"メモ日記トゥディ"カテゴリーの記事一覧
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「ギャラリー酔いどれ」所載、「マスコミに載らない海外記事」の一部。
(以下引用)
観客の戦争や紛争に対する見方を作り上げる上で、多くの場合、
映画やエンタテインメント産業の方がマスコミをしのいでいる。
映画は、どの人物、集団、国民や国が、英雄なのか、犠牲者か、侵略国か、悪漢かを
特定するのに利用される。
この点で、ハリウッドは、イラン、中国、ロシア、キューバや北朝鮮等の国々を悪魔化し、
アメリカ合州国をもてはやす。
ハリウッドは、歴史的叙述を歪曲し、歴史修正主義的叙述を具体化してもいる。
これこそが、歴史的事実や現実から遠く隔たった形で、一体なぜ、
大半のアメリカ国民や多くの西ヨーロッパ人が、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の結果が、
ソ連によって、東ヨーロッパと中央アジアでではなく、アメリカによって、
大西洋で、決定されたと信じ込んでいるかという理由なのだ。
アメリカや西ヨーロッパでは、大半の人々の物の見方は、歴史の教科書や学術著作ではなく、
ハリウッドとエンタテインメント産業に影響を受けている。
フランス世論研究所が、フランスで行った、第二次世界大戦に関する世論調査が、
アメリカ文化帝国主義が、ハリウッドの影響力によって、
一体どの様に展開されているかを実証している。
1945年、世論調査を受けたフランス国民の57%が、第二次世界大戦で、
ドイツが打ち負かされたのは、ソ連のおかげだと考え、20%がアメリカのおかげと考え、
12%がイギリスのおかげだと考えていた。
1994年までに、彼らの見解は歪曲され、世論調査を受けたフランス国民の25%が、
ヒトラーが打ち破られたのは、ソ連のおかげだと考えており、
一方49%がアメリカのおかげだと考え、16%がイギリスのおかげだと考えていた。
2004年には、調査対象のフランス国民のわずか20%しか、
ヨーロッパで第二次世界大戦を終わらせた主要部隊がソ連だとは認識しておらず、
58%がアメリカのおかげだと信じ、16%がイギリスのおかげだと思っていた。
より若い世代や、第二次世界大戦を経験していない同時期出生集団は、
彼等の認識が、現代のマスコミ、特に映画とエンタテインメント産業によって形成されている
だろうと推論できる。
これが、一体なぜ、CNNのクリスチャン・アマンポールが、2014年6月6日、
ノルマンディー上陸作戦開始70周年に、フランスのベヌービル城で、
“アメリカの取り組み、第二次世界大戦中アイゼンハワー将軍とルーズベルト大統領指揮下の
アメリカ合州国による、この上なく英雄的な取り組みに、
大陸中[つまり、ヨーロッパ]が過去70年間アメリカに感謝してきた”
と大胆にも宣言できたのかという理由だ。
CNNのアマンポールは、ロシアを批判し、第二次世界大戦における、ソ連の役割を傷つける一方、
フランス政府が“アメリカ合州国に感謝する日だ”
アメリカが“何よりとりわけ、歴史の流れを変えたことに”感謝するとも強調した。PR -
私自身は軽い喘息の気があるので、映画館で咳込んで他人に迷惑をかける恐れがあり、DVD以外ではあまり映画は見ない。仮に映画館で見るならば、どうせならスクリーンの大画面で見るに値するスペクタクル作品が見たい。昔の「ナバロンの要塞」や「大脱走」をテレビ画面で見たところで面白くも何ともないはずだ。あれは映画館の大画面だからこそ圧倒されるのである。「十戒」や「ベンハー」も然り、である。今なら「指輪物語」などがそれだろうが、どうもCGでのスペクタクルは、最初からこちらもそう分かって見ているから映画的興奮の度合いが弱い。自宅で見るなら「文芸映画」が一番だ。小津安二郎(安次郎か? どうも人名は覚えにくい。安倍だか安部だか阿部とかいう総理も東アジアのどこかの後進国にいたようだ。)の映画などはまさにDVD鑑賞のための映画のようなものだ。昔の名作映画は今でもDVD鑑賞に十分に耐える。
それはさておき、新しく公開される映画について、ある映画批評サイトで見て興味を持った作品が思いがけず「マスコミに載らない海外記事」本文で批評されていたので、その二つを紹介する。
現在のイギリスの下層社会の生活がサッチャーによって破壊されたことは知る人ぞ知る事実だが、表マスコミはできるだけその事実を隠そうとしている。逆に「鉄の女サッチャー」などで、「人間サッチャー」を描いて同情を買おうとしたり、いろいろと細工をしたりするわけで、こうして映画界もテレビと同様に社会洗脳装置として機能しているわけだ。
「英国王のスピーチ」がアカデミー賞を取ったのもその一例だ。悪い映画ではないが、アカデミー賞に値するほどの作品か、という感じだ。もっとも、アカデミー賞が政治的ショーの一つであるのは最初から分かり切った話だが。
余談が長くなったので、前説はこれくらいにしよう。
この映画で監督が言おうとしていること。つまりせいぜい2%の「天使の分け前」(引用2参照)を社会の上の者が下の者に施すことでこの世は簡単に天国に変わるのだ、というのは、私がブログ開設当初から言い続けてきたことである。
(引用1)「マスコミに載らない海外記事」より転載。
2013年4月12日 (金)
『天使の分け前』失業中のスコットランド人の若者に関する、余り厳しくないお話
wsws.org
リチャード・フィリップス
2012年8月10日
ベテランのイギリス人映画監督ケン・ローチと彼の長年の脚本家ポール・ラヴァティによる『天使の分け前』は、グラスゴーの労働者階級の失業中の若者集団が直面する厳しい現実に関する心あたたまるとはいえ、やや特殊な物語だ。
天使の分け前
高級な蒸留酒が熟成する際、毎年蒸発してゆく少量のウイスキーのことを題名にした映画は、統合失調的な作品だ。労働者階級の主要登場人物は正確に描かれ、何人かの素人俳優達、特にポール・ブラニガンは良い演技をしているが、映画の穏やかな結末は、もっともらしく思えず、映画中でそれまでに描かれた鋭い社会観察を鈍らせてしまっている。
話はグラスゴーの多くの虐げられた労働者階級地域の一つの出身、失業中の若者ロビー(ポール・ブラニガン)を巡って展開する。映画は、暴行に対して判決を受ける、裁判所の審問場面で始まる。かつて少年院生活もしたことのある彼は、監獄行きか、最後のチャンスである、地域社会の作業奉仕に行くかの選択に直面する。
ロビーのガールフレンド、レオニー(シヴォーン・ライリー)は最初の子供の出産を間近に控えており、裁判官は彼を作業奉仕に送ることに決める。そこで彼は三人の友人、アルバート(ゲーリー・メイトランド)、リノ(ウイリアム・ルアン)と、モー(ジャスミン・リギンズ)と出会い、熱烈なウイスキー愛好家の指導者ハリー(ジョン・ヘンショー)に親身に扱われる。
ロビーは、ハリーに励まされ、自分には繊細な識別力があり、高級スコッチ・ウイスキーの地域別の複雑な味や、他の微妙な違いを正確に判断することができるのに気がつく。ハリーは後に地域社会の作業奉仕グループをハイランドの蒸留酒製造場見学に連れて行く。
厳しい経済状況、ほとんど仕事の見込みがないこと、かつての近隣の仇の殺すという脅し等に直面して、ロビーは、よその蒸留酒製造場に押し入り、数百万ドルでオークションにかけられようとしている樽から数リットル盗み、それを、いかがわしいウイスキー販売業者に売る計画をたてる。ピーター・カッタネオの“良い気分にさせてくれる”映画『フル・モンティ』(1997)風の趣に加え、ウイスキー窃盗の話題が、明らかに映画のかなりの部分を占め、ありきたりなキルトにまつわるジョーク、どじな警官、そして明るい結末を含めて、物語の調子を設定している。
ローチとラヴァティは明らかに、登場人物の性格を理解し、すっかり共感しており、彼らの多くの映画と同様、マスコミや、イギリスの支配層による、労働者階級の若者達の際限のない非人間化に対抗しようとつとめている。
