三島が特に憎んだのは「憲法第9条」であるようで、その理由は、
三島は日本国憲法第9条を、〈一方では国際連合主義の仮面をかぶつた米国のアジア軍事戦略体制への組み入れを正当化し、一方では非武装平和主義の仮面の下に浸透した左翼革命勢力の抵抗の基盤をなした〉ものとして唾棄し[428]、この条文が〈敗戦国日本の戦勝国への詫証文〉であり、〈国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くもの〉であると断じている[429]。
というようなものらしい。この三島の言葉は一面ではまさに正当なものだが、私から見れば「それがどうした」の一言で終わりである。
その正当性もごく一面的であり、実際には、「米国のアジア軍事戦略体制」に日本を組み入れてきたのは「日米安保条約」であり、「憲法9条」はそれに歯止めをかける存在であったのが歴史的事実だろう。そして、憲法9条が「左翼革命勢力の抵抗の基盤をなした」のが、なぜ悪い、と私などは思うわけだ。
つまり、「左翼革命勢力」というだけで絶対的な悪と看做す思考停止がここには存在するのではないか。それではネット右翼のレベルとさほど違いが無いだろう。
結局、あの戦争に参加できなかった軍国少年の恨み(悔恨)を最後の死に至るまで延々と引きずり続けたのが三島の人生だったのではないか。「お国のために死にたかったのに死ねず、生き恥をさらし続けた」という恨みが、実は彼の政治論のすべてであり、それを言語化すると実に分かりにくくなるのはそのためではないだろうか。
なお、憲法9条が「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」であることに私も同意するが、これもまた「それがどうした」である。勝てば官軍、負ければ賊軍というのはあらゆる戦争の常ではないか。詫び証文一つで国民の新生活が保障されるならいくらでも発行すればいいのである。
また、憲法第9条が「国家の存立を危うくするもの」という言葉に対しては、「その国家とは何を意味するか」と問い返そう。政府のことか、天皇のことか。
それが国民のことならば、憲法第9条によって70年間、日本は他国の戦争に巻き込まれずにすんだのである。(下記引用の吉田茂の話参照)70年の平和は短いものではない。自衛隊が日本を守ったわけではないのである。強いて言えば、「米軍基地」が存在することは抑止力にはなったかもしれないが、仮に米軍基地が存在せず、まったくの無防備国家であった場合、はたして日本は外国から侵略されていたかどうか、それは歴史のイフにしかすぎない話である。
(以下引用)
憲法改正論[編集]
三島は日本国憲法第9条を、〈一方では国際連合主義の仮面をかぶつた米国のアジア軍事戦略体制への組み入れを正当化し、一方では非武装平和主義の仮面の下に浸透した左翼革命勢力の抵抗の基盤をなした〉ものとして唾棄し[428]、この条文が〈敗戦国日本の戦勝国への詫証文〉であり、〈国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くもの〉であると断じている[429]。
そして、いかなる戦力(自衛権・交戦権)保有も許されていない憲法第9条第2項を字句通り遵守すれば、日本は侵略されても〈丸腰〉でなければならず〈「国家として死ぬ」以外にはない〉ため、日本政府は緊急避難の解釈理論として学者を動員し〈牽強付会の説〉を立てざるを得なくなり、こういったヤミ食糧売買のような行為を続けることは、〈実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、法と道徳との裂け目を拡大〉するとしている[429]。
このように三島は、〈平和憲法〉と呼ばれる憲法第9条により、〈国家理念を剥奪された日本〉が〈生きんがためには法を破らざるをえぬことを、国家が大目に見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ること〉になったことを[429]、〈完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的退廃を惹き起こす〉とし、〈戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない〉と批判している[430]。
また、法的に〈違憲〉である自衛隊の創設が、皮肉にも、〈憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づくもの〉であり、朝鮮戦争やベトナム戦争参加という難関を、吉田茂内閣がこの憲法を逆手にとり〈抵抗のカセ〉として利用し突破してきたが、その時代を過ぎた以降も国内外の批判を怖れ、ただ護憲を標榜するだけの日本政府について、〈消極的弥縫策(一時逃れに取り繕って間に合わせる方策)にすぎず〉、〈しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ「量的に」拡大〉し、〈平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆく〉と警鐘を鳴らしている[429]。
これを是正する案として、憲法第9条第2項だけを削除すればよい、という改憲案に対しては〈やや賛成〉としつつも、そのためには、国連に対し不戦条約を誓っている第9条第1項の規定を〈世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべき〉とし、〈日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含するといふのは、不公平不調和〉であると三島は断じ、この第1項を放置したままでは、自国の歴史・文化・伝統の自主性が〈二次的副次的〉なものになり、〈敗戦憲法の特質を永久に免かれぬこと〉になるため、〈第九条全部を削除〉すべしと主張している[429]。
さらに、改憲にあたっては憲法第9条のみならず、第1章「天皇」の問題(「国民の総意に基く」という条文既定のおかしさと危険性の是正)と、第20条「信教の自由」に関する〈神道の問題〉(日本の国家神道の諸神混淆の性質に対するキリスト教圏西欧人の無理解性の是正)と関連させて考えなければ、日本が独立国としての〈本然の姿を開顕〉できず、逆に〈アメリカの思ふ壺〉に陥り、憲法9条だけ改正して日米安保を双務条約に書き変えるだけでは、韓国その他アジア反共国家と並ぶだけの結果に終ると警告している[429]。
三島は、外国の軍隊は、決して日本の〈時間的国家の態様を守るものではないこと〉を自覚するべきだとし、日本を全的に守る正しい〈健軍の本義〉を規定するためには、憲法9条全部を削除し、その代わり〈日本国軍〉を創立し、憲法に、〈日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に健軍される〉という文言を明記するべきであると主張している[429]。
自国の正しい健軍の本義を持つ軍隊のみが、空間的時間的に国家を保持し、これを主体的に防衛しうるのである。現自衛隊が、第九条の制約の下に、このやうな軍隊に成育しえないことには、日本のもつとも危険な状況が孕まれてゐることが銘記されねばならない。憲法改正は喫緊の問題であり、決して将来の僥倖を待つて解決をはかるべき問題ではない。なぜならそれまでは、自衛隊は、「国を守る」といふことの本義に決して到達せず、この混迷を残したまま、徒らに物理的軍事力のみを増強して、つひにもつとも大切なその魂を失ふことになりかねないからである。
— 三島由紀夫「問題提起」[429]
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