「新左翼」という用語がメデイアを飛び交ったのは、1960年代後半から1980年代半ばまでの約20年間だった。
始まったきっかけは、私の拙い記憶では、ベトナム戦争のニクソン北爆だったのではないかと思う。
1950~1953年、アメリカは反共思想を拠り所に朝鮮戦争に大規模に加担したが、戦況は事実上、敗北していた。結局、どうにもならなくなって38度線固定で、コミンテルンと手打ちをした状態だった。
このとき、中国による人海作戦の恐ろしさを、アメリカは思い知った。これが戦後、冷戦体制固定を産み出した理由になっていた。
しかし、アメリカを動かしていたユダヤ金融資本=軍需産業にとって必要なものは、戦争による兵器弾薬の消耗だった。
アメリカ軍需産業は、兵士の血と弾薬の消耗を欲していた。共産圏の脅威を煽りまくって新兵器の開発を続けるためには、次々と新たな戦場を産み出し、人々の心を揺り動かす残酷な戦争が必要だったのだ。
ベトナムは、米国軍需産業の血の生け贄に選ばれた。
アメリカの軍事侵略は、世界中で激しく批判され、憤った若者が街頭に飛び出し、全世界でベトナム反戦運動が拡大した。1970年前後のことだ。
この頃、私は中学生~高校生で、毎日の新聞には本多勝一のルポルタージュ記事が掲載され、私は夢中になって読み、ベトナム戦争のリアルなルポルタージュによって、アメリカに対する激怒が募っていた。
この頃は、祖母の信仰するキリスト教=福音派思想が、日本や全世界の人々を殺しまくっていることまでは理解していなかった。
私は、米軍の残酷な殺人行為に対する怒りから街頭デモにも積極的に参加したが、当時からすでに、デモ隊はヘルメットを被り、アジテーションも独特の「新左翼様式」で行われていて、一種の特権的儀式であるかのような印象があった。
一般市民は、あたかも指定暴力団の儀式を見るように、日常性からかけ離れた特殊な集団の自己陶酔的な演舞のように見ていたと思う。
それは、普通の生活者にとって、アンタッチャブルなものだったから、国民的運動とは、およそ縁遠いものだった。
私が入った高校で、私は社会科学研究会のサークルを訪ねたが、すでに、そこには大半の新左翼党派がいて、盛んにオルグ活動を行っていた。
中核派や反帝学評は、まだ普通の人間性が残っているように感じたが、革マル派は、とうてい同情や連帯からほど遠い、理解不能の独善的屁理屈を延々と繰り返している印象だった。
みんな、一種の特権的、優越的な自尊心を抱いているように見えた。まあ、高校の雰囲気全体が、優越感に包まれていたのだが。
後に、私は、新左翼党派が、社会全体のなかで、おだてられた優越感の上にあぐらをかく集団なのだと感じた。
私はというと、毛沢東思想派の仲間に釣られて、中国に惹かれていった。
後に、20歳代の半ばまで、私は、毛沢東思想を信奉していたので、まあ、新左翼の端くれだったかもしれない。その後は、反中国共産党で一貫している。
知人のなかには、京浜安保共闘という赤軍派に加入していった者もいた。ここのメンバーは、路線の違いから、仲間まで殺害するほど逝ってしまった連中だったと思う。
このことで、公安は、私まで赤軍派関係者と思い込んで監視体制に入り、本当に大変な思いをさせられた。
まあ、赤軍派の刊行物である「人民新聞」を購読したことが理由だったが。
なぜ新左翼が登場したかといえば、その原因は、1950年代の日本共産党系のコミンテルン活動家が、日本共産党本流の指導体制に反発し、独自の組織を志向したことが大きい。黒田寛一とか本多延嘉とかの時代だ。
日本共産党は、マルクスの「ゴータ綱領批判」を聖書のように崇め奉り、なかでも「一党独裁論」を金科玉条として、絶対視していた。
その本質は、「優秀な人間が、組織を指導する必要がある」という屁理屈だ。だから優秀と認定された高学歴の、志位和夫が23年間も共産党指導部に君臨した。
指導部の理論が絶対視されることに疑問を抱いた者たちが、新左翼組織を結成していった。
しかし、彼らもまた「一党独裁」独善の足枷から離れることができなかった。
自分たちが最も優秀だから、自分たちがヘゲモニーを執らなければならないとして、「優秀どうし」の醜い主導権争いが繰り返され、たくさんの犠牲者も出た。これを「内ゲバ」と称した。
日比谷公園などの反戦集会に行くと、数千のヘルメットを被った学生たちが集まっていたのだが、まるで戦国時代さながらの槍衾を作って、衝突し血まみれになっている光景が珍しくもなかった。
私は「アホか!」と思いながら遠巻きに眺め、この反戦運動が国民的連帯を獲得する日は永遠に来ないと確信した。
だから、私は市民団体系のベ平連運動に参加した。
まあ、俯瞰的にいえば、恵まれた学生の立場で、自分たちを優秀と勘違いし、他人の意見に耳を塞ぎ、妄想的独善理論を宗教のように盲信して突っ走る集団だと感じた。
