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徽宗皇帝のブログ

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共産主義と「反共」思想
「混沌堂主人」のブログで知った「北林あずみ」という人物(女性ではなく男性で爺さんのようだ。)のブログに非常に興味深い論考があったので、その一部を載せておく。
考え方は私に近く、社会主義と共産主義を区別すべきだということ、共産主義は幻想でしかなく、「反共」主義というのは幽霊を相手とした、それ自体が妄想的思想でありながら、社会全体を骨絡みにしているということである。実体が無いからこそ下意識レベルで人を動かす、というわけだ。
まあ、重要な、示唆的な言葉がたくさんあるが、まだ全文は読んでいない。

(以下引用)

 今回は長い前置きはなしにする。
 この記事の狙いは、統一教会のいう「反共」の政治的意味を丸裸にすることと、統一教会が「反共」に忍ばせている政治的野望と目的とを暴いて徹底的に批判し、右翼と極右と保守と、そして日本会議などが結集する「反共」という牙城が、日本の政治と社会にどれほどの悪影響を及ぼしているかを剔抉することにある。
 が、それを論じるには、共産主義の理解が前提になければ始まらない。そして、「反共」が目の敵にする日本共産党とは、どういう政党であり、日本共産党のいう共産主義とはどういうものか、その理解もまた不可欠となる。
 したがって、統一教会の「反共」を語る前に、共産主義と日本共産党について論じることにする。長くなるだろうが、辛抱して読んでいただきたい。
 
 共産主義と社会主義との違いをどれほどの人が知っているだろうか。
 ほとんどの人が共産主義と社会主義とをごちゃ混ぜにして使っている。
 ごちゃ混ぜになっている責任は、共産主義という概念自体の曖昧さにある。というか、共産主義という概念が、あってないようなものだからだ。
 エンゲルスは『空想から科学へ』を出版して、フーリエ、オーエン、サン=シモンなどの空想的社会主義を批判したが、共産主義こそまったくの空想であり、妄想だ。
 マルクスが論じたのは社会主義であって、共産主義ではない。共産主義社会は、社会主義社会の「はるか先に出現」するだろう理想的社会として「空想的」に、そして夢物語として、ほんの「さわりだけ」触れられたに過ぎない。マルクスが論じた社会は社会主義社会であり、共産主義社会は、社会主義社会がより高度に成熟した先に出現する「だろう」社会として「夢」見たものでしかない。
 マルクスの哲学(もしくは思想)と、マルクス主義とは違う。
 これもほとんど理解されてはいない。この件については後述する。
 共産主義という概念は、ほとんど語るに値しないものだ。夢でしかない社会であり、空想、もしくは妄想の世界の社会でしかない。
「共産主義」という言葉が一人歩きを始めのは、マルクスとエンゲルスによって書かれたとされる『共産党宣言』の影響があまりにも大きかったからだ。が、『共産党宣言』は共産主義者同盟の思惑が濃厚に入り込んだもので、厳密に言えば、マルクスによって書かれたものとは言えない。そして、共産主義という思想を具体的に語ったものでも、共産主義社会それ自体を語ったものでもない。社会主義を目指す政治的姿勢の宣言に過ぎない。
 が、その宣言が社会に与えた衝撃があまりにも大きかったから、共産主義が一人歩きを始めてしまったのだ。本来なら、『社会主義への道と宣言』とでもすべきものだ。

 一般にいわれているマルクス主義は、社会主義革命を初めて成し遂げたレーニンがマルクス哲学を独自にアレンジしたものだ。当然に、社会主義革命に至るまでの実践的革命論と、革命後に樹立した社会主義国家をいかに維持し発展させていくか、その実践的課題と克服とを中心にしたものになる。言葉の厳密な意味でのマルクスの思想とはいえない。だからマルクス・レーニン主義といわれている。
 ロシアの国内と国外のブルジョアジーによる反革命から、
革命後の脆弱な国家を死守していくために、強調されたのがプロレタリアート独裁だった。レーニンはその独裁国家を、「共産主義社会」へと移行するまでの過渡期の国家として位置づけ、社会主義国家とした。したがってその独裁国家は全体主義国家だといえる。階級のない社会へと止揚しながら発展していく、原動力であり、歴史的使命を背負ったプロレタリア―トによるものだから、独裁が正当化されたのだ。

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