第三章 論
論は、見たところ、しっかりした性格の人物に見えた。鼻梁の高い白皙の顔に金縁の眼鏡をかけ、その眼鏡の奥の目には冷笑的な光があった。彼は東京帝国大の2年生であり、ドイツ文学を専攻していたが、文学よりも哲学に興味を持ち、特にニーチェの超人哲学に惹かれていた。藤村操の哲学的自殺にも見られるように、まだ人間が真剣に思索していた時代であったから、彼もまた神の存在の有無とか、この世の善悪の基準とかいう問題で頭を悩まし、軽い神経衰弱にかかったのである。そういう問題に取り付かれたのは、彼がまだ尋常小学校の高学年の頃だというから、かなり早熟な人間だったのだろう。
彼は同じ東京に住んでいながら、兄の乱とはほとんど顔を合わさなかった。実のところ、私大に通う兄を馬鹿にしていたのである。兄のほうも、弟の頭脳を畏怖し、放蕩の清算のための金の無心をする時以外は、彼を敬遠していた。兄だけではなく、彼の同級生でも、彼と論争して勝てる人間はほとんどいず、彼を己惚れさせたが、その半面、親しく語る相手がいないことは、彼の心を自閉的にし、憂鬱の中に閉じ込めることが多かった。
彼が特に心を悩ませている問題は、神はいるのか、いないのか、という問題であった。神がいるなら、すべては解決である。神の与えた律法のとおりに人間は生きていくしかない。もちろん、ではそれはどのような神か、という問題があるが、少なくとも、神の律法に従うだけだということは変わらない。だが、神がいないとしたら? そうすれば、この世の善悪はすべて相対的なものになり、極端に言えば、「すべては許される」ことになる。果たして、どちらなのか。そして、それは証明することが可能なのか。
「お前は、神さまを信じているらしいね」
彼は憐に言った。帰って翌日である。取りあえず、二階の空き部屋にしばらく滞在することにしたのであった。憐は、困ったような顔で答えた。
「ええ」
「それはどんな神様なのだい?」
「キリストの神です」
「なぜ、その神様が正しい神様だと思うのだい?」
「わかりません」
「その神様が間違いだったらどうしようと思わないのかい?」
「いいえ」
「ふむ。……お前は偉いよ。俺は、それが怖くてならない。ある神様を信じた後で、その神様が偽者だったとわかったら、自分の人生のすべてが無意味になるような気がする」
「無意味にはなりません」
「どうして?」
「どうして無意味になるのですか?」
「疑問に対して疑問で返すのは反則だよ。だが、まあ、考えてみよう。……そうだな。俺は、自分の人生のすべてに責任を持ちたい。自分のしたことの結果に責任があると思うのだな。だが、信仰はそうはいかない。それが神様であれ何であれ、他の者に自分の一部を預けることになる。それが失敗したら困る、というのがその心理かな」
「それは信仰ではなく、投資ですよ」
「投資? ハハハ、面白い意見だな。なるほど、俺は神様に投資して利益を上げようと思っていたわけだ。じゃあ、お前は何のために神様を信じるのだい?」
「信じる以外に道が無いからです」
「それほど、神様について考えたのかい?」
「いいえ。考えなくても、それ以外には無いとしか思えないのです」
「ふむ……お前は幸せだよ。俺はそうはいかない。俺には、不合理なものは信じられない。この世にはびこる無数の悪を許容する神様なんて、俺には信じられないんだ。いいかい、この世には、何の罪もないのに、悪に苦しむ無数の人間がいるのだよ。特に、小さい子供たちとかね。おっと、原罪などという言葉は持ち出さないでくれよ。俺は原罪なんて信じないからな。幼い子供が、自分の知りもしない先祖の罪のために裁かれるなんて、そんな馬鹿な話はない。とにかく、罪無くして流された涙が一粒でもある限り、俺は神様を信じないよ。いや、たとえ、神様がそういう世界を作ったのが真実だったとしても、そんな神様なら俺はそんな愚かしい世界の入場券を神様に謹んでお返ししたいのさ」
「……兄さんは、優しいんですね」
「優しい? そうかな。そうじゃない。ただ頑固なだけだろう。例のトマスと同じさ。キリストが目の前に現れて、その手の穴に自分の指を突っ込むまでは、キリストの復活を信じない。俺は、それよりもまだ悪いよ。キリストが真実だろうが、俺の罪まで勝手に贖わないでくれ、と言いたいんだ。つまり、根っからの我利我利亡者か、己惚れきった合理論者なんだろうな」
「僕にはわかりませんが、そうした考えは兄さんを不幸にしているだけのように思えます」
「そうだな。多分そうだろう。そして、俺が度し難いのは、俺がその不幸を愛し、自己満足しているということさ。誤った認識のままで幸福であるよりは、正しい知識を得て不幸であるほうがいい、ということかな」
「知識そのものは、けっして人間を不幸にはしないと思います」
「まあな。俺の場合は、正しい知識が得られないことに、うんざりしているだけかもしれない。俺は、馬鹿かもしれん。まあ、お前のほうが、よっぽど賢いようだよ」
「……」
こうした問答が、論と憐の間にあったらしいのだが、例の語り手がそれをどうして知っているのかというと、彼はその頃中学生で、どうやら憐と友達だったらしいのである。早熟な彼は、憐との間に、神の存在の有無について議論をし、その際に憐とその兄の間のこの問答が語られたということだろう。これは事件そのものとは関係の無い問答ではあるが、論という人間の人物像を表す話なので、記録しておくことにする。
乱とその父親との交渉が不調に終わった後、乱は町の旅館にずっと滞在し続け、山に雪が降り始め、麓の村や町にも積もり始めたある日、再び父親との再交渉に出かけた。帰ってくると、彼は懐から高額紙幣を出して旅館のツケを払い、そのまま、ある女を伴って近くの温泉町に出かけたが、その後、父親の他殺死体が発見されて、二日後に乱はその温泉街で逮捕された。彼が犯人であることはほぼ確実に思われたが、なぜ彼がそのまま逃亡せず、近くの温泉街で遊びほうけていたかは謎であった。
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