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#149 神無き社会のモラル
哲学の課題はいかにして個人および人類の幸福を実現するかである。その問題に答えない哲学は無意味だ。たとえばニーチェによって人類(あるいは西欧人)の視野は拡大した。その意味で彼は重要な哲学者だ。しかし、彼は人類にとって必要な哲学者であっただろうか。彼によって人類は幸福になったかと言えば、答えはノーだろう。その点では、ほとんどあらゆる近現代の哲学者は無意味な存在である。
現代における哲学者の課題は、「神を前提としない、いかなる倫理が可能か」に答えることである。現代人はもはや神を信じていない。しかし、ほとんどの西欧人は、神を前提とせずには倫理は不可能だと考えているのである。だから、彼らは日本人が神を信じていないというと、日本にはモラルは無いのか、と考えてしまうのである。これはもちろん大きな誤解で、大半の日本人は大半の西欧人よりも道徳的にすぐれている。いや、すぐれていたのである。現在はそのモラルも怪しくなってきているが、かつての日本人は神をも仏をもあまり真剣に信じてはいないのに、世界でも稀なモラルのある社会を作っていた。その日本人なら「神無き社会のモラル」の可能性について深い考察ができるはずだ。しかし、日本の哲学者は西欧の哲学の輸入とライセンス販売をする商売人だけである。ドストエフスキーの作中に言われた「神がいなければすべては許される」というテーゼに対し、哲学者はどう答えるのだろうか。PR -
#134 悪い奴ほどよく眠る
前に、人間の2パーセントは好戦的(ヤクザ的)性格の人間だと書いたが、この比率はかなり正しいと思う。50人に一人、つまり、およそ学校の1クラスに一人くらいの割合で、こうした異常性格者がいるというのは、大多数の人間の経験則に合っているのではないだろうか。1学年が10クラスなら、学年全体では10人のヤクザ的人間、すなわち不良がいるというのは、私自身の経験には合っている。言っておくが、こうした不良というのは、青春ドラマなどで美化されるような、そんな存在ではない。将来は犯罪者間違いなし、どころか、在学中から暴力行為、強姦事件を起こすような、そんな連中のことである。そうした不良は、ある意味では力を持った存在であり、大人に平気で反抗するから、女生徒の中には(不良を美化した青春ドラマの悪影響で)彼らにあこがれたりする連中も多い。もちろん、こうした異常性格者は男には限らない。中学でのいじめなどは女の子のほうがよほど陰湿で激しいものらしい。しかし、その場合でも、中心となるのは一握りの異常性格者、サディスト的人間で、後の連中はその手下として引きずられて悪事に加担しているだけだ。問題は、こうした異常性格者の中には世渡りの才能をも兼ね備えた人間が結構いることで、それが話術の才能などに恵まれていると、教師やタレントになって世間にもてはやされたりもする。かつて悪(ワル)だったことも、そうなると何のおとがめもないばかりか、勲章のようなものになるのである。K元総理の祖父などもヤクザだったらしいが、ヤクザでも代議士になれる社会なのだから、この風潮も当然の話ではあるが。 -
#129 バランス・シート的思考
人間性の根本的欠陥として、我々は物事を一面的に見てしまう傾向がある。これを利用したのが様々な手品で、手品師が右手で何かをしているときには左手にトリックがある、というのが手品の原則だ。マスコミや政治のトリックも同様で、マスコミがくだらない問題をトピックにしている時は、必ず真の重要な政治課題が裏でこっそりと推し進められていると考えたほうが良い。我々のやるべきことは、人間性のこのような欠陥を常に意識し、物事をバランス良く眺める習慣をつけることである。
バランス・シートとはもちろん会社の経営状態を表す表の一つだが、「貸借対照表」とも呼ばれている。つまり、その会社の資産と負債を表の左右に並べたものだ。この左右が釣り合っていれば、その会社は健全だということになるが、この考え方は面白い。我々は普通、借金が無く、資産だけがある状態を健全な状態だと考え、そうなろうと努力する。しかし、本当は「借金も財産のうち」なのである。なぜなら、借金は資産の形で自分の懐に残っているからだ。たとえば、国の借金である国債は、様々な社会資本となって国民の財産として残っている。使われた金だけを考えるから、それが無駄に消費されたように思うのである。もちろん、その過程でいろんな人間が金の一部を自分のポケットに入れるから、それに怒る気持ちは分かるが、国債の使途の大部分は一応は有益なものだ。そうしたバランス・シート的見方をするなら、問題は借金ではなく、金の使い道にあると分かる。 -
#128 勝つってそんなにいいことか?
