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徽宗皇帝のブログ

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サンカラ革命の奇跡
gooブログサービスがまもなく終了らしいので、藤永茂博士の「私の闇の奥」の重要記事を一部転載しておく。下の引用記事だけでも、非常な価値がある。世界中の人が読むべき記事だ。

(以下引用)

現世界最大の事件『アフリカ大陸大革命』(1)

2025-02-28 20:49:40 | 日記
 アフリカ大陸全体を覆う大革命が確かに始まりました。地球の北半球は、現時点では、トランプの Make America Great Again (MAGA)で大騒ぎをしていますが、世界史的意義では、アフリカ大陸で進行を始めた革命に比べれは、矮小なものとして終焉する騒ぎとして終わることになるでしょう。
 ここでクイズを一つ出題します:次の三つの名前の連なりにどんな意味がありますか?
      「サンカラ+コンパオーレ+トラオーレ」
このクイズの前で頭をひねる人々に、私が過去に書いた記事をいくつか読んでいただきたいと思います。
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(1)ブリクモンとサンカラ
この二つの名前の両方をよく御存知の方はあまりないでしょう。トーマス・サンカラは、アフリカに本格的な関心のある人々の間では、よく知られた名前でしょうが、アフリカの勉強を始めてまだ日の浅い私は、サンカラという若い政治家が僅か4年という短い年月の間に何を成し遂げたかを、ほんの1ヶ月ほど前に知ったばかりです。ジャン・ブリクモンの方はベルギーの理論物理学者として前から知っていました。同じベルギー人で1977年にノーベル化学賞を受賞したイリヤ・プリゴジンに学問的に噛み付いたことのある人物ですが、ブリクモンの名が人文系の人々に広く知られるようになったのは、アメリカの理論物理学者アラン・ソーカルとの共著『「知」の欺瞞』(田崎、大野、堀訳、岩波書店、2000年)がそのきっかけだったと思います。この本の原著のフルタイトルは『FASHONABLE NONESENSE / POSTMODERN INTELLECTUALS’ ABUSE of SCIENCE』(1998年) ですが、この本の元は1997年フランスで出た『Impostures Intellectuelles (知的ぺてん)』で、これについては堀茂樹さんの読み応え十分の解説「きみはソーカル事件を知っているか?」があります。本書『知的ぺてん』は、ひと頃、米国や日本の論壇を風靡したポストモダニズムの大先生たち、ラカン、ドゥルーズ、リオタール、ラトゥール、クリステヴァ、ガタリ、ボードリヤール、イリガライ、ヴィリリオ、セールなどを、「科学用語の濫用」という点で、一からげに「詐欺師、ぺてん師(Imposteurs)」呼ばわりしたのです。しかも、それが無責任な、すぐに論駁できるような言い掛かりではなかったので、大騒ぎになりました。堀茂樹さんは「『知的ぺてん』の出版後、この本を貶したり、見下したりした論評は数多く現われたけれども、事実誤認を指摘したり、著者の分析に合理的な反論を加えたりした者は一人もない。」と書いています。堀さんの論説は1998年、つまり、日本語訳が出版される以前に書かれたのですが、日本語訳をめぐって日本で行われた論争(?)にも上記のコメントが正確に当てはまります。物理学者は哲学の初歩の知識さえないとか、人文思想家が科学用語をメタプァーとして使っていることさえ分かっていない、とか、そんな議論ばかり。私自身も、間接的ながら、この論争に関わりましたので、発言したいことが幾つかありますが、それは又の日のことにして、今日はアフリカに焦点を絞ります。ブリクモンは、ポストモダニズムの大先生たちの足を引っ張る物理学者であっただけではなく、『知的ぺてん』執筆のすぐ後から、「人道的理由」を錦の御旗に掲げて横暴を極めるアメリカやヨーロッパに対して、鋭い政治的発言を始めます。2007年8月にもフランスの「ル・モンド・ディプロマティック」誌上で、私の言うアフリカについての一つの思考実験をしています。ブリクモンはこう言うのです。:
■ 「自由主義的」思想家たちは、社会主義への移行が先進資本主義国家で予告されたようには起きなかった、と指摘することで、カール・マルクスを批判してやまない。彼らへの反論は、われわれのシステムが単に資本主義であるばかりでなく、帝国主義でもあるということだ。ヨーロッパの発展は、広大なヒンターランド(後背地)の存在なくしてはありえなかった。このことの意味を理解するには、ヨーロッパが地球上に出現した唯一の陸地であり、アフリカ、アジア、アメリカなど残りすべてが大海だったと想定してみればよい。そうなれば黒人奴隷貿易も、ラテンアメリカの金鉱も、北米への移民もなかったことになる。われわれの社会が、労賃の安い國からの輸入や移民という形で原料や安価な労働力の恒常的な流入を得ることも、南の頭脳が北へと流入し、崩れゆく教育システムの穴埋めをすることもない。その場合、われわれの社会はどうなっていただろうか。これらすべてがなかったら、われわれはエネルギーを大きく節約しなければならないし、労働者と経営者の力関係は根本的に違ったものになっていただろう。「余暇社会」の出現など不可能だったはずだ。■ (土田修訳)
