-
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
-
#219 哲学とは何か
人類の文化は、物質文化の点では発展し続けているが、精神文化の点では2000年前から少しも進歩してはいない。人類の精神文化は、釈迦、ソクラテス、孔子、キリストの時代でピークに達しているのである。べつにその4人の教義が正しいとは思わないが、その思考レベルの深さにおいて、そしてその意義深さにおいて、彼らに匹敵する精神的巨人が今後出てくるとは思わない。あらゆる倫理も宗教も、彼らの思想のバリエーションにしかならないだろう。つまり、哲学は既に終わった学問なのである。それを今でもやっている人間がいること自体、信じがたいことである。哲学者の中に骨のある人間がいるなら、なぜ人類全体に幸福をもたらす究極の思想を考えようとしないのか。あるいは、世界から永遠に戦争や犯罪を廃絶する根拠となる究極の倫理理論をなぜ考えないのか。それを考えようともせず、現象がどうのこうのなどとくだらない些末事で知的アクロバットをするのが哲学なら、これほど虚しい仕事は無い。たとえば、有名な言葉だが、この世から戦争を無くす確実な方法は、戦争を焚き付ける人間、開戦に賛成する政治家とその家族を最前線に送ることだ、という言葉がある。あるいは、チャップリンの「殺人狂時代」の「一人を殺せば犯罪者だが、多数の人間を殺せば英雄だ」という言葉。こうした言葉は、それを知った人間に戦争がなぜ起こるか、戦争がなぜ狂気であるのかを教える。世の中のくだらない哲学書の数々よりも世の中にとって有意義な言葉である。これが哲学なのである。PR -
#218 二人の「隆」
現代のジャーナリスト、あるいはノンフィクションライターの中に二人の巨人がいて、どちらも「隆」という名前である。その一人はもちろん立花隆だが、もう一人は彼に比べると社会的な知名度は低い。ロスチャイルドやロックフェラー、モルガンなど、世界的財閥の悪行を白日のもとに暴き出してきた広瀬隆である。この二人のポジションは対照的だ。片や立花隆はマスコミの大御所として不動の名声を得ているのに対し、広瀬隆の方は、陰謀論者の代表のように思われ、影が薄い。しかし、これは支配層にとって前者は安全な存在であり、後者は危険な存在であることを意味している。立花隆がこれまで戦いの対象としてきたのは、「農協」「共産党」「田中角栄」であり、日本を遠隔操作している米国から見て、すべて不要な、むしろ邪魔な存在である。農協が攻撃された時代は、農産物を日本に売り込むことが米国にとって必要な時だった。共産党は資本主義にとって、恒常的に弱体化させておく必要のある存在である。田中角栄は、米国支配の政治から一歩を踏み出して、日本独自の外交とエネルギー政策を行おうとしており、米国にとっては政治的に抹殺する必要があった。ロッキード事件が米国の謀略であったことは、もはやほとんど歴史的事実と言って良い。つまり、「巨悪に挑んできた勇敢なる騎士」立花隆のイメージは、幻想である。私は彼の文章は好きだから、こう言うことは悲しいのだが、彼の仕事はすべてあまりに米国の日本支配に都合の良い仕事であったのだ。一方、広瀬隆へのマスコミの黙殺は、彼の仕事こそが真実であることを示している。20年後にはそれが証明されるだろう。 -
#216 「進化」した世の中
