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>>>>【記事番号:497】 サトリの先にあるもの・2
投稿者: 苫米地英人
投稿日時: 04/02/16 18:53:44
近代宗教(キリスト教、イスラム教、仏教など)は、原始的宗教に一般に見られる矛盾=神と人間の関係が対等であるという立場、もしくは、人間が神を使役するという、人間が神の上位になる関係を避けることで成り立ってきたといえます。例えば、日本の古来の「御利益」の概念は、人間が、一心不乱に祈ったり、水行をしたり、生け贄を捧げたりして、なんらかの犠牲を神に払えば、神がお返しに御利益をくれるという概念です。これは、人間の行為に神が見返りを提供しなければならないという、人間と神を対等もしくは、人間優位の関係に置くものであり、近代宗教とはなり得ないものです。なぜなら、そのような論理は、人間の側の行為、論理が、神の行為、そして究極的には神そのものを定義するということであり、これは、その論理で主張される存在が、「神」である以上、必ず破綻するからです。まさにゲーテル的な論理破綻です。
勿論、西洋では、キリスト教、イスラム教を生み出した、紀元前のユダヤ教の基本が、「神との契約」の概念であり、荒っぽく言えば、神と契約して、人間が契約どおり行動すれば、神は、御利益をくれるという、日本の古来からの「御利益」の概念と同様なものです。この意味では近代宗教とはなり得ないものであったわけです。具体的には、この神を人間と対等とする、もしくは、人間の願望成就の道具とするという問題は、ユダヤ教の場合は、1)神殿主義(サドカイ派)、2)律法主義(ファリサイ派)、3)修行主義(エッセネ派)が、それぞれ、1)所得の10%も税を払い立派な神殿を維持してきたのに、イスラエル王国はアッシリアに、ユダ王国はバビロニアに滅ぼされ奴隷となった(バビロン捕囚)という神殿主義の矛盾、2)律法を神との契約通りに守っているかを判断するのは、結局人間の側、(それも通常自分自身)であり、実際に神との契約が守られて、罪人ではなくなっているか否かは、死ぬまで分らない(つまり何の救いにもならない)、もしくは、人間が自分で神の満足レベルを決めるしかないという律法主義の矛盾、3)そして、いくら荒野で荒行をしても、結局、神は、人間とは関係なく判断するのであり、律法主義と同様、荒行が御利益の保証には全くならない、というエッセネ派の荒行主義の矛盾として知られていますが、これらの矛盾こそ、ユダヤ教の改革者であったイエスに指摘されたものです。これは、現在のあらゆるカルト的な宗教の矛盾を端的に表しています。
ここで、イエスの主張は、神と人間が契約するなどとはおこがましいという主張といえましょう。全ては神の側が決めるのであり、人間の側が何をしてもおこがましいということです。また、「神は既に我々と共にある」、もしくは、「神は無条件に人間を愛している」という主張です。だからこそ、逆に、例えユダヤ教律法主義で規定された罪人であっても、神は許す可能性があるという論理となります。全ては神の側が自由に決めるのであり、人間と神が契約という立場で人間が神の行動を制約するような、対等もしくは、人間優位な関係なのではないという主張です。勿論、この「神は既に我々と共にある」という主張を受け入れれば、この論理に矛盾はありません。紀元前のユダヤ教を含む多くの、「御利益主義」宗教が抱える本質的な問題を解決する画期的な主張であったわけです。
また、イエス後のキリスト派の論理では、神の子であるイエスが、人間に代わって神に対して圧倒的な犠牲を払ったので、その後ずっと、人間は神とのもともとの契約(旧約)通り「御利益」を得られるという論理でもあります。私はこの部分は、後世の付け加えと思っています。わざわざイエスがそういう主張をする必要性が感じられないからです。イエスの主張「神の一方的かつ無条件な愛」というこの一点で、イエスは、全てのカルト的原始宗教の矛盾を断ち切り、人間を神からの断絶から救い、神と和解させたと思うからです。
一方、インドにおける、仏陀以前のバラモン教の伝統は、ユダヤ教のサドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派の全てを合わせたような伝統でした。やはり、ここでも、我々の永遠かつ固有なるアートマンは、宇宙の永遠かつ普遍なブラフマンと合一することが「解脱」であり、その為に、マントラも唱えれば苦行もすべしという立場です。これも、苦行なりバラモンへの布施なりが、カルマの解消なり、なんらかの見返りをくれるという因果律における「御利益主義」といえます。仏陀は、これを、イエスとは異なる論理で否定しました。仏陀の論理は、「縁起」です。宇宙の全て、「神」も含めて、独立して永遠に存在できるものは何もないという哲学です。因果律という法則さえもが、アプリオリなものではなく、縁起によるものであるという主張です。ブラフマンも空、アートマンも空、カルマも空です。十二支縁起説を認めるならば、この論理にも矛盾はありません。
