(在ロンドン国際ジャーナリスト・木村正人)
[ロンドン発]英国3人目の女性首相誕生へ――。英与党・保守党党首選の結果が5日午後零時半(日本時間同8時半)に発表され、翌6日、新首相はスコットランド・バルモラル城でエリザベス女王に謁見して組閣の命を授かる。対中最強硬派のリズ・トラス外相(47)が首相に就任すれば、英国は「長期停滞」という長いトンネルに突入するリスクが膨らむ。
言い逃れのウソを積み重ね、自滅したボリス・ジョンソン首相の後継を決める保守党の党首選は男女各4人が立候補し、閣僚辞任でジョンソン氏にとどめを刺したリシ・スナク前財務相(42)と最後までジョンソン氏を擁護し続けたトラス氏が決選投票に進んだ。7月15日に行われた最初の公開討論会では経済政策通のスナク氏が圧勝した印象を筆者は受けた。
嫌われた「裏切り者」
しかし投票権のある保守党員を対象にした世論調査ではトラス氏が一貫してダブルスコアの大差をつけてきた。
英国政治では自分の主人を背後から刺す「バック・スタッバー(裏切り者)」はリーダーになれないと言われる。次の首相を目指すスナク氏は「裏切り者」の道を選び、トラス氏はスナク氏らの造反を利用してジョンソン氏の政治的遺産を受け継いだ。
スナク氏に好感を持たない保守党員は46%なのに対して、トラス氏のそれはわずか24%。スナク氏を好まない理由として22%が「ジョンソン首相を辞任表明に追い込んだから」と答えた。しかし、それは表向きの理由だろう。英国では2016年の国民投票で欧州連合(EU)離脱を選択してから「ブリティッシュ(英国らしさ)」が政治の主要テーマになっている。
夢と消えた「英国のオバマ」誕生
1960年代に英国に移住したインド系アフリカ移民の家庭にスナク氏は生まれた。父は医師、母は薬剤師。本人は名門全寮制校ウィンチェスター・カレッジ、英オックスフォード大学、米スタンフォード大学で学んだ英才だ。
インドの多国籍IT企業インフォシス創業者の娘と結婚。「ディズニーランドの王子様」のようなサクセスストーリーを歩んできた。
スナク氏はコロナ危機の緊急経済対策や脱炭素経済政策で政治手腕を発揮し、次期首相レースの先頭ランナーに躍り出た。
ところが、富裕な妻が税金を英国ではなく国外で納めてきたことが発覚してからケチがついた。彼の法人税率や国民保険料の引き上げ政策は、重税を嫌う保守党支持層に「自分の妻は英国に税金を払っていないのに、私たちには増税か」と嫌われた。
政治の不確実性、人・物・金・サービス分断という供給制約、市場規模の縮小――こうしたEU離脱の後遺症に苦しむ英国のナラティブを変えるには「英国のオバマ」誕生しかないと筆者は期待していた。これから米欧と中国のデカップリングは不可逆的に進んでいく。中国に代わる選択肢としてインドを提示できる政治家は英国にはスナク氏しかいないだろう。
しかし、その夢はかなわなかった。保守党を支持する白人高齢富裕層も、EU離脱の原動力になったグローバリゼーションの負け組白人低所得者も「ディズニーランドの王子様」が「英国のオバマ」になるのを望まなかった。旧植民地インド系移民に統治されるのはうれしくない――それが3人目の女性首相を誕生させた英国の深層心理だと筆者はみる。
「大砲もバターも」で政府債務が膨張する
英国の典型的世帯の光熱費(上限)は4月に年1277ポンド(約20万6000円)から1971ポンド(約31万8000円)に引き上げられ、さらに10月から3549ポンド(約57万3000円)に値上げされる。ある英コンサルタント会社は来年1月に5387ポンド(約87万円)、4月には6616ポンド(約106万8500円)に達すると予測する。
7月の消費者物価指数も前年同月比で10.1%も上昇した。1982年前半以来、約40年ぶりの高水準である。英中央銀行、イングランド銀行は10月には13.3%になると警鐘を鳴らす。米金融大手シティは来年初頭には消費者物価指数は18%を突破、小売物価指数は21%にまで高騰すると予測する。まさに「クライシス」と呼ぶに相応しい状況だ。