これは実に興味深い思考実験と結果の推定です。「ヨーロッパが地球上に出現した唯一の陸地」という極端な境界条件をゆるめて、ただアフリカ大陸だけが存在しなかったという条件の下でも、ヨーロッパ諸国は社会主義的体制への移行を強いられ、マルクスの予言通りになったかも知れません。この形の「アフリカについての思考実験」を行ってみるのも有意義ではありますまいか。つまり、「アフリカとアフリカ人が存在しなかったとしたら、世界史はどうなっただろうか」と自問してみるわけです。「もしヨーロッパがあれほど酷い言語道断のやり方でアフリカとアフリカ人を濫用酷使することが出来なかったら、ヨーロッパは一体どうなっていただろうか」と問い直すことも出来るでしょう。皆さん、世界史「頭の体操」の一例題として、是非やってみて下さい。
 2007年10月15日は、37歳のトーマス・サンカラが暗殺され、名前も記されない墓に埋められてから、20年目の記念日でした。1983年、アフリカの暗黒の空に彗星のように現われ、4年間まぶしいばかりの軌跡を描いて消えたこの青年政治家は、私が机上で思い付いた「アフリカについての思考実験」を、西アフリカ内陸の小国オート・ボルタで、突如として実行に移したのです。ですから、たとえ4年という束の間の時間であったにしても、実験をしてみたらどんな結果が生み出されるかを、実際に、この目でみることが出来ることになったのです。
 1960年に独立した共和国オート・ボルタは人口一千万余、その90%以上が文盲、乳児死亡率は4人に1人、1人当りの平均年収は150ドル、医者の数は5万人に1人、世界で最も貧しい国の一つで、フランスから独立後もフランスの事実上の支配下にあり、腐敗しきった軍事政権が乱脈な統治を続けていました。国軍の大尉だったサンカラは1982年11月7日にクーデターを起こし、曲折を経て、1983年8月3日に33歳の若さで大統領に就任しました。彼は外国がコントロールする土地と鉱物資源(たいしてありませんが)のすべてを国有化し、IMF(International Monetary Fund, 国際通貨基金)や WB (世界銀行)との関係を出来るだけ断ち、政治家と官僚の腐敗を正し、国民一般の極貧の惨状の急速な改善を目指して行動を起こします。つまり、私が空想した「アフリカについての思考実験」を、20年も前に、現実のアフリカの時空の中で断行したのでした。
 國の名もブルキナ・ファソと改めました。この原語名の意味は、和訳では「高貴な人々の土地」とか「真正の民の國」、英訳では「The land of the incorruptible」とか「The land of the people of integrity」となっています。国家の資力を挙げて、環境、教育、医療、住宅などの福祉問題に立ち向かい、第一年目に1千万本の植林を行ってサハラ砂漠の拡大阻止を試み、キューバからの援助を得て、250万人の子供たちに各種伝染病の予防ワクチンを接種し,学校教育を充実しました。乳児死亡率と文盲率は瞬く間に半減します。サンカラ自身は政府公用車のメルセデスベンツを売却して安いルノーに代え、月給はわずか450ドル、大統領個人の持ち物としては、4台のオートバイ、3つのギター(上手でした)、冷蔵庫、壊れかけた冷凍庫、官邸でもエアコンは使わず、世界で一番貧乏な大統領といわれました。サンカラの革命的政策の中でも特に痛快なのは、「責任連帯の日」というのを設けて、その日には、男たちが市場に行って買い物をし、食事を作り、家の掃除をし、洗濯をする、つまり、女たちの日々の労苦を味わい、それに感謝するようにしたことです。サンカラは政府関係の職場への女性の進出を大いに励ますという画期的な努力も惜しみませんでした。
 1987年10月15日、サンカラは反革命クーデターによって、12人の仲間とともに暗殺されました。彼の美しくも壮大な実験は暴力によって終止符を打たれたわけですが、その僅か4年間の成果はまことに素晴らしいものでした。私が読んだ日本語と英語の解説記事から短い引用をさせていただきます。:
■サンカラはブルキナ・ファソの人々の意識を変えた。それまで、国内には公共機関以外には働き口がなかったが、国内を各地域の持つ文化や歴史に配慮して30の行政区に区分し、各地域で住民たちが地域を治めていく「自主管理政策」を導入した。住民自身が役人たちを雇い、道路、建設、水道、保険・医療事業など本当に自分たちの暮らしに必要な公共サービスを実施していくやり方を導入したのである。