進化論という思想は、生物学的にも妥当かどうか疑わしい思想だが、「自然淘汰説」自体は当然の考えだろう。つまり、「適者生存」である。だが、それは優れたものが生き残るという意味にはけっしてならない。単純な話だが、善人と悪人が戦った場合、善人には悪が為しえないのだから、あらゆる手段が可能な悪人に勝つはずがないのである。だから、自然淘汰の結果、より優れた存在が勝ち残るわけではけっしてない。こうした「進化論」への誤解があらゆる「進歩」や「変革」への礼賛となり、人々を休みなく働かせることになる。江戸時代には、平均的な町人は、ほとんどの仕事は午前で終わり、後はのんびりと風呂に行ったり遊んだりして暮らしていたという。それも当然の話であり、現代の我々の仕事の大半は無用の仕事であるのに、それを無意味に細かく差別化し、競争しあって忙しくしているだけなのだから。もちろん、それらの仕事の多くは「生活の快適」のための仕事であるから、それを有用と言うなら、話は別だ。江戸時代には電気もガスも自動車も無く、テレビもビデオも無いから、それら「便利な物」についての仕事が一切不要になり、その結果、人々はのんびりと過ごすことになったというだけのことだ。では、どちらが幸福か。おそらく現代の人間は、テレビもビデオも電車も自動車も無い生活は耐えがたいと思うだろう。はたしてそうだろうか。私は、おそらく、それらの存在しない世界に行ったとしても、一月もあれば慣れると思う。そして、前のせわしない世界を一種の地獄だったと思うだろう。 -
#211 選挙制度への提言
日本の政治の問題点は、選ぶに足る政治家がほとんど存在しないことである。選挙における棄権率の高さもそこに原因がある。「誰に投票したって、結局は同じさ」、ということだ。しかし、永遠にその状態を続けるわけにもいかないだろう。それを解決する方法は二つある。一つは、選ぶ側の姿勢として、もしも現在の政治に不満があるならば、必ず新人に投票することである。与党であれ、野党であれ、現職の政治家が現在の政治に責任がある点では変わりない。だから、彼らには絶対に投票してはいけないのである。新人がいい政治家であるという保障はないが、少なくとも一回の機会は与えて、それで判断すれば良い。現職者は、その機会を生かせなかった人間なのである。日本人は、現在の政治に不満を持ちながら、選挙では与党に投票するという不思議な民族だが、それでは現在の政治に満足しているという意見の表明にしかならない。もしも、罪の軽重を言えば、野党の方が罪は軽い。もう一つの方法は、選ばれる側の問題だが、選挙における供託金の制度を廃止し、誰でも選挙に立候補できるようにすることである。現在の供託金制度は現職者やそれに類似した連中の既得権益保護のシステムであり、その為に政治改革に意欲のある、若い、貧しい政治家が締め出されている。たとえ「又吉イエス」やかつての東郷健や赤尾敏のような「色物」だろうが、政治に意欲のある人間には機会を与えてやることが、政治の出発点だろう。 -
#191 人間を幸福にする日本というシステムの構築
「人間を幸福にしない日本というシステム」をどう変えれば、人間を幸福にするシステムが作れるのか。その土台は「士農工商」である。つまり、道義のある人間が社会をリードし、生産者が尊重される社会を社会全体の目標としていくことである。具体的な政策として考えられることは、「土地国有制」と「相続税100パーセント制」である。土地は資産形成の最大の要素だから、それを私有させるのは不公平である。国が管理し、使用者から使用料を取るのが良い。住宅としての使用は、なるべく低廉にすればいいが、過度の面積の使用は制限するのだ。また、財産を子孫へ相続させようという欲望が人間の強欲と過度な蓄財の原因だから、相続税は100パーセント、つまり、死ねばすべて財産は国が没収するのが良い。ただし、残された遺族の生活費として、一律に一定金額を支給し、教育費や成人段階での開業資金なども国が支給・融資すれば良い。細部の議論はあろうが、原則はそういうことだ。
さらに、いかに日本だけで人間味のある政策を実行しようとしても、経済は国境に制限されないから、政策がそこから崩壊するだろう。したがって、日本は「鎖国政策」をとるべきである。日本と商売がしたければ、高い関税を覚悟でやることだ。もちろん、アングロサクソンの利益保護のためのさまざまなインチキ国際機関からは脱退する。国際連合からも脱退する。日米安保条約も破棄である。北朝鮮の国際政治戦略を見習って、日本も核武装すれば、他国の政治的干渉を跳ね返すこともできるだろう。
