第九章 カルマの終わる時
冬晴れの青い空が頭上に広がっていた。
町の墓地に憐は立っていた。彼の前には、母親たちの古い墓標と、父親の新しい墓標があって、三つとも花が供えられていた。彼の傍に、彼と仲のいい中学生が立っている。
「じゃあ、憐さんは、北海道の修道院に入るんですね?」
「ええ。そうします」
「屋敷はどうするんですか?」
「売って、皆で分けますよ。家も、土地も、工場も。僕には、経営なんてできないからね。乱兄さんの出所後の生活費と、論兄さんの病院の費用は、ある人に預けて、それ以外はほとんど、家の使用人と工場の人たちに分けることになっています」
「もったいないですね」
「そうですか? 僕には、お金は人を不幸にするとしか思えない」
「まさか。誰でもお金はほしいでしょう」
「必要なだけあればいいんですよ。いったい、なぜ世の中に、泣いている人々がいるのか。飢えている人々がいるのか。僕の力では、その中の、ほんの一部しか救えない。人々の心そのものが変わらないかぎり、世の中から『餓鬼』の泣き声はなくならないんです。いつか僕は修道院を出るでしょう。もしかしたら、とんでもない事を始めるかもしれない。自分が何をすべきなのか、しばらく自分を見つめるために、僕は修道院に入るんです。自分の信仰を見つめるために」
「革命家にでもなるんですか?」
「さあ、どうでしょう。僕の性格には合いませんけどね」
「僕は世の中を引っくり返してみたいなあ。そんな事を言うと、親父は、アカみたいな事を言うなって怒鳴るけど」
「世の中を変えるのは、必ずしも革命だけではありませんよ。キリストは世界を変えました。たとえ芥子種のような小さな物でもそれが多くの人の心に撒かれて、大きく広がっていくこともあるんです。世の中が変わるのは、心から変わるのだと今の僕は思っています。でも、それが果たして正解なのかどうか、考えてみたいんです」
「あなたも業家の人間ですからね。多分、すべてに徹底しているのが、業家の特徴なんですよ。僕も見習いたいな」
「そうですか? 僕は駄目な人間です。僕の信仰だって、本物だという自信はない。だからこそ、修道院の厳しい生活を経験してみたいんです。自分の甘さを拭い去って、その後に何が残るか、それとも何も残らないか」
「あなたは、きっとやりますよ。きっと、後世に残る偉人になります」
憐は微笑んで、何も言わなかった。少年の感激に水を注したくはなかったのだろう。
憐は少年に別れを告げて歩き始めた。墓地の入り口に黒卯紫苑の姿が見える。彼が遺産を処分した残りを預けたのが彼女であった。必要な金を除き、後は彼女が使ってくれ、と言ったのである。それが、彼女の人生を泥水に変えた父親の罪の償いであった。
紫苑と目が合った憐は、軽く会釈をしただけで、何も言わずにその前を歩み過ぎた。紫苑も言葉はかけなかった。
憐の立ち去るのを見送った紫苑は、振り返って墓地を見た。小高くなった業家の墓所に、白い花束が見え、そしてその後ろの青い空には、刷毛で刷いたような白い雲がわずかに浮かんでいた。
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