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#247 撒き餌と回収
餌を撒いて魚をおびき寄せ、釣り上げるのが撒き餌だが、このシステムは実は人間社会での商売や政治のスタンダードでもある。しかも、たいていの場合には、釣られた者は、自分がそういうやり方で釣られたことに気付かず、釣った相手に感謝していることすら、よくあるのである。日本のODA(政府開発援助)もその一つで、発展途上国に開発援助をするというそのうわべは美しいが、実はその援助金は日本の商社や企業に還流し、相手国の高官たちや日本の政治家・役人が資金の一部を貰って潤う以外には、日本企業が潤うのがその主たる目的なのである。これは、西欧諸国のやり方を日本が見習ったものだ。
西欧諸国が後進国を支配してきたやり方が、この撒き餌方式である。つまり、一見、相手国の文化発展に援助するように見せながら、彼らを自分たちの文化の底辺に取り込み、やがて自分たちとの「支配~被支配」の関係が無くては生存できないような状況に追い込んでいくのである。先進国が未開発の国でまず行うのは何か。それは、ダムを作り、水力発電設備を作って、その国の生活を電化していくことである。電化を「文明化」と言ってもいい。これは相手国にとっては恩恵である。……そうだろうか? 文明生活は、ある意味では麻薬のようなものだ。一度その味を知ると、それ無しではやっていけなくなる。彼らは贅沢な生活のために必死で働き、こうして資本主義の最下層の歯車となって働くようになる。それから「回収」が始まるのである。教訓「タダほど高いものはない」。(2007年10月5日)
注:これも古い文章だが、近代論として現在も通用する。PR -
#246 病院の倒産
時事的問題を論じてみる。昨今、病院の倒産が激増し、今後も増えていくと見られているが、その意味を考えてみよう。医療費改革に伴う診療報酬の減少が病院経営を直撃したのがこれらの倒産の原因だが、しかし、その根本原因は、過剰な病院数にあるのではないか。公立病院では、年期のいった医師は(おそらく、高給その他の理由で)独立を促され、しぶしぶ自ら開業することが多いという。年月がたてば、私立病院の数は不要に多くなる道理である。しかし、病人の多くは、医師の数が多く、設備の充実した公立病院での診察を望むため、こうした私立病院に行く患者は少ない。したがって、こうした私立病院はやがて経営不振となり、倒産する。これが病院倒産の構図だろうが、現在は公立病院も赤字経営で倒産の危機にあるところが多いという。今や病院経営自体が儲からない時代だ。
公立病院での勤務がハードで、しかもその給料が安いため、公立病院をやめて独立する医師が多く、医師不足に悩む公立病院も多い。そうして独立して開業した医師が、今度は自分の病院の倒産に直面するわけだ。こうした悪循環を止めるためには、公立病院での医師の待遇の改善が急務となる。医師の数は十分にあるのに、医師不足であるというナンセンスが、病院倒産という事態なのである。医師の待遇を改善するには、診療費のアップは避けられない。だが、病院に行く患者の大半は、風邪や怪我などの安直な病気であるから、無用な診療過程を廃止し、高額機器の利用をやめれば、診療費を妥当なレベルに抑えることも可能ではないかと思うのである。 (2007年9月27日)
注:上記の通り、この文章は2007年に書いたものだが、現在2010年時点でもまだ事態は変わっていないので、そのまま掲載する。 -
#244 学校では教えないこと
我々は普段、あまり物事に疑問を持たないものである。学校で学ぶことも、ただ教えられた事柄をそのまま暗記するだけで、その内容に疑問を持つことはほとんどない。いちいち疑問を持っていたら多くの学科を勉強する時間が無くなるというせいもある。その中で、根本的な事柄に疑問を持った少数の人間が、偉大な科学者などになるのだが、これは教育制度に反逆しない限りはまともな精神的成長はできないということでもある。