重要なのは、この「矛盾がない」という点です。これは表面的な論理で矛盾がないということではなく、徹底的に吟味して、矛盾がみつからないということです。(勿論、無矛盾を証明できるという意味ではないです。)今でも沢山の脱洗脳依頼を受けますが、それらのカルトを見て分るのは、そういったカルトの教義が、我々には容易に認識できる本質的な矛盾を内包しているということです。勿論、教祖達は自分の教義には矛盾はないといいますが、実際には、イエスや仏陀が退けた矛盾で固められているものがカルトです。基本的には、イエスや仏陀が退けた「人間の何らかの『正しい』営みが、その人に返ってくるという『御利益主義』」がカルトの典型です。だからこそ、ハマる人が多いのだと思うし、また、巨額のお布施を受けて、これらのカルト教団が成り立っているのだと思いますが。
キリスト教なり仏教なりの伝統宗教が、本質的なレベルで、意味を持っているのは、このような原始的宗教の論理矛盾を始祖が解決したところから始まっているという点です。勿論、私が話してきた多くの、伝統宗派の教会や寺院の神父、牧師、僧侶の主張には、いろいろな理由で矛盾だらけなのは否めません。現実には、現在の教会や寺院が、何らかの理由でイエスや仏陀が退けたものになってしまっているということでしょう。 組織や人が人を支配する必要性が生まれ、教団化した宗教は、必ず、人が人を支配する、人が神を使役する論理を教義に導入しますから、その瞬間に、ゲーテルの定理が発効するわけです。
私が言いたいのは、そういうキリスト教団や仏教教団の現実的問題ではなく、イエスや仏陀のもともとの発見が、本質的に無矛盾であるということです。矛盾がないというのは、徹底的に考え抜いた末に、全く新たな水平線が広がる可能性があるということです。矛盾があれば、それは、考え抜く価値もないわけです。
まさに、人間の論理的体系で神の存在の証明はできないという主張は、ゲーテルの定理を待つまでもなく、2500年、もしくは、2000年前に既に仏陀やイエス自身により、しっかりと主張されているのです。これにより成立したのが、仏教であり、キリスト教なのです。彼らは、イエスであれば、神の無条件の愛を主張し、その主張による、神とのユダヤ教以来の矛盾による断絶からの和解であり、また、仏陀ならば、人間の思考活動が想定する「神」の概念を超越する視点の可能性を主張することにより、まったく新しい知見の水平線を見せるという具体的な方策を持っての主張をしたわけです。
勿論、これは、そもそも、そういう知見、知能をもったイエスや仏陀という「人間」である情報処理機関を宇宙は何故生み出したかという質問の答えにはなっていませんが。
ところで、ゲーテルの不完全性定理は、一つの系の中での無矛盾関係の証明不能性です。ここで、イエスは、「神の存在の有無」に関する単調論理系に、「既に神は支配している」という、非単調な論理を導入して、無矛盾を主張したのであり、また、仏陀は、「絶対的存在の有無」に関する単調論理系に、有でもない、無でもないという「空」の概念を導入して、非単調に無矛盾を主張したのであり、彼らの論理体系は、それぞれ、ゲーテル的数理哲学の論理を逸脱、もしくは、超越して、「成り立って」いるわけです。勿論、知の体系という系のなかで、これは、そもそもルール違反ですが、信仰とはそういうものであるということでしょう。もちろん、論理的には、彼らの主張の無矛盾証明になっていないことはいうまでもありません。ただし、イエスや仏陀以前のユダヤ教はバラモン教が、論理体系中に明らかに矛盾を孕んでいたことに対して、彼らの主張には矛盾が存在しないことは、直感的に我々は認識することができます。
私が、「洗脳護身術」で宗教を積極的に評価する方向性を呈示しているのは、正にここです。私の見る限り、現在の多くのキリスト教会、仏教宗派の「宗教的」主張ならびに行為は、単に儀式的な主張であり、宗教的には、イエスや仏陀自身が否定した、「カルト的」な「神」や「仏」の説明で終始しています。ただ、これは、彼ら牧師や僧侶の不勉強の結果であって、これらの宗教そのものの本質的な問題ではないと思っています。勿論、「神の一方的かつ無条件な愛」や、「縁起」という大前提を受け入れなければならない訳ですが、一度、これらを受け入れれば、無矛盾かつ、圧倒的な広大な知見の世界が広がることも事実です。これが、カルト的なものと、キリスト教や仏教との本質的な差であると考えています。イエスの主張や仏陀の主張は、現代的な哲学的分析ならびに科学的な吟味を経た上で、徹底的に考え抜いてみれば、十分に、現在でも、我々に新たな宇宙の水平線を呈示する可能性があるということです。そのうえで、イエスや仏陀の主張を自分の知見とするか否かを自ら選択するという方法もあるということです。必要以上に、親宗教的に誤解されない為に、このようなことは、著書には書いていませんが、率直なご質問なので、率直にお答えすればこのようになります。