人生の目的が他人に勝つことであるような人間というのは、一種の異常者ではないかと私は思っている。ところが、我々のこの社会は、そうした「好戦的な性格」を奨励しているのである。学校とは、表向きには「みんな仲良く」を標榜しながら、実際には「他人に勝て」を子供に教え込む「ダブルバインド(二重拘束・矛盾した指令)」の社会である。「頑張って」試験の順位を上げよと子供に言い、「頑張って」スポーツの試合に勝てと子供に言う。「試験の順位なんてどうでもいいよ。前より君自身が少しでも物事を分かるようになれば十分だ」と言う教師は滅多にいないし、「試合に勝つ必要はない。ゲームを楽しみなさい」というスポーツ指導者などほとんどいない。「いや、俺は子供に『楽しめ』と言っている」と言う指導者も、その本音は、自分の指導しているチームや子供が好成績を残すことしか頭には無い。子供は敏感だから、そんなことはみんな知っているのだ。こうして、「勝たなければ無意味だ。勝たなければ自分は無価値だ」という思想が子供たちの心を汚染していく。もちろん、事は学校だけの話ではない。我々の社会全体が「競争は正しい」「勝利に向かって努力しない人間はクズだ」という思想の社会なのである。しかし、人間、それが楽しければ自然と努力するものであって、勝利はべつに努力の唯一の原因や報酬ではない。そうしたのんびりとした努力、いや目の前の物事自体を楽しみ、結果としての勝利には重きを置かないような人間が増えることが、このぎすぎすした社会を居心地のいい社会に変えていくのではないだろうか。 -
#127 良き隣人としての軍隊
同じ本からあまり度々引用するのもなんだが、『本当の戦争』という本は引用したくなるような記事が多くて困る。
第二次世界大戦では、60日間の戦闘で生き残った兵士の98パーセントが精神的負傷者になり、残る2パーセントに共通した性格は「好戦的な性格」だったと言う。つまり、長く続く戦闘はまともな人格の人間をガイキチにし、残る2パーセントは最初からガイキチ、あるいはヤクザ的性格の異常者であったということだ。こうした好戦的な性格の人間は、人を殺すことが楽しくてたまらないという「生まれつきの殺し屋」であり、全人口の2パーセント(男性の3パーセント、女性の1パーセント)がそうだという。この2パーセントが、部隊の殺した敵兵の50パーセントを仕留めている場合が多いとのことである。つまり、当たり前と言えば当たり前だが、平時ならとんでもない殺人鬼になっていた人間が、戦場では英雄となるわけである。だが、一般の兵士は、人を殺すことに大きな抵抗感があり、軍隊という組織のもっとも大事な作業は、一般人を、「平気で人を殺せる人間」に作り上げることである。つまり、軍隊とは殺人訓練をする場所であるという当たり前の事実が、この平和な日本ではまともに認識されていない。こうした組織が「良き隣人」になりうるかどうか、考えてみれば良い。もっとも、軍隊を、我々の代わりに殺人をしてくれる感謝すべき組織であると保守派の言論人が言うなら、それも一つの考えではある。 -
#126 誰のための戦争か
これも『本当の戦争』に記載されたことだが、味方同士の誤射による死傷は、全死傷者の15パーセントにも上るそうである。あの、米軍(多国籍軍)のパーフェクトゲームにも見えた湾岸戦争では、何と、失われた戦闘車両の77パーセントが、味方の誤射によるものだということで、大笑いである。米国政府によってコントロールされた官製戦争報道がいかに一面的なものであるかが分かるではないか。