我々がいかに疑問を持たないかの一例を挙げよう。元帝国が世界の大半を征服、支配したことを我々は知っている。ローマ帝国以上の版図を持っていたのである。では、それがなぜ可能だったのか、考えたことがある人はほとんどいないだろう。そもそも、他国を侵略・征服するには戦いが必要だ。戦えば、必ず自軍の戦力も消耗する。もともとモンゴルという小さな民族であるから、最初の兵力が大きかったわけでもない。一度の戦いで戦力の三割程度が損耗するなら、三回も戦えば、その軍隊は滅亡するだろう。それが、なぜ無数の戦いが可能だったのか。これは宮崎市定の『中国史』に書いてあったことだが、これを読んで、眼からうろこが落ちるような思いがした。元帝国の世界制覇の秘密は、戦って征服した相手国の軍隊を、次の戦争の先鋒として用いるという方法だったのである。これによって、本来のモンゴル軍の戦力を温存し、次々に征服していくことが可能になったのである。つまり、将棋のように、取った駒を使ったのである。こうした「物事の理」は歴史のような文系学問にもあり、そこがもっとも面白いところではないだろうか。 -
#242 政府の役目
現代の科学力によって、この世から飢餓を無くすことは簡単である。生産された農産物を、穀物は粉にし、野菜はフリーズドライにして保存が利くようにし、飢餓地帯に送ればいい。インスタントラーメンのもっとも安いものは、1食分の原価が20円程度だろう。それにフリーズドライの野菜や肉を加えても一食分を50円以内でまかなえるはずだ。一日150円の費用で、飢餓から救われる人間が沢山いるのである。
現在の世の中は、農作物や漁獲が多すぎた場合、それを廃棄処分にしている。それを政府の費用で買い上げて、飢餓地帯の救済に当てればいいのである。政府にはそんな金は無い、と言うかもしれないが、税金の一部をそのように使うことに賛成する国民は多いだろう。世の中のあらゆる無駄な出費を無くし、その代わりに人道的な行為への出費を増やせばいいだけのことである。この日本の中でさえも、失業によって飢餓に直面している人は多いはずだ。レストランの残飯や、コンビニの廃棄弁当を手に入れれば、それで生きていくことも可能かもしれないが、そこまでみじめな思いをさせなくても、食費だけなら失業者に政府が給付してもいいではないか。いや、金での支給だと不心得者に悪用される怖れもあるから、現物支給がいいだろう。住居にしても、屋根と壁があるだけの簡便な住居なら安価で供与できるはずだ。そうした福祉を充実させることこそが政治の使命であって、金持ちの財産をいっそう増やすためにあるような政権では大半の国民にとっては有害無益であろう。 -
#238 2500年前のグローバリスト
モラルの根本はすべてのものを大切にすることであるが、これを二千年以上も前に言った人がいる。それは墨子である。彼の説の根幹は「兼愛」と「非攻」であり、「兼愛」とは無差別の愛、博愛のことである。つまり、自分の親だから、子供だから愛するというのではなく、誰でも無差別に愛せよ、というのである。この思想は「孝」という親への愛と奉仕を基本とする儒教からは異端の説とされた。だが、家族や友人など、自分に属するものだけを愛することがしばしば他の集団との不和と排除に結びつくことを考えれば、「兼愛」は絶対平和への必要条件であることがわかる。そして、墨子のもう一つの中心思想、「非攻」とは、こちらからは絶対に攻撃はしないという絶対平和主義である。つまり、原理的に考えれば、二つの集団のどちらからも攻撃を始めなければ、戦争は起こらないということだ。この「兼愛」と「非攻」は、絶対平和をもたらす思想としては、非常に根源的な思想であったが、当時の人々(特に為政者)にはあまり歓迎されなかった。しかし、現在の思想界においても、絶対平和への道筋としてこれ以上のものを提出できるかと言えば、それは疑問である。あまりに理想主義的だ、非現実的だという批判が、「戦争を利益とする人々」から当然起こるだろうが、墨子の思想は根本原理としては正しいはずだ。彼は生まれるのが2000年あるいは3000年早すぎたのかもしれない。儒教集団にとっては、国家そのものも含めて彼等の狭いサークルしか頭になかったのに対し、墨子はいわばグローバルな視野を持っていたとも言えるだろう。 -
