それとは別に、以下に転載する部分で書かれた「新しい差別の構造(現代的レイシズム)」は、私が何となく感じていながら明確に意識していなかったものを見事に言語化している。「現代的」は誉め言葉ではなく、より悪質で陰湿で巧妙なレイシズムである。
(以下引用)
ここで「現代的レイシズム」という概念に触れたいと思います。これに対置される「古典的レイシズム」とは、アメリカにおける黒人など、人種的少数派に対して彼らが道徳的・能力的に劣っているというものです。
これに対して、現代的レイシズムとは、《(1)黒人に対する偏見や差別はすでに存在しておらず、(2)したがって黒人と白人の間の格差は黒人が努力しないことによるものであり、(3)それにもかかわらず黒人は差別に抗議し過剰な要求を行い、(4)本来得るべきもの以上の特権を得ているという、四つの信念である》(高史明『レイシズムを解剖する:在日コリアンへの偏見とインターネット』(勁草書房、2015年)pp.13-14)とされます。「在日特権」という言葉はまさにこれにあたります。
我が国においては、行政や財界、そして消費文化によって差別が「存在しない」もしくは「既に解決された」ものと思われがちです。
例えば女性差別に関しては、1990年代以降、「男女共同参画」や「女性の社会進出」「女性の活躍」という言葉が政府や財界、マスコミによって喧伝される中で、現在も残る性差別などの問題が解決されていないにもかかわらずフェミニズムはすでに「終わったもの」と見なされ(菊池夏野『日本のポストフェミニズム:「女子力」とネオリベラリズム』(大月書店、2018年)参照)、また右派論壇によって政府による「男女共同参画」や「ジェンダーフリー」など政策がフェミニズムによる国家解体の思想だと喧伝されてきました(能川元一、早川タダノリ『憎悪の広告:右派系オピニオン誌「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』(合同出版、2015年)第7章や、山口智美、斎藤正美「2000年代「バックラッシュ」とは何だったのか」(『エトセトラ』第4号、pp.80-84、エトセトラブックス)を参照)。
そういった社会的背景を基盤として、社会問題に向き合う前に、「運動家」に対する嫌悪や揶揄・嘲笑が先行してしまうという現象があります。このような現象を、既存の左派を「古臭い」と揶揄し「正しいリベラル」というものを称揚してきた出版界、言論界、そしてアカデミアがさらに後押ししているのです。
構造的な問題としてはもうひとつ、「ホモソーシャル」というものが挙げられます。
これは「ホモセクシュアル」と対置される概念で、男性同士の「性的でない」繋がりのことを指し、特にジェンダー研究においては《女性蔑視(ミソジニー)と同性愛嫌悪(ホモフォビア)をベースにした男同士の強固な結びつき、および男たちによる社会の占有》(清田隆之『よかれと思ってやったのに:男たちの「失敗学」入門』(晶文社、2019年)p.151)とされます。
こういったホモソーシャルな社会においては、女性を人間ではなく自分たちの社会の付随物として扱い、また男性同性愛者や「男らしくない」男性も排除します。
小田嶋隆は、現代の「男らしさ」について、《冷静っぽくふるまうことが令和のマチズモだということは、何度強調しても足りないと思っている》《「正しさって麻薬のようだ」であるとか「正義に酔わないようにしたい」みたいな、「ぼくたち冷静だよねムラ」から聞こえてくる合唱も、一周回ったマッチョのシュプレヒコールなわけだよ》と指摘している通り、「冷静」「“正義”から距離を置ける」という態度は、昨今の評論系の言論において重視されてきました。
フェミニズムや左派を叩くことによって自分たちが「冷静」「中立的」であることを確認するという側面があり、それは「知識人」の世界のホモソーシャルそのものです。
社会における差別、それどころか社会問題そのものに向き合うことを忌避する文化は、右派論壇やインターネット上に存在する差別に対して抵抗になるどころか、むしろそれを助長してきたという側面があります。
我々は、冒頭で採り上げた声明文「女性差別的な文化を脱するために」の問題意識を正面から受け止め、そのコミュニケーションのあり方と構造に目を向けるべきときに来ております。
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