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徽宗皇帝のブログ

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「道徳」の本質は何か
前の記事に書いた、「市民道徳」(あるいは人生指南)の参考として、冨永仲基の「翁の文」の一節を載せる。別ブログに載せた、私自身の訳である。長くて詳しすぎる内容だが、簡潔に言えば「己の欲せざることを人に為す(施す)なかれ」か。(確か、キリストの言葉だったか。孔子も同じようなことを言っている。)
殴られたり怒鳴られたりするのが好きな人間はいないだろう。しかし、他人を殴ったり怒鳴ったりする人間は多い。それを「道徳的廃人(非人)」と言っていい。
たとえば、子供を教えるのはいいが、「教育」のために子供を嚇す(傷つける)べきではない。我々は、常に自分自身を正当化するから、それ(自分の行為)が他者にどういう負担を与えているか、気づきにくいのである。それを自覚するのが「道徳」の本質だろう。子供を脅し、鞭で打つことで、子供は確かに「強くなる」だろうが、それで出来上がるのはヤクザ体質の馬鹿、狂人だったりする。つまり、社会を悪化させる。それを「道徳に反する」行為と言うのである。

(以下自己引用)

翁の文(第六節)



それでは、その真の道の、今の世の日本で行われるべき道はどうかと言うのなら、ただ物事の当たり前のことを務め、今の仕事を本として、心をまっすぐにし、身持ちを正しくし、物の言い方を丁重にし、ふるまいを慎み、親がいる者はよくこれに仕え、(翁の自注に言う、六向拝教を見るべし、もっぱら五倫のことを説いている、また儒者もこれを重んじている、また神令にもこの五種を載せておられる、これは真の道は三教の道にも欠かせないものである印である、と。)主君がある者は、よくこれに心を尽くし、子がある者はよくこれを教え、臣下がある者はよくこれを治め、夫がある者はよくこれに従い、妻がある者はよくこれを率い、兄がある者はよくこれを敬い、弟がある者はよくこれを憐れみ、年寄りに対してはよくこれを大切にし、幼い者に対してはよくこれを慈しみ、先祖のことを忘れず、一家の親しみを疎かにせず、人と交わってはまごころからの誠意を尽くし、悪い遊び(注:遊蕩のことだろう。)をせず、優れたものを尊び、愚かな者をあなどらず、おおよそ我が身に当てはめて(考え)、悪いことを人に為さず、鋭く角々しいことをせず、僻んで頑なにならず、せかせかと余裕の無い態度をせず、怒ってもその際限を誤らず、喜んでもその守りを失わず、楽しんでもそれに淫せず(溺れず)、悲しんでも迷いに至らず、十分なことも不十分なことも、みな自分の幸福だと心を満足させ、受けてはならないことは塵ほどのものも受け取らず、与えるべき場合には国や天下でも惜しまず、衣食の良い悪いも、自分の身の程に従い、贅沢をせず、吝嗇でなく、盗まず、偽らず、色を好んでも理性を失わず、酒を飲んでも乱れず、人に害の無いものを殺さず、食物を慎み、悪いものを食わず、多くは食べず、(翁の自注に言う、云々:この段の論拠が古典や経などにあることを述べているだけなので省略する。)暇な時には自分の身に利益のある芸を学び、賢くなることを務め、(翁の自注に言う、云々:同様に省略)今の文字を書き、今の言葉を使い、今の食物を食い、今の衣服を着、今の調度を用い、今の家に住み、今の風俗習慣に従い、今の掟を守り、今の人と交際し、さまざまな悪いことをせず、さまざまな良いことを行うのを真の道と言い、また今の世の日本で行われるべき道とも言うべきである。

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