#236 新十戒(2)
実は、モラルの根本となる思想はただ一つに集約される。それは、「すべてのものを大切にせよ」ということだ。つまり、人間、動物、環境、資源すべてを大切にせよ、ということだ。大切にする、とは、愛情を以って接することである。これが実行されれば、すべての悪は地上から除かれる。だが、生存競争はそれを許さないために、社会生活をより良くするには、個々のモラルが必要になる。その試案が「新十戒」である。
第一レベル、小学校低学年レベルでは、彼ら子供でも生活で直面するもっとも基本的な生活ルールとして3点、①相互の愛情と信頼のルール、②暴力的行為・他者抑圧的行為の禁止、③欲望の抑制を挙げた。
第二レベル、小学中学年レベルでは、積極的善行として、社会や集団の人間関係を向上させる三つのルール、④弱者保護、⑤相互扶助、⑥信義の履行を挙げた。
第三レベル、小学高学年レベルでは、人間社会を超えて、この地球に生きる者として守るべき二つのルール、⑦自然と動物の保護、⑧資源の適正利用を挙げた。これは、現代の人間なら、モラルとして考えるべきである。たとえば、自分の金で買ったものだから、それを無駄遣いしてもいい、というのは誤りである。彼がその無駄遣いをすることで、後世の人間が使える資源が減少する。これは、一つの犯罪的行為なのである。
第四レベルは、この資本主義、あるいは経済的自由主義の社会の基本思想、「金がすべて」という思想を抑制するルールである。これは法律や社会制度の改革よりは、モラルとして心に刷り込んだほうがいい。⑨犯罪的利得の禁止、⑩経済的弱者保護の2点である。 -
#235 新十戒(1)
これまで、モラルについて何度か書いてきたが、では、何をモラルの中味とするかについては書かなかった。いや、考えもしなかったというのが本当だ。これは、日本のメディアに溢れる現代の道徳の退廃を憂える発言も同様である。では、それはモラルの中味は自明だということを意味するのか? そうではない。ただ、中味を真剣に考えたことがないというだけだ。たとえば、子供に「嘘をつくな」と教えることは、それを本気で実行した場合、その子供の一生に不利益を与えることは確実である。ならば、もっとも基本的なモラルと思われる「嘘をつくな」は、危険なモラルであることになる。「人を殺すな」も、戦場での殺人や、国家による殺人、すなわち死刑の存在を考えれば、そのままではモラルとして成り立たない。つまり、我々は改めて現代に妥当するモラルを考えねばならないのである。その試案をここに書く。モーゼの十戒に倣って「新十戒」としよう。これは、小学校低学年から教える順番にレベル1からレベル4まである。まず低学年レベル。「①自分を愛する人を悲しませるな。」「②自分より弱い者をいじめるな。」「③自分の欲望のために他人に害を与えるな。」次に、中学年レベル。「④弱い人間は助けよ。」「⑤困っている人は助けよ。」「⑥約束は守れ。」次に高学年レベル。「⑦自然や動物に優しくあれ。」「⑧資源を大切にせよ。」最後に、中学生レベル。「⑨不当な利得を得てはならない。」「⑩富める者は施しをせよ。」なぜこの4段階かについては、別記する。 -
#233 義と利(福祉は不正義か)
モラルを子供に教える場合に困ることの第一は、「何が正しいことなのか」という子供の質問に、どう答えるかであり、もう一つは、「正しいことは当人にとって不利益である場合が多いのに、なぜ正しい行為をしなくてはならないのか」という質問にどう答えるかである。第二の疑問は、正しさについての知識や合意が前提となるのだが、大体の場合においては、何が正しい行為かは直感的にわかるものである。ただ、それを口で言うことは難しいから、道徳教育はその出発点でつまずくことになる。ロールズという学者が正義について論じたことをうろ覚えで書くが、正義の原則は「その問題の利害関係に無関係な第三者として判断する場合に選ぶ行動」が正しい行動だということなのである。つまり、不正義とは、身びいきのことなのである。