この本にはいろいろと面白い(というか、不愉快な)情報が詰まっている。たとえば、1990年代の戦争での死者の、75ないし90パーセントが民間人であるという事実は、我々の時代の文明が、古代や中世よりも退歩していることを示している。古代や中世の戦争は、基本的に軍人・兵士だけの戦いであったはずだ。現代でも原則はそうだろうが、武器の発達により、一度に広範囲の人間を殺傷できるようになり、そうした武器は兵士と民間人を選別して殺すという器用なことはしない。また、現代の戦争では、おそらくそういう選別を最初からほとんど放棄しているのである。つまり、戦争が起こったという時点で、その当事国の全国民は生存の権利を奪われる。これが現代の戦争だ。それでも、あえて戦争を支持する連中の論理は何なのか。「人には生命より大事な誇りや名誉というものがある」とでも言うのだろうか。「愛国心」とやらのために国民が戦場に追いやられ、死んでいく。そして生き残った連中は彼らに感謝しつつ、ご馳走に舌鼓を打つ、というわけだ。 -
#125 戦争の実態
戦争について語ることの大きな問題は、語る人間が戦争の実態をほとんど知らないことだ。戦争について語って良いのは、最前線で戦った経験のある歩兵だけだろう。ゲーム感覚で相手を殺す戦闘機乗りやミサイルの発射ボタンを押すだけの人間には、本物の戦闘は分からないのである。まして、自らは戦場に行くことすらないお偉方や、愛国者ぶって好戦的言辞を撒き散らす保守派(体制擁護派、あるいは権力の犬)の文化人などに戦争を語る資格はない。それよりも、問題は、一般の民衆の大半は戦争の実態が分からないということだ。だから、ジャーナリズムの好戦的な言辞に踊らされて民衆が戦争に賛成し、戦争は始まる。クリス・ヘッジスの『本当の戦争』は、簡潔な一問一答形式で戦争の実態を説明した好著であるが、その中には、たとえばこういう事がある。ベトナム戦争の10年間で9万人の兵士が死んだが、戦闘で死んだ将軍は1人、大佐は8人である。つまり、実際に戦場に行った人間でも、お偉方はほとんど死ぬような場所にはいないということだ。また、同じくベトナム戦争で死んだ士官のおよそ4分の1は自分の部下の下士官や兵士によって殺されたものだという。上官の無能さによって部隊が危険にさらされることを回避する場合もあるようだが、日常の高圧的な上下関係から来る憎しみが戦場で表に現れたものも多いだろう。昔の日本の軍隊映画では、「弾は前から来るばかりとは限らねえぞ」と、兵士が棄て台詞を言ったものだが、これは洋の東西を問わぬ戦争の実態のようだ。 -
#119 過去と未来
一般的に、過去を語る者は考え方が後ろ向きで非生産的であるとされ、未来を語る者は前向きで建設的であるとされる。だが、これはまったくの誤りである。我々の現在のすべては過去の蓄積の上に成り立っているのに対し、未来とはまったく実現していない空中楼閣にすぎない。過去も未来も現在存在していないという点では同一であるが、その大きな違いは、過去は責任を伴っている事実であるのに対し、未来とは無責任な夢であり、未来についての発言に人は責任をとらなくて良いということだ。
「夢は必ず実現する」という言葉を人々は好む。Jポップの歌詞にはうんざりするくらい溢れており、教育者たちも子供たちにそう言う。書店に山積みされているハウツー的な人生論の本の趣旨も大半は「夢は必ず叶う」である。そして、そうした発言をする人々は、自分の発言に責任をとることはけっして無い。「夢が実現しなかったのは、その努力を怠った本人の責任である。それに、夢を信じて行動している間、彼らは幸福だったではないか?」 つまりは、こうした連中は、新興宗教の教祖と同じなのである。馬鹿な連中からお布施を巻き上げればそれでいいのである。このような「夢業者」はほかにもいる。
我々は自分のしてきた事、つまり過去について常に責任がある。官僚やジャーナリズムや企業がやたらに未来を語るのは、自分たちの様々な不始末という「過去」を忘れさせ、未来の夢で人々を釣るためである。(それが意識的行為であるかどうかは別の話だ。) -
#118 少年よ「大志」を抱け?
