ITスペシャリストで神秘思想家のKAYさんのブログから一部転載。
これからの社会の労働と教育についてのヒントがここにあるような気がするので転載する。
今思いついた言葉なのだが、現代社会の病根として「社会的還元主義」というものがあるのではないだろうか。「還元主義」の「元」とは数学用語の「元」つまり要素のことだ。物事を要素に分解して考える、という「デカルト的分析主義」のことなのだが、私の言う「社会的還元主義」とは、同様に社会的事象をすべてを「元」に還す手法である。つまり、最初に「元」として分けることでその要素を効率的に働かす手法だ。
そうすると「元」として不要な要素は当然排除される。教育の場では教育に不要な要素は排除され、学習に必要なものだけが効率的に追求される。言いかえれば「ノイズ(雑音)」の排除である。
しかし、ノイズの排除された場というものは、すべての種が同一に成長する場にしかならないはずだ。学校がそれを理想としていることは言うまでもない。反抗、疑問、ためらいなどは学校教育におけるノイズなのである。だが、真の意味での成長にとっては反抗や疑問やためらいこそが大事な要素であると考える人も多いだろう。
こうした「社会的還元主義」は実は教育の場だけにあるのではない。会社もまた会社にとってのノイズを排除することが優れた経営だとされてきたのが、これまでの経営方法だった。その結果が労働者全体に広がる憂鬱感と不全感である。
家庭はどうか。ある程度の年齢になった子供は、親といるより仲間といることを選ぶ。親子の会話があるのは子供が思春期になる以前まで、夫婦の会話があるのも同じころまでだろう。というのは、親子の会話と夫婦の会話は連動するからだ。ここにもノイズは無い。寝て、起きて、食うという機能だけである。
こうしてすべての場に「社会的還元主義」が行き渡った結果は「僕は岩、僕は島なんだ」と全員が孤立した状態である。
このことについてはまた考えてみたい。
(以下引用)
私は、今は働くことは大嫌いだが、働きたくて仕方がなかったことがあった。
小学生の時である。
考えてみれば、自分もそうだったという人は多いと思う。
そして、結局、働くことへの興味や情熱を全く持たなくなった理由は、子供の時に働くことが出来なかったからだろう。
小学生の頃であれば、社会や大人に対する恐れや反感があまりないということもあるが、人の役に立って、しかも、おこずかいよりずっと多い額のお金がもらえるのであるから、働くことに関心が無いはずがない。
そして、そういった喜びを感じていれば、子供は、長時間働いても、疲れを知らないのである。
しかし、高校はともかく、小学校や中学校では、アルバイトが禁止されていることが多いし、そもそも、塾や習い事で忙しい今の子供は、アルバイトをやっている時間が無い。
そんなことで、労働を楽しいと思う機会がないまま過ごし、大人になってからも、働くことを楽しめないのである。
尚、いうまでもないが、海外の政情不穏な多くの国で、子供達が長時間労働を強要されているのとは全く別の問題として考えなければならない。
子供が安全に楽しく働けるような環境があれば、その子供達の得るものは計り知れない。
仕事を通じて、大人と接触することの価値は、実に大きなものである。
単に、地域の活動を通して、大人たちと付き合うことも非常に良いことであるが、働くという、有益な活動で大人と協力することがどれほど素晴らしいことであるか、いくら強調しても過ぎることはない。
ところが、現実には、子供達は、教師という、あまり付き合うべきでない者達の元で拘束されているのである。
学校で、有益な交流を持つとすれば、それは上級生と下級生の交流であるが、それもまた、ほとんど機会が無いのである。
いったい、学校のどこに価値があるのかと疑わざるを得ない。
学校がこのようになっている理由は、日本が経済大国であり、国民は大企業の奴隷のような労働者にする必要があるからだ。
教員試験というのは、上から命じられるままに、そのような子供を育てる役目を果たすに相応しい人材を選ぶものである。
もし、本当のニート対策があるとしたら、小学生や中学生に働く機会を与えることだ。
子供の頃であれば、働く喜びを感じ易いし、社会で鍛えられた大人達と接触すれば、子供達は、大人は素晴らしいということを実感するようになるだろう。
また、単に、子供のためだけというのではなく、彼らは十分に役に立つ。
そして、子供が働けるような職場は、実は、大人にとっても良い職場なのである。
子供の前で、まともな大人は理不尽なことはしないし、模範であろうとするものである。
その付き合いは長く続き、大袈裟でなく、人類の世代交流が実現する。