 また、評判の悪かった人頭税を廃止し、開墾可能な土地を国有化した。村の運営責任者が自分たちの判断で各戸に土地を割り当て、農業指導者がいつ何を作付けすれば良いのかを指導する。そして一人ひとりの作業量に応じて金銭や収穫物、人的サービスという形で支払いを行った。各戸の必要に応じて土地が分配され、強制的な徴収に脅かされることがなくなった農民たちは安心して農作業に汗を流していく。
 改革がはじまって4年も経たないうちに、農業生産は急増し、国家支出は大幅に削減され、産み出された資金は、道路建設、小規模水道敷設、農業教育の普及、地域ごとでの手工業の促進など、住民に密着したプログラムに投資された。わずか4年で自給自足農業への転換が図られ、人々は人間としての生きる誇りを回復。雄大な希望に燃えて、例えば、サンカラが呼びかけた鉄道敷設事業には金銭的な報酬がないにもかかわらず、自発的にボランティアで住民が参加し、灼熱の太陽の元で数千の人々がレールを敷き、鉄道建設に汗をながしていった。■
■ Thomas Sankara is widely recognized and celebrated in Africa and the world over as a champion of fundamental change who fought to liberate Africa from the control of international financial institutions, deepening poverty, war and the pillage of its resources. ■(Farid Omar).
 サンカラは刎頸の交わりを結んだと思っていたブレーズ・コンパオレという男に裏切られ,殺されたと信じられています。暗殺の背後にフランスが控えていたこともほぼ確かです。サンカラなき後、独裁者的にブルキナ・ファソを牛耳っているのはこのブレーズ・コンパオレです。彼の下ですべては元の木阿弥になってしまいました。1991年この男は国民投票によって正式に大統領になりますが、それもその筈、立候補者はブレーズ・コンパオレただ一人、有権者の73%は棄権しました。その年以来、國の事業の民営化、貿易の自由化、フリーマーケット経済政策の実施を条件にして、IFMや世界銀行との関係はサンカラ以前の「良好」さに戻りました。外国の植民主義的支配の復活、政治家の腐敗、寄生的官僚、一般国民の慢性的飢餓、農民の絶望、・・・。これで再び、ブルキナ・ファソはアフリカのごく普通の国の一つに後戻りしてしまったのでした。サンカラの4年は夢のように消えてしまいました。
 サンカラの死から丁度20年、今年は世界各地でサンカラの偉業をしのぶ記念の催しが行われているようです。ブルキナ・ファソは勿論のこと、マリ、セネガル、ニジェール、タンザニア、ブルンディ、フランス、カナダ、アメリカ、・・・。キューバでも沢山の人々がサンカラのことを思い出していたに違いありません。1984年キューバを訪れたサンカラは大歓迎を受け、キューバが外国の元首に与える最高の栄誉ホセ・マルティ勲章を授けられました。考えてみると、ブルキナ・ファソでのサンカラの「実験」は、キューバでのカストロの「実験」と本質的に同じ政策の実行であったと見ることが出来るように、私には、思われます。残念なことにサンカラの革命はあっという間に破壊されてしまいましたが、キューバの革命は、この約50年間、米国が連続的に加えてきたあらゆる暴力をはね返して、奇跡的な生命を保っています。ここにこそ、実は,私が想定した「アフリカについての思考実験」の実験結果が示されているのであり、ここにこそ、いま閉塞の極にある世界の未来への希望が示されているのかも知れません。トーマス・サンカラは“We Must Dare to Invent the Future.”という言葉を残して死にました。
 最後にまたブリクモンが論難したフランスの知識人たちに話を戻します。サンカラ暗殺の背後にフランスが存在したこと、しかもそれはミッテラン大統領のフランスであったという事実は衝撃的です。ガッカリです。私にとってミッテランは良きフランスの良きシンボルであったのですから。私にはいわゆるポストコロニアル時代のフランスの旧植民地政策の勉強が全く足りません。しかし、無知な私などはともかくとして、サンカラのブルキナ・ファソの「実験」が花開き、そして散って行った1980年代にフランスのポストモダニストたちは、サンカラに何がしかの声援を送り、コンパオレに何がしかの抗議を行ったのでしょうか?むしろ、彼らはfashionable nonsense を連発して無知な大衆を煙に巻くことの方を面白がっていたのではありますまいか?
藤永 茂(2007年11月7日)
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これで第一部は終わりですが、悪者のコンパオレは、やがて断罪されます。お楽しみに。
藤永茂(2025年2月28日)

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