ラヴァティが、あるジャーナリストに説明した様に、『天使の分け前』のアイデアは“フラストレーションと、それだけでなく、若者達の扱われ方に対する憤激からきている。彼らの多くが今や、一生仕事無しと宣告されるのです。‘お前の人生は無意味だ、お前は数に入らない、お前は我々にとっては重要ではない、という終身刑のようなものです。…’[こうした若者達の]生命力の一部を捉えてみたいと思ったのです。彼らの機知、彼らの楽しみ、彼らのフラストレーションや弱さを。”
多くの映画監督にとって、こうした心情は稀だが、『天使の分け前』を支えている社会問題に、より忠実な、より劇的に複雑な結末であれば、喜劇的で、本当に人間味のある要素が一層強化されたろう。いずれもスコットランドを舞台にして、それぞれアルコール依存症やヘロイン中毒を扱った、ローチとラヴァティの『マイ・ネーム・イズ・ジョー』(1998) や『Sweet Sixteen』 (2002)の方が、より力強い作品だ。
Sydney Film Festival-Part 3: Some naturalistic and mostly credible depictions
By Richard Phillips 10 August 2012から、この映画に関する部分のみ抜粋。
記事原文のurl:http://www.wsws.org/en/articles/2012/08/sff3-a10.html
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サッチャー葬儀を入札にし、民営化せよと語ったケン・ローチ監督の最新作が、明日から上映される。銀座テアトルシネマ、『天使の分け前』が閉館前の最終上映作品だという。
(引用2)「前田有一の超映画批評」より転載。
「天使の分け前」75点(100点満点中)
The Angels' Share 2013年4月13日より銀座テアトルシネマほかにて全国順次公開 2012年/イギリス・フランス・ベルギー・イタリア/101分/35mm/1:1.85/ドルビーデジタル、カラー 配給:ロングライド
監督:ケン・ローチ 脚本:ポール・ラヴァーティ キャスト:ポール・ブラニガン ジョン・ヘンショー
若者の失業問題と格差の世襲を背景にする骨太さ
イギリスのケン・ローチ監督は、常に労働者階級に寄り添う目線で、彼らが直面するさまざまな社会問題を描いてきたが、その確固たる信念はこのコミカルな娯楽映画「天使の分け前」にさえ生かされている。
スコットランドのグラスゴーですさんだ幼少時代を送ったロビー(ポール・ブラニガン)は、恋人の妊娠が判明した今も暴力事件を起こしてしまう始末。幸い実刑は免れ社会奉仕活動を命じられるが、そこで出会った指導員のハリー(ジョン・ヘンショウ)はウイスキー好きの気のいい中年男だった。理解者としてのハリーと出会い、ロビーは徐々にまっとうな道へと導かれてゆく。
天使の分け前とは、樽の中での熟成中、年に2パーセントほど蒸発するその減り分のことを言う。実にしゃれたネーミングだが、映画を見終わってみればそれ以上の意味、それも極めて重大な作品のテーマがここにこめられていることがわかるはずだ。
それは主人公たち、すなわち貧しい人々を救うのはその程度の「分け前」で十分なんだぞと、そういうことである。だれがその分け前を与えるべきかは、監督の念頭にはあるだろうし、それが行われていない苛立ちと怒りもこちらに十分伝わってくるが、決して明言はしない。じつに粋である。最近見た映画の中では抜群のタイトルといえる。
主人公は労働者階級の青年。暴力事件を起こして収監一歩手前、仕事はもちろん、住所すらないことが劇中やがて明らかになる。このあたりの説明を物語上の見せ場の中で自然に明らかにするあたり、ケン・ローチのセンスのいいところである。
具体的にはひどいリンチからハリーの助けによってなんとか逃げてくるスリリングな場面。ハリーも労働者であり決して裕福ではないが、その部屋に差し込む日差しはこれ以上ないほどに心地よく温かく描かれておりほっとさせる。スプリングバンク32年もの(1本数万円もするボトルだ)をロビーの長男誕生の報に喜び、迷わずふるまうハリーの優しさには思わず涙が出る。
持たざるもの同士が助け合う、その思いやりの価値は計り知れない。一気に見ているものたちの共感を集める見事なシーン構成である。
主人公が起こした事件の凄惨さを、こうして主人公と周辺人物にきっちり感情移入させた後で説明するあたりも、地味でいて正解だ。この順番を逆にすると観客のキャラクターへの印象ががらりと変わってしまう。
と同時に、貧しさが人を残酷にさせる過程を描くことで、一方だけをえこひいきしない公平性をアピールする。ケン・ローチが描くのは、偽善ではなく現実なのだというわけだ。
冷静に計算された、このような的確な脚本運びを味わうと本当に気分がよくなる。毎年何百本と映画を見ても、なかなか出来ない体験だからだ。
スコッチウィスキーの映画なのに監督以下、ウィスキー好きがほとんどいないという裏事情を知ると思わず苦笑してしまうが、ようするにそれは本作が元々ウィスキーをフィーチャーするための企画ではないということ。つまり監督と脚本家の描きたいことはほかにあり、それを一般向けの気楽な娯楽ドラマにするための舞台装置としてウィスキーを選んだに過ぎない。
傑作とは、こういう発想で作られた映画に多い。逆に、描きたいテーマがなければどんなに面白い題材を選んだところで中身のない凡作になるだけである。あえて作品名はあげないが。
本作は、基本的に金持ちがこっぴどい目にあうのを見て痛快さを感じられる人に向く。一部やりすぎな印象を受けるかもしれないが、考えてみれば現実では、労働者階級の犠牲の上に彼らはその何百倍もいい思いをしているのだからこれでいいんだと、そういうことなのだろう。
なお本作のメインキャストは、いつものケン・ローチ映画同様、プロではなく素人を起用。しかもロビー役ポール・ブラニガンは主人公とよく似た境遇で、幼い息子を抱え失業して自暴自棄になりかけていたときに採用されたという。この監督は、口だけでなくこうして自らの手の届く範囲で若者にチャンスを与え、ある意味その人生を救っている。
まさに有言実行。たいした人物である。
(追記)「阿修羅」に面白い記事があったので、追記転載しておく。私もぜひ「鐘を鳴らせ、悪い魔女は死んだ」をリクエストしたい。ついでに「虹の彼方に」と、エルトン・ジョンの「グッバイ・イエロー・ブリックロード」も。(後者は、「オズの魔法使い」の婉曲な引用を含む歌詞だと私は考えている)
(以下引用)
「サッチャー氏批判」の歌 英国で突如1位に(NHK)‐「鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ」http://www.asyura2.com/13/senkyo146/msg/418.html投稿者
JAXVN 日時 2013 年 4 月 13 日 18:25:15: fSuEJ1ZfVg3Og
「「サッチャー氏批判」の歌 突如1位に
4月13日
14時36分
イギリスでは、8日にサッチャー元首相が死去したあと、70年以上も前の映画の挿入歌「鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ」が、音楽のダウンロードサイトで突如1位になり、議論を呼んでいます。
イギリスでは、音楽ダウンロードサイトで、1939年のミュージカル映画「オズの魔法使い」の挿入歌「鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ」が、最近突如、圏外から1位になりました。