これが、日本をまともな社会にするための私の考えだ。もちろん極論だし、穴だらけの考えだが、方向としては間違ってはいないと思っている。 -
#190 社会人落ちこぼれ
近い未来の日本社会を考えた場合、最大の問題は、「社会人落ちこぼれ」の問題である。日本がアメリカの後を追って、完全に第三次産業社会になった場合に生じるのがこれだ。第三次産業の中でも流通や商品売買の分野などではまだ非熟練労働者の存在価値はあるが、第三次産業の中でももっとも金になる分野である「法律」「医学」「金融・証券」「情報産業」などでは、高学歴の人間しか必要としなくなる。つまり、こうした社会は大量の「不要な人間」を生み出す社会なのである。高学歴でなくても、芸術やスポーツなどでは才能が物を言うが、そうした才能も無く、高学歴を身につけていない大量の人間をどうするか。これが日本がこれから直面する問題だ。これを私は「社会人落ちこぼれ」問題と言っている。現在の「ニート」や「フリーター」はその魁である。社会人落ちこぼれが社会人の過半数を占め、彼らが低賃金にあえぐ一方で、少数のエリートが高い収入を手に入れて贅沢な生活をする、「天国と地獄」状態が、日本の未来である。これはアメリカの現在だ。ついでに言うなら、現在、社会の上層にいる人々は、自分のコネをつかって子供を一流の大学に入れ、一流の企業に入れるだろうから、彼らの子孫は安泰である。つまり、日本は完全な身分社会となるのである。 -
#189 機会損失という考え方
「機会損失」は経済学もしくはビジネス用語の一つで、二つの選択肢がある場合に、一方を選ぶと、もう一方を選んだ場合の利益を得る機会が失われるという考え方だ。つまり、一見利益を上げているように見えても、実は機会損失による不利益のほうが大きいかもしれないということを考えて選択せよ、ということだ。この考えは日常生活でも成り立つ。たとえば、ナサニエル・ホーソンのある短編に、旅の途中の青年が寝ている間に、その青年の周辺で起こる出来事(そのほとんどが、青年の運命を変える可能性のある出来事である。たとえば、美しい少女が寝ている彼に恋をする、とか、大金持ちの老夫婦が彼を養子にしてみようと考えるとか、強盗が彼を殺して金を奪おうと考えるとか。)を描いた作品がある。目覚めて彼は自分の周囲で起こった出来事を知らず、旅を続けるのだが、実は我々の周辺でも、自分の知らないところで様々な機会損失があり、また危く危機を逃れていたという可能性もあるのである。
現在の日本では、青少年に与えられる文化はほとんどが日本製の文化である。特に音楽関係ではそうだ。これは、日本の大衆音楽が進化したという面もあるが、それよりもマスコミ関係者が、外国文化を摂取することをやめてしまったということによる。日本の若者は自国文化以外の優れた文化を知らないままで一生を過ごしていくのである。この機会損失は大きなものではないだろうか。 -
#177 情報の洪水と民衆支配
人間の最大の欠点は、飽きやすく、忘れやすいことである。しかも日本人にはその欠点が強い。その日本人にテレビと新聞を与え、毎日毎日膨大な情報を流したらどうなるか。どんなに重大な出来事でも、新たな事件の前に忘れられていくのは目に見えている。あなたはそうでないと言えるか。少なくとも私は、もはや三日前のニュースさえも記憶に残らなくなっている。どのような不祥事も、それに対して誰がどう責任をとったのか分からないまま、記憶から消えていく。これは為政者つまり政治家や官僚にとっては実に望ましいことである。あらゆる政治的失敗に対し、何一つ責任を取らなくていいのだから。たまに責任が追求されるとしたら、それはスケープゴートにすぎない。日本のマスコミが流すニュースのほとんどは官庁から出されるニュースである。ならば、たまに政治家や官僚の悪事がマスコミに流れたとしても、それは官庁側が「こいつはしょっぴいていい」と許可した身内の中の小鼠にすぎないのは自明である。あるいは、U教授の痴漢事件のように政治的に邪魔な存在をフレームアップ(でっちあげ)で逮捕させることもある。