これからの社会の労働と教育についてのヒントがここにあるような気がするので転載する。
今思いついた言葉なのだが、現代社会の病根として「社会的還元主義」というものがあるのではないだろうか。「還元主義」の「元」とは数学用語の「元」つまり要素のことだ。物事を要素に分解して考える、という「デカルト的分析主義」のことなのだが、私の言う「社会的還元主義」とは、同様に社会的事象をすべてを「元」に還す手法である。つまり、最初に「元」として分けることでその要素を効率的に働かす手法だ。
そうすると「元」として不要な要素は当然排除される。教育の場では教育に不要な要素は排除され、学習に必要なものだけが効率的に追求される。言いかえれば「ノイズ(雑音)」の排除である。
しかし、ノイズの排除された場というものは、すべての種が同一に成長する場にしかならないはずだ。学校がそれを理想としていることは言うまでもない。反抗、疑問、ためらいなどは学校教育におけるノイズなのである。だが、真の意味での成長にとっては反抗や疑問やためらいこそが大事な要素であると考える人も多いだろう。
こうした「社会的還元主義」は実は教育の場だけにあるのではない。会社もまた会社にとってのノイズを排除することが優れた経営だとされてきたのが、これまでの経営方法だった。その結果が労働者全体に広がる憂鬱感と不全感である。
家庭はどうか。ある程度の年齢になった子供は、親といるより仲間といることを選ぶ。親子の会話があるのは子供が思春期になる以前まで、夫婦の会話があるのも同じころまでだろう。というのは、親子の会話と夫婦の会話は連動するからだ。ここにもノイズは無い。寝て、起きて、食うという機能だけである。
こうしてすべての場に「社会的還元主義」が行き渡った結果は「僕は岩、僕は島なんだ」と全員が孤立した状態である。
このことについてはまた考えてみたい。
(以下引用)
私は、今は働くことは大嫌いだが、働きたくて仕方がなかったことがあった。
小学生の時である。
考えてみれば、自分もそうだったという人は多いと思う。
そして、結局、働くことへの興味や情熱を全く持たなくなった理由は、子供の時に働くことが出来なかったからだろう。
小学生の頃であれば、社会や大人に対する恐れや反感があまりないということもあるが、人の役に立って、しかも、おこずかいよりずっと多い額のお金がもらえるのであるから、働くことに関心が無いはずがない。
そして、そういった喜びを感じていれば、子供は、長時間働いても、疲れを知らないのである。
しかし、高校はともかく、小学校や中学校では、アルバイトが禁止されていることが多いし、そもそも、塾や習い事で忙しい今の子供は、アルバイトをやっている時間が無い。
そんなことで、労働を楽しいと思う機会がないまま過ごし、大人になってからも、働くことを楽しめないのである。
尚、いうまでもないが、海外の政情不穏な多くの国で、子供達が長時間労働を強要されているのとは全く別の問題として考えなければならない。
子供が安全に楽しく働けるような環境があれば、その子供達の得るものは計り知れない。
仕事を通じて、大人と接触することの価値は、実に大きなものである。
単に、地域の活動を通して、大人たちと付き合うことも非常に良いことであるが、働くという、有益な活動で大人と協力することがどれほど素晴らしいことであるか、いくら強調しても過ぎることはない。
ところが、現実には、子供達は、教師という、あまり付き合うべきでない者達の元で拘束されているのである。
学校で、有益な交流を持つとすれば、それは上級生と下級生の交流であるが、それもまた、ほとんど機会が無いのである。
いったい、学校のどこに価値があるのかと疑わざるを得ない。
学校がこのようになっている理由は、日本が経済大国であり、国民は大企業の奴隷のような労働者にする必要があるからだ。
教員試験というのは、上から命じられるままに、そのような子供を育てる役目を果たすに相応しい人材を選ぶものである。
もし、本当のニート対策があるとしたら、小学生や中学生に働く機会を与えることだ。
子供の頃であれば、働く喜びを感じ易いし、社会で鍛えられた大人達と接触すれば、子供達は、大人は素晴らしいということを実感するようになるだろう。
また、単に、子供のためだけというのではなく、彼らは十分に役に立つ。
そして、子供が働けるような職場は、実は、大人にとっても良い職場なのである。
子供の前で、まともな大人は理不尽なことはしないし、模範であろうとするものである。
その付き合いは長く続き、大袈裟でなく、人類の世代交流が実現する。
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