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もう一つの「徽宗皇帝のブログ」に、上海からのお客さんがコメントを寄せてくれてびっくりした。インターネットの世界はグローバルだ、というのは嘘ではないようだ。その人のブログを訪問してみると、上海は万博を迎えて大きく変貌しつつあるようだ。
文字しか無い私のブログと違って、写真が沢山入ったブログである。Shellyさんという、多分中国人の方だと思う。コメントは日本語で書かれていたが、ブログ内容からそう推察した。
私は、アジアの人間が仲良くすることが、これからのアジアの発展にとって一番大事なことだと思っているから、こうしたつながりは、とても嬉しい。ひねくれ者の徽宗皇帝だが、実は偽り無しに世界全体の幸福が一番の願いであるのだ。PR -
更新が長いこと止まっているホームページだが、現代日本の映画界を救う見識と批評眼を持った男、現代最高の知性の一人、マスターヴィジョン氏のホームページm@stervisionから、彼の文章の素晴らしさをよく表した一文を引用する。マスターヴィジョンさん、早く、ホームページの更新を再開してくれ!
*注:下の「クレしん」に出てくるアンニュィな美女、チャコは多分、小林麻美がモデルだろうな。
(ここから引用)
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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲(原恵一)
脚本&絵コンテ:原恵一 演出&絵コンテ:水島努 音楽:荒川敏行&浜口史郎 主題歌:こばやしさちこ
作画監督:原勝徳&堤のりゆき&間々田益男 美術監督:古賀徹&清水としゆき 制作:シンエイ動画
声の出演:矢島晶子(しんちゃん) 藤原啓治(父 ひろし) ならはしみき(母 みさえ)
こおろぎさとみ(妹 ひまわり)| 津嘉山正種(ケン) 小林愛(チャコ)
傑作である。それも生半可な傑作ではない。一人の作家が一生に一本 作れるかどうかという類の作品だ。おそらく原恵一はこの映画のゼロ号試写において、キャリアの最高作を作ってしまった者のみが味わう恍惚と不安におののいたことだろう――そう、本作のなかでもリスペクトを捧げている「カリオストロの城」を作り上げた直後の宮崎駿のように。 ● 今回、原恵一は本気(マジ)である。ここまで「付き添いのお父さん」にターゲットを絞っちゃっていいのか!?…と心配になるほど、三十男の心に直球をズバンッと投げこんで来る。なにしろ本篇には映画版のレギュラーである「カラオケ好きの原作者・臼井儀人」も「グラビア・アイドルのゲストキャラ」も(なな、なんと!)オカマ・キャラすら出てこないのである。いや、もちろんこれは「クレヨンしんちゃん」なので、クッダラナイ脱力ギャグはテンコ盛りだし(キャラを真面目に振りすぎた前作の反省も踏まえて)しんちゃんは最後の最後の最後まで徹底して無責任でお馬鹿で快楽主義者な5才児であり続ける。ドラマに足をすくわれて「動画」としての魅力を損なうこともなく、中でもクライマックス・シーンの作画は(普段あんまり「上手い」と思わせない作風の)原恵一と水島努がアニメーターとしての底力を見せつける。変幻自在の“ザ・劇伴”を繰り出す荒川敏行&浜口史郎のスコアも素晴らしい。 ● これは「わたしたちが過ごしてきた20世紀」への心のこもった鎮魂歌であり「今、わたしたちが生きているこの21世紀」に向けての決意表明でもある。1960年代に生を受けた者は必見。このサイトを読んできて少しでもおれの目利きを信じてくれるなら観に行ってくれ頼むから。いや大丈夫、平日の夜ならガキもそんなに居ないって。
