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5 現実に流通する通貨と幻想の通貨
銀行の「信用創造」機能のことは聞いたことがあるだろう。それを聞いて、不思議に思わなかっただろうか。あるいは、これは詐欺行為だと思わなかっただろうか。
この秘密は、手形、あるいは小切手というものの悪用にある。小切手とは、実は幻想の通貨なのである。小切手は、現金化されるまでは、「現金である必要はない」。そこがポイントだ。そのタイムラグを利用して行われるのが銀行の信用創造という詐欺である。もう一つのポイントは、銀行の信用創造によって、経済は不安定化するにも関わらず、信用創造機能は社会に役立つ大事な機能だという洗脳が行われていることである。
銀行の信用創造で利益を得るのは銀行だけである。けっして世の中全体が利益を得ているわけではない。
私も経済の素人だが、まったくの経済音痴の人のために「信用創造」の原理を説明しておこう。
A銀行にBという人が100万円を預けたとする。するとA銀行はその100万円のうち支払い準備金として一割、10万円だけ残して90万円をCという人に融資した。だが、その金は現金ではなく小切手である。Cはその90万円をDという人への借金の支払いとする。Dはその90万円をこれもA銀行に預ける。同じような行為が繰り返された結果、A銀行が外部に貸し出した金の金額は、100×0.9+100×0.9×0.9+100×0.9×0.9×0.9+……)と続き、10回ほども貸し出せば、573万円になる。つまり、最初の100万円が、その6倍ほどの金額に増えて世間に流通したわけである。そして、その融資ごとに銀行は利子を取るわけだ。すべては、他人から預かった100万円から始まっているのである。もちろん、預け主にも利息は支払うが、たとえば銀行に預ける利息が1パーセントで、銀行の融資利息が5パーセントとすれば、100万円の預け主は自分の金を使ってわずか1万円の収益、銀行は、自分の金は1銭も無いのに、573万円の5パーセント、29万円の収益である。
もちろん、銀行業務には人手も要るから、支出もあるが、基本的に銀行とはこのように無から有を生む商売なのである。そして、そのトリックが「信用創造」の機能である。もちろん、先ほどの話はモデル的に考えたものだから、現実には複数の銀行が関与する。そのトリックの秘密は、銀行が融資をする場合には、現金で貸すことはほとんど無く、小切手を用いることと、銀行に金を預けている人間が預けた金の総額を一度に引き出す可能性はほとんど無いことである。しかし、銀行がCに90万円を融資した直後に最初に100万円を預けたBが100万円の引き出しを要求したら、銀行には10万円しか無いのだから、銀行は支払い不能で倒産ということになる。つまり、信用創造とは、こうした危険性の上に成り立つ綱渡り行為なのである。資本主義社会の血液と言われる通貨は、このような危険な血管(欠陥というべきか)を流れているわけだ。
ところが、こうして他人の褌で相撲を取っている銀行が、この資本主義社会では一番大きな顔をしているのである。
いずれにせよ、銀行の信用創造の結果、社会に流通する通貨は、小切手も含めて、現実の通貨の何十倍にもなる。日本の場合は、1400兆円のうち現金は70兆円しかない。つまり、20倍に膨れているわけだ。
とは言っても、庶民の世界で意味を持つのは現金であり、帳簿上の取引でのみ、その20倍の金額が動いているというだけの話である。
しかし、問題は、庶民の懐にどれだけのお金があるかということだ。PR -
4 通貨の信頼性
「国富を増やすのがそんなに簡単なら、アフリカあたりの最貧国が貧しさに苦しんでいるのはどういうわけだ。お前が言うようにお金をどんどん印刷した結果が、年率2万パーセントとかいう大インフレになっているではないか」
と、このような批判をする人もいるだろう。当然の疑問であるが、その疑問にお答えしよう。
まず、お金とは何か。お金とはただの紙切れで、それ自体に価値があるわけではない。お金が様々な物品と交換されるのは、お金に対する信頼があるからである。その信頼とは、実はそのお金を発行している国への信頼だ。だから、ソ連は大国だったが、その崩壊の際にはルーブルは大暴落した。
お金への信頼性とは、「私が受け取るこのお金は、いつでも私が望む物品に、あるいは他国のお金に、妥当なレートで交換できる」ということである。その信頼を我々はふだんは意識していないが、その信頼があって、我々は貨幣経済生活を営んでいるのである。
では、たとえば国家が破産寸前のジンバブエドルを受け取る時に、我々はそういう信頼感を持てるだろうか。どうしてもジンバブエドルで受け取らざるを得なくなれば、一刻も早く、それを他の通貨に換えたいと思うだろう。以前のレートより損してでも、他の通貨に換えようとするだろう。これがジンバブエドルの貨幣価値がどんどん低下し、インフレになる理由である。つまり、その国の政治状況や経済状況などへの信頼性が、その国の通貨への信頼性となるのである。反欧米的指導者であるムガベによって反欧米的政策を取っているジンバブエは、国際経済を支配する白人たちのために、あらゆる手段で経済的窮乏に追い込まれているのである。ムガベ独裁者論など、欧米支配層の指示で欧米ジャーナリズムが書いているに決まっている話だ。(このあたりの事情は藤永茂氏のホームページ「私の闇の奥」にくわしい。このホームページは、アフリカの政治についての貴重な知識が得られるホームページであるので、ぜひ、一度訪問してみるのがよい。)
