルを磨き上げ、顧客やエンドユーザの喜ぶ顔を見よう。
それが、明日へつながる。
その会社じゃなくっても、どこでも生きていけるすべを育て上げるのだ。
もはや会社なんて、自分のスキルを獲得し、自分のブランドを構築するためのツールでしかない。
会社に貢献して出世する、という人生モデルは、とっくに終焉しているのだ。
そうしてスキルと人脈をためると同時に、500万円もらって200万円貯金する暮らしを3年続ければ、
貯金も600万円になる。
そうすると、会社との交渉で、優位に立てるのだ。
自分のやりたいプロジェクトを堂々と要求し、スキルのたまらない、くらだないプロジェクトは、
きっぱりと断ることができる。
どうしても、会社がそれを押しつけてくるのなら、さっさと会社を辞めてしまおう。
どうせ、その会社内での地位なんて、そんなに長続きするものじゃない。
そして、いまの自分に最適のポジションを提供してくれる会社をじっくり時間をかけてリサーチし、
自分を上手に売り込むプレゼンテーション資料を、じっくりと時間をかけて作り上げ、
効果的に自分を売り込み、おいしい仕事をゲットしよう。
自分をマーケティングしよう。
何しろ、二年は遊んで暮らせるだけの貯金があるのだ。
交渉の際、足下をみられる心配はない。
十分な余裕を持って、上手に立ち回ることができるはずだ。
要するに、こういう社会状況において、桁違いに有能だというわけでもない一般人がとるべきもっとも効果的な戦略とは、まだ日本の過去の遺産が残っているうちに、その遺産を使ってスキルとお金を貯金し、そのスキルとお金でもって余裕と自由と未来を買う戦略なのだ。
余裕と自由こそが、お金で買える、もっとも価値あるものなのだから。
日本の過去の遺産の残照がいつまでも続くという幻想にとらわれたまま、
年収500万円を受け取って、年収500万円の暮らしをしたり、
いつまでも正社員の地位にしがみつくために、無理な仕事を引き受けて、
会社に媚び売って、疲弊するのは、あまり賢い生き方ではない。
それは、いつ突然、ワーキングプアに転落するかも知れない、極めてリスキーな生き方なのだ。 -
亡くなった父が或る時、次の英文を訳してみろ、と言った。
You might or more head today's some fish.
訳すにも何にも、英語にもなっていないではないか。どう見ても文法的におかしい。
私が悩んでいると、親父が笑って「正解」を教えてくれた。
「ゆうまいと思へど今日の寒さかな」
要するに、昔の人の作った英語洒落である。「or more head」が「思へど」だったり、「some fish」が「寒さかな」だったり、こんなのが中学生や高校生に分かるわけがない。そもそも、元になった俳句だか川柳だかを知らないと、この洒落は通用しないだろう。
まあ、昔のユーモアの一例である。
ついでながら、「some fish」を「as fish」にすると、「暑さかな」になるそうだが、これも随分無理のある洒落だ。
という、亡父についての思い出話だ。
