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徽宗皇帝のブログ

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泥船化したウクライナ
「耕助のブログ」のbという匿名筆者の記事の一部だが、全体にかなり散漫な内容なので、記事タイトルと、私が注目した部分だけ転載する。

(以下引用)

No. 1968 戦争に負けた – ゼレンスキーは去るだろう – ホワイトハウスは失敗した


The War Is Lost – Zelenski Will Leave – The White House Has Failed


1年でここまで変わるとは…


By b


ナポレオン、ヒトラー、そしてロシアと戦争をしようとした他の何人かの人々はロシアの資源の深さを過小評価しないことを学ばなければならなかった。今NATO、アメリカ、そしてヨーロッパの代理人たちはその教訓を学んでいる。


ゼレンスキーはまだ学んでいない。彼は譲歩しないだろう{5}:


  寒くなれば少なくとも春までは前線が封鎖され、軍事的前進も難しくなるだろう。しかし、ゼレンスキーはそれを受け入れない。「私にとって戦争を凍結させることは、戦争に負けることを意味する」と彼は言う。冬が来る前に彼の側近たちは私に、軍事戦略の大幅な変更と大統領チームの大改革を期待するよう警告した。前線でのウクライナの遅々たる進展に対する説明責任を果たすため、反攻担当の上級将官とともに、少なくとも1人の大臣をクビにする必要があるだろう、と彼らは言った。「我々は前進していない」とゼレンスキーの側近の一人は言う。前線の指揮官のなかには大統領府からの直接の命令であっても前進を拒否する者も出てきたという。「彼らはただ塹壕に座って戦線を維持したいだけなのだ」と彼は言う。「しかし、それでは戦争に勝てない」


    ある軍幹部にこのような主張をぶつけたところ、彼は、指揮官の中には上からの命令に二の足を踏むしかない者もいると言った。彼によれば10月初旬のある時点で、キエフの政治指導部はロシア軍が10年近く守り続けてきたウクライナ東部の戦略的前哨基地であるホルリフカ市を「奪還」する作戦を要求した。その答えは質問の形で返ってきた。何を使って?「彼らは兵員も武器もない」と将校は言う。「武器はどこにある?大砲はどこにある?新兵はどこにいる?」


    軍部によっては人員不足が武器弾薬の不足以上に深刻になっている。ゼレンスキーの側近の一人は米国とその同盟国が公約した武器をすべて手に入れたとしても、「それを使う兵士がいない」と私に言う。


侵攻開始以来、ウクライナは公式な死傷者数の公表を拒否している。しかし米国やヨーロッパの推計によれば戦死者は双方で10万人をすでに超えている。ウクライナの軍隊の兵力は著しく低下し、徴兵所はますます高齢の兵士を招集せざるを得なくなり、ウクライナの兵士の平均年齢は約43歳まで上昇した。ゼレンスキーの側近は言う。「彼らは今や成人男性で、もともとそれほど健康なわけではない。ここはウクライナだ。スカンジナビアではない」


ウクライナの昔からの問題、とりわけ汚職は根強い:


    汚職撲滅のプレッシャーがかかる中、ウクライナの役人たちは賄賂を受け取ったり国家資金を着服したりする前に、よく考えるだろうと私は単純に考えていた。しかし、10月上旬に大統領府の最高顧問にこの点を指摘したところ、彼はもっと自由に話すためにオーディオレコーダーを切るよう私に求めた。「サイモン、君は間違っている。人々は明日がないかのように盗みを働いている」


船が沈みかけていることを知っていれば、私はおそらくこうするだろう。手に入るものは何でも自分専用の救命いかだの上に運び、母船とのラインを切断する準備をするのだ。


タイム誌の記事がそのサインだ。ゼレンスキー政権の終焉を告げている。国務省だけでなく、国家安全保障会議も代替案を、そしてそれを設置するための面目を保つ方法を熱心に探しているに違いない。

(追記)「櫻井ジャーナル」記事で、ウクライナ戦争の最初からの全貌なので長いが、参考までに載せておく。


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 ウクライナでは来年、大統領選挙が実施される予定だが、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領はそれに反対している。2022年2月にロシア軍がウクライナに対する攻撃を始めて以来戒厳令下にあり、戦時中の選挙を禁止されているからだが、選挙を実施すれば負けると考えているのだろう。



 大統領の座から降りれば、在任中のさまざまな不正が追及される可能性がある。ロシア語を話す人々への弾圧を継続、厳しい言論統制を実施して政治的な反対勢力を非合法化、正教会を弾圧、その一方でアメリカ支配層のマネーロンダリングや生物兵器の研究開発を容認、西側から得た武器の横流しなどはすでに指摘されている。



 最も大きな問題は、アメリカやイギリスの命令に従ってロシアとの無謀な戦争を続け、ウクライナの若者を死なせてきたことだろう。この戦争が始められたのは2013年11月。アメリカのバラク・オバマ政権がキエフのユーロマイダン(ユーロ広場、元の独立広場)で「カーニバル」的な反政府イベントを開始したのだ。



 年明け後、そのイベントは様相を一変、ステパン・バンデラを信奉するネオ・ナチが前面に出てきた。2月に入ると、そのメンバーはチェーン、ナイフ、棍棒を手に石や火炎瓶を投げ、トラクターやトラックを持ち出してくる。ピストルやライフルを撃っている様子を撮影した映像がインターネット上に流れた。



 ユーロマイダンでは2月中旬から無差別の狙撃が始まり、抗議活動の参加者も警官隊も狙われる。西側ではこの狙撃はビクトル・ヤヌコビッチ政権が実行したと宣伝されたが、2月25日にキエフ入りして事態を調べたエストニアのウルマス・パエト外相は逆のことを報告している。​バイデン政権を後ろ盾とするネオ・ナチが周辺国の兵士の協力を得て実行した​というのだ。