これは、8日に死去したサッチャー元首相に批判的なグループが、インターネットを通じて、この曲をダウンロードするよう呼びかけたためとみられ、元首相の死去後、2万回以上ダウンロードされているということです。
イギリスのBBCラジオは、毎週日曜日にヒットチャート番組を放送していて、14日に予定されている今週のプログラムで「鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ」も上位に入り、放送が確実とみられています。
しかし、今回の番組での放送について、「遺族の感情を考えればするべきでない」とする意見と「メディアが批判的な動きを意図的に放送しないのはおかしい」とする意見で分かれており、来週執り行われる葬儀を前に議論を呼んでいます。
サッチャー元首相を巡っては、経済の自由化に取り組んだと評価する声がある一方で、貧富の格差の拡大を招いたとして批判の声もあり、今もその評価はイギリスの世論を二分しています。」http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130413/k10013894281000.html
関連
サッチャー元首相の訃報に思う 田中 良紹
http://www.asyura2.com/13/senkyo146/msg/332.html
投稿者 赤かぶ 日時
2013 年 4 月 11 日 00:32:01: igsppGRN/E9PQ橋下徹はマーガレット・サッチャーの信奉者。 なぜ「マスコミは橋下を批判してる」という風評が立つのか
http://www.asyura2.com/12/senkyo127/msg/259.html
投稿者 高橋是清会
日時 2012 年 3 月 05 日 02:32:28: fqnvpSFGv5aiAサッチャー死亡祝賀パーティがロンドンで開催、ネット上にはコラも多数
http://news.livedoor.com/article/detail/7576325/一部抜粋
「昨日死亡が伝えられたイギリス元首相のサッチャー氏ですが、彼女の死を祝うためのパーティが南ロンドンで開催されました。Margaret Thatcher’s death greeted with street parties in Brixton and Glasgow
Politics guardian.co.ukBrixton street party announced after Thatcher’s death Windrush Square 5 30pm
onwards tonight Brixton
Buzz
サッチャー氏が死亡した4月8日の夕方、何百人もの人々が南ロンドンのブリクストンやグラスゴーに集まり「Maggie Maggie Maggie,
dead dead dead」と乾杯の音頭を取りながらビールを飲み、即席のサウンドシステムで大音量でレゲエを鳴らしながらサッチャー氏の死を祝いました。多くの参加者はサッチャー氏の死に大歓声を上げていましたが、彼の女の残したサッチャリズムが今も残っていることへの欲求不満も聞かれました。
また、死亡が伝えられた以降、Facebookを始めとしてネット上にはサッチャー氏の死を喜ぶ皮肉たっぷりのコラ画像が大量にアップされ、サッチャー氏の残した影響の大きさを物語っています。これはストレートに死神に対して「やったぜ!」
小さな政府を目指して多くの民営化を行ったサッチャー氏への皮肉たっぷりのメッセージ。彼女が死んだことで「地獄は民営化されようとしています」
工場労働者達を数多く失業させたことへの皮肉。「地獄に堕ちて20分で炉を3つ閉鎖させた」
いずれのコラにしてもサッチャー氏は地獄に堕ちたという認識のようです。
(中略)
日本ではどれほど評判の悪い政治家に対してでも「不謹慎だ!」と炎上しそうな企画ですが、モンティ・パイソンを始めとするブラックユーモアの国ならではの死者の送り方なのかもしれません。もっとも、ユーモアというより本気に見えるものが多いのはサッチャー氏の生前の功績と人柄に寄るものと言えるのでしょう。」日本で同じことは起こるでしょうか?例えば小泉元首相、野田前首相、安倍首相、竹中平蔵氏の死去の時とかに。
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「晴耕雨読む」から転載。
表題と記事を読んで、筆者の「墨染」という人は、市井の人としてはなかなかの知識人だな、と思っていたら、最後に(内田樹)とあってずっこけた。そりゃあ、知識人のはずだ。どうやら、「阿修羅」投稿記事かと思うのだが、墨染という人が内田樹の文章をコピーして投稿したようだ。「阿修羅」読者への啓蒙目的だろう。暇と言えば暇な作業だが、ご苦労なことである。まあ、私もいつも同じようなことをしているわけだが。
こういうように社会事象を考察して、頭脳の運動を楽しむという余裕のある人間も昔は「阿修羅」には沢山いたのだが、最近は愚にもつかない新聞雑誌記事、ネット記事の断片が洪水のように投稿されるので、その中から読む価値のある記事を見つけるのが大変である。というわけで私は「阿修羅」は気の向いた時にしか足を運ばなくなっている。
さて、下記記事はなかなか面白いと思って読んでいたのだが、内田樹らしい鋭い考察が中にある。それは、家族制度の解体は消費社会の要請(あるいは無意識的策謀)だったという点だ。
「それに、不動産家具什器の類は家族単位で生活していれば一家に一式で足りるが、家族が解体して個人がばらばらに暮らすようになれば、人数分だけ需要が生じる。つまり、家族解体は「市場のビッグバン」を意味していたのである。」
成る程、である。こういう思いがけない指摘をするから内田樹は面白い。でも、前半部分は正直言って退屈だった。レヴィ・ストロースなど引用して学者めいた粉飾をするところが職業知識人臭さである。それに、現代(少し前)が本当に「ひとりで生きられる社会」だったかどうか、怪しげなもんだ。内田樹の議論はいつも、「面白いが、どこか誤魔化されている」という感じがある。
話は変わるが、若者の間での政治的議論の変遷について考えたい。
昔、左翼の若者の間で議論が起こると、「お前は『資本論』を読んだか。議論をするなら、それを読んでからにしろ」とやりこめられることがあったと言うが、今ならウィキペディアあたりで概要を知れば、それで済む話だ。つまり、「議論をする資格」が問われる事は少なくなったわけだ。とは言っても、頭の良し悪しや人格の上下は、議論をすれば一目瞭然だから、馬鹿は黙っているに限る。それに、議論をすることから生産的な結果はまず出ないし、議論の勝ち負けはたいてい勝者の増長と敗者の憎悪しか生みださないのだから、今どきの若者は、議論はおそらく好まないだろう。多分、政治問題について語ることすらしないのではないか。となれば、今の日本で学生運動が起こることは、まず無さそうだ。そもそも、体制に反抗することで自分の一生をフイにすることを、今どきの(いや、いつの時代でも本質はそうなのだが)打算的な若者が選択するはずはない。
そう考えると、一昨日書いた、かつての学生運動に対する批判は、少し厳しすぎたようである。
(以下引用)
2013/4/9
「「おひとりさま」は最期まで幸せといえるか・・浮民流民化に誘なった近代主義=消費社会!」 開かれた地域共同体
「おひとりさま」は最期まで幸せといえるか・・浮民流民化に誘なった近代主義=消費社会! 投稿者 墨染 日時 2013 年 2 月 08 日 から転載します。
http://president.jp/articles/-/8536?page=2
親族というのは生き延びるための制度である。だから、豊かで安全な社会においてはあまり必要性がない。親族が必要になるのは、略奪されたり、餓死したり、遺棄されたりするリスクが高い場合だけである。乏しく、危険な環境にいる人は親族がいた方が生き延びる確率が高く、豊かで安全な社会にいる人はそれほどでもない。親族の存在理由をかつてレヴィ=ストロース(※)は端的に「親族が存続するのは、親族が存続するためである」と書いたことがある。修辞的装飾をすべて剥ぎ取って言えば、それだけのことである。