古代ローマでの民衆支配の方法は「パンとサーカス」であったと言う。現代の政府は民衆に福祉というパンを与えることなく、ただ情報操作というサーカスだけで真面目な問題から目をそらさせることに成功している。まさしくかつて大宅壮一が言ったようにテレビという手段が「一億総白痴化」をもたらしたのである。
(注:この一文は自民党が政権を失う前に書かれたものである。) -
#166 社会の遠近感
「自分と仲間以外はみな風景」というのは、現代の若者について述べた宮台真二の名言だが、実は若者が社会から切り離された存在であるというのは、日本では昔からそうなのである。そもそも、学校で学ぶことのすべてが、社会から見事に切り離されている。学校で学ぶことが社会に出て役に立つなどと考えている生徒はほとんどいないだろう。彼らは、高校受験・大学受験のためにそれが必要だから学んでいるのである。最も社会とつながっているように見える英語の勉強にしても、大学を出ても英会話一つできないのである。まして、大方の生徒にとって、数学や物理など、何の役にも立ちはしない。しかも、学校では、教師が政治的発言、すなわち社会批判をすることは暗黙のうちに禁じられているから、現実の悪は、教育の世界では存在しないものとされているのと同じなのである。つまり、教育の世界で子供は現実の社会から切り離されたフィクショナルな生活を送っている。こうした生活を送る子供たちが、社会に対し、現実感が持てなくなるのは当然だろう。しばしば、子供が思いがけない事件を起こすが、その原因には、この「現実感の無さ」があると思われる。彼らにとって現実は現実ではないのだ。だから、「切れる」と、平気で突拍子も無い行動ができる。
学校だけが現実ならば、それなりに覚悟もできるが、彼らも馬鹿ではないから、その背後にどす黒い現実社会があることは知っている。得体の知れない「現実」への不安が、彼らを破壊的行動へと向かわせるのではないか。かつての子供として、私にはそう思われる。 -
#150 恥と罪
神を前提としなくても日本にはモラルがあった。その手品の種は「世間体」である、というと、威厳も何もあったものではないが、実際そうだったのである。ルース・ベネディクトの「菊と刀」によって、日本人の「恥の意識」は西欧人の「罪の意識」に比べて一段劣るもののように見なされるようになったが、はたしてそうなのだろうか。まず、恥と罪と、どちらが人間にとって根源的な感情かというと、これは明らかに恥の感情である。世界中のどの民族でも、恥の意識の無い民族は無い。極端に言えば、動物にすら恥の意識はあると私は思っている。犬や猫を観察したことのある人間なら、彼らの行動に羞恥心やプライドを感じ取った経験が必ずあるはずだ。しかし、罪の意識となると、これは動物にはけっしてありえない。なぜなら、罪とは常に「立法者」を前提としてのみ生じる感情だからだ。これは西欧のように、古代から法と契約によって生活してきた民族に特有の感覚なのである。そして、罪の前提となる立法者への信頼が失われれば、罪の意識は機能しなくなる。そのような脆弱なものの上に人間の生活を成り立たせるためには、当然、罪を犯した者への厳重な処罰が必要になる。一方、恥の意識に基づく社会秩序においては、個人に内面化された美意識が彼を自動的に悪(醜行)から遠ざける。社会の構成員が、罰への恐怖から悪を避ける社会と、悪や醜行への嫌悪感からほとんど無意識に近い形で悪(醜行)を避ける社会と、どちらが優れた社会だろうか。だが、今や、日本の社会からは恥の意識も、行動における美意識も失われた。それは金がすべてという思想のためである。