 ヤヌコビッチ政権は2月22日に倒され、大統領は国外へ脱出したが、有権者の7割以上がヤヌコビッチを支持していたウクライナの東部や南部では反クーデターの機運が高まり、クーデターから間もない3月16日にはクリミアでロシアへの加盟の是非を問う住民投票が実施された。投票率は80%を超え、95%以上が賛成する。



 ドネツクとルガンスクでも5月11日に住民投票が実施された。ドネツクは自治を、またルガンスクは独立の是非が問われたのだが、ドネツクでは89%が自治に賛成(投票率75%)、ルガンスクでは96%が独立に賛成(投票率75%)している。この結果を受けて両地域の住民はロシア政府の支援を求めたが、ロシアのウラジミル・プーチン政権は動かない。



 それに対し、オバマ政権は動いた。ジョン・ブレナンCIA長官が4月12日にキエフを極秘訪問、22日には副大統領を務めていたジョー・バイデンもキエフを訪れた。バイデンの訪問に会わせるようにしてキエフのクーデター政権は黒海に面した港湾都市オデッサでの工作を話し合っている。そして5月2日、オデッサでクーデターに反対していた住民が虐殺された。



 虐殺は5月2日午前8時に「サッカー・ファン」を乗せた列車が到着したところから始まる。赤いテープを腕に巻いた一団がその「ファン」を広場へ誘導するのだが、そこではネオ・ナチのクーデターに対する抗議活動が行われていた。



 広場にいた反クーデター派の住民は労働組合会館の中へ誘導されている。危険なので避難するようにと言われたようだが、実際は殺戮の現場を隠すことが目的だったと推測する人もいる。



 その後、外から建物の中へ火炎瓶が投げ込まれて火事になる様子は撮影され、インターネット上に流れた。建物へ向かって銃撃する人物も撮られているが、その中にはパルビーから防弾チョッキを受け取った人物も含まれている。



 建物の中は火の海になる。焼き殺された人は少なくないが、地下室で殴り殺されたり射殺された人もいた。その際、屋上へ出るためのドアはロックされていたとする情報もある。会館の中で48名が殺され、約200名が負傷したと伝えられたが、現地の人の話では多くの人びとが地下室で惨殺され、犠牲者の数は120名から130名に達するという。虐殺の詳しい調査をキエフのクーデター政権が拒否しているので、事件の詳細は今でも明確でない。その後、オデッサはネオ・ナチに占領された。



 オデッサの虐殺から1週間後の5月9日、クーデター政権は戦車部隊をドンバスへ突入させた。この日はソ連がドイツに勝ったことを祝う記念日で、ドンバスの住民も街に出て祝っていた。その際、住民が素手で戦車に立ち向かう様子が撮影されている。そしてドンバスで内戦が始まるのだ。



 しかし、クーデター後、軍や治安機関から約7割の兵士や隊員が離脱し、その一部はドンバスの反クーデター軍に合流したと言われている。そのため、当初は反クーデター軍が戦力的に上回っていた。



 そこでクーデター体制は内務省にネオ・ナチを中心とする親衛隊を組織、傭兵を集め、年少者に対する軍事訓練を始めた。並行して要塞線も作り始めている。その時間稼ぎに使われたのがミンスク合意だ。



 合意が成立した当時から西側では「時間稼ぎに過ぎない」と指摘する人がいたが、この合意で仲介役を務めたドイツの​アンゲラ・メルケル​(当時の首相)は昨年12月7日、ツァイトのインタビューでミンスク合意は軍事力を強化するための時間稼ぎだったと認めている。その直後に​フランソワ・オランド​(当時の仏大統領)はメルケルの発言を事実だと語っている。



 ミンスク合意で8年稼いで戦力を強化、昨年初頭からドンバスへの大規模な攻撃が噂されるようになる。ドンバス周辺にキエフ政権が部隊を集結させ、砲撃が激しくなったからだ。



 そうした中、昨年2月24日にロシア軍がドンバス周辺に集結していたウクライナ軍をミサイルで壊滅させ、キエフ側の軍地基地や生物兵器の研究開発施設などをミサイルで攻撃し始める。これでロシア軍とウクライナ軍の戦いはロシア軍の勝利が決まった。その後、戦闘が続いたのはアメリカやイギリスが戦闘の継続を命令、武器や弾薬を供給したからである。



 ​ロシア軍の攻撃が始められてから今年の秋までに約50万人のウクライナ兵が戦死​したと言われ、​ベン・ウォレス前英国防相は10月1日、テレグラフ紙に寄稿した記事の中でウクライナ兵の平均年齢は40歳を超えていると指摘、もっと多くの若者を前線へ送り出せと要求​している。「学徒動員」や「少年兵」を前線へ送り出せというわけだ。ロシア軍の戦死者は5万人から10万人と言われている。



 こうした状況であるにもかかわらず、西側の有力メディアは「ウクライナが勝っている」と宣伝していたが、今年の秋にはウクライナ軍は勝てないと書くようになる。ホワイトハウスでも、ジョー・バイデン大統領、ビクトリア・ヌランド国務次官、ジェイク・サリバン国家安全保障補佐官などのグループは孤立しつつあるようだ。



 ウクライナではゼレンスキー大統領の側近が離反し始めていたが、最近ではウクライナ軍のバレリー・ザルジニー最高司令官は西側の有力メディアに対し、戦況が膠着状態にあると語った。(​ココ​や​ココ​)



 そのザルジニー最高司令官の副官を務めていたゲンナジー・チェスチャコフ少佐が自宅で死亡した。「贈り物の箱」に入っていた手榴弾のピンを自分で引き抜いたと言われている。




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