わが国で1980年代以降、家族解体論がひろく流布した。その頃、私たちは人類史上はじめて「消費行動が社会活動の中心であるような文化」を経験した。人々は、どのような家に住み、どのような車に乗り、どのような服を着用し、どのようなインテリアで部屋を飾り、どのようなレストランでどのようなメニューを選択するか……といった一連の消費行動を通じて「自分が何ものであるか」を表示しうると考えるようになった。
それまで、私たちはもっぱら「親族共同体や地域共同体のために、何をなしたか」に基づいて、自分が何ものであるかを知った。
消費社会ではそうではない。人は「自分のために何を買ったか」に基づいて、自分が何ものであるかを知る。これは明らかにきわめて興味深い一個の“民族誌的奇習”である。たしかにすでに世界の過半はこの奇習を採用しているが、それでもこれが一個の奇習であることに変わりはない。
消費社会は親族の解体を要求した。親族の存在が消費行動を制約するからである。
日本が貧しかった時代、消費行動は家族単位で行われた。商品選択については原則的には家族全員の合意が必要だった。臨時収入があると、その使途は家族会議の議題となった。子どもたちの要望はだいたい無視されたが、擬制的には満場一致で使途が決された。
だが、家族内合意が形成されない限り、消費行動が始まらないというのは、消費社会的には憂慮すべき事態である。消費社会は「欲しいものがあれば、返すあてのない借金してでも今すぐに買う人間」を理想とするからである。消費単位が家族である場合、合意形成手続きがまず消費活動を鈍化させる。さらに家庭は借金を嫌う。借金するとしても親戚から借りる。親戚は無担保無利子で金を貸してくれるが、その代わりに使途についてはうるさい。「ベンツを買いたいのですが」というような申し出は一発で却下される。
「身の程を知れ。お前なんか軽四で十分だ。だいたいお前は昔から計画性がなくて……」というような小言を覚悟しなければ、借金の申し込みはできなかった。「身の程」を決めるのは他者である。親族の絆が深い社会では、商品購入によって「自分らしさ」を表現する道筋は二重三重に遮断されていたのである。それゆえ、消費社会は消費単位を家族から個人に移行することに全力を傾注した。それに、不動産家具什器の類は家族単位で生活していれば一家に一式で足りるが、家族が解体して個人がばらばらに暮らすようになれば、人数分だけ需要が生じる。つまり、家族解体は「市場のビッグバン」を意味していたのである。
(※注:レヴィ=ストロース(1908-2009)はフランスの社会人類学者、思想家。現代思想における「構造主義」の祖とされる。著書に『親族の基本構造』『悲しき熱帯』などがある。)
***** 人類史上例外的な「幼児のままでいい社会」
だから、消費社会が「家族は解体されねばならない」と宣言したのは当然のことだった。夫も妻も子どもたちも、かつてにこやかに「ちゃぶ台」を囲んでいた全員が、自分に強制されていた「夫らしさ」や「妻らしさ」や「子どもらしさ」のイデオロギー性に気づき、それぞれの「自分らしさ」を求めて、家族を離れてゆく……という物語を私たちはそれこそ吐き気がするほど服用させられた。消費社会の始まった80年代は、映画もドラマも小説もCMも「そんな話」で埋め尽くされていた。
学術の世界も例外ではない。フェミニズム家族論と、「アダルト・チルドレン」論は消費社会にジャストフィットする社会理論であった。というのは、どちらも実践的な結論は「家族と一緒に暮らすのは心身の健康によくない」というものだったからである。カウンセラーや社会学者に悪意があったと私は思わない。たぶん彼ら彼女らは個人的経験を踏まえて、善意からそう主張したのであろう。
けれども、人間は何かにすがりつかなければ生きていけない。家族解体によって、家族たちを扶養したり配慮したりする義務から解放されると同時に、家族から信頼され負託される機会を失った人々は、社会的承認を別のかたちで求めるようになった。あるものは「自分らしさ」の限界をめざす蕩尽的な消費に嗜癖し、あるものは「自分探し」の終わりなき旅に出かけ、あるものは族長や預言者や導師のような「新しい家父長」にすがりついた。
そうこうしているうちに、「例外的に豊かで安全であった日本社会」は「それほど豊かでも安全でもない社会」になった。そして「やはり家族がいないと生きにくい」ということを言い出す若者たちが出現してきた。別に何が変わったわけでもない。「ひとりで生きるのがむずかしい時代」になっただけのことである。
「ひとりで生きられる社会」は、繰り返し言うように、人類史上例外的な達成である。そのこと自体は言祝(ことほ)ぐべきことである。けれども、そのような幸運は長くは続かない。というのは、例外的に豊かで安全な社会では、市民的成熟の機会が失われるからである。
「ひとりでも生きられる社会」とは、言い換えれば、他者との共生能力を欠いたものでも、対立者とのネゴシエーションや、利害のすり合わせができないものでも、つまりは“幼児のままでも”生きていける社会のことである。幼児のままでも生きていける社会では市民的成熟は動機づけられない。成熟した市民が安定的に供給されなければ、システムの補正やメンテナンスを黙々と担う人間がやがていなくなる。
システムというのは「ちゃぶ台」のようなものである。誰かが外部から食物を持ち込み、誰かが調理し、誰かが配膳し、誰かが片づけるから「ちゃぶ台」は機能する。「飯はまだか」とか「オレはこんなもの喰わんぞ」とか自己都合を言い立てるものだけがいて、資源の搬入や調理や後片付けをする人間がいなくなれば、「ちゃぶ台」は遠からず腐臭を発するカオスに変じる。同じように、自己利益の追求には熱心だが、公共の福利のために配慮することにはさっぱり気が進まないという人間がマジョリティを占めるようになれば、社会はもう以前ほど豊かでも安全でもないものになる。現に、なった。私たちはもう一度、他人に迷惑をかけたり、かけられたりして共同的に暮らすノウハウを身につけ直さなければならなくなった。
そこでめざされる「他者との共生」がかつてのような家族の復活であるのか、あるいは別のかたちの共同体モデルになるのか、確定的な見通しは私にはない。
家族に代わる「親密圏」を唱える人たちの中には、「強者連合」を理想とする人たちがいる。高い社会的地位をもち、安定した収入があり、趣味がよく、知的会話が楽しめるような人たちだけが集まって、愉快に暮らす共同体モデルを提唱した社会学者がいた。だが、その共同体のメンバーのひとりが失職したり、財産を失ったり、病気になったり、変な宗教にはまったら、どうなるのか。人々はその人がとどまることを望まないだろう。
家族というのは、逆にそのような「困った人」を受け容れ、扶養し、支援することをこそ主務とする制度である。私たちは誰でもかつては幼児であり、必ず老人となり、しばしば病人となる。個人の社会的能力がもっとも低いときを基準にとり、そのときでも共同体のフルメンバーとして愉快に過ごせ、自尊感情を維持できるように共同体は制度設計されなければならない。その点から言えば、さしあたり近代家族に代替しうるシステムを私は思いつかないのである。(内田 樹氏) -
「文殊菩薩」から転載。
私は「酔生夢人」ブログに「TPPについて心配するのはやーめた」という記事を書いたのだが、どうやらそれが正解だったようだ。
私は、「言ったことが実現する」星の下に生まれたということを、ある占いのサイトで読んだのだが、こうなると、滅多なことは言えない。昔、職場の同僚に対して酒の席で、「私の夢は世界征服だ」と言ったことがあるのだが、それはまあ、「夢」と明言しているので、たぶん実現はしないだろう。しかし、これからは精力絶倫、頭脳明晰なスーパー老人になる、と今から予告しておくことにしよう。いつまでも枯れた仙人では、あまり面白くないかな、と最近は思っているのである。