私は、こんな思い込み反戦運動に嫌気がさして、もう集会やデモには参加せず、山ばかり歩いていた。
私が信奉していた毛沢東も、真実の姿を知るとともに、実は解放者というより、ヒトラーやスターリンの同類であると知るようになったので、中国にも関心が持てなくなった。
面白いのは、やがて新左翼の理論的興奮も醒めた活動家たちは、1980年代のバブル時代を迎えると、今度は「企業戦士」となった者が多かったことだ。
私は、国立駅前のお立ち台で、大声で、金儲けに邁進する自己啓発弁論を行っている「企業戦士」を哀れみの目で見ていたのだが、実は彼らのなかに新左翼活動家も含まれていたのだ。
アメリカの新左翼は、とんでもない経過と変質をたどった。
元々、アメリカ共産党は、アルゴアの実父であるアーマンド・ハマーが産み出した。
彼はレーニンのロシア革命を経済面で支援し成功に導いた。ソ連国家の立役者だ。
その報酬として、オクシデンタル・ペトロリウム社に東欧の世界最大の鉱山利権を授与されている。アルゴアが必死に原子力を推進している本当の理由は、そこに世界最大のウラン鉱山が存在するからだ。
アメリカ共産党は、冷戦時代に赤狩りで激しい弾圧を受け、徐々に右傾化していった。
そのなかから、ネオコンやリバタリアンや新左翼が登場したのだが、やがて「新保守主義」に統一されていった。彼らは、元々、コミンテルン路線に反逆するトロツキストだった。
(%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD)
だが、ネオコンと呼ばれるようになると、かなり極端な右傾化が起きて、そのなかからハイエクやフリードマンの新自由主義が育っていった。
共産主義思想だったはずなのに、いつのまにか共和党の新自由主義路線に変貌した。
詳しい経過は、私もまだ分からないが、ここで自然回帰主義とは完全に分裂している。
実は、日本の新左翼も似ていて、1970年前後の新左翼活動家で、東大教授や企業経営者、右翼活動家が多数存在している。糸井重里も猪瀬直樹も中核派だったと思うが、その後、右翼的な思想性に至っている。
彼らが、内ゲバに明け暮れた新左翼時代をどう総括したのかは、見つけることができないので、いつのまにか、しれっと転向したのではないかと思う。
私のように、貧乏な落ちこぼれが生き残っているのかは分からない。
その後の転向ぶりを見ると、やはり彼らを信用すべきではなと私は思う。
始まったきっかけは、私の拙い記憶では、ベトナム戦争のニクソン北爆だったのではないかと思う。
1950~1953年、アメリカは反共思想を拠り所に朝鮮戦争に大規模に加担したが、戦況は事実上、敗北していた。結局、どうにもならなくなって38度線固定で、コミンテルンと手打ちをした状態だった。
このとき、中国による人海作戦の恐ろしさを、アメリカは思い知った。これが戦後、冷戦体制固定を産み出した理由になっていた。
しかし、アメリカを動かしていたユダヤ金融資本=軍需産業にとって必要なものは、戦争による兵器弾薬の消耗だった。
アメリカ軍需産業は、兵士の血と弾薬の消耗を欲していた。共産圏の脅威を煽りまくって新兵器の開発を続けるためには、次々と新たな戦場を産み出し、人々の心を揺り動かす残酷な戦争が必要だったのだ。
ベトナムは、米国軍需産業の血の生け贄に選ばれた。
アメリカの軍事侵略は、世界中で激しく批判され、憤った若者が街頭に飛び出し、全世界でベトナム反戦運動が拡大した。1970年前後のことだ。
この頃、私は中学生~高校生で、毎日の新聞には本多勝一のルポルタージュ記事が掲載され、私は夢中になって読み、ベトナム戦争のリアルなルポルタージュによって、アメリカに対する激怒が募っていた。
この頃は、祖母の信仰するキリスト教=福音派思想が、日本や全世界の人々を殺しまくっていることまでは理解していなかった。
私は、米軍の残酷な殺人行為に対する怒りから街頭デモにも積極的に参加したが、当時からすでに、デモ隊はヘルメットを被り、アジテーションも独特の「新左翼様式」で行われていて、一種の特権的儀式であるかのような印象があった。
一般市民は、あたかも指定暴力団の儀式を見るように、日常性からかけ離れた特殊な集団の自己陶酔的な演舞のように見ていたと思う。
それは、普通の生活者にとって、アンタッチャブルなものだったから、国民的運動とは、およそ縁遠いものだった。
私が入った高校で、私は社会科学研究会のサークルを訪ねたが、すでに、そこには大半の新左翼党派がいて、盛んにオルグ活動を行っていた。
中核派や反帝学評は、まだ普通の人間性が残っているように感じたが、革マル派は、とうてい同情や連帯からほど遠い、理解不能の独善的屁理屈を延々と繰り返している印象だった。
みんな、一種の特権的、優越的な自尊心を抱いているように見えた。まあ、高校の雰囲気全体が、優越感に包まれていたのだが。
