社会主義の定義を「生産財の社会的所有」とした場合、前に書いた小室直樹の
社会主義における「社会的所有」は、対象物が「無主物」、つまり「誰のものでもない存在」となり、だから「誰がどう使ってもいい」という論理になり、汚職がはびこる。(当然、経済や産業は停滞する。)
という指摘は、社会主義経済が必然的に機能不全に陥る機序だということになる。
もちろん、「社会的所有」は必ずしも「それが無主物だから誰がどう使ってもいい」という論理にはならない、と頭から否定してもいいが、「そう(誰がどう使ってもいいと)なりがちだ」とは言えるだろう。これは法律で厳しく規定し処罰すればいいだけだ、という答えでもいいと思うが、法律を規定し国民に守らせる層(主に官僚)がその法律に違反することを防ぐことは、資本主義社会同様に不可能である可能性はある。
まあ、官僚の順法精神においては日本などはマシな部類だろうと思うが、人民がいかにして官僚を監視し支配するか、というのは民主主義国家経営の最大のアポリア(難問、しばしば解決不能な難問)だと言えるだろう。「国民主権」とは名ばかりで、現実の権力は常に官僚の側にあるからだ。
ただ、「三権分立」によって、官僚の権力はかなり抑制されてはいるとは思う。議院内閣制によって、行政各部署のトップは議員、つまり「選挙で選ばれる人間」が勤めており、「選挙で選ばれるという試練を免れている」官僚たちは、好き勝手ができないシステムであるからだ。ただ、能力的に官僚に太刀打ちできないレベルの議員が大臣になることも多い。まあ、そこは総理大臣の力量次第ではある。つまり、総理大臣というのは、シニカルな人間が思うよりははるかに重要な職務なのである。安倍や菅がいかに下種で悪党であっても、彼らが総理の座にあるということは、日本国民全員の安全と幸福を左右する権力を持っているということなのである。
とすれば、次期総理がまともな人間であるかどうかは、これからの日本の運命に大きく関わるのであり、軽薄な態度で眺めていいことではないわけだ。
社会主義における「社会的所有」は、対象物が「無主物」、つまり「誰のものでもない存在」となり、だから「誰がどう使ってもいい」という論理になり、汚職がはびこる。(当然、経済や産業は停滞する。)
という指摘は、社会主義経済が必然的に機能不全に陥る機序だということになる。
もちろん、「社会的所有」は必ずしも「それが無主物だから誰がどう使ってもいい」という論理にはならない、と頭から否定してもいいが、「そう(誰がどう使ってもいいと)なりがちだ」とは言えるだろう。これは法律で厳しく規定し処罰すればいいだけだ、という答えでもいいと思うが、法律を規定し国民に守らせる層(主に官僚)がその法律に違反することを防ぐことは、資本主義社会同様に不可能である可能性はある。
まあ、官僚の順法精神においては日本などはマシな部類だろうと思うが、人民がいかにして官僚を監視し支配するか、というのは民主主義国家経営の最大のアポリア(難問、しばしば解決不能な難問)だと言えるだろう。「国民主権」とは名ばかりで、現実の権力は常に官僚の側にあるからだ。
ただ、「三権分立」によって、官僚の権力はかなり抑制されてはいるとは思う。議院内閣制によって、行政各部署のトップは議員、つまり「選挙で選ばれる人間」が勤めており、「選挙で選ばれるという試練を免れている」官僚たちは、好き勝手ができないシステムであるからだ。ただ、能力的に官僚に太刀打ちできないレベルの議員が大臣になることも多い。まあ、そこは総理大臣の力量次第ではある。つまり、総理大臣というのは、シニカルな人間が思うよりははるかに重要な職務なのである。安倍や菅がいかに下種で悪党であっても、彼らが総理の座にあるということは、日本国民全員の安全と幸福を左右する権力を持っているということなのである。
とすれば、次期総理がまともな人間であるかどうかは、これからの日本の運命に大きく関わるのであり、軽薄な態度で眺めていいことではないわけだ。
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