[以下、内容に触れています]本篇はいきなり太陽の塔のアップから始まる(=太陽の塔を知らない観客はこの時点で脱落) しんちゃん一家の住む埼玉県春日部市にテーマパーク「20世紀博」がオープン。父ちゃん母ちゃんは、な~つかしいなあ:)を連発して、人気アトラクション「バーチャル万博」に通いづめ(おおお、おれなんか万博のパビリオンの名前ぜ~んぶ言えるもんね←威張ってどーする) もう、親はニコニコ、子どもはイヤイヤ。そのうち大人たちは子どもに還って「21世紀博」から戻って来なくなる…。 ● これ、じつはマッシュルーム・カットのケンと、長い黒髪のアンニュイなチャコをリーダーとする秘密結社「イエスタデイ・ワンスモア」の陰謀。そもそも「21世紀」とは「おれたちの輝ける未来」だったはずだ。手塚治虫が夢見た「未来」はこんな耐えがたい悪臭をはなつクソみたいな時代では断じてない。いま一度、自分たちの手に「輝かしい未来」を取り戻すため、おれたちは時計の針を20世紀へと戻すことを選択する。そう、おれたちの「黄金の20世紀」、…街に匂いがあった時代へ、だ・・・てなことを津嘉山正種の声で言われた日にゃあ、もうおれなんか涙を流して「そーだそーだぁ!」と同意しちゃうわけよ(どーせならチャコの声は池田“メーテル”昌子でお願いしたかったね) なにしろあーた、この人たちはテーマパークの地下に「昭和の町並み」の完全なレプリカを作っていて、その町はつねに夕焼けで、地面はまだアスファルトに覆われてなくて、何処からともなく豆腐屋のパ~プ~が聞こえてくるのだ。もちろんケンとチャコもその町の安アパート「昭和荘」の2階で同棲時代を送ってる。おおおお、おれも、おれも。おれも入れて。夕陽の町の住人にしてくれい!<完全に洗脳されてる。 ● というわけで春日部から、…いや、日本中から大人の姿が消えるという「ビューティフル・ドリーマー」な状況が現出し、がらんとした町に残された子どもたちはご飯を食べることすらままならない。幼稚園児がぽつりと呟く一言「“懐かしい”ってそんなにイイモノなのかなあ?」 やがて始まる子ども狩り。しんちゃんと幼稚園の級友たちで構成される かすかべ防衛隊の面々は、大人たちの目を覚ますべく「イエスタデイ・ワンスモア」に戦いを挑む。――最後の最後の最後の最後、しんのすけ はアクション仮面や ぶりぶりざえもん の手を借りず、自分ひとりの力で大人の前に立つ。わずかに残された力を振り絞るように吐き出す台詞。つまり「未来」っていったい「どういうこと」なのか。ぐはっ(←涙が堰を切った音)だめだ。もう両目は栓を抜いた風呂桶のよう。おれは今、この文章を泣きながら書いている<バカ。 ● ドラマを締めくくるのはよしだたくろうの名曲「今日までそして明日から」――♪わたしは今日まで生きてみました ときには誰かの力を借りて ときには誰かにしがみついて わたしは今日まで生きてみました そして今 わたしは思っています 明日からもこうして生きていくだろうと♪ 1度でも「昔は良かった」と嘆息したことのある人はこれを観てよおく反省するよーに(特に>アントニオ猪木と新日本プロレス関係者) -
今日の分の記事はすでに掲載したので、もう書かないつもりだったが、先ほど、非常に面白いホームページを見つけたので、紹介する。長嶺超輝という人の「法治国家つまみぐい」というもので、社会や法律について、毒の効いたユーモアで分析・解説している。特に、「正義の法律用語辞典」というコーナーは、アンブローズ・ビアスばりの皮肉な辞典で、非常に面白いので、ぜひ御覧になるのをお勧めする。
例として一部を引用する。作者には無断の引用だが、ブログやホームページの記事は、多くの人の目に触れてこそ意味があると思うので、許して貰いたい。なお、まだ一部にしか目を通していないので、この引用部分がベストというわけではないのは勿論だ。
(ここから引用)
かこ-もん【過去問】(名)[司試・書士・公務試等]
(1)入学試験や資格試験などにおいて、過去に出題された試験問題のこと。当該試験での出題傾向を知る上で有益な資料。法律系資格試験においては、「条文」「判例」と並んで、三種の神器と呼ばれるほど重要視されるもの。
(2)受験生らが、回した回数を競い合って遊ぶもの。ただし、多く回した方が勝ちだという単純なルールではないところがミソ。多く回せば、それだけ目が回ってしまうことも多い。
