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徽宗皇帝のブログ

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岸田総裁によって野党は「新自由主義との戦い」という攻め手を失った。
小田嶋隆のブログ記事後半である。前半はただの話の枕。後半は貴重な指摘が多い。
引用文の最後の一文「希望的な結果」の意味が分からないが、文脈からすると「希望的観測」という言葉が(手垢のついた言葉だが)適切に思える。「希望的な」という言葉自体が「結果」という言葉と語義矛盾なのである。「天気のいい雨の日」みたいなものだ。「希望通りの結果」なら語義矛盾はないが、文脈には合わない。「希望通りの結果になるかどうかは分からない」が一番適切な結びだろう。

赤字にした部分は、非常に重要だがほとんどの人が(もちろん私も明晰には)意識していなかったことを指摘していると思う。つまり、今の組閣は「選挙対策」(あるいは総裁選の後始末)の意味しかないということだ。もちろんその結果自民が大敗北すれば、自民党の顔としての岸田の責任になるが、岸田の「仕事」は選挙に勝つこと(これはほぼ確実。単に議席数が多少増減するだけだ。)ではなく、その後に総理となって何をやるかだろう。
また、「新自由主義との闘い」は本来野党が掲げるべき目標だったというのもその通りだが、実は立憲民主党の現指導体制のほとんどは新自由主義者だと私は思っている。おそらく野党は甘利の起用などを攻撃すると思うが、庶民が問題視するのは「自分の懐にカネが入るかどうか(レジ袋1枚のカネだって出すのは嫌www)」であり、権力者の一部が汚職をしたとかどうだとかはどうでもいい話である。誰でも、自分がその立場なら賄賂をもらいかねないことはよく知っているwww

(以下引用)


選挙戦の中で、各候補が、自身の政見や前政権への思いについて答える場面があったのだが、各候補が掲げた政策だったり見識だったり基本理念だったりのあれこれを比較検討してみて、最も共感できたのは、実は、野田さんの言葉だった。
 意外なことだ。
 とはいえ、だからといって、私が野田さんを支持したのかというと、それはまた別の話になる。
 なぜなら、言葉の上では、どんな政策だって並べてみせることができるし、抱いている理想が美しければ美しい政治が実現するわけでもないからだ。


 肝心なのは、その政見なり政策なり理念なり理想なりを実行するに足る、党内基盤や仲間や予算調達プランやらを確保しているかどうかだ。
 ということになると、現時点の野田さんは、野田さんが抱いている理想を実現するだけの力を蓄えきっていないように見える。であれば、支持することはできない。
 というわけで、4人の立候補者のうち、野田さんについてだけは、私の予断と分析と予測がほぼ的中する結果になった。残念なことだが。


 さて、ガチな予測とは別に、当てずっぽうの願望として私は、9月19日の午後、以下のようなツイートを発信した。


《河野総裁で総選挙を闘って、単独過半数割れの惨敗で落着するのが、最も望ましい結末なんではなかろうか。個人的には、むしろ高市総裁で総選挙に臨んで、過半数割れどころか、自民党そのものが泡沫の極右カルト政党に成り下がる近未来を夢見ているのだが、それはいくらなんでも虫が良すぎるかな。
午後6:31 - 2021年9月19日


 たいして笑えるわけでもない失敗したジョークとして受け流してもらってさしつかえない書き込みなのだが、ここで展開されているお話には、一定のもっともらしさがある。
 というのも、今回の総裁選は、タイミングと状況からいって
「誰に日本のかじ取りを任せるのか」
 という、おおげさな話題ではなくて
「誰を看板に総選挙をたたかうのか」
 を選択する、看板選びの意味合いが大きいからだ。


 現職の内閣総理大臣である菅義偉氏が、総裁選への不出馬を表明したタイミングの唐突さと、うしろに控える総裁選までの期間の短さを考えあわせれば、今回の総裁が首相になる人間を実質的に指名する手続きではなくて、総選挙の顔として掲げるポスターの絵柄を選ぶ作業に過ぎなかったことは、明白だ。
 仮の話ではあるが、総選挙の結果、自民党の議席数が単独過半数を割り込む結果になれば、「総裁=総理」という方程式そのものがオシャカになる。総裁の顔次第では、そういうことだって起こらないとは言えない。
 ということはつまり、このたび新総裁に就任した岸田さんが、そのまま内閣総理大臣として、新政権を率いていくことになるのかどうかは、いまだにはっきりしていないということでもある。


