(以下引用)
ドレスデン爆撃
経緯[編集]
立案[編集]
1945年初頭から、連合国の軍事・政治関係者は、ドイツへのソ連軍の進軍をいかにして空から援助するかを協議していた。初期の計画ではベルリンを始め、ソ連軍の前に立ちはだかるいくつかのドイツ東部の都市を爆撃するというものであった。こうした爆撃には以前にも計画があり、1944年にもベルリンほか東部の諸都市を数千機による空襲で壊滅させる計画「サンダークラップ作戦」が立てられたものの、ドイツ都市の完全な壊滅を求めるイギリス側に対するアメリカ側からの難色で破棄されていた。
1月26日、英空軍大臣チャールズ・ポータル (en:Charles Portal, 1st Viscount Portal of Hungerford) は、「都市への大規模空爆はドイツ東部からの難民避難を混乱させるだけでなく、西から進むドイツ軍の勢いも殺げるだろう」と書き残している。しかし石油精製工場、航空機製造工場などの破壊が第一であり、爆撃機をこれ以外の目的のために消耗に曝すべきではないとも考えた。英空軍省次官のノーマン・ボトムリー (en:Norman Bottomley) はこれを受け、絨毯爆撃の熱烈な支持者であった英空軍爆撃機軍団司令アーサー・ハリス(別名「ボマー」・ハリス)に対しベルリン、ドレスデン、ライプツィヒ、ケムニッツに気象条件が整い次第爆撃を行ない、これらの都市を混乱に陥れるよう命じた。首相ウィンストン・チャーチルは同じ1月26日、もはやドイツ東部の都市は適切な標的ではないと考えるがどうか、と空軍側に尋ねたが、翌日、空軍はドイツの石油基地攻撃のほか都市爆撃も行い東部戦線を混乱させるつもりであると述べた。
一方、イギリス情報局秘密情報部は、ドイツ軍が東部戦線補強のために3月までに42個もの師団を動かすという結論に至り、早急に石油などの補給基地を爆撃し、ソ連軍を助けて戦争終結を早めるべきとした。ソ連はヨシフ・スターリンを筆頭に英米代表と、ドイツへの進撃に対して英米は何を援助してくれるか何度も協議を繰り返していたが、イギリスの空軍代表たちは本国から来た情報当局のリポートを読み、ソ連の進撃を助けるためベルリン、ライプツィヒ、ドレスデンに対する都市空襲を行うことにした。
2月4日のヤルタ会談で、ソ連のアレクセイ・アントーノフ陸軍大将は英米の戦略爆撃に対し2つ提案を行った。一つはソ連軍に対する誤爆を避けるためドイツを南北に縦断する線を引き、これより東への爆撃にはソ連の許可を取ること。もう一つは東部戦線へのイタリアやノルウェーからの増援を妨害するため、ベルリンとライプツィヒにある交通の結節点を麻痺させて欲しいということだった。これに対し大筋で英米は合意したが、イギリス代表であるポータルはドイツ国内の工場や都市の情報を見せ、ドイツ東部に位置するドレスデンの空襲なしでは、ベルリンやライプツィヒの施設が破壊されてもドイツ軍はドレスデンを通って東部戦線に増援できてしまう、と指摘し、アントーノフもドレスデンを攻撃対象に入れることに了解した。
実行[編集]
ドレスデンは、それまでにも二度空襲を受けている。1944年10月7日と1945年1月16日で、市の中心に隣接した鉄道施設を狙って多くの爆弾が落とされていたが、ハンブルク空襲などのような市内への無差別爆撃はなかった。
2月13日の空襲はイギリス軍とアメリカ軍とでともに行う予定だったが、ヨーロッパ上空の気象状況のためアメリカ軍機は離陸できなかった。2月13日の夕方から、合計796機のランカスター爆撃機と9機のデハビランド・モスキートが、計1,478tの爆弾(榴弾 high-explosive)と1,182tの焼夷弾を搭載し、二波に分かれて14日未明までに出撃した。13日22時14分頃(現地時間)、イギリス空軍のランカスター爆撃機244機がドレスデン上空に到着し、低空から目標を目掛けて大量の焼夷弾を投下。2分以内に1機を除くすべての爆撃機から全弾が市街に投下された。残る1機は22時22分に全弾を投下し終えた。おびただしい爆煙が上空に立ち上がった中で爆撃機隊はさらに800tの爆弾を投下したが、これは目標が見えない中成功したとはいえなかった。
3時間後、第二波攻撃が行われた。2月14日1時21分から1時45分の間にランカスター529機が8群に分かれ、高空からパスファインダー(先導機)に従って1,800tもの大量の爆弾を投下。この2回の攻撃でイギリス軍は6機のランカスターを失い、さらに2機が帰投中に墜落した。