(3)こないだ解いたはずなのに、全く記憶に残っておらず、また新たな気持ちで最初から取り組むことができるもの。
(4)この現象を、既視感(デジャヴ)に対して「未視感(ジャメヴ)」と呼ぶ。
(5)しかし、単に集中力が無いだけの話だったりする。
(6)かといって、あまり相手のことを知りすぎると、マンネリ化して気持ちが冷めてしまうため、つき合い方が非常に難しいデリケートなもの。
か-し【瑕疵】(名)[民]
(1)なんらかの欠点や欠陥があること。
(2)相手方の詐欺・強迫(民法第96条)に基づく意思表示を指して「瑕疵ある意思表示」という表現が用いられる他、瑕疵ある占有(同第187条第2項)や、瑕疵担保責任(同第570条)など、条文内での使用例も多数。
(3)このような、読むことすらままならない身元不明の漢語を好んで使いたがる、格調高き法曹界の体質をあらわす言葉。 -
ネットの世界でいまだに他人に対してサヨクだとかウヨクだとかのレッテル付けをして、それですべてを片づけたつもりの人間がいるが、そうしたレッテル付けをする人間は、それだけで信頼できない考えの持ち主だと見なしていい。そもそも、左翼とは何か、右翼とは何かの定義さえ定かではないのだから。それは、戦時中の「非国民」とか「アカ」とかいうレッテル付けによる他者排斥と同レベルの低俗・卑劣な行為である。
アメリカでも事情は同じで、オバマ大統領の医療保険改革について、「あれは共産主義だ」とかいう批判を述べる人間がマスコミに登場して、見ている我々を驚かせたりする。
もちろん、そういう人間は、マスコミが選んでテレビ取材に登場させている人間、つまり保守層の利益になる発言をするための存在であるのは決まっているが、それに騙されるB層が日本以上にアメリカには多いことが推測できる。要するに、保守層の利益を害する存在、高所得層から低所得層への所得移転につながる政策はすべて「共産主義」だということにされるのである。まあ、たしかにそれは共産主義の理念ではあるから、そうした発言は正しいと言えば正しいのだが、問題は、その「共産主義」がなぜ悪いのかということを、彼らはまったく考えてはいないということである。彼らにとっての共産主義とは、この世における絶対悪であり、ア・プリオリに悪なのだから、今さらそれがなぜ悪なのかについては議論の必要もない、と言わんばかりである。ところで、一部の高所得者の幸福のために、絶対多数の低所得者が低賃金労働に苦しみ、あらゆる手段で金を社会上層部に吸い上げられている現状を変えることが、なぜ悪なのだろうか。
もちろん、政治システムとしての共産主義が実現不可能な夢想であることは言うまでもない。世界中の人間が聖人にでもならない限り、どんなに働いても所得は同じという状況で真面目に働く人間などいるわけはない。しかし、そのことと、現実の不平等や不正を是正する政策を「共産主義」呼ばわりして弾圧することは、話が別である。
「自由の国アメリカ」のお題目のもとに、特権階級があらゆる「自由」を謳歌し、他の国民は自由のための基盤を奪われている、そういう国がアメリカである。
ついでながら、この小文のタイトルを「レッテル張りをする豚たち」と付けたのは、豚に対する差別的発言であり、レッテル張りの実例になるかもしれないので、これを読んでいる豚がいたら、あらかじめお詫びしておく。 -
選抜高校野球で興南高校が優勝した。これで沖縄からは三度目の優勝である。決勝戦では、さすがに優勝を意識して、これまでのような伸び伸びしたところがなく、エラーなどで相手の日大三高に最初リードを許したが、島袋投手が悪いなりに踏ん張り、やがて打線が3点のビハインドを跳ね返して逆に2点をリードした。ところがまたエラーめいた2失点で同点に追いつかれる。普通なら、これは日大三高のペースである。だが、延長戦に入って、これまで好投していたエースを代えたのが裏目に出て5点を失い、そのまま興南が逃げ切った。日大三高の監督はキャリアのある監督だが、自分から動きすぎて、相手興南の無策に負けてしまったという形だ。興南の監督の采配は、勝負どころでスクイズをやったりすることはあるが、基本的に選手任せという感じである。それでいいのだと思う。試合をするのは選手であり、監督ではない。今回の選抜では、他校のベテラン監督たちが策に溺れて失敗する場面が多かったせいか、逆に興南のガキヤ監督の無策の策が功を奏した形である。