冗談はさておき、TPPが暗礁に乗り上げているようであるのは、実に目出度いことである。まあ、もともとTPPという存在のいかがわしさは、少しでもTPPを調べた人には分かることだから、各国の当事者も、その実現に二の足を踏むのは当然かもしれない。何も、TPP参加国のすべてがアメリカの属国というわけではないのだから。
というわけで、TPPについては、「悩まないで、進展を見守る」ことが、精神衛生的にはよさそうである。
もともと、私は、だいぶ前から俗世のことで悩むのはやめているので、政治経済上の問題はただ「思考娯楽の材料」なのである。
ついでに白状しておけば、この文章は半分酔っ払って書いている。珍しく、外出して花見をし、昼酒をやったのである。
酔っ払っていれば、女は皆美人に見えるし、人間はみな愛すべき存在に見える。そして、この世には、悩むほどの問題は無いように思え、すべてが幸福に包まれる。酒の中にこそ理想の人生はある、と言うと、酒の飲めない人は怒るだろうか。まあ、ほろ酔い加減で見た世界こそが最高に素晴らしい世界であることは確かである。
(以下引用)
TPP交渉:どうせ妥結しないのだから、100年掛けてゆっくりやりなさい。
<< 作成日時 : 2013/04/05 08:39
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TPP交渉:どうせ妥結しないのだから、100年掛けてゆっくりやりなさい。
TPP交渉、日本の参加でさらに難航。今ですら妥結の目途は全く立っていないのに、これに日本が加わればさらに混沌として「妥結」は見えてこなくなる。
日本が「農業の例外扱い」を要求すれば、他国が黙っていない。
安倍偽総理が「農業例外」を言ってくれたおかげで、TPPに参加表明したところで実現するのは先の先。妥結は100年先でいいじゃないか。
ユダ金の姦計は結局実現しない。ユダ金自体の弱体化でTPPを強行するだけの交渉力が失われた。交渉に必要な「資金」も枯渇。
さっさと諦めてTPPを引込めなさい。零落した破産者はすごすごとニュージャージーの森林にかえって静かに余生を送りなさい。もう表舞台に出てくるな。ひっそりと絶滅しなさい。情報感謝。
2013年4月4日14時22分
TPP交渉の年内妥結困難、日本参加で複雑化も=USTR元幹部
http://www.asahi.com/business/reuters/RTR201304040077.html
[ワシントン 3日 ロイター] 米通商代表部(USTR)の元幹部であるジェイ・アイゼンスタット氏は3日、環太平洋連携協定(TPP)交渉について、2014年終盤まで長引くとの見方を示した。特に日本が参加することになれば、交渉はもつれるとした。
同氏はワシントン国際貿易協会のイベントで、「これまで16回の会合で有意義な前進があったのは事実だが、交渉はいかなる合理的評価によっても妥結には近付いていない」と指摘。「(たとえ日本が交渉に参加しないとしても)年内に妥結するとは思えず、日本が参したとすると、来年末までに妥結すると考えるのは楽観的だ」と述べた。
TPP交渉に参加している11カ国は、年内、早ければ10月にバリで開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で妥結したい考えだ。
日本は交渉参加を表明し、他の参加国の承認を待っている。
また、元USTR首席農業交渉官のアレン・ジョンソン氏は「(日本の交渉参加といった)問題を非常に複雑にする多くの課題があり、妥結に向けた困難さが引き続き増している」と指摘。日本は経済大国であるため、米国がこれまで自由貿易交渉相手にとってきたように、農業関連関税を見掛け上全て撤廃することを求めることが格段に難しくなると述べた。
アイゼンスタット、ジョンソン両氏ともに、自動車や保険分野の障壁といった日本とのその他の課題も年内に解決することは困難になるとの見通しを示した。
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「文殊菩薩」にウルグアイのムヒカ大統領の素晴らしい演説の動画が載っていたので、それを多くの人に見てもらいたいな、と思っていたが、動画は時間がかかるので見ない、という人も多分いると思う。
それを「谷間の百合」さんが文字起こししてくれたので、ここに転載して紹介する。
このような仕事こそ、最高の社会貢献の一つである、と私は思う。世の中を良くするために少しでも働いたなら、その人はこの世界に生まれた価値がある。逆に、この世界を悪化させるだけの人間は、どんな大金持ちでも権力者でも、ゴミ以下の存在である。
毎日の労働によって社会に貢献するのもいいが、それは生活の資を得るのが第一義だ。また、その仕事が社会貢献か社会悪化の仕事か、即断はできない。マスコミや教育の仕事など、最近ではむしろ社会悪化の仕事の面が大きいだろう。
それで自分が物質的利益を得られるわけでもないのに、こうした「文字起こし」や「翻訳」を通じて、社会の良い方向への意識改革に貢献することは、(私などのように)ブログで偉そうに自分の主観的意見を喋り散らすより、はるかに立派で有益な行為であると思う。
(以下引用)*最初の一文はこの転載内容と無関係かと思うのでカットさせてもらった。
今回のウルグァイのムヒカ大統領の感動的なスピーチは日本語訳が付いているのですが、わたし自身が文字として読みたいので、ブログのために文字起こし?しました。
多くの人に読んでほしいと思います。
会場にお越しの政府や代表のみなさま。
ありがとうございます。
ここにご招待いただいたブラジルのティルマ・ルセフ大統領に感謝します。
私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。
国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。
ここで、頭の中に、ある厳しい疑問を声に出させてください。
午後からずっと話されていたことは、持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。
しかし、私たちの本音は何なのでしょうか?
現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似ることでしょうか?
質問をさせてください。
ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインドjんが持てば、この惑星はどうなるでしょうか。
息をするための酸素がどれくらい残るでしょうか。
同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費をせかいの70億、80億の人ができるほどの原料があるでしょうか?
可能ですか?
それとも、別の議論をしなければならないでしょうか?
なぜ、私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?
マーケットエコノミーの子ども、資本主義の子どもたち、即ち、私たちが間違いなく、この無限の消費と発展を求める社会を作ってきたのです。
マーケット経済がマーケット社会を作り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?
グローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか。
このような残酷な競争社会で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論ができるでしょうか?
どこまでが仲間で、どこからがライバルなのですか?