日本の場合は、その産業への高い信頼性によって、日本円への信頼がある。あるいは、潜在的には世界一の信頼性かもしれない。その信頼を揺るがすものはただ一つ。日本がアメリカに従属していることである。アメリカが破産する前に、アメリカは日本からの借金をすべて踏み倒すはずだと、世界中の人間は思っているだろう。
だが、それでもアメリカよりは日本への信頼のほうがあると思われる。それは、人間にたとえればわかるだろう。道楽者の亭主にしっかり者の女房が貢いでいる図である。女房がいくら稼いでも、それは旦那の飲み代とバクチ代(要するに、アメリカの戦争と投機)に消えるが、それでも、そうした女房に同情する人もいるはずだ。「あの旦那と別れさえすればねえ」と世界中の人間は思っているだろう。この女房、旦那の暴力が怖いので、いつまでも一緒にいるのだが、あいにくこの二人を穏便に別れさせる時の氏神はまだいない。 -
3 なぜ日銀は通貨供給量を増やさないのか
以上述べたように、日本国民の経済状態を改善するには、通貨供給量を増やせばいい。では、日銀はなぜ通貨供給量を増やさないのか。
そこで話は再び基本にもどる。現在の日本には、流通すべき通貨の絶対量そのものが足りないことは確かだ。だから、その分を増やしてもインフレにはならない。これも確かである。現実にインフレにはならないが、しかし、金の価値の低下はやはり生じるのである。それはそのはずで、700兆円の通貨量が1400兆円に増えれば、お金の価値は当然、半分に下がるはずである。もっとも、これは実体的な低下ではない。現在、金を所有している人々にそう感じられるというだけの、幻想的な価値低下なのである。簡単なたとえをするならば、親の手伝いをして500円のお小遣いをもらって喜んでいたら、そこに弟がやってきて、「お前にも500円やろう」ということになった時の、兄の気分である。自分が500円もらったことに変わりはなく、自分は何も損はしていない。でも、何となく損をしたような気分なのである。それが、通貨供給量が増える時の、お金持ちたちの気分だ。
実際に、通貨供給量を増やすことで、多少のインフレも生じるだろう。それが、日銀が通貨供給量を増やさない理由である。つまり、現在の金の所有者たちの損になるから、通貨供給量を増やさないということだ。
日銀は政府機関ではない。民間の機関にすぎない。ならば、その経営者が勝手に円を印刷して、自分の懐に入れるという犯罪があるのではないか、と思う人は多いだろう。だが、そうではない。なぜなら、お金の価値はお金の総量が制限されることで決まるため、すでに大金を持っている人たちにとって大事なのは、持ち金を増やすことではなく、お金の価値を維持することなのである。
もっとも、金融資本家の親玉たちが、意図的に大恐慌を起こして、それによって一気に産業資本の独占をはかる場合、その前段階として金融緩和を行うことはある。つまり、バブルを起こした後、金融を引き締めることで、多くの企業を倒産させ、その資産や経営権を手に入れるのである。その際に、銀行は預金の支払いを拒否することで、預かった金を強奪することもできる。つまり「恐慌だから仕方がない」ということになるのである。見かけ上はその銀行も倒産するが、もちろん、それは偽装倒産であり、その銀行の金は誰かの懐に安全に収まっているわけだ。 -
2 (通貨量=国富)というテーゼについて
最初に述べたように、国富には様々な形がある。しかし、世の中が貨幣経済をとっている以上、通貨量こそが国富なのである。いくら物を持っていても、それを金に換えない限り、我々は自分に必要なものを手に入れることはできず、生活できない。すなわち、貨幣経済下では物ではなく金が現実的な富なのである。
そして、一国内の富の量は国内の全通貨量である。これは奇妙に聞こえるだろう。前に書いた通り、それならば、日銀なり政府なりが紙幣を大量に発行するだけで国富を簡単に増大できることになるではないか。そんな馬鹿な話はない。
もちろん、ここにはからくりがある。それは、現代の経済は世界経済の中にあるということである。個人と個人の間に商取引と金の流通があるように、国家と国家との間にも商取引と金の流通がある。ある国の通貨発行量が適正でないと、国家間の商取引に大きな不都合が生じることはわかるだろう。たとえば、ある取引で日本人がアメリカ人に1ドル=100円のレートで売ったのに、決済時に1ドル=80円になったら、20円の損になるわけだ。(そのドルをアメリカで使うなら話は別だが、物ではなく現金が欲しいなら、この20円の差は大きい。輸出入業者が為替レートに神経をとがらせる所以である。)しかし、一国の通貨発行量は、隠そうと思えば隠せるのである。実際、米国はある時期から通貨発行量を公表していない。というのは、それが恐るべき量になっているからだろうと容易に推測できることである。そして、通貨発行量が不明である以上、貿易相手国はその水増しされたドルを受け取るしかないのである。本当なら、ドルの価値はどんどん低落して、アメリカは大インフレになっていてもいいのだが、ドルが世界の機軸通貨であるために、ドルの暴落はまだ起こっていない。