ところで、内部表現による「空」のアプローチに対する、ご質問の本題として、そのように、我々の内部表現が「世界」を生み出しているとして、そのような世界もしくは、宇宙は何故存在しているのかというご質問ですが、私自身は、宇宙はもともと情報(識)により存在しており、その情報の特定の状態が物質を生み出していると考えています。勿論、「なぜ」というのは、その宇宙としての情報処理機関の「意図」を解釈せよという命題ですから、はるかに微少な情報処理機関である私の脳には、それは処理不能な命題です。ただし、宇宙という情報処理機関に「意図」があるのかというご質問として再解釈すれば、答えは、T(イエス/はい)です。これは、宇宙がもともと情報からなりたっているという主張から必然的にそうならざるを得ません。ここで、「情報」をシャノンの言う「情報」と誤解されると困りますが、ここでいっている「情報」は、「表現論的な存在」ぐらいに、理解してください。詳細は、BBSでのディスカッションには向かないと思いますので割愛しますが。
例えば、よく私がクラスで話す比喩で、山の上で波模様を地層に発見した人の比喩があります。教育を受けていない人や、昔の人が、その波模様を見ても、その波模様には、なんの意味も感じません。つまり波模様の表現論的存在は「たいしたことがない」ことになります。ところが、学校で、山も昔は海の底だった場合があることを学んだことがある人は、その波模様からそこは海の底だったのではと推測します。プロの地質学者なら、それが、波の痕跡であるリップルマークであると断定するかもしれません。それで、山の上の波模様は、「たいしたことがある」表現論的存在になります。ところで、その山の波模様は、1)無知とはいえ誰かに発見された、2)少し知識のある人に発見された、3)プロの知識にある人に発見されたことで、存在として代わったでしょうか? 勿論、その本質は全く変わっていません。ただし、発見された人の知識と解釈により、つまり脳の働きにより、存在としてのなんらかの重要な変化があったわけです。まさに「縁起」です。観測者(認識者)の知識、知能が上がれば上がるほど、観測(認識)される宇宙は「たいしたことがある」ものになるという可能性が、「縁起」の示唆するところでしょう。
ところで、この波模様という情報になんらかの伝達者の「意図」があったといえるでしょうか? 通常は、自然が生み出した模様だから意図はないと考えます。私は、定義上、「意図があった」と考えるべきであると思っています。少なくとも、認識者の側から見ると、その解釈内容である「ここは海の底であった」という情報内容が、その認識者にとっての、その波模様という表現論的存在の意図となります。勿論、部分情報の世界で生きている我々人間にはあり得ないことですが、ある情報を、完璧に解釈に成功したと仮定すると、解釈者の意図(情報内容)は、伝達者の意図(情報内容)と合致するわけです。そうであれば、潜在的には、もしくは、可能性として、その波模様には意図があったことになります。同様に、宇宙という表現論的存在に、可能性として意図があり、また、宇宙のあらゆるところに、その意図が可能性として顕在化しているということになります。
皆さんが、キリスト教、イスラム教、仏教などのどれを選択することも自由ですし、どれも選ばないことも自由です。ただ、選択するからには、徹底的に、それぞれの始祖の主張まで立ち返って思索し、吟味するべきものであり、特定の指導者の発言や、「神秘体験」などの個人的な体験に依拠するべきではないというのが、私の常々の主張です。そして、ほとんどの私が見てきた、いわゆるカルトのみならず、伝統宗教の宗派においても、その教えに、どこか、イエスや仏陀自身が否定した「カルト」的な要素を感じるのも事実です。だからといって、これら伝統宗教の本質に価値がないといっているわけではないということです。少なくとも、私自身は、ご指摘の通り、不必要な誤解を受けないように執筆してきているつもりです。その上で、現代哲学、現代科学の最先端の知識で吟味してこそ、これらの問いに意味があると思っています。