このようなことを言うのは、このイベントの重要性を批判するためではありません。
その逆です。
われわれの前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません。
政治的な問題なのです。
現代にいたっては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。
逆に、人類が、この消費社会にコントロールされているのです。
私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。
幸せになるために、この地球にやってきたのです。
人生は短いし、すぐ目の前を過ぎていきます。
いのちよりも高価なものはありません。
ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。
消費社会のモーターの世界では、私たちは消費をひたすら早く多くしなければなりません。
消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。
このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、出来るだけ多く売らなければなりません。
ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にしているのです。
そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。
人がもっと働くため、もっと売るために、そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。
「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。
そんな悪環境の中にいることにお気ずきですか。
これはまぎれもなく政治の問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導いていかなければなりません。
石器時代に戻れとは言ってません。
マーケットをコントロールしなければならないと言っているのです。
私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。
昔の賢明な方々、エピクレオ・セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。
「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
これは、この議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表として、リオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。
私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには、水源危機と環境危機が問題ではないことを分かってほしいのです。
根本的な問題は、私たちが実行した社会モデルなのです。
そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。
私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。
こんな小さな国なのに領土の90%が豊富な資源なのです。
私の国には300万人ほどの国民しかいません。
でも、1300万頭の世界でもっとも美味しい牛が私の国にはあります。
ヤギが800万から1000万頭ほどいます。
私の国は食糧の輸出国です。
働き者のわが国民は一生懸命8時間働きます。
最近では6時間働く人が増えています。
しかし、6時間労働の人は、その後もう一つの仕事をします。
なぜか?
バイク、車などのリボ払いやローンを支払わなければならないからです。
毎月、2倍働いてローンを払っていったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。
私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。
そして、自分にこんな質問を投げかけます。
これが人類の運命なのか?
私の言っていることは、とてもシンプルなことです。
発展は幸福をもたらしません。
発展というものは人類の本当の幸福を目指さなければならないのです。
愛、人間関係、子どものケア、友だちを持つこと、必要最低限のものを持つこと。
幸福が私たちのもっとも大切な「もの」なのです。
環境のために戦うのであれば、幸福が人類の一番大切な原料だということを忘れてはいけません。
ありがとうございました。
2012年6月20日~22日
「国連持続可能な開発会議」に於いて。 -
「マスコミに載らない海外記事」の管理人コメント部分だけ転載。紹介された海外記事も有意義だが、日本人一般にはやや耳遠い部分も多いので、海外情報の方に主に興味がある、という人には元記事をお勧めする。
さて、安倍内閣がスターリン的な国民抑圧内閣になるかどうか、(つまり右のスターリンだ。簡単に言えばヒトラーであり、スターリンとヒトラーは精神的双子である。)私は今はその動静を見守っているところだが、飯島秘書官や竹中の登用は、明らかな小泉売国政権の踏襲であり、この国の先行きはかなり暗い。少なくとも日本の国富の大部分はユダ金に奪われることになりそうである。その際の国民の反抗に備えて、国民の精神的奴隷化を狙うのが教育改革だろう。もとより表マスコミはユダ金の支配下にある。
今日は、下記記事の主内容とはほとんど無関係の雑談である。
下の記事で管理人氏が、昔からの友人との交際をやめようかと思っている、というその気持ちはよく分かる。日本の社会で成功するためには属国体制に順応すること、および精神的奴隷化を受け入れることが必要なのである。属国体制を否定することは彼らにとっては自己の全存在の否定に近いために、自らのアイデンティティを守るためには彼らは属国体制を肯定しなければならないわけだ。(これは体罰社会での成功者が体罰肯定論者になるのと同様だ。)
言い換えれば彼らは洗脳状態にありながら、自分が洗脳されていることを絶対に認めない人間なのである。そういう人間と論争することが不毛であり、徒労に終わることは明らかだろう。だから、日本社会では普通の人間が日常生活で政治的議論をすることはほぼ不可能なのである。本音の議論をすれば、それはこれまでの人間関係を破壊することになる。
そういう人間関係を壊しても日本の未来のために生きるか、それとも日本の未来を犠牲にして、自らの安逸無事な生活を守るかという二者択一の中に常にあるのが、この日本で誠実に政治を考える人間の置かれた立場である。昔の学生運動活動家の置かれた立場と同じだと言えよう。
私は、「マスコミに載らない海外記事」の管理人氏がこれまでやってきたことは途方もない偉業であると思う。彼の紹介する記事によって私が啓蒙されたことは無数にある。私の精神的恩人の一人である。
そのように思う人間は私一人ではないだろう。
管理人氏が、自らの信条と現実の人間関係の相克に引き裂かれている状況は痛ましい。だが、肉体を持ち、物理的な接触のできる現実社会の知人や友人からは孤立しても、この世界には精神的に共鳴する「精神世界の友人」が無数にいる、と私は考えている。
もちろん、現実世界の友人や知人を捨てるには及ばないし、我々を実際に生活上で助けてくれるのもそうした友人知人であるが、それは大雑把に言えば「生活協同組合」的人間関係なのであり、精神の深奥を彼らと語る必要など無いのである。
現実世界の友人が、そういう精神上の親友、「赤毛のアン」風に言えば「腹心の友」であれば理想的ではある。そういう親友をこの世界で持てた人間は最高に幸運な人生であると言えよう。もっとも、「赤毛のアン」の「腹心の友」はかなり基準値が低く、アンを肯定的に見てくれる人間はだいたい「腹心の友」認定されるのだが。(笑)
(以下引用)
またもや、国名と協定名を変えれば、そのままこの国? エルサルバドルに作られた会議?は
主要なメカニズムの一つが、外国企業の助けになる事業に協力的な環境を生み出すことを狙う“成長委員会”だ。
そして、この国で恐ろしい素晴らしいメンバーで構成される“産業競争力会議”だ。
美しい呼び名の建前で、とんでもないものを押しつけるのが宗主国の常套手段。子供の頃、時々やってきた押し売りを思い出す。成人男性がいない昼間を狙ってやってきて、最初は丁寧に、最後は無理やり「ゴム紐」等を高値で押しつけた。羊の皮をかぶった狼。もちろん、悪辣さの規模は全く違う。
Public-Private Partnership、頭文字で呼べばPPP。間もなく「王様を欲しがる蛙」を絵に描いたような皆様によって選出された、傀儡・猫かぶり自殺願望政権が加盟する植民地化TPPを連想させられる。一文字しか違わない。
TPP、日本以外の大国、交渉から抜け、残るのは日本とエルサルバドルのような小国だけ残る実質、米・日FTAになるだろうか?
全く期待していなかった政治家氏の「TPP加盟は、ギロチンに首をつっこむようなものだ」という発言には感心したが、本気で反対する連中が、売国議員の多数を占めるわけがない。売国奴であるがゆえに、宗主国の支持を得られ、議席が得られるのだろう。
数日間、テレビも新聞も無関係に暮らしていた。精神的毒抜き?
とはいえ「産業経済破壊新聞」の見出しと一部を眼にした。プロパガンダ文章をお金を払って読む方がいる不思議に驚いた。漱石の三四郎の中の文章、「亡びるね」は彼の自虐史観的結論ではなく、植民地訪問にふれて書いた別の文章こそ彼の主張だ、というようなものだった。頭がクラクラした。
時折飲みながら無駄話をする同級生も、こういう記事を読んでいるのだろうか。彼等との飲み会、もう参加をやめるべき頃かも知れない。彼等の言い分を聞いているのは疲れ、本音を言えば喧嘩になるばかり。物言わぬは腹ふくるるわざなり。
事実を冷静にみることを自虐史観といい、属国推進を愛国と呼ぶ奇異な皆様。そして昔の名前で、かの首相秘書や経済担当大臣まで参加している現政権、ますます第二次小泉売国政権の本質を現してきた。
久しぶりの朝刊でまた憂鬱になった。教育制度破壊組織ができたという記事に。
いじめ対策に力を入れるというが、もちろん正論を主張する生徒が、教師を含め全員から公式にいじめられる恐怖体制が完成するに違いない。異神の怪と一緒に。全てを「構造改革」する。
尖閣防衛ばかりを大本営広報は宣伝するが、日本丸ごとTPPによって、宗主国の大企業に征服されることは一切言わない。小さな島の問題とは深刻さは桁違い。中華思想は怖いそうだが、自国だけは例外だという宗主国の思想こそ、そして宗主国の命を受けて、民意を無視するインチキ選挙制度で選ばれた上げ底政治家と、政治家もインチキ制度も決して批判しない大本営広報部こそが、小生のような貧乏人を含め、世界で一番多数の人々を苦しめているものだろうに。
与党政治家も大本営広報部も、勿論恐ろしい将来を知らないのではない。知っていながら、未曾有の完全属国化推進・宣伝をすることこそ、売国奴の使命。
36億円の官房機密費、一体何に使われていたのだろう?
