忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

地震体験のレポート
「株式日記と経済展望」がコメント欄を地震関係掲示板として解放している。これは非常に有益なことで、ここに書きこまれた地震体験報告が、今後の参考になる。その一部を転載する。これ以外にもコメントはあるが、こういう事態になってもまだ左翼攻撃をするネット右翼の汚らしいコメントもある。そういうくだらないコメントはもちろん転載しない。今はそういう政治的工作をやっている場合ではない。


(以下引用)





2011年03月12日(土曜日) 続出した高層階難民 (Unknown)
2011-03-12 08:18:44
 (04:25)日本にとって、何とも凄まじい12時間の経過です。テレビで刻一刻と報道される被災地の状況は、本当に心が痛みますが、それとは別に私がこの半日に経験したことを書き残すことは、やはり意味のあることなのでしょう。都会でこの大きな地震に遭遇した人は多かったし、今後の参考になると思う。

 書き残しておくべきだと思うことはいっぱいあります。

都心のほとんどの道路での地震から数時間での大渋滞発生と、一瞬にして消えたタクシーの空車。つまりタクシーに乗った人も、ほとんど移動できなかったのではないか
都心の歩道を埋め尽くした人の波のすごさ。これは都心のJR、私鉄、メトロが止まって動かないと判明したあとも続いた。「皆さん、どこに向かっているのだろう」という疑問を持った
皆が携帯で情報をとろうとしているが、実際にはつながっている電話がいかに少ないか。auが音声を扱えたケースが多かったが、私が持っているドコモとソフトバンクの音声は、両者が緊急用に枠を開けたために、通話はほとんどできなかった。長い間
それに対して、地震後もっとも素早く通信が再開できたのはデータ通信で、私の場合はドコモのポケットwift が稼働し、それによるツイッター発信、フェースブック書き込みは地震後しばらくして開始できた(それを見た私の友人や仕事関係者も多かった)
夕方には都心のほとんどのコンビニの弁当売り場、パン売り場などの棚は全くの空っぽになった。開いているレストランには人が並ぶところもあったが、「こういう状況なので」とキッチン・クローズを9時にしたレストランもあった
つまり、ほんとに大地震が起きたときには、直ぐに食糧を手当てして安全な場所で交通機関などが動き出すのを待つのが良いことを今回の地震は示した

 ということだったかもしれない。個人的体験としては、携帯が音声、メールとも非常に長い間つながらなかったので、放送関係を含めて、連絡は自分の足によって行ったが、それは普段の瞬時通信からの大きなtime-consuming matter となった。ツイッターやフェースブックでお互い連絡とれる人の数は限られていた。
 昨日の午後3時前からの揺れは、ビルの28階に居た身にとって実に恐ろしかったが、問題はその時点でエレベーターが長い間止まったこと。28階から徒歩で降りたが、もっと上の階の方々はたぶん大仕事だったと思う。

 東京の大きなビルのほとんどのエレベーターが止まったので、やはり懸念されたように「高層階難民」が生じたこと。聞くところによれば、子供を園に迎えに行ったはいいが、高層階に戻れなかった人、上の階でビルやマンションの中に閉じ込められた人が実に多かったと聞いた。

 「高層階難民」だけでなく、大地震はいろいろんな難民が生ずることを示した。帰宅困難者も言ってみれば「交通難民」であり、家族と連絡が取れない人たちもそうだ。家に帰れないと分かった段階で、食糧を買いに走った物の、確保できなかった人は地震による買い物難民と言える。

 今でも入ってくる地震速報は今回の地震が実に大きなものであることを示している。マグニチュード8.8なんて今まで聞いたことがないし、日本の観測史上でも例がないそうだが、「想定外の事は起きる」んだと思っておいた方が良さそうだ。

 力強いと思ったことは、いち早く復旧したツイッターを通じて、実に多くの方が情報を転送したりして流していてくれたこと。地震直後からの12時間において、むろんテレビ、ラジオは大量の情報を流したが、そのかなりの部分が「繰り返し情報」だったのに対して、ツイッターの情報は安否情報、交通機関の運行情報、どこそこの学校や公共施設が臨時宿泊所になったなどまで、実にすばらしい役割を果たした。

 むろん、電話会社の緊急伝言版で安否を確認できた人もいただろうが、ツイッターで安否を確認した人も多かったことは、今後の参考になる。情報をとれた人が、周りの人に伝える姿も良かったし、「お互いできることでお互いを助けよう」というシーンがあちこちで見られたことも良かった。

 被害は甚大だ。しかしお互いの協力によってこの困難を乗り越えられればいいなと思っています。

http://arfaetha.jp/ycaster/diary/post_1284.html

地震・災害がおきたとき「しない」こと3つ (Unknown)
2011-03-12 08:37:08
東北地方太平洋沖地震で被災されたみなさまへ心よりお見舞い申し上げます。

わたしたちは無事です。

これを読んでくださっている方たちもご無事なことを信じて備忘します。

今回のことで痛感した3つの「しない」こと。

むやみにRTしない
今回Twitter上で悪質なデマ、誤情報のTweet・ReTweetが多く見られました。

とくに

怪我をしています。助けてください
地震で止まってしまったガスの復旧方法はこれです
の2つは多くのRTがなされ、批判のリプライがあったり非公式RTがされました。

もちろん軽率に混乱を招くようなデマを書く人を擁護したいわけではないです。そして伝わってくる情報には避難場所情報など有益なものがもちろんあります。

ただ今回のことは「ちょっとしたおふざけ」や落ちた携帯電話の電源を入れなおす方法ではないのです。そのことがなければ、本来もっと早く救助に向かえたかもしれない事故があるのです。誤情報やイタズラである可能性を考えず出所を確認しないまま、むやみに拡散してしまうことの怖さを感じました。



自己判断で動かない
前項とも関連しますが、電気やガスなどのライフラインが止まってしまったとき、不便さについ自己判断で復旧したくなるかもしれません。またニュースなどで言われていても、どうしても自家用車で移動したり、家族を迎えに行きたくなるかもしれません。

ただ、自己判断での復旧は思わぬ事故を招いたり、自家用車での移動は渋滞を招き救急車両の妨げになるかもしれません。「このくらいならいいだろう」「もう大丈夫だろう」という判断の積み重ねが二次災害を引き起こすかもしれない、と意識して、慎重に行動したほうがよいのではと感じました。



過剰に神経質にならない
これは自戒も含めてですが、わたし自身が今も実家の両親と連絡が付きません。

両親が住むのは関東地方の被害が少ないと思われる地域在住とはいえ、最新の災害状況を知るたびