前回記事の参考として「歴史の窓」というページから転載。
「反英闘争」の中の「1838年から」は明らかに「1938年から」の間違いだろう。アウンサン(ポカホンタス・スーチーの父親)が活動したのはWWⅡのころである。
(以下引用)
ビルマの西のインドのベンガル地方では1765年にイギリス東インド会社が徴税権を獲得、植民地化を進めていた。イギリスの勢力とマニプール進出をすすめるビルマの勢力はついに1824年に衝突した。これが、以後3次に渡るイギリス=ビルマ戦争の始まりとなる。第1次イギリス=ビルマ戦争(1824~1826)では、ビルマ軍は近代兵器で武装したセポイ兵を主力とするイギリス軍に敗れ、ビルマはアッサムやマニプールなどに対する権利を放棄、領土割譲と賠償金を義務づけられた。第2次イギリス=ビルマ戦争(1851)はラングーン港でのイギリス船の関税支払い問題からイギリス軍が一方的に軍事行動を開始して、ラングーンをはじめとする下ビルマ一帯を占領、イギリス領に編入した。コンバウン朝は、イギリスと対抗するためにフランスと結ぼうとしたが、その動きを抑えるように1885年、イギリスは軍事行動を開始、この第3次イギリス=ビルマ戦争で敗北したコンバウン朝は滅亡、翌年ビルマはイギリス植民地に組み込まれることとなった。
19世紀後半、3次にわたるイギリス=ビルマ戦争に敗北し、1885年にビルマ王国(コンバウン朝)は滅亡し、1886年1月1日にイギリス領インドに編入され、インド総督の配下に属する弁務官が統治することとなった。1897年からは副総督が統治する自治州とされた。イギリスはビルマ支配の中心を南部の海岸地方に置き、輸出用の米の生産地帯とした。
イギリスの植民地支配を受けていたビルマでは1930年に、反イギリス組織「我らビルマ人協会」(タキン党)が結成された。このような民族運動の高揚を受け、1935年、イギリスは新インド統治法を制定すると同時にビルマをインドと分離し、その直轄植民地としてビルマ総督が置かれ準自治州とされた。これをビルマ倒置法という。
タキン党はアウンサンらの指導により、1838年から激しい反英独立闘争を展開していったが、40年、イギリス当局によって幹部が逮捕され、組織は壊滅した。
ビルマを脱出したアウンサンらは日本に亡命、日本軍の協力を得て、軍事訓練を受け、ひそかにビルマに戻り、ビルマ独立軍の母体となった。
日中戦争で重慶の蒋介石政権を降伏に追い込むことが出来ずにいた日本軍は、援蔣ルートであるビルマ=ルートの攪乱を狙い、特務機関(南機関)がビルマ独立闘争の支援に乗り出した。日本軍の援助で1941年にタイのバンコクでアウンサン、ネウィンらがビルマ独立義勇軍(BIA)を創設した。
太平洋戦争が開始されるとフランス領インドシナ南部を抑えていた日本軍は、1942年、ビルマに侵攻し、イギリス軍およびイギリス領インド軍と戦い、3月にはラングーンを占領、5月までには全土を制圧した。日本のビルマ占領は、援蔣ルートのビルマ=ルートを完全に遮断することと、イギリス植民地支配の最大の拠点であるインドに侵攻する足場とするためであった。
日本はビルマに対して軍政を布き、イギリスに捕らえられていた独立運動指導者バーモーを解放して首班に迎え親日政府を樹立した。独立義勇軍のアウンサン将軍は、表面は日本軍に協力しながら地下活動の共産党などと連絡を取り、密かに抗日運動を指導した。
1943年、日本の東条内閣は大東亜共栄圏の一国としてビルマの独立を認めたが、アウンサンらは国家主権のない名目上の独立に反発、独立義勇軍も参加して反ファシスト人民自由連盟(AFPFL、アウンサン総裁)を結成、45年3月から抗日武装闘争を開始した。
日本軍敗退後、イギリスの植民地支配(民政)が復活すると、再びイギリスからの独立闘争を展開し、1947年にアウンサンとイギリスのアトリー内閣の間で独立協定に調印、国内の諸勢力の統合を進め、1948年1月、イギリス連邦に加わらない形でビルマ連邦として独立を達成した。アウンサンはその直前の47年12月に、政治的に対立していたグループによって暗殺されていた。