すでに英ケント州の外相別邸で側近と組閣を進めるトラス氏は「インフレ退治」よりも「景気対策」を優先させる。1.25%の国民保険料引き上げと、税率を19%から25%に上げる法人税引き上げを撤回し、「初日から減税を開始する」と断言する。光熱費にかかるグリーン課税を一時的に停止し、軍・情報機関の増強策も打ち出す。
独シンクタンク、キール世界経済研究所によると、英国のウクライナ支援は総額65億1000万ユーロ(約9100億円)に達する。「恒久減税」を掲げるトラス氏は歳出削減には言及していない。政府債務残高は国内総生産(GDP)の100%を超え、「大砲(ウクライナ軍事支援と国防強化)もバター(減税)も」で債務が膨らめばインフレは慢性化する恐れがある。
中国をロシアと同列の「重大な脅威」に位置付け
トラス首相の誕生は西側と中露の対立を決定付けるだろう。英紙タイムズ電子版は、トラス氏側近の話として彼女が首相に就任すれば中国はロシアと同列の「重大な脅威」に位置付けられると報じた。2015年秋に中国の習近平国家主席が英国を公式訪問し、「英中黄金時代」がうたわれた時代は完全に幕を閉じる。
スナク氏は中国企業が英国市場を選択するよう促す貿易協定署名の寸前まで進んだが、保守党の中でも対中最強硬派のトラス氏は中国との経済協力より国家安全保障を優先させるとみられている。側近の1人は同紙に「トラス氏は外相就任以来、北京に対する英国の姿勢を厳しくしており、首相になってもタカ派の姿勢をとり続けるだろう」との見方を示している。
中国共産党系機関紙「人民日報」傘下の「環球時報」は「EU離脱後、英国は米国に接近し、中国をより主要な競争相手とみなすようになった。英国がこの道を歩み続けるなら、二国間関係はさらに大きな困難に直面する」という専門家の分析を伝えている。日本でも英国でも米国の国益に反する政治家は必ず失脚していく。スナク氏もその1人なのかもしれない。
トラス氏の強力な後ろ盾の1人、イアン・ダンカン・スミス元保守党党首も中国の制裁リストに加えられた対中最強硬派だ。昨年秋「日本の岸田文雄首相に何を求めますか」という筆者の取材に「残虐行為、ルールに基づく国際秩序からの逸脱、人権弾圧を止めない限り、中国から投資を引き揚げる、もうたくさんだと迫る努力をしてもらいたい」と答えた。
「自由のフロンティア」を築く代償
トラス氏を一言で表現すれば「英国の櫻井よしこ」が一番ピッタリ来る。旧ソ連から「鉄の女」と恐れられた故マーガレット・サッチャー首相を意識するトラス氏は昨年12月、権威主義国家の中国とロシアを念頭に「今こそ自由世界は反撃し、経済とテクノロジーの力を使って恐怖ではなく自由を促進する時だ」と呼びかけた。
トラス氏は中露の冒険主義を抑える方法として西側が安全保障だけでなく、経済、テクノロジーで団結する「自由のフロンティア」を築き、「同じ考えを持つ」世界中の国々が協力する必要性を強調する。保守党下院議員には、首相になった暁には中国新疆ウイグル自治区での少数民族弾圧を「ジェノサイド(民族浄化)」と公式に認めると約束したとされる。
「平和の配当」はなくなり、中露との対決は「平和を維持するコスト」を増大させる。
サッチャー誕生のきっかけとなった1970年代のインフレは25%に達し、4つの政権と4人の首相が交代した。光熱費、食費は300%近く上昇した。金利が17%に達した時、インフレは初めて終焉したが、その代償として大量の失業者が街にあふれた。
トラス氏がインフレ退治を怠って慢性化させれば、英国経済は大ダメージを受ける。トラス氏はかつて核軍縮運動に参加し、オックスフォード大学では弁論団体オックスフォード・ユニオンで自由民主党のリーダーを務めたこともある。リベラルから保守への変節と首相就任を一番嘆いているのは左翼でリーズ大学名誉教授の父ジョン・トラス氏なのかもしれない。
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