とうとう夕方の大本営広報番組で、TPPプロパガンダ虚報が放送された。大半農業の話。知的財産権や、医療、医薬品等、深刻な問題があることがわかっている分野には一切触れない。ひどいもの。賛成派の大規模農家、いつも宣伝に登場される方に思えるが?真実を訴えれば、痴漢にされるか、飛び下り自殺させられるのだろうか?
そして、賛成派の外国に工場を移した町工場主。
決して本質的な問題には触れない虚報の素晴らしい見本。これを善男善女はご覧になって、自分の首を絞めててくださる政治家に進んで投票する。
おきまりのオリンピック招致。原発が全廃されて、いつ地震・津波が来てもメルトダウンは起きないようになったら招致すればよかろうに。
2013年1月11日 (金) TPP・ACTA, アメリカ, 中南米, 新自由主義 | 固定リンク -
緑の木々に赤いバラが見える/それは僕たちのために花開く/僕はしみじみ思うんだ/なんて素晴らしい世界かと/青い空や白い雲を眺める僕/明るく喜びに満ちた昼、暗く神聖な夜/そして僕はしみじみ思うんだ、なんて素晴らしい世界なのかと/七色の虹が空に美しく映え、行き交う人々の顔を染めている/友人たちが握手をして「ご機嫌いかが」と挨拶する姿が見える/彼らは心から言うのさ「アイ・ラヴ・ユー」と/赤ん坊が泣いているのが聴こえる/あの子たちが大きくなって/僕よりずっと沢山のことを学ぶだろう/思わず感動してしまう/なんと素晴らしい世界じゃないか/そうさ、僕はしみじみ思うんだ/嗚呼、この世はなんて素晴らしい世界なのかと
上の歌詞は、ご存じ、ルイ・アームストロング歌う「この素晴らしき世界」で、訳は「文芸ジャンキーパラダイス」というサイトの管理人さんである。
こういう素晴らしい世界を我々は与えられた。
だが、我々が残す世界はどうだろうか。
放射能に汚染され、労働者は陰鬱な顔をし、子供は勉学と競争と人間関係に疲れ、自分たちの未来に何の希望も抱けない、そんな世界ではないだろうか。
では、なぜそうなったのか?
政治家が悪い?
よその国が悪い?
「水になった酒」という話がある。
ある村で、尊敬されていた老教師が定年となり、村の人々は彼の長年の業績に感謝し、プレゼントを贈ることにした。老教師はお酒が好きなので、この村特産のワインを贈ることに決まり、各自が瓶1本ずつワインを持ち寄って、それを樽に詰めて贈るということになったのだが、慰労の宴会が終わって、客たちが帰った後、老教師が楽しみにしていたワインの樽を開けて飲んでみると、それは完全な水であった、という話である。
べつに推理するまでもなく、村人は全員、自分の瓶に水を詰めて樽の中に入れていたのだ。
この話のポイントは
「自分だけならちょっと悪いことをしても大勢に影響はないさ」
という思想が、大きく積み重なった結果、「大惨事」に至る、ということだ。
ワイン一樽程度なら笑っても済ませられる話だし、「大惨事」はもちろんおおげさだ。
しかし、現実には、それと同じことが社会では無数に起こっているのである。
日本社会における原発群も、「少しならかまわないさ」「自分ひとりが反対してもしょうがない」「これで自分が利益を少々得てもいいじゃないか」の積み重なった結果なのである。
もう一つ、「文芸ジャンキーパラダイス」から引用しよう。
これも有名な言葉である。
●「最初にナチスが共産主義者を弾圧した時、不安に駆られたが、私は共産主義者でなかったので、何の行動も起こさなかった。次にナチスは社会主義者を弾圧した。私はさらに不安を感じたが、社会主義者ではなかったので何の抗議もしなかった。それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、その度に私の不安は増したが、それでもまだ行動に出なかった。ある日、ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして私は牧師だった。だから立ち上がって行動に出たが、その時はもうすべてが遅かった」(マルチン・ニーメラー牧師) -
井口博士のブログから転載。
私は人類型の知的生命体が地球以外にいるとはあまり信じていないのだが、いたら面白いな、とは思っている。そして、一部の人間の強欲(この「強欲」がどうしても一発で漢字変換されないのである。これまで何百回もワードで書いてきたのに。ワードの嫌いな言葉なのだろう。)のために「文明の進化」が「金による人類支配と人類の奴隷化」になっているのだから、宇宙から人類をはるかに越える聡明な知性を持った存在がやってきて奴隷化した人類を救ってくれるというファンタジーも、神への信仰というファンタジーと同様に人類にある種の希望を与えるものだと思っている。
さて、下の記事が面白いのは8月4日という明確な期日を明示しているところである。その日に何も起こらなければ、これらの記事の筆者たちは、これまで自分が書いてきたすべてがただのファンタジーだったことを自ら認めるしかなくなる。それほどの危険を冒しながら、こうした記事を書いたということは、よほどの覚悟か自信があってのことだろう。
であるから、8月4日を刮目して待つことにしよう。
それが悪魔の姿で現れたら某SF小説は予言の書であったということになる。まあ、今の地球を支配する連中が自分たちの敵の姿を使って「悪魔」イメージを作ってきた、というわけだが、地球がそんな宇宙的闘争の舞台であるというファンタジーは、人類の自惚れであって、宇宙全体から見れば地球の中の人類など、人類の目から微生物の世界を見るようなものだろう。ヴォルテールがそんな話を書いていたのを今思い出した。
(以下引用)
2012年8月4日は地球人類にとって永久に忘れることのできない記念日になる!?