ビルマ連邦は議会制民主主義の国家として独立したが、少数民族カレン族やシャン族の不満、各勢力の対立などから内乱が絶えず、安定しなかった。その内乱を鎮圧し、国家統一を実現した国軍(アウンサンらの創設したビルマ独立義勇軍の後身)が次第に政治面でも発言権を強めていった。
1962年、軍部クーデターによってウー・ヌ首相が退陣、国軍のネウィン将軍が権力を握って軍事政権を建て議会制民主主義を否定した。政党はビルマ社会主義計画党(BSPP)しか許されず、国家機構の役職はすべて軍人か退役軍人によって占められた。国号は74年からビルマ連邦社会主義共和国とされたが、マルクス・レーニン主義ではなく、「ビルマ式社会主義」を標榜した。経済、教育なども国営とされ、国家への奉仕が強要された。その紙幣廃止令などの強引な政策によって経済は混乱、貧困化が進行した。
ビルマ軍事政権支配下の閉塞状況を打破しようと、学生を中心として民主化闘争が始まった。1988年、ネウィン将軍は退陣、ビルマ社会主義計画党(BSPP)も解散し、さらに1988年9月8日、民主化デモは最大の盛り上がりをみせゼネストとデモが全土に及んだ。民主化運動をすすめたアウンサンスーチーは国民民主連盟(NLD)を結成した。それに対して国軍は武力を行使し、発砲して民主化運動を弾圧、18日に軍部独裁政権を樹立、総参謀長ソンマウン大将を議長とする国家法秩序回復評議会(SLORC)が権力を奪取した。
翌1989年6月18日、軍事政権は英語国称をミャンマー連邦に、首都名をラングーンからヤンゴンに変更した。さらに同1989年7月20日に民主化運動の指導者アウンサンスーチーを自宅軟禁した。
「反英闘争」の中の「1838年から」は明らかに「1938年から」の間違いだろう。アウンサン(ポカホンタス・スーチーの父親)が活動したのはWWⅡのころである。
(以下引用)
ビルマ(3) イギリス植民地化
3次に渡るイギリスとの戦争に敗れ、1886年にイギリス植民地インドに編入される。1930年代に独立運動を展開。1942年に日本軍の侵攻を受け、軍政がしかれる。
イギリス=ビルマ戦争
ビルマの西のインドのベンガル地方では1765年にイギリス東インド会社が徴税権を獲得、植民地化を進めていた。イギリスの勢力とマニプール進出をすすめるビルマの勢力はついに1824年に衝突した。これが、以後3次に渡るイギリス=ビルマ戦争の始まりとなる。第1次イギリス=ビルマ戦争(1824~1826)では、ビルマ軍は近代兵器で武装したセポイ兵を主力とするイギリス軍に敗れ、ビルマはアッサムやマニプールなどに対する権利を放棄、領土割譲と賠償金を義務づけられた。第2次イギリス=ビルマ戦争(1851)はラングーン港でのイギリス船の関税支払い問題からイギリス軍が一方的に軍事行動を開始して、ラングーンをはじめとする下ビルマ一帯を占領、イギリス領に編入した。コンバウン朝は、イギリスと対抗するためにフランスと結ぼうとしたが、その動きを抑えるように1885年、イギリスは軍事行動を開始、この第3次イギリス=ビルマ戦争で敗北したコンバウン朝は滅亡、翌年ビルマはイギリス植民地に組み込まれることとなった。
イギリスの植民地となる
19世紀後半、3次にわたるイギリス=ビルマ戦争に敗北し、1885年にビルマ王国(コンバウン朝)は滅亡し、1886年1月1日にイギリス領インドに編入され、インド総督の配下に属する弁務官が統治することとなった。1897年からは副総督が統治する自治州とされた。イギリスはビルマ支配の中心を南部の海岸地方に置き、輸出用の米の生産地帯とした。
反英闘争
イギリスの植民地支配を受けていたビルマでは1930年に、反イギリス組織「我らビルマ人協会」(タキン党)が結成された。このような民族運動の高揚を受け、1935年、イギリスは新インド統治法を制定すると同時にビルマをインドと分離し、その直轄植民地としてビルマ総督が置かれ準自治州とされた。これをビルマ倒置法という。
タキン党はアウンサンらの指導により、1838年から激しい反英独立闘争を展開していったが、40年、イギリス当局によって幹部が逮捕され、組織は壊滅した。
ビルマを脱出したアウンサンらは日本に亡命、日本軍の協力を得て、軍事訓練を受け、ひそかにビルマに戻り、ビルマ独立軍の母体となった。
