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徽宗皇帝のブログ

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異端者嫌悪から魔女狩りへの道は近い
小田嶋師のブログの一節で、記事全体の中には同調をためらう部分もあるが、この部分は例によって鋭い指摘だと思う。もっとも、私が文章全体の趣旨を勘違いしている可能性もあるが、単なる問題提起としても、まあ、読むに値する文章であることは確かだ。
煙草の煙の問題を好悪の話とするなら、街中の騒音のほうが大問題で、ちなみに、私はほとんどのロック音楽が大嫌いで、公共の場のBGMとしてロックが流されていたりするとその場から逃げ出したくなるのだが、ロックの中には好きな曲もあるので、まあ、ジャンルの問題と言っていいのかどうか分からない。基本的にうるさい音楽は嫌いである。つまり、現代では異端者であり、やがて魔女狩りの対象になるかもしれない。


(以下引用)色字部分は徽宗による強調。


 タバコの煙のようなあれほどはっきりした匂いですら、ほんの30年前までは「クサい」とは思われていなかった。あまたある「街の匂い」のひとつとして等閑視されていた。
 それが、「クサ」くなったのは、タバコという商品の匂いそのものが激烈化したからではない。
 街が相対的に無臭化したからでもあれば、人々の振る舞い方や体臭が平準化したからでもあり、社会全般が同調の度を高めたからでもある。


 外国人への忌避感は、タバコへの嫌悪と同じく、「被害」として自覚されやすい。
 じっさい、ゼノフォビアは、自分たちと同じようでない人間たちが、自分たちの社会の中で一定の地歩を占めていること自体を、自分たちの共同体への「攻撃」であると見なす人々によって正当化され、組織化される。
 私は、コロナ禍をきっかけに、世界中で人種間の対立や民族間の緊張が高まっていることと、うちの国のような比較的均質性の高い社会で、外国人いびりが表面化しやすくなっていることを、無縁だとは思っていない。同じひとつの出来事の別の側面なのだと思って眺めている。誰によるどのセリフだというふうに特定することは避けるが、この半年ほどの間に、外国人へのいやがらせのコメントやツイートが目立つ傾向にあることはまぎれもない事実だ。
 喫煙者への攻撃と直接に関係のある話ではないが、抑圧を感じている人々が不寛容の度を高める展開は、実にわが国らしい話だと思っている。


 21世紀の社会は、多様化している一方で画一化している部分はおそろしく窮屈になっている。
 私の抱いている感じでは、「多様化」が促進されているのは、商品として提供可能な属性に限られていて、人間の振る舞い方や性質についての決まりごとは誰もが同じように振る舞わないと異端者として排除されるタイプの同調が、どこまでも極端になってきている


 たとえば、うっかりマスクを忘れてエレベーターに乗り込んでしまった時の人々の視線の険しさを3月の段階と9月の時点で比べてみると、体感として3倍くらいにはなっている。われわれは非マスク者を「加害者」と見なして睨み殺す視線を獲得し終えている。
 社会の要求水準がより上品になるということは、われわれがそれだけ神経質になるということでもある。


 ささいな匂いや騒音や煙に敏感になることは、それだけ社会を清潔に保つために寄与する態度ではあるものの、その一方で、ある集団のメンバーが、ある臨界点を超えて高い同質性を求めると、そこには相互監視の地獄が現出することになるのもまた事実だ。


 思うに、うちの国の新型コロナウイルス対策が現時点でなんとか持ちこたえているのは、政治主導の施策が功を奏しているからではない。最悪の感染爆発を回避し得ているのは、われら一般人にビルトインされている隣組マインドと相互監視根性とムラ社会メンタリティーが社会全体を、がんじがらめのスリーパーホールド状態におさえこんでいるからではないか。


 というわけで、新型コロナウイルスへの警戒感が、無闇矢鱈な異端者排除の発作に至らないように心がけたいものですね、というのが今回の結論です。
 ええ、変な結論ですが。







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