アメリカは、こうしていくらでもドルを印刷して、それと引き替えに日本円を手にいれることができる。要するに、紙にいたずら書きで「ドル」と書いたものを本物のお金と換えるようなものである。
もちろん、そのドルは、本物のお金でもあるから、それで米国内の物を買うことはできる。だが、日本人がアメリカで買いたいものがあるだろうか。土地なら価値がありそうだが、治安が悪く、社会福祉も最低なアメリカに住みたい人間は多くはないだろう。つまり、日本は、貿易黒字が米国債に変わる形で、日本から日本円をどんどん流出させているだけなのである。
ならば、日本もどんどん日本円を印刷すればいい、ということになる。
実際にそうするとどうなるか。これまでは、少なくとも、日本円には実質的な価値があったが、その価値はどんどん低下していくことになる。ここでは話を簡単にするためにアメリカと日本の二国間貿易をモデルとして話をするが、日本までもアメリカに対抗して円を無節操に印刷し始めると、お互いにインフレになっていくしかないのではないか。
実はそうでもないのである。
前に書いたように、日本国内で流通すべき1400兆円の金のうち、700兆円が米国債の形で塩漬けになっている。その分の通貨不足のために、これまで日本はデフレ状態だったのである。すなわち、米国に流れた分の700兆円を印刷しても、日本はインフレにはならない。
これが、一国内だけの経済と国際経済との相違であり、私が最初に言った「からくり」である。 -
新国富論 2009年3月3日~2010年4月12日
1 通貨供給量と国富
最初に、奇妙な命題から書こう。それは、「国富とはその国内の通貨量だ」ということである。この考えは、幼児ならば簡単に受け入れるだろうが、大人のほとんどは、納得しないだろう。それが本当なら、政府がどんどんお金を印刷すれば、それだけ国が豊かになるということで、こんな簡単な話なら誰も苦労はしないさ、と思うわけだ。
もちろん、国富には様々な側面があり、資源物や生産物、あるいは人口や労働力などもすべて国富である。通貨だけをいくら製造しても、それは人民を養い、生活を維持させる生活物資ではないのだから、豊かな国とは言えない。だが、それにも関わらず、貨幣経済の下での国富とは、何よりもまず通貨量なのである。特に、外国との商取引が当たり前であるような時代においては、一国内の通貨供給量は、そのまま国民の豊かさを決定する。
それが、私がここで論じる中心点である。
では、国内の通貨流通量が減少したらどうなるか。その国は窮乏する。それが、2009年現在の日本の姿なのである。
通貨流通量の減少とは、必ずしも通貨供給量全体が減少する場合だけではない。通貨が(銀行や金融業者や政府など)一カ所に滞留して、国民の大半の懐から金が無くなった状態でも、流通量は減少することになる。それと同時に、やはり通貨供給量全体の減少も大きな影響があるのだが、国民は通貨供給量の実体を知らないから、その影響に気づかない。これが、私がこの一文を草する理由である。国民は、自分たちの手から大きな国富が消えていることに気づいていない。だから、何に対して批判し、戦えばいいのかがわからないのである。
もう一点付け加えれば、富があっても、それが使用不可能な形になっていれば、それは富ではない。具体的に言えば、現金が証券の形に変わっている場合、それは条件付きの富であり、完全な富ではない。たとえば、力の強いいじめっ子が、お金をカツアゲする時に、「これはカツアゲじゃないぞ。その証拠に、借用証を書こう」と言って、「俺はノビタに500円借りた。そのうち返す。ジャイアン」と書いた紙を渡した場合、ノビタはその紙切れがそのうち元の500円に変わると信じられるだろうか。
これが、日本国が米国から購入した米国債である。
日本の通貨供給量は1400兆円であり、そのうち700兆円が過去何十年かで米国債に変わっているという。(残り700兆円のすべてが現金というわけではない。現金は70兆円程度であり、残りは銀行の「信用創造」という手品によって膨らまされた幻想の金額である。)
その700兆円は、庶民が政府に納めた税金や銀行に預けた貯金の中から米国債の購入に当てられ、実質的には日本国民にとって使用不可能になったのである。なぜなら、米国の財政赤字は途方もない金額であり、日本が所有している米国債を売却したら、米国は支払い不能(デフォルト)になって、国家破産せざるを得ないからである。
単純に考えれば、日本国内で流通すべき1400兆円の通貨のおよそ半分が、消えたことになる。700兆円の金(あるいは帳簿上の金額)が、米国債という有名無実な紙切れに変わったということである。この米国債を売ることは米国から厳禁されているから、実際に、紙切れと同じなのである。日本の橋本総理が、米国債売却をほのめかしたことで失脚したことを知っている人も多いだろう。日本において、アメリカの意に逆らう政治家は政治生命を失うのである。(その橋本に代わって総理になった小泉がアメリカの意向に従って、「郵政改革」などで日本の資産を米国に与えようとしたのもご承知の通りだ。)
日本は、少なくとも2008年までは膨大な貿易黒字を重ねてきた。では、日本国民はそれで豊かになったという実感はあっただろうか。まったく無いはずだ。それもそのはずで、その間に日本の国富の半分はアメリカに流れていたからである。表面的な貿易黒字は、銀行や政府の米国債購入によって紙屑に変わってしまったのである。後の政治的スケジュールは、米国が国債を踏み倒すのがいつになるかだけだ。しかし、それは踏み倒しによって紙屑に変わったのではない。金が証券(米国債)になった時点で、実はすでに紙屑だったのである。 -
ここのところ、単発的な記事や他人のブログ・ホームページ記事の紹介が多かったので、次回から数回に渡って、少し長い記事を掲載する。題を「新国富論」と言って、経済と政治についての論文的エッセイ、あるいはエッセイ的論文だ。もちろん、私は専門家ではないから、トンチンカンな発言も含まれると思うが、日本においては経済の専門家という連中はまともな発言をすることも無いし、世の中を善導したことも無いから、素人の発言の方がましだろう。書いてあることが馬鹿馬鹿しいと思えば、一読して忘れてもらえばよいだけだ。
この論文あるいはエッセイを書き始めたのは、小泉改革の頃で、その改革のインチキぶりに腹を立てて書き始めたものだ。その後、昨年の衆議院選挙で情勢もだいぶ変わってはいるが、今の民主党内閣がどのように日本の政治態勢を立て直してくれるかはまだはっきりとしていない。したがって、この論文に書いた内容も、まだ有効だろう、ということで、次回から掲載するわけである。長めの文章とはいっても、せいぜい10ページ程度だから、一回で全部載せてもいいのだが、2、3回くらいに分けて載せようと思う。 -
漫画や小説の映画化には、「映画センス」が必要だと思う。「映画センス」とは、その原作を映画にした時、どのようになるかという想像力だ。漫画や小説の名作は、そのジャンルとしての特性を100%発揮したからこそ名作なのであり、映画化してもそれ以上の作品にはならない。むしろ、それよりはるかに下回る作品になるということが分かっているのが映画センスの持ち主なのである。
たとえば、黒澤明の『椿三十郎』の原作は山本周五郎の『日々平安』だが、黒澤は原作の詐欺師的で貧弱な貧乏侍を、ひねくれ者だが知勇にすぐれた剣豪に変えている。これは「見る側の生理」を熟知した改変である。つまり、我々は映画の主人公に自分を同化させて見るのが常である。ならば、その主人公はカッコいい方がいいにきまっているのである。部分的にはカッコ悪くても、実は本質的にはカッコいいというのが映画主人公の原則だ。それが無くて、なんでわざわざ我々が映画館まで足を運ぶものか。
『明日に向かって撃て』のポール・ニューマンも、喧嘩は弱いし拳銃は下手、ほら吹きで、愛する女は他人に取られているという男である。でも、カッコいいのである。なぜなら、ポール・ニューマンが演じているからだし、その主人公が本質的にはカッコいいことが見る人には分かるように描かれているからである。一言で言えば、「性格がカッコいい」のだ。
ここまで、やたらと「カッコいい」を連発してきたが、もしかしたらこれは死語になっているかもしれないので注をつけると、もちろんこれは「恰好がいい」ということだ。
『座頭市』が、ある時代小説作家の随筆中のわずか一行の言葉をヒントに作られたというのは、有名な話である。
映画の作り手に必要なのは、そういう映画センスであり、人気漫画だから映画化しよう、とか、評判の漫画だから映画化しようというセンスでは、ヒットする作品は絶対にできないとここで断言しておこう。 -
今朝の夢の中で、啓示を受けた、というか、思いついたことだが、この世界から最終的には戦争を無くす簡単な方法があった。もちろん、すぐに戦争が無くなるわけではなく、時間はかかるのだが、100年後には全世界から戦争が無くなる可能性もある。
それは、あらゆる国の憲法に「良心的兵役拒否」の条項を入れるという運動を起こすことだ。これは不可能な話ではなく、アメリカの法律では、かつてはそれが可能だったはずだ。あるいは、現在でも可能なのかもしれないが、それが機能していないなら、それを機能させる手段を講じればよい。
生活の手段として兵役に就く貧困層の存在は、堤未果の「貧困大国アメリカ」に詳しい。それへの対策は別に考えよう。だが、そうでない層の中からも「良心的兵役拒否」をする人間が増加してくれば、国家は戦争遂行が困難になってくる。
では、相手国だけが有利になって、自分の国が征服されるではないか、と小林よしのりあたりが言いそうだが、「喧嘩をするには二人の人間が必要」なのであり、戦争とは、両国に戦争をさせようという支配層の意図で起こるものである。一方的な侵略と無抵抗による征服の事例が、歴史上あっただろうか。いや、あるにはあるが、それはピサロやコルテスによる中南米征服という西欧民族による他民族への侵略と征服の歴史である。
未開文明に対する「文明国」の侵略は、生活水準はさておき、知識水準が全世界的に上がった現在では生じにくいと見てよいだろう。存在するのは「文明対未開」ではなく、「軍事大国対軍事弱小国」の問題だ。そこで、「軍事大国」の中で、良心的兵役拒否の運動を起こすことで「戦争エンジン」をだんだんと弱体化させていくのが、この提言の意図なのである。
もちろん、兵役拒否者には、兵役以外の形で国家への奉仕を義務づけるということはあっても良いだろう。だが、自分は断固として人を殺したくない、という人間に殺人を命令するということがあってよいものだろうか。戦争ではそれが当然だという我々の「常識」ははたして絶対的なものだろうか。
いや、それ以前に、国家という存在は、はたして、個人の上に立つ存在なのか。国家という抽象概念が、なぜ私に命令できるのか。国家と呼ばれているものの命令は、ただ一部の人間の意志ではないのか。
こうした疑問を考えるなら、「国家主義」と全体主義とはほとんど同一であり、真の民主主義とは個人の尊重のことだと分かる。「人の生命は地球よりも重い」などと馬鹿なことは言わないが、私はあえて言う。「人の生命は国家よりも重い」と。 -
「陽の当らない邦画劇場」は、私・徽宗皇帝がたまに見に行く映画紹介サイトである。その書き手は、マスターヴィジョンと並ぶ映画鑑賞眼の持ち主で、そして素晴らしい文章家であると私は思っている。その映画紹介文の一つをここに引用する。このような映画が公開されていたということさえも私は知らなかったのだが、それだけマスコミ的に黙殺されていたということであり、それはつまり……ということであろう。
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ポチの告白
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■公開:2009年
■製作:田村正蔵、高橋玄(配給:アルゴ・ピクチャーズ)
■プロデューサー:佐藤輝和、小高勲、高橋玄
■監督:高橋玄
■脚本:高橋玄
■原案協力:寺澤有
■撮影:石倉隆二、飯岡聖英
■音楽:高井ウララ、村上純、小倉直人
■編集:高橋玄
■美術:石毛朗
■録音:西岡正巳
■照明:小川満
■主演:菅田俊
■寸評:
ネタバレあります。
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思い出すと1980年前後から、映画が警察批判をすることがめっきり少なくなったような気がします。 こんな脚本を映画にしたら、街頭ロケの許可がおりなくなるんじゃないか? 映画の人たちはたちまちに心配するわけで、まあ長いものには巻かれてしまえ、どうせヤクザと警察なんて、俺達には関係ないのさと安心してばかりはいられません。
ヤバイ映画です、こんなもん映画にして大丈夫なのか?と観ている方が想像する、その時点で製作者の意図は達成されているのかも。
警察がその敵対勢力と限りなく同質な一面を持っていることは、かつて日本では常識でしたが、本作品では敵対勢力をもはるかに凌ぐ、日本一の組織暴力であると断言してしまいます。もはや「県警対組織暴力」や「セルピコ」の比じゃありません。
所轄の巡査、つまり交番のお巡りさんである竹田八生・菅田俊は身体はでかいし、顔は怖いし、一般人から「熊みたい」と認定されるルックスですが、親切で実直なノンキャリアです。 上司・並樹史朗からも褒められていますし、同僚からは愛情をこめて「タケハチ」と呼ばれています。
そんな竹田を刑事課長の三枝・出光元は刑事に昇任させてあげるのでした。
身重の妻・井上晴美と社宅に引っ越せたのも、三枝課長のおかげです。 竹田は課長に深く感謝し、妻の止めるのも聞かずに、愛娘の名付け親にすらなってもらうのでした。
竹田に後輩ができました。 彼の名前は山崎・野村宏伸といい、やはり課長の世話で中途採用されたノンキャリアでした。 中国語や韓国語もたくみに使いこなす山崎は、竹田のよい相棒になります。
ファミリーを形成して手下を増やしていく手段は、まるでマフィアのようであります。
ある日、ジャンキーが民家に立て篭もりました。
竹田と三枝のチームは現場に到着すると、犯人の説得にあたりますが効果なし。 そこで三枝は竹田に人質救出を命じました。 現場を取材していた大手新聞社のカメラマン、北村・井田國彦と、怪しげなバーを経営している草間・川本淳市は、警察と犯人の奇妙な関係を裏付けるような写真を撮ります。
麻薬中毒患者をさらにシャブ漬けにしてスパイとして活用し、いよいよ危なくなったら使い捨てにしようとして、警察に裏切られてキレたジャンキーを拘置所で自殺に見せかけて抹殺。
麻薬取引を見逃す代償として、不法銃器の取り締まり実績をアップするためにヤクザに架空の取引のヤラセを強いる。未成年がソープランドで働いているのを見逃して、賄賂をもらう。架空の請求書で裏金作り、しかもそれは所轄のつつましい行為ではなく、本庁からの指示という仰天な実体。押収した覚せい剤を横領して自ら中毒になる警官。
小は自転車窃盗の誘発から、大は麻薬密売の上前をハネる、まで。リアルです。警察ならこれくらいやってそうだと思わせるほど、おまけにマスコミに対する情報操作の実体までが克明に語られます。
この映画は、ヤバイというより怖いです。
どこが怖いかというと、悪が必ずしも裁かれないというのは歴史が証明しておりますのでこの際、どうでもいいんですが、警察の真実を告白しようとした人間が、裁判所までグルになって完全に社会から葬られるということ、警察の機関に収容されてしまったら、事実なんていくらでも捏造できるということです。
この映画には真実というものが登場しないのです。何もかも、隠蔽されてしまう恐怖。やってもいないことをやったというのは、ただの駄ボラですが、やったことをやっていないというのは犯罪です。しかも、それが警察ですから、手の打ちようがありません。
これは怖いですよ。
竹田は、上司の命令に忠実に従い、汚職の首謀者となっていきます。 すべては警察の、警察による、警察のための正義と、身内の幸福のためであって、忠実な犬=ポチになっていくのです。ヤクザも三国人も呆れるほどの赤裸々さですが、組織ぐるみの犯罪というのは、それが国家権力の手になるものであれば、誰も裁くことができません。ある意味、警察の犯罪というのは最強で、最悪です。
ポチは、三枝のために忠実に尽くしていましたが、その三枝の身が危なくなると、あっさりと見捨てられ、ポチはホンモノの捨て犬のように、社会的に抹殺されることを自覚します。竹田はここでも忠実に捨てられるかと思われましたが、論告求刑の日、最後に証言を求められた竹田は、すべてを告白しようとしますが、すでに警察に懐柔されていた裁判官に退廷を命じられてしまいます。
法廷は、警察と警察に飼いならされた犬=マスコミが大量動員したサクラで満員です。 真実は一切、世間に公表されることはありません。 日本のマスコミにおいては、でした。
一度は、竹田にボコられた草間でしたが、警察の汚職に本気で取り組む決心をして、同じく新聞社の犬ぶりに失望した川村とともに、外国人特派員の前で記者会見を開いていました。そして、竹田こそが警察犯罪の最大の犠牲者であると、そしてもう日本のマスコミなんてクソなので、このテーマに関心を持った外国人記者に協力を依頼して、告発することにしたのでした。 最初はやさしいお巡りさんだった竹田がみるみるうちにVシネマのヤクザと化して行くのに対して、いかがわしいチンピラだった草間はエンディングではまるで戦隊ヒーローものの二番手のようなカッコよさです。
しかし、そこまでやっても、警察も、裁判所も、マスコミも誰一人、傷つくことはありませんでした。いくら告発してもそれが、日本のメディアに載らなければ、それは真実とは認定されないということですね。
ラストの、竹田というか菅田俊さんの独白は、これはもう菅田さん以外ではありえないくらいのキレっぷりです。
大多数のちゃんとしたお巡りさんに失礼だろうと怒るキモチも十二分にありますが、そうではない警察の部分、報道されない不祥事にならない不祥事は、警察の信用を失墜させることよりも、もっと根深い悪だと、この映画は訴えます。
そして、もう一人の忠実な犬の怒りは、国家そのものに差別された者の言葉にならない絶叫です。
これは本当に怖い映画です。
一般の市民にとって、最も身近な警察が信用できない、こんな怖い話ほかにありませんから。
(2010年04月06日 )
【追記】
※本文中敬称略
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愚民支配の原則と戦略
*以下に書く文章は、「シオン長老の議定書」とか「Yプロトコル」とか言われている文書の抜粋である。これはY民族迫害のために作られた偽書であるという説もあるが、書かれた内容自体は、いわば「悪の政治教科書」とでもいった内容であり、現実に人民を支配するのに有効な事柄ばかりである。いや、現在の世界そのものがこういう思想や戦略で動いているようにしか見えない。ならば、この文章を研究することは、我々が愚民化しないために絶対的に必要なことではないだろうか。ただし、元の文章は小難しい文章なので、読みやすく変えて(ただし、その古風な趣きは残すが)ここに掲載する。元の文章そのままではないのだから、誤解が含まれるのは勿論だ。それを割り引いても、ここに書かれた内容について知るのは、我々「被支配者」にとって大いに役立つだろう。
*私は、この世界は一部の人間たちによってコントロールされていると思っているが、それは基本的には〈Y民族〉とは無関係だと思っている。確かに他民族を人間扱いする必要はない、という思想を土台にするなら、その政治的行為は強力極まりないものになるのは確かであるが、言うまでもなく、一部の人間の悪事のために、その民族全体が迫害されることはけっしてあってはならないことである。くどく言うが、世界を支配する巨大資産家(経済的モンスター)は、その民族とはまったく無関係の存在なのであり、自分たちの悪事を隠すために民族迫害のタブーを利用しているだけなのである。したがって、以下の文章中での「異民族」云々は「支配される連中」くらいの意味で読むべきである。
以下の文章が、「シオン長老の議定書」あるいは「Yプロトコル」と呼ばれる文書の抜粋である。注の部分が筆者・徽宗皇帝による注釈と解説。
○我々の合言葉は「力と偽善」である。政治上の問題で勝ちを制するのは何といっても力であり、国家の事業に携わる人士に必要な力が蔵せられる場合は殊にそうである。奸策と狡猾との「偽善」は我々の目的を達成する唯一の手段である。それ故に我々の計画遂行に役立つ事なら、「暗殺、買収、詐欺、裏切り」等に尻込みしてはならない。政治上の権力を獲得するに必要な場合は、躊躇することなく、他人の財産を奪取する事を心得ていなければならない。