チームとしても、前の2回の大会出場では初戦負けをしていたために、一つ勝ったことで緊張がほぐれ、その後はいわば無欲の勝利ではなかったろうか。それが決勝まで進んで欲が出たために、決勝戦でのエラー続出という結果になったのだろう。
全国制覇は大いに称えていいが、興南ナインにとっても教訓の多い試合であったと思う。それはもちろん、全国の高校球児にとっての教訓でもある。
ともあれ、興南ナイン、それに興南高校おめでとう! -
選抜高校野球で沖縄の興南高校が決勝に進んだが、準決勝の日大大垣戦では島袋投手が6回まで無安打の好投を見せた。二回戦までは三振も奪うが点も取られるという試合が続いていたが、準々決勝から三振奪取数は減り、逆に点は取られていない。つまり、「打たせて取る」投球になってきたわけだ。そして、彼自身、昨日の大垣戦での「打たせて取る」ピッチングを、理想の投球が出来たと述べている。
打たせて取るピッチングというものについて、私は昔から疑問と興味を持っている。幼稚な疑問なのだが、それは、「打たせて取る」というのは本当に意識してできることなのかどうかということだ。確かに、事実として打たせて取るピッチングになっていることはよくある。だが、同じ投手が打たれっぱなしになることもあるのである。「打たせて取る」ことと「打たれる」ことの違いが、私にはわからないのである。
打者がクリーンに球を捉えたヒット性の当りでも、それが野手の正面を突けば、凡打である。それは単なる幸運であって、勝負で言えば、打者の勝ちだろう。では、それと「打たせて取る」こととの間に、本質的な違いはあるのだろうか。
ピッチングの面で言えば、「抑える」ピッチングと「打たせて取る」ピッチングはどのような投げ分けがあるのだろうか。もちろん、良く言われるように、打者の好きなコースにポイントを少しずらして投げれば、打者は打ち損じるとされている。しかし、打者がそのように都合よく打ち損じてくれるものだろうか。
現実的な現象として、確かに「打たせて取る」という投球内容になっていることは良く見かけることである。おそらく、投手技術としても「打たせて取る」技術は実際に存在しているのだろう。それを明確に説明した投手技術の本を読んでみたいものである。
ついでながら、三振を取る投手のバックよりも、「打たせて取る」投手のバックの方が、打撃が良いという傾向があると思われる。それは、守備でのリズムの良さが、打撃での良いリズムにつながるからだろう。自分が動いて捕球し、相手を抑えるという気分の良さが、打席でのリラックスにつながるわけである。
その逆のパターンが、かつての怪物投手江川の場合であった。彼はいつも三振で相手を抑えるため、野手の守備機会は少なく、打撃も向上しなかった。彼の二年生の夏は、予選のほとんどをノーヒットノーランで勝ちながら、決勝だか準決勝だかでわずか1点を取られて敗退したのである。
興南打線がこの数試合、打撃が活発なのは、島袋投手の「打たせて取る」投球と関係があるのは確かだろう。 -
朝日コムの「釜本邦重の日本FW論」の過去記事の中に、いい発言があった。それは、少子化のために廃校となった全国の小中学校をリサイクルしようという発言だ。具体的には、グラウンドはそのままスポーツグラウンドとして利用し、校舎の一階部分は幼稚園、二階部分は養老院にすればどうかという考えである。
このように、同じ施設の中に幼稚園、あるいは保育所と養老院を共存させるというのは、非常にいい考えである。幼児にとっては、幼い頃から自分たちとは違う存在に接することで社会の遠近感を養う土台が作れるし、老人にとっては、刺激の少ない生活の中で、幼児やスポーツイベントに接することは心理的に好影響を与えるだろう。