後に、私は、新左翼党派が、社会全体のなかで、おだてられた優越感の上にあぐらをかく集団なのだと感じた。
私はというと、毛沢東思想派の仲間に釣られて、中国に惹かれていった。
後に、20歳代の半ばまで、私は、毛沢東思想を信奉していたので、まあ、新左翼の端くれだったかもしれない。その後は、反中国共産党で一貫している。
知人のなかには、京浜安保共闘という赤軍派に加入していった者もいた。ここのメンバーは、路線の違いから、仲間まで殺害するほど逝ってしまった連中だったと思う。
このことで、公安は、私まで赤軍派関係者と思い込んで監視体制に入り、本当に大変な思いをさせられた。
まあ、赤軍派の刊行物である「人民新聞」を購読したことが理由だったが。
なぜ新左翼が登場したかといえば、その原因は、1950年代の日本共産党系のコミンテルン活動家が、日本共産党本流の指導体制に反発し、独自の組織を志向したことが大きい。黒田寛一とか本多延嘉とかの時代だ。
日本共産党は、マルクスの「ゴータ綱領批判」を聖書のように崇め奉り、なかでも「一党独裁論」を金科玉条として、絶対視していた。
その本質は、「優秀な人間が、組織を指導する必要がある」という屁理屈だ。だから優秀と認定された高学歴の、志位和夫が23年間も共産党指導部に君臨した。
指導部の理論が絶対視されることに疑問を抱いた者たちが、新左翼組織を結成していった。
しかし、彼らもまた「一党独裁」独善の足枷から離れることができなかった。
自分たちが最も優秀だから、自分たちがヘゲモニーを執らなければならないとして、「優秀どうし」の醜い主導権争いが繰り返され、たくさんの犠牲者も出た。これを「内ゲバ」と称した。
日比谷公園などの反戦集会に行くと、数千のヘルメットを被った学生たちが集まっていたのだが、まるで戦国時代さながらの槍衾を作って、衝突し血まみれになっている光景が珍しくもなかった。
私は「アホか!」と思いながら遠巻きに眺め、この反戦運動が国民的連帯を獲得する日は永遠に来ないと確信した。
だから、私は市民団体系のベ平連運動に参加した。
まあ、俯瞰的にいえば、恵まれた学生の立場で、自分たちを優秀と勘違いし、他人の意見に耳を塞ぎ、妄想的独善理論を宗教のように盲信して突っ走る集団だと感じた。
私は、こんな思い込み反戦運動に嫌気がさして、もう集会やデモには参加せず、山ばかり歩いていた。
私が信奉していた毛沢東も、真実の姿を知るとともに、実は解放者というより、ヒトラーやスターリンの同類であると知るようになったので、中国にも関心が持てなくなった。
面白いのは、やがて新左翼の理論的興奮も醒めた活動家たちは、1980年代のバブル時代を迎えると、今度は「企業戦士」となった者が多かったことだ。
私は、国立駅前のお立ち台で、大声で、金儲けに邁進する自己啓発弁論を行っている「企業戦士」を哀れみの目で見ていたのだが、実は彼らのなかに新左翼活動家も含まれていたのだ。
アメリカの新左翼は、とんでもない経過と変質をたどった。
元々、アメリカ共産党は、アルゴアの実父であるアーマンド・ハマーが産み出した。
彼はレーニンのロシア革命を経済面で支援し成功に導いた。ソ連国家の立役者だ。
その報酬として、オクシデンタル・ペトロリウム社に東欧の世界最大の鉱山利権を授与されている。アルゴアが必死に原子力を推進している本当の理由は、そこに世界最大のウラン鉱山が存在するからだ。
アメリカ共産党は、冷戦時代に赤狩りで激しい弾圧を受け、徐々に右傾化していった。
そのなかから、ネオコンやリバタリアンや新左翼が登場したのだが、やがて「新保守主義」に統一されていった。彼らは、元々、コミンテルン路線に反逆するトロツキストだった。
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だが、ネオコンと呼ばれるようになると、かなり極端な右傾化が起きて、そのなかからハイエクやフリードマンの新自由主義が育っていった。
共産主義思想だったはずなのに、いつのまにか共和党の新自由主義路線に変貌した。
詳しい経過は、私もまだ分からないが、ここで自然回帰主義とは完全に分裂している。
実は、日本の新左翼も似ていて、1970年前後の新左翼活動家で、東大教授や企業経営者、右翼活動家が多数存在している。糸井重里も猪瀬直樹も中核派だったと思うが、その後、右翼的な思想性に至っている。
彼らが、内ゲバに明け暮れた新左翼時代をどう総括したのかは、見つけることができないので、いつのまにか、しれっと転向したのではないかと思う。
私のように、貧乏な落ちこぼれが生き残っているのかは分からない。
その後の転向ぶりを見ると、やはり彼らを信用すべきではなと私は思う。
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