第三波攻撃は同日昼過ぎの12時17分から12時30分に行われた。アメリカ陸軍航空軍のB-17が771tの爆弾を駅周辺に目掛けて投下。さらに護衛についてきたP-51が路上を狙って機銃掃射をし、混乱に拍車をかけた。この時、ドレスデン市街は火災旋風に次々飲み込まれ、多くの市民が逃げ惑っていたところへ機銃掃射が行われた。なお、この機銃掃射については、目撃したと主張する生存者とあり得ないとするドイツ人研究者達のあいだで論争となっている[2]。
アメリカ軍は翌2月15日にも466tの爆弾を投下した。一連の爆撃でイギリス空軍の投下した爆弾、焼夷弾は合計すると2,978t、アメリカ陸軍航空軍のそれは783tに及んだ。数波に渡る爆撃を行ったのは、爆撃の後で市民が片付けのために地上に出てきたところを狙ってのものであった。
ドレスデン爆撃は基本的な爆撃手法に基づくもので、大量の榴弾で屋根を吹き飛ばして建物内部の木材をむき出しにし、その後に焼夷弾を落として建物を発火させ、さらに榴弾を落として消火および救助活動を妨げようという意図からなっていた。こうした基本的な爆撃手法はドレスデンでは特に効果的だった。爆撃の結果、最高で1,500℃もの高温に達する火災旋風が収まることなく燃え続けた。市街広域で発火するとその周囲の空気は非常に高温となり急速に上昇する。そこへ冷たい大気が外部から地表に押し寄せ、地表の人々は火にまかれる結果となった。
13日夜から15日にかけての爆撃の後、アメリカ軍によってあと2回の爆撃が行われた。3月2日には406機のB-17が940tの榴弾と141tの焼夷弾を投下し、4月17日には580機のB-17が1,554tの榴弾と165tの焼夷弾を投下した。
空襲の影響[編集]
この空襲には「東からドイツに攻め寄せるソ連軍の進撃を空から手助けする」という一応の名目はあったが、実際は戦争の帰趨はほぼ決着しており戦略的に意味のない空襲であり、ドイツ空軍の空襲を受けていたイギリス国内でも批判の声が起こった。
『Oxford Companion to the Second World War』によれば、爆撃の2日後に開かれた連合軍のオフレコの記者会見に拠れば、イギリス空軍代将コリン・マッケイ・グリアソン (Colin McKay Grierson) は記者達に対し、かつて立てられた「サンダークラップ作戦」の目的は住宅密集地を爆撃して救援物資を行き渡らせなくしようとするものだったという。AP通信の戦争特派員ハワード・コーエンはこれを基にした記事で、連合国軍は「テロ爆撃 (terror bombing)」に頼っていると述べた。この記事に続いて多くの社説が書かれ戦略爆撃に対する論争が起こり、英国議会下院でリチャード・ストークス議員による質問がなされた。
ドレスデンの破壊はイギリスの知識層に不快感を呼び起こした。マックス・ヘイスティングズによれば、1945年2月までにドイツ諸都市への空襲は戦争の結果とはほとんど無関係に見られ始め、「ドレスデン」という言葉が全ヨーロッパの知識人に「とても多くの魅力と美の故郷、トロロープ (en) の作品のヒロインたちの逃げ場所、グランドツアーのランドマーク」という響きを与えていた。彼は、ドレスデン爆撃は連合国の国民が初めてナチスを倒すための軍事作戦に疑問を持った瞬間だったと論じている。
アメリカではドレスデン爆撃の非人道性が問題になった際、アメリカ陸軍軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は「ソフトになってはいけない。戦争は破壊的でなければならず、ある程度まで非人道的で残酷でなければならない」と語った[3]。
第二次大戦後、ドレスデンは爆撃前の資料等を参考にして、ゼンパー・オーパーや聖母教会などのバロック様式の街並みを再現して復興させた。空襲によって破壊された後に残った瓦礫を可能な限り使っており、新しい石材と黒く煤けた瓦礫との組み合わせによって建てられたこれらの建造物は、見る者に戦争の悲惨さを強く印象付けている。
アメリカの小説家カート・ヴォネガット・ジュニアは、捕虜として連行されていたドレスデンでこの爆撃を経験。後に、代表作となる『スローターハウス5』において、SF的ガジェットを用いながらこの体験を描いた。
また、現在ドイツに存在する極右(ネオナチ)政党であるドイツ国家民主党は、ドレスデン爆撃も含め、連合国軍による各都市への空襲について「爆弾によるホロコーストだ」、「第二次世界大戦中に連合軍の空爆を受けたドイツ各都市の犠牲者こそ悼むべきだ」と主張している。
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