現在の日本には、廃校に限らず、無駄に眠っている施設はたくさんある。潰れたままのゴルフ場、潰れたままのホテル、ほとんど利用されることもない公務員のための慰安施設。こうしたものを点検し、再利用することで、新たな事業機会も生まれ、日本経済活性化にもつながるのではないか。「金がないからできない」という官僚の言葉は、もう聞き飽きている。 -
郵貯限度額引き上げにより増加の見込まれる郵貯マネーの使途についての議論が高まっているらしい。
亀井郵政大臣は、その金を公共事業やその他の社会的インフラ整備の事業に使うのが良いという考えのようだが、私もそれに賛成である。現在のような不況の時代に公共事業によって経済を活性化するのはもっとも妥当な金の使い道であり、これはいわば民間の金のうち不要不急な金を政府が借りて、社会全体の経済浮揚に役立てようという考えだ。というのは、税金の使途はほとんど固定しており、新しい政策のために使える部分はそれほど無いからである。かつて財政投融資が批判されていた高度成長の時代とは、時代状況が違うのである。
ロックフェラーの飼い犬の西川によって、あやうくロックフェラー(もちろん、オリックス社長も飼い犬の一人だ)に盗まれるところだった郵便貯金や郵政資産を何とか守りきって、国民のために使ってほしいものである。
郵貯の肥大化によって民間の金融機関が圧迫されるなどと、マスコミがまた例によって寝言を言っているが、「雨降りには傘を貸さず、天気の日に傘を押し付ける」民間金融機関の存在意義などどこにあるのか。だいいち、銀行に金を預けても金利など無い上に、陰では小額預金者を「ゴミ」扱いしている連中ではないか。むしろ、郵貯が成長することで、民間金融機関の仕事が良心的になる可能性のほうが高いと見るべきだろう。 -
*先日、市民図書館から借りてきた本のほとんどはエッセイ集ばかりで、中には、これまで一度も作品を読んだことのない作家の本も混じっている。エッセイを読んで、その作家の人格や考え方が気に入れば、小説作品も読んでみようかな、と思ったからだ。何しろ、世間にはあまりにも沢山の作家がいて、その中の誰が自分と合う作家なのか、探すのも容易ではないからだ。お気に入りを探すのに、エッセイで試してみるというのは、悪くない方法だろう。エッセイの苦手な作家には気に入らない方法だろうが。たとえば、高村薫など、抜群の力量を持った作家だが、非常に真面目な人間で、ユーモアのある人間では無い(と思う)から、彼女のエッセイを読んで、彼女のファンになるという人間は多くはないだろう。
*で、読んでみた結果、というより、流し読みをした結果。
篠田節子:元公務員らしく、書き方が公務員。本人自身がエッセイは嫌いと言っているのだから、エッセイは書かないほうがいい。
三浦しをん:文章に芸があり、自虐的ギャグを書けるところはいいが、書いている内容が内輪受け狙いすぎて、特定読者以外はついていけない。
姫野カヲル子:借りてきたエッセイ集の中では一番ユーモアセンスがあり、面白かった。ただし、下ネタというか、性的な話題が多いので、良い子の皆さんが読むものではない。
養老孟司:ざっと流し読みをしただけだが、あまり面白そうな話題もなさそうなので、未読。文章がやたらと断定的なところは、かつての威張り屋「文豪」石川淳の文章を思い出す。
村上龍:読んだのは「フィジカル・インテンシティ2」だが、作者と距離を置いて批判的に読めば面白い。彼の長所と欠点は表裏一体で、「自分を恰好いい」と思っている彼に同化して読めば、彼の発言がいちいち自己賞賛につながるのだから、読み手のナルシシズムも満足させられて楽しいかもしれない。しかし、「自分を恰好いいと思っているところが恰好悪い」と思うような読者から見れば、彼の発言の一つ一つが皮肉な批判の対象となり、それはそれで面白いわけだ。世界のあちこちを飛び回り、美味い料理に舌鼓を打ち、サッカーを「世界的観点」から見ている自分に陶酔している、そんな彼を恰好いいと思うような読者に向けて書かれたような本である。