そして正義とは公正であることなのだ。公正とは、その解決策が特定の人間の利益に傾かず、集団や共同体全体の利益となることである。では、たとえば福祉、すなわち弱者への手厚い保護は不正義なのか。いや、そうではない。弱者への保護があることによって、我々は、自分がその位置に陥った時にも生きていけるという安心感が得られるのだ。そのような安心立命の精神状態が些細な福祉の出費で得られるなら、安いものである。しかも、それはたとえば企業の宣伝広告費にかける厖大な金や、政府の軍事予算と比べて、はるかに少ない金額なのだ。税金の使い道として、福祉予算以上に有益なものはないが、しかし、政府が常に削減するのは福祉予算なのである。 -
#228 富者の権利
私は、政治の課題は三つに絞ることができると思っている。それを一つにまとめれば、「飢餓・戦争・貧困の撲滅」である。「飢餓」の原因は貧困とは限らない。我々は大海の真ん中で渇きに苦しむこともあるのだ。そして、飢餓を無くす方法もおそらくは分かる。それは、中国の政治で言う、「平準法」と「均輸法」である。つまり、物が豊富な時期に安く買い入れて備蓄し、物が不足した時に民間に放出することと、物の豊富な地域から物の不足した地域に物を移動して救うことである。つまり、物資の時間的調整と、空間的調整だ。政治とは、調整である。前に述べた言葉で言えば、分配のシステムである。そして、その分配の大原則は、強者による独占を阻止して、富者(これは強者でもある)から貧者(弱者)へ分け与えることである。これはべつに共産主義や社会主義だけに特有の思想ではなく、東洋古来の政治思想の原則は、「仁政」すなわち、民を憐れむことであったのだ。だからこそ、仁政を行った為政者は尊ばれ、悪政を行った為政者は後々まで批判されたのである。確かに、政治の力学の上ではマキァベリ的権謀術数や厳格な法治思想も必要だろう。しかし、それによって政治の原則が見失われてはならない。宮崎市定の「中国史」の中に、「何れの世においても法律は富者の権利を擁護するに厚く、貧民の困苦を顧みようとしない。そこで平和が永続するうちに自然に貧富の懸隔が甚しくなってくる。」という言葉がある。戦後30年で一億総中流社会を実現した日本が、バブル景気に踊った後、小泉政権を経て格差社会に至った現実とまさしく一致しているのではないだろうか。 -
#226 顕教と密教
これは竹熊健太郎の言葉からヒントを得たものだが、顕教と密教というキーワードは、世界を解釈するためのメスになりそうだ。ここで言う顕教とは、表に出た教義、世間向けの建て前であり、密教とは、中枢にいる者たちのみが知っていることという意味である。大事なのは、「中枢にいる者たちは、表向けの教義をまったく信じていない」ということだ。彼らにとっては、顕教は世間の馬鹿たちを支配し操縦するための手段でしかない。これは宗教だけの話ではないが、宗教においても、その中心にいる人々は、その教義をまったく信じていないというのは、ありえる事だ。バチカンの内部にいる人々はキリスト教を信じておらず、仏教界の中枢にいる人々は仏教をまったく信じていない、という想像である。これは、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」の有名な「大審問官」の章で描いた想像でもある。この大審問官は、キリスト教の中心にいながら、「キリスト」は不要だ、と言い切るのである。ただし、彼の場合は、地上の不幸を救うためにキリスト教を自分たち流に変更して世界を精神的に支配するのだ、という信念を持っている。だが、多くの世界での密教は、それほど殊勝なものではない。たとえば、芸能界の内部にいる人間は、アイドルやタレントはただの商品だと思っている。これが密教だ。しかし、無邪気な青少年は、アイドルやタレントを理想化し、その商品を買いまくる。アイドル(偶像)を理想化する戦略が顕教である。マスコミはそれに奉仕する。つまり、馬鹿は顕教に踊らされ、賢い連中はそれをせせら笑っているという構図である。これはどの世界でも同じだろう。