 政見も政策も人事も理想も、すべては総選挙で一定数の票と議席を得たその後の話になる。
 形式上は、10月4日召集の臨時国会を経て、岸田政権が発足する。そういう見通しになっている。しかしながら、その組閣間もない岸田新政権は、ひと月も経ないうちに存続の是非を問われる。というのも半月後の10月21日には、衆議院が任期満了を迎えるからだ。
 要するに、新政権は総選挙のための参謀本部以上の仕事は、原理的にも実務的にもできないということだ。
 これは、選挙で負ければ、あらゆる前提が水泡に帰するということでもある。
 つまり、岸田さんについては、やれ人柄がどうだ政策がどうだというポイントを問う以前に、
「岸田で勝てるのか?」
 という選挙の顔としての資質を洗わないといけないわけだ。


 ところがこの点で、ひとつ懸念がある。
 自民党の側から見れば「懸念」だが、野党側から見れば「希望」ないしは「付け入るスキ」てなことになる。
 ポイントは、岸田さんが前政権ならびに前々政権の不祥事を積極的に追及するつもりを持っていないことだ。
 総裁選への出馬を表明した直後の9月7日、森友学園問題を巡る財務省の決裁文書改ざんについて「再調査は考えていない」と発言している。その5日前の9月2日には、同問題について「さらなる説明を」と述べていただけに、安倍晋三前首相に配慮した変節とも取られている。


 このほか、憲法改正についても安倍内閣の時代に作られた4項目の改憲案(9条への自衛隊明記、緊急事態条項の創設、参院選の合区解消、教育の充実)を変わらずに推し進める姿勢を示している。
 選挙期間中に漏らした妥協的な言辞なのかもしれないが、これらの経緯を眺めるに、岸田さんのもとで自民党の体質改善が為されるのかどうかには、疑問を抱かざるを得ない。
 結局のところ、岸田さんは、自民党をそんなに変えないかもしれない。
 だとすると、自民党はそんなに負けないのかもしれない。
 この岸田さんの立ち位置を「希望」と見て良いのか、「懸念」を感じるべきなのかは、むずかしいところだ。


 もうひとつ、岸田さんに関して面白いのは、一部の自民党支持者から見て「不安」に思えるポイントが、実は野党支持者から見ても「不安」になっているという、なんとも微妙なところだ。
 わかりにくいかもしれない。なんとか説明をしてみる。
 岸田さんは
「新自由主義を見直す」
 と言っている。


 これは、抽象的なようでいて、わりとデカい方針変更だ。
 というのも、いわゆる「新自由主義」は、小泉(純一郎)改革以来の自民党の根本原理だからだ。
 傍証として挙げることができるのは、小泉構造改革の中枢にいた竹中平蔵氏が、安倍・菅政権でも一貫してその影響力を失っていないことだ。この一点を見ても、「新自由主義」の根強さがわかる。
 岸田さんは、21世紀の自民党(の、少なくとも右派ないしは保守派の共同歩調)を支えた基本思想であり、日本維新の会や松下政経塾あたりとの接着剤にもなっていたその新自由主義を「見直す」と言っている。
 額面通りに聞けば、これは大改革ということになる。


 本当にそんなことが可能なのだろうか。
 岸田さんに改革をやり抜く信念があるのかどうかは別として、この政策変更は、案外、野党にとって失点になるかもしれない。というのも、岸田さんに新自由主義の見直しを先取りされたら、立憲民主党あたりは、仕事がなくなるというのか、選挙に向けて自民党を攻撃する材料を失ってしまうからだ。


 先のことはわからない。


(1)岸田さんが前政権の不祥事追及と自民党の体質改善を完全にあきらめてしまっているのかどうかは、実は、はっきりしない。
(2)岸田さんが自民党のリーダーとして、与党の議席数が3分の2から遠ざかろうとしている状況であっても、愚直に憲法改正を目指して邁進する所存でいるのかも、現時点ではまるで読めない。
(3)さらに言えば、「新自由主義の見直し」なる文言が、岸田ジャパンの大方針であるのか、それとも総選挙向けのスローガンに過ぎないのかについても、実のところ皆目見当がつかない。


 すべては、衆院選の結果を受けた票数と議席数が決めるのだろう。
 とすると、日本の未来はわれら有権者の胸三寸ということになる。


 希望的な結果だな、これは。


(文・イラスト/小田嶋 隆)

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