私が論客というか、政治経済思想家として高く評価する中島岳士(字はこうだったか)氏の発言である。
この中で中島氏は山本太郎の都知事選出馬に肯定的だが、小池を倒せなかった場合、山本太郎は「野党分断をした」ということで、これまでの支持者の支持を大きく失う可能性が高いと私は思っており、それはあまりに危険な賭けだろうと今のところは思っている。まあ、東京都という「一地方」などより国家全体、つまり国政のほうが大事であり、あまりあせらないほうが良いのではないか。
ポピュリストというのは「大衆迎合主義」と解釈されているが、大衆(自分を選んだ人々)の意を体して行動するのが真の「民主主義政治家」であり、選挙で選ばれたら公約を無視して行動する、というのは民主主義の対極である「ご都合主義」であって、自分の利益のために選挙民を利用したにすぎない。山本太郎は、「民意」がどこにあるかを常に考えて行動する、真の「ポピュリスト」政治家であってほしいと思う。
(以下引用)
「対立」を作り出す山本太郎の可能性とは
そういう意味では、山本太郎氏は、新自由主義の恩恵を受けている政治家や経済界と「対立」し、苦しんでいる人の声に耳を傾けていますよね。
安倍政権の新型コロナに対する経済政策が行き届かない中小企業や生活者の共感を呼ぶかもしれませんし、エリート色の強い旧民主党の人たちと違って、「祭りの神輿を一緒に担いでいる」タイプの人です。
自民党が大事にしている「3割の支持層」や、政治に興味がなかった「5割の有権者」の心を動かすかもしれません。あえて無責任な事を言えば、東京都知事選に山本氏が立候補すれば、政治は動く可能性があります。
もし山本氏が東京都知事選に出るとしたら
小池百合子都知事も安倍首相も、基本的には「リスクの個人化」と「パターナリズム」(権威的な価値の介入主義)を指向する日本型ネオコンです。
吉村洋文・大阪府知事の維新も同様です。この路線に対して、もう一つの世界観と選択肢を提示し、世論を喚起できる存在は、いまは山本太郎氏が筆頭でしょう。
あくまで想像ですが、もし都知事選挙に出れば、対立軸が明確になります。コロナ後の世界のあり方をめぐる大きな争点が明示され、政治意識を喚起するでしょう。注目したいと思います。
安倍首相は「主体的に」動く政治家なのだろうか
安倍首相は、アベノマスクにしても、その他のコロナ対策についても、「何も考えていないのではないか」と思えてしまいます。
自身が積極的に動いたのはおそらく東京オリンピック・パラリンピックの1年延期ぐらいで、あとは官僚が書いたシナリオに従っているようです。
そもそも先ほど申し上げたように、長い間、政治を「盛り上げない」ことに専念してきた政権でもあり、安倍首相自身は、何か「主体的に」動くような政治家ではないと思います。
あえていえば今回のコロナのような「リスク」ではなく、イデオロギーなどの「価値」に関心があるタイプの政治家です。
ただその価値も単に「リベラルが嫌い」という部分に寄るところが多く、本当の意味で信念を持った保守政治家であるとも思えません。
死者の声に耳を傾けない政治家
さらに安倍首相の特徴をあげるとすれば「死者の声」に耳を傾けないということです。死者とは、今を生きている私たちではなく、すでにこの世を去った先人たちのことです。
そうした先人たちは、様々な失敗体験に基づいて、たとえば「三権分立は大事ですよ」とか「ルールにそって物事を決めましょう」ということを大切にしてきました。こうした知恵が憲法や法律に書き込まれています。
今を生きている人だけで物事を決めてしまうと、大変な悲劇を受けます。1930年代にイタリアでファシスト党が政権を取り、ドイツでナチスが政権に就いたのも、その時代を生きていた人の気持ちが高揚し、死者が築いてきたルールを破壊していったからでした。
ナチス政権は勝手に誕生したのではなく、当時の「民意」の支持を受けました。
多数派の支持があってもやってはいけないこと
安倍内閣は「自分たちは選挙で選ばれた」「民意の支持がある」という姿勢で政治をします。
しかしながら、たとえ「多数派が支持していること」でも「やってはいけないこと」があると考えるのが立憲主義であり、政治的リーダーの本質的な務めではないでしょうか。
検察官の定年延長に対する政権の動きを見ていても、あるいは、学校の一斉休校の要請を見ていても、安倍首相はルールに沿って物事を決断していません。
死者の声に耳を傾けず、「自分たちの都合」だけで政治をしているからです。
安倍首相は「戦後民主主義のあだ花」
ただ、これは安倍首相だけの問題というより、戦後の日本の姿そのものでもあります。
戦後社会では、たとえば日米安保や衆議院の解散をめぐる議論について、最高裁は「高度に政治的な問題だ」として判断を避ける「統治行為論」をとってきました。
最高裁が過去の叡智を参照してブレーキ役とならず、「時の政治」によって国家にとって大切な判断がおこなわれきてました。
生きている人間の民主的判断を至上の価値とするのが戦後の特徴なのだとしたら、安倍首相は戦後民主主義のあだ花とも言えるかもしれません。
死者が積み上げてきた慣習を守らない。立憲主義を重んじない。こうしたリーダーに国の舵取りを託して良いのかどうか。真剣に考えるべきときが来ているように思えます。
そうしたことに民衆も気づいているのか、検察庁法案の改正に関する議論は、ツイッターがきっかけにもなり、政治が動きました。
これから新型コロナの対策を振り返ったり、あるいは感染の第2波が来たりしたときに、改めて安倍政権の是非が問われます。
ただ、ツイッターデモは、効果がありましたが、問題は持続性です。家族でけんかをしても次の日にケロっと忘れてしまうことがあるように、「怒り」は持続しません。検察庁法案も、いずれ別の国会で法案を通そうという動きも出てくるはずです。
政治がやってはいけないことをやったとき、死者の声を無視していると思ったときは、怒りだけではなく、「おかしいではないか」と言いづけること、「憤る」ことが大切なのです。
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