「少年よ大志を抱け」とは、言うまでも無く、札幌農学校の校長であった明治政府のお雇い外国人クラークが生徒たちに言った言葉だが、元の言葉とはニュアンスがやや違う。元の言葉は、「ボーイズ・ビ・アンビシャス」つまり、「少年たちよ、野心的であれ」であり、訳語の「大志」が、東洋的な人道主義的理想を感じさせるのに対し、「アンビシャス」には、世俗の金力や権力を目指す生臭い欲望への肯定が感じられる。もちろん、クラークもそのつもりで言ったのだろう。西欧人の彼から見れば、日本人には他人を蹴倒してでも自らの欲望を達成しようとする野心が欠けているように思われたのだと思われる。そのクラークの言葉は現代の日本において実現した。つまり、クラークは資本主義的先進国の尖兵として、日本人に野心、つまり「欲望の肯定」を教えたわけである。
それまでの日本人に野心が無かったわけではない。だが、封建社会においての野心とは、社会の上位層にしか縁の無い言葉であった。固定された身分制度のもとでは社会の下位層の者が野心を抱ける余地はなかったのだ。だが、現代はどうか。誰でも努力次第でどこまでも上に行けるという幻想が、資本主義社会を成り立たせる幻想である。その幻想によって人々は馬車馬のように努力するわけだ。しかし、それで成功するのは一握りの人間であり、しかもその大半は親からの遺産であらかじめ成功が約束された人間である。そうした社会で、過度の野心はその人の人生を常に焦燥感と不如意感・失敗感で満たすだろう。人にはそれぞれ生まれ持った器量や運命がある、という封建社会的諦念ははたして退嬰的なだけのものなのかどうか、考えてみる必要がある。 -
#108 経済システムとしての奴隷制度と植民地制度
奴隷制度や植民地制度は経済システムとしてメリットが少ないということを説明しよう。
まず、奴隷制度も植民地制度も、本質は同じである。つまり、他人を働かせて、自分は遊んで暮らそうという制度だ。そう言えば、資本主義だって同じではあるが、資本家は、「いや、自分は頭脳労働をしている。労働者百万人よりも私のほうが働いている!」と言うだろう。まあ、法の抜け穴を探すことだって立派な「労働」と言えないことはないし、他人の物を合法的に盗むことだって、「労働」かもしれないから、この点は追及しない。
奴隷制度や植民地制度は、制度の非人道性がより目立つという点で、資本主義よりは劣ったシステムである。つまり、遅かれ早かれ、死滅するシステムだったのだ。むしろ、奴隷制度が無くなるまで何千年もかかったことのほうが珍しいが、それはその不経済性を権力者に納得させるのに何千年もかかったということなのである。
第一に、奴隷には単純労働しかさせることはできない。奴隷に教育を与えてはいけないとは前回に書いた通りであるから。第二に、奴隷を監督し、労働を指示するのに専従する人間が必要である。第三に、奴隷には賃金を与える必要はないが、飯を食わせないわけにはいかない。子供の奴隷は労働年齢まで育てる必要もある。結局は、奴隷でない人間を安い賃金で働かす資本主義と、費用的にはそれほどの違いはないのである。
植民地制度は奴隷が国全体に置き換わったものと見ればよい。いずれにしても近代社会には合わないし、何より不経済なシステムなのである。