みなさん、こんにちは。
今回のロンドン五輪がたいへん興味深いのは、我々地球人類の行うオリンピックだけではない。なんと、この2012年ロンドン五輪を、これまでずっと外から見守って来た宇宙人グループが、UFOデクローク(UFO出現)のためのイベントに選んだというのである。スピリチュアルな能力を持つかなりの人々がそうしたメッセージをチャネリングなるもので得たという。例えば、以下のものである。
遂にその日が決まりました。
2012年8月4日は地球人類にとって永久に忘れることの出来ない記念すべき日となるでしょう。地球外知的生命体とのファーストコンタクトが実現することが決まりました。19世紀半ば、英国で始まり世界中に広まったスピリチュアリズム(地球の霊的浄化運動)は同じく英国でグランドフィナーレを迎えることになりそうです。オリンピックの開会式にははるか上空を遠慮がちに飛んでいたUFOですが、8月4日には堂々とオリンピックスタジアムに姿を現すことを伝えてきました。
これまで期待を持たせて実行されなかった数々の出来事がありましたので、今度もその類と思われるかもしれませんが、これほど明確なメッセージが寄せられたのは始めてです。信用して良いと思います。これが偽旗作戦であるなら、私も以後一切のチャネリング・メッセージは信用しないことにします。
プレアデスからのチャネリング・メッセージ
地球時間7月25日に、プレアデス高等評議会とほかの四つの銀河連合は、銀河規約ガイドラインにしたがって、光のプレアデスファミリーが、ガイアの次元上昇に完全に介入すべきことを決定した。さらに、このメッセージの伝送から八日後の8月4日に世界中の人が見られるようにロンドンでのオリンピックゲームで、地球人との完全コンタクトを行うことが決定された。これは私たちの紹介と同時に、あなた方と共に初めての努力として行うガイアの修復と次元上昇作業、およびあなた方の次元上昇支援のためである。この銀河の介入は、以下の理由で指令された。(以下省略)
8月4日を過ぎれば、我々でディスクロージャーを行う—サルーサからのメッセージ(7/30)
銀河連邦 SaLuSa 30-July-2012 by Mike Quinsey
親愛なる皆さん、既に多くの情報源から聞いているでしょうが、神から、ディスクロージャーを遅延なく行うようにとの指示が出されました。我々はこれまで極限まで我慢し、皆さんのリーダーたちに、皆さんをイルミナティの支配から解放するステップに自ら踏み出すように、多くの機会を与えてきました。彼らもまた、イルミナティを怖れていることは判ってはいますが、それは横へ置いて、真実は真実として明らかにされねばなりません。オリンピックは世界中の注目を集める機会であり、ディスクロージャーを行う上で、それ以上に良い機会は考えられません。時間は飛ぶように過ぎつつあり、我々は、我々を知ってもらう機会をどうしても必要としています。(以下省略)
ディスクロージャー、早くて8月4日か?
私の以前の記事、「ミステリー・サークルが伝える日付け」で、この6月2日に現れたサークルが、2012年8月4日(土曜日)19:43:53、を指していると書きましたが。
また、新たなサークルが、7月27日に現れて、同様に、8月4日、を指しているようです。
この8月4日が、「天界の定めたディスクロージャーを行うべきデッドライン」である、という情報が今、ライトワーカーの間で急速に広がっています。この日までに、地球人側でディスクロージャーを行わなければ、8月4日以降は、スペース・ファミリー側単独でもディスクロージャーを行うことが許される、というものです。(以下省略)
ロンドン五輪にエイリアンの介入、それも金髪碧眼タイプのプレアデス人の介入が起こるかもしれないという話である。 -
孫埼亨の「日本戦後史の正体」は出版されたばかりで多くの人から絶賛されているが、孫埼氏は日本有数の本物の評論家であるから、それは当然だろう。だが、日本戦後史というか、世界の近代史の真の姿を知りたければ、本など買わなくても15分で知ることができる。私のブログのカテゴリーの一項目である「青少年のための世界解釈入門」を読めばいい。これも孫埼氏同様、対象を高校生あたりに想定している。易しく読める点では、たぶんお固い内容だと予測される孫埼氏の本より上だと思う。(もう少し詳しく書いたものをそのうち掲載する予定だ。題は「高校生のための現代世界入門」になるだろう。)
ただし私の記事は、自分の記憶だけで書かれたものなので、どうでもいいような事実の間違いはたくさんあるとは思う。要するに、現代史を知りたい高校生が、まず現代史の概略をつかむのに適した文章なのである。
本当はそれも読まなくてもいい。「近現代史とは、欧米による世界侵略と世界支配の歴史である」という一言でも十分だ。あるいは「西欧文明の精神とは、山賊・海賊の精神である」でもいい。西欧文明の精神を知らずに彼らとつきあうことはできない。
要するに、人類の大半はお人好しだから、「言われた言葉は本当だ」と思いこむ。それを利用して欧米人(特にユダ金)は口で美辞麗句を言いながら侵略行為・強奪行為を重ねて巨冨を獲得し、世界を支配してきたのである。つまり彼らにとって「言葉」と「行動」はまったく別なのだ。
法律の世界と科学の世界をユダヤ人(厳密にはユダヤ人ではないから「支配的白人」と言い換えてもいい)が支配したのは、実はそこにこそ多くの利権があり、それらが真実のみに見えながら嘘を有効に用いて社会を支配できる道具であるからだ。
私がしばしば「日本は鎖国したほうがいい」というのは、天性の嘘つきである連中とまともにつきあうことはできないし、つきあうことによってこちらの性質が汚染され、彼らの同類、ちゃちなイミテーションになるからである。
下に引用した部分は孫埼氏の新著の目次紹介である。
(以下「あいば達也のブログ」から転載)
≪はじめに
序章 なぜ「高校生でも読める」戦後史の本を書くのか 日本の戦後史は、「米国からの圧力」を前提に考察しなければ、その本質が見えてきません
第一章 「終戦」から占領へ
敗戦直後の一〇年は、吉田茂の「対米追随」路線と、重光葵の「自主」路線が激しく対立した時代でした
第二章 冷戦の始まり
米国の世界戦略が変化し、占領政策も急転換します。日本はソ連との戦争の防波堤と位置づけられることになりました
第三章 講和条約と日米安保条約
独立と対米追随路線がセットでスタートし、日本の進む道が決まりました
第四章 保守合同と安保改定
岸信介が保守勢力をまとめ、安保改定にものりだしますが、本質的な部分には手をつけられずに終わります
第五章 自民党と経済成長の時代
安保騒動のあと、一九六〇年代に日米関係は黄金期をむかえます。高度経済成長も始まり、安全保障の問題は棚上げされることになりました
第六章 冷戦終結と米国の変容
冷戦が終わり、日米関係は四〇年ぶりに一八〇度変化します。米国にとって日本は、ふたたび「最大の脅威」と位置づけられるようになりました
第七章 9・11とイラク戦争後の世界
唯一の超大国となったことで、米国の暴走が始まります。米国は国連を軽視して世界中に軍事力を行使するようになり、日本にその協力を求めるようになりました あとがき ≫(著者:孫崎亨『戦後史の正体』目次より転載) -
一昨日の総理官邸前4万5千人デモのニュースに接して、世の中に新しい胎動が始まっているという印象を受けている。日本に本当の「市民」が生まれつつある、という印象だ。
上から与えられた民主主義を本当に国民のものにするために、政治に関心を持ち、自分の頭で考え、行動する「市民」たちが。
「おぼえがき」というブログから拾った「民衆の歌が聞こえるか」の訳文を、これからの日本での真の民主主義の誕生を祈念して転載する。
「ユー・チューブ」などで原曲は聞けるので、この素晴らしい歌を実際に聞いてみるといい。
(以下引用)
2011.03.28 Monday
民衆の歌
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戦う者の歌が聴こえるか
鼓動があのドラムと響き合えば
新たに熱い生命が始まる
明日が来たとき
そうさ明日が
若者たちの歌が聴こえるか
光り求め高まる歌の声が
世に苦しみの炎消えないが
どんな闇夜もやがて朝が
彼ら主の国で 自由に生きる
鋤(すき)や鍬(くわ)を取り 剣を捨てる
鎖は切れてみな救われる
列に入れよ 我らの味方に
砦の向こうに 憧れの世界
みな聴こえるか ドラムの響きが
彼ら夢見た 明日が来るよ
ああ!明日は!!
ミュージカル「レ・ミゼラブル」より