○自然の本性には自由は無く、「理性と性格と才能の不平等」をその法則とする。(注:これは、フランス革命における『自由・平等・博愛』のスローガンを嘲弄したものだろう。他の場所で、「自由と平等が両立するはずはないではないか!」という発言も書かれている。また、フランス革命自体がこの議定書を書いた人々の筋書きによる出来事だったとも書かれている。つまり、『自由・平等・博愛』は、愚民たちを釣るための餌にすぎなかったという趣旨である。)
○(我々は)人間の貪欲を利用して支配する。(注:他の人々を押しのけて自分が上に行きたいという欲望が下層階級の連中を死に物狂いに働かせ、その働きを利用することで上の人間は労せずして利益を得るわけである。井伏鱒二の「さざなみ軍記」に書いてある、貴族の庶民支配の原理が、まったくこれと同様である。)
◎この目的(支配)のために我々は始終、「新聞、雑誌」を利用して、この命令に盲目的に信従するように(人々を)鼓舞する。
○我々の仕組んだ「ダーウィン、マルクス、ニーチェ」の教説に注意なさるがよろしい。(注:この部分の説明は長くなるので、最後に補注として説明する。)
○いわゆる「民権」とはただ概念としてのみ存在しえるもので、けっして実際に実現することはできない。実際、我々の命令にもとづき、我々の密使(為政者)を選任する投票にしても、下層民が憲法政治(立憲政治)から得るものは何もない。(注:これと同趣旨のことをルソーも述べている。「イギリス人は選挙で代議士を選ぶが、庶民が支配者であるのは選挙の間だけで、それが終わるとまた彼らは奴隷に戻るのである」と。ただし、日本における2009年衆議院選の「無血革命」によって、日本の立憲政治は変わる可能性がある。)
◎優越を得るための、極度に緊張した闘争と経済生活に対する衝動とは、絶望的な、しかも悲惨極まる「冷酷な社会」を実現するであろう。否、すでに実現したのである。(注:前出の「我々は人間の欲望を利用して支配する」とほぼ同趣旨。ただし、その行く先にあるのが「冷酷な社会」であることを、我々のどれだけが理解しているか。)
○自由主義の社会では、買収と贈賄の汚職が至る所に侵入し、富は「巧妙なる奸策」と「虚偽の駆け引き」によって得られ、徳義(社会道徳)は、ただ「厳罰と酷法」によって維持される。
◎我々の統治の主要任務は、社会的理性を去勢し、反抗を可能ならしめる彼らの思索を奪い、そして一般の知力を空虚なる雄弁の交戦に堕せしめることである。(注:このために利用されるのが公教育とマスコミであることを、今では多くの人が知っているだろう。)
◎異民族諸国民および各個人たちは、あらゆる時代において、「言葉」を「行為」と思ってきた。彼らは単なる外見に満足して、公的世界において「約束が実行されたかどうか」ということには滅多に気がつかなかった。(注:社会生活を営む上での基本の基本が、「相手の言葉ではなく、行為を見よ」であるが、社会の多くの「善人たち」は言葉を行為と区別していない!)
◎世論を掌中に収めるためには、それ(世論そのもの)をして「了解に苦しましめ」ねばならない。すなわち、各方面から互いに矛盾した種々の意見を言わせ、異民族の人民を迷宮に彷徨せしめ、政治的問題に関しては、何等の意見も持たぬ方がましであると断念せしむるべきである。
◎政権掌握に必要な第二の秘訣は、「風俗、習慣、欲望、社会生活の基準」を繁縟ならしめ、何人もその選択に迷い、互いに理解することができぬような混沌状態に陥らしめるにある。(注:これは情報洪水の現代において、もっとも重要なポイントの一つである。)
◎商工業への投機を奨励せねばならぬ。投機の役割は工業(実業)に対立するにある。投機によって世界の富をことごとく我々の手に収め、以て異民族全部を下層階級に投げ込む事が必要である。(注:金融業という「自分では何一つ生産せず、金で金を生む」職業が世界を支配している点に、世界のあらゆる不幸の根本原因がある。そして、国際金融家は、自分たちに都合がいいように様々な国際機関を利用するのである。ところが、我々は学校で、WTO、GAT、世界銀行などは有益な組織だと偽りの知識を埋め込まれるのだ。)
○我々はあらゆる国家に、(我々以外には)異民族無産大衆と、我々に心服する数人の富豪と、我々を守護する警官と軍隊のみがあるように配慮せねばならない。(注:警察や軍隊の真の仕事は、国民の保護ではなく、支配層の保護だということだ。)
○我々は欧州大陸及び、それを基点とした他の諸大陸に「動揺と紛争および敵対関係」を惹起せしめねばならない。(注:これは、この書が書かれた当時の世界情勢であるが、現代でも「動揺と紛争および敵対関係」は庶民支配の道具に用いられている。一例がアメリカのイラク戦争、アフガニスタン派兵である。戦争や紛争などの大義名分があれば、支配層の望む政策のほとんどは実行できるのである。)
○我々に抵抗を試みようとする国家に対しては、我々はただちにその隣接諸国との戦争を以て、対応し得るように準備しておらねばならぬ。
○あらゆる政治的成功の最大の要訣は、あらゆる企画を厳重に秘するにある。真の政治家の言説はけっして外交官の行動と一致してはならぬ。
○我々は法律用語の最も巧緻な措辞や難解な問題に通暁して、法外に大胆で、かつ不当にも見えかねない決断を下す必要がある場合に、弁解する途をあらかじめ備えなくてはならない。