また、臨床の現場などでの、empirical な知識も有用です。「病は気から」という昔から言われている単純な命題が、癌に対するイメージ療法などの効果により新しい側面を迎えており、代替統合医療が生まれたという事実もあります。勿論、「洗脳護身術」にあるように、「空」である霊の存在をわざわざ肯定して、悪霊と闘い、結果、その臨場感世界の敗北により、死んでしまった僧侶の実例もあります。仮想世界での敗北が現実の死につながるという、これなどは、まさにマトリックスの世界です。どうやら、人間の情報処理の結果が、細胞レベルまでなんらかの影響を与えているのは間違いなさそうです。こういった現代科学の知見で、イエスや仏陀が主張した命題を再吟味してみるということには、当然、価値があることですし、その吟味の一つに、そのような、「神」もしくは、「宇宙」が何故存在しているかという問いは当然含まれるでしょう。私自身は、その答えは、先に述べた表現論的宇宙の「意図」の存在の可能性と認識しています。
別な言い方をすれば、イエスや仏陀が、2000年、2500年、正しく理解されずに来たとも言えます。現在、イエスや仏陀の主張を、100年前、500年前の神学者や学僧たちより、どうもよりよく我々が理解できるのは、正に、自然科学と哲学を含む知識科学の進歩のおかげと言えましょう。その意味で、現代だからこそ、まさに、「宇宙はなぜあるのか」という問いは、「人間には分らない」で片づけないで、考え抜く価値があると思っています。
ところでこれら、イエスや仏陀の論理が、無矛盾だからこその空しさもあります。それは、彼らの論理が、証明論理の系の中で無矛盾を維持しているということは、彼らの主張は、論理的には、我々になんの御利益(救い)ももたらさないからです。だからこそ、無限後退とならずに、無矛盾な主張を維持できるわけです。逆に、御利益を主張できる宗教は、それは、必ずイエスや仏陀が退けた矛盾するカルト的宗教ということになります。
イエスでいえば、神は無条件かつ一方的に愛してくれているわけで、ユダヤ教律法主義における罪人であっても救われる可能性があるということですが、同様に、律法主義における模範的な人間も救われない可能性があるということです。神はあくまで、人間の側の努力にかかわらず、神の自由な判断で人を救うのですから。これは、人間は何もしても変わらないという発想を生み出す、空しさを内包しています。イエスが言っているのは、本質的には、神の、人間とは何の関係もない自由な行動のおかげで、どんな人間であっても我々は救われる可能性があるということだけです。これに何の保証もしていません。保証をした瞬間に、イエスの教えは、彼の退ける「カルト」となります。ただ、イエスの主張の「神が一方的に無条件で人間を愛している」という主張を全面的に受け入れるならば、救われるというそれだけです。つまり、その主張の受容、即ち「信仰そのもの」が「救い」であるという非単調論理です。何の保証もなければ、なんの見返りもありません。救い=信仰というのみの主張です。確かに、空しいといえば、空しい論理です。ただし、一度イエスの言葉を受容するならば、徹底的な救いであるとも言えます。
仏陀でいえば、まさに「空」の空しさです。「縁起」によれば、苦しみも空ですが、喜びも空です。勿論自我も空であり、全ての宇宙は空ですから、まさに空しさを内包した考え方です。後に中観思想とよばれる大乗仏教的見方が、仮観を対応させて、中観を生み出したことは、前にも書きましたが、空観の本質的な空しさは変わりません。ただし、仏陀の主張である「縁起」を受容するならば、全ての苦しみから解放されることは間違いありません。やはり、徹底的な救いであるとも言えます。
正に、イエスや仏陀の言葉が、論理体系で無矛盾であればこそ、彼らの言葉は、論理的には空しいものです。だからこそ、「カルト」的でないのです。彼らの発見を自らのものとするということは、安心して、立ち止まって、思考を停止できるということにはならないということです。それは、ただの狂信です。また、それをさせるのがカルトです。イエスや仏陀の言葉を受容するということは、継続的に我々の側でダイナミックな思考活動を続ける必要があるということでもあります。(それが彼らのいう信仰行為となります。)止観の「止」も止めるというより、ダイナミックに制御するという意味です。その果てに、サトリがあるのでしょう。もちろん、イエスや仏陀の発見を受容するということは、科学的もしくは哲学的な行為であり、これが、伝統宗教宗派に帰属するか否かとは何の関係もないことはいうまでもありません。
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