ビルマ(4) 日本の軍政
日本軍の独立運動支援
日中戦争で重慶の蒋介石政権を降伏に追い込むことが出来ずにいた日本軍は、援蔣ルートであるビルマ=ルートの攪乱を狙い、特務機関(南機関)がビルマ独立闘争の支援に乗り出した。日本軍の援助で1941年にタイのバンコクでアウンサン、ネウィンらがビルマ独立義勇軍(BIA)を創設した。
日本軍の侵攻と軍政
太平洋戦争が開始されるとフランス領インドシナ南部を抑えていた日本軍は、1942年、ビルマに侵攻し、イギリス軍およびイギリス領インド軍と戦い、3月にはラングーンを占領、5月までには全土を制圧した。日本のビルマ占領は、援蔣ルートのビルマ=ルートを完全に遮断することと、イギリス植民地支配の最大の拠点であるインドに侵攻する足場とするためであった。
日本はビルマに対して軍政を布き、イギリスに捕らえられていた独立運動指導者バーモーを解放して首班に迎え親日政府を樹立した。独立義勇軍のアウンサン将軍は、表面は日本軍に協力しながら地下活動の共産党などと連絡を取り、密かに抗日運動を指導した。
1943年、日本の東条内閣は大東亜共栄圏の一国としてビルマの独立を認めたが、アウンサンらは国家主権のない名目上の独立に反発、独立義勇軍も参加して反ファシスト人民自由連盟(AFPFL、アウンサン総裁)を結成、45年3月から抗日武装闘争を開始した。
ビルマ(5) 独立と混迷
1948年独立を達成。民族対立から内戦が続き、60年代に軍の「ビルマ式社会主義」による軍政が布かれた。
イギリス連邦に加わらず独立
日本軍敗退後、イギリスの植民地支配(民政)が復活すると、再びイギリスからの独立闘争を展開し、1947年にアウンサンとイギリスのアトリー内閣の間で独立協定に調印、国内の諸勢力の統合を進め、1948年1月、イギリス連邦に加わらない形でビルマ連邦として独立を達成した。アウンサンはその直前の47年12月に、政治的に対立していたグループによって暗殺されていた。
軍部独裁への移行
ビルマ連邦は議会制民主主義の国家として独立したが、少数民族カレン族やシャン族の不満、各勢力の対立などから内乱が絶えず、安定しなかった。その内乱を鎮圧し、国家統一を実現した国軍(アウンサンらの創設したビルマ独立義勇軍の後身)が次第に政治面でも発言権を強めていった。
1962年、軍部クーデターによってウー・ヌ首相が退陣、国軍のネウィン将軍が権力を握って軍事政権を建て議会制民主主義を否定した。政党はビルマ社会主義計画党(BSPP)しか許されず、国家機構の役職はすべて軍人か退役軍人によって占められた。国号は74年からビルマ連邦社会主義共和国とされたが、マルクス・レーニン主義ではなく、「ビルマ式社会主義」を標榜した。経済、教育なども国営とされ、国家への奉仕が強要された。その紙幣廃止令などの強引な政策によって経済は混乱、貧困化が進行した。
ビルマ(6) ミャンマーに国号変更
1988年、民主化運動起きるも、権力を掌握した軍によって弾圧され、指導者アウンサンスーチーは自宅軟禁状態に置かれた。89年には国号をミャンマーに変更した。2007年にも民主化運動が起こり、次第に開放路線に転換している。
アウンサンスーチーを自宅軟禁
ビルマ軍事政権支配下の閉塞状況を打破しようと、学生を中心として民主化闘争が始まった。1988年、ネウィン将軍は退陣、ビルマ社会主義計画党(BSPP)も解散し、さらに1988年9月8日、民主化デモは最大の盛り上がりをみせゼネストとデモが全土に及んだ。民主化運動をすすめたアウンサンスーチーは国民民主連盟(NLD)を結成した。それに対して国軍は武力を行使し、発砲して民主化運動を弾圧、18日に軍部独裁政権を樹立、総参謀長ソンマウン大将を議長とする国家法秩序回復評議会(SLORC)が権力を奪取した。
翌1989年6月18日、軍事政権は英語国称をミャンマー連邦に、首都名をラングーンからヤンゴンに変更した。さらに同1989年7月20日に民主化運動の指導者アウンサンスーチーを自宅軟禁した。
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