◎我々の望み通りの結果を得るためには、その過去において後ろ暗い傷を持っている大統領を選挙すべきである。そうすれば彼等は我々の指令の忠実な実行者となる。(注:日本のK元総理についても、殺人・レイプその他の様々な暗い噂がある。)
◎我々は、法律を提案したり変改したりする権利を議院から剥奪して、それを我々の傀儡たる大統領の手に委ねるであろう。(注:日本では、国会は唯一の立法府であると定められているにもかかわらず、成立する法案は内閣提出の法案がほとんどである。議員立法による法案はほんの一部にすぎない。すなわち、国会は内閣に支配されている。宮本政於の「お役所の掟」その他に、官僚支配の実体が書かれている。)
○我々は戒厳令布告の権利を大統領に与える。(注:要するに、いざという時には、大統領(そしてその背後の人間)は法律を無視した行動が可能だということである。)
◎共和国の新憲法を施行すると共に、我々は国家機密の保護という口実を設けて、政府の処置に関して質問する権利を議院から奪取するであろう。
◎大統領は、様々に解釈し得る現行法律を解釈する場合には、我々の意味において解釈するであろう。また彼は、我々が是非そうして貰いたいと指示するならば、現行法を廃棄するであろう。こうして我々は初期に当たって共和国憲法に取り入れざるを得なかったもののすべてを「なし崩し的」に変更させることができる。
◎言論機関におけるいかなる報道も、書籍の内容も、我々の検閲を経ないでは絶対に公表を許さない。このことはある程度までは現在でも実行されてはいるが、その方法として、全世界の各地からのニュースを少数の通信社に集め、そこで手を加えて、それから諸方面へ配布している。 (注:アメリのロイター、日本の共同通信などが想起できる。しかし、インターネットの急速な普及によって、9.11事件などはその最初の段階から米政府やその背後の連中による自作自演であるという見方が広まっていた。実際、あまりにも粗雑なシナリオではあったのだが、表のマスコミはまた見事にそうした見方を無視したのである。これ一つを取っても、マスコミが支配者の道具でしかないことは明白である。)
筆者補注:「ダーウィン、マルクス、ニーチェ」の教説がなぜ陰の支配者(と仮に呼んでおこう)にとって都合がいいのかを説明する。
まず、ダーウィンの進化論は「適者生存」の思想を人々の頭に植え付けた。つまり、生き延びた者は、生き延びるにふさわしい存在であり、滅びた者は滅びるのが当然の「無価値な」存在だったという思想である。これによって、たとえば欧米人種の行ってきた過去の悪行(他人種からの略奪行為や大量虐殺)も正当化される。弱い者、無能な者は滅びても当然であり、弱者への同情はセンチメンタルな感情でしかない、というわけだ。そして、もちろん、資本主義社会における様々な悪行(詐欺行為や非人間的な搾取)も正当化される。なぜなら、強い者が生き残るのは当然であり、資本家が金の無い人間に勝つのも「適者生存」だからである。
次に、マルクスの教説がなぜ陰の支配者にとって都合がいいのかだが、陰の支配者とは要するに、表舞台には出てこない大富豪や大財閥である。彼らは政治そのものを動かす力があるので、税金すら払わず、(いや、アメリカにおいては紙幣を印刷する権利すら持っているのだが)高額納税者(世間の人間は、これを大富豪と錯覚している)として公表されることはないために彼らの存在は世間には知られていない。しかし、誰かが搾取しているからこそ、大多数の人間は貧困から逃れられないのだと人々が思うことは避けられない。そこで、そのスケープゴートとして彼らが用意したのが表に出るレベルの富豪・資本家であり、「資本家対無産階級」という対立図式である。この資本家はあくまで世の法律に従って生産活動をする実業家に過ぎず、暴利をむさぼっているわけではない。しかし、彼らは目の前にいる、目に見える存在である。そこで貧民の憎しみは彼らに向けられ、陰の支配者の望む「混乱と無秩序」が作り出されるのである。その間に、もっと大きな金を動かして、投機市場を操作することによって、あるいは定期的に大恐慌を起こすことで低レベルの資本家の金はみな大富豪の手に入っていくのだが、それは庶民には見えないのである。つまり、マルキシズムの効用とは「分割して統治せよ」のパターンの一つなのである。
最後に、ニーチェの教説の目的だが、それはキリスト教の破壊である。キリスト教は本来、清貧と貧しい者への施しを教えており、資本主義にとっては都合の悪い思想だ。そこでカソリックやプロテスタントの中枢にスパイを潜入させてキリスト教を変質させると同時に、キリスト教の神自体をニーチェによって否定させたのである。ニーチェとはいわば、思想的テロリストである。アメリカ政府の中枢は一見、キリスト教信者が占めているように見えるが、それは、彼らが自分をキリスト教徒だと名乗っているからにすぎない。(多くの俗衆は、言葉を事実と誤認する、という「議定書」の嘲笑を見よ。)彼らの行為を見れば、それがキリスト教的精神からどれほどかけ離れているかがわかるだろう。
*さて、以上をお読みになって、どう感じただろうか。もちろん、私自身、ここに書かれたことのすべてを信じるわけではないが、これが現実政治の教科書として有効なことだけは否定できないだろう。つまり、多くの人が心の隅に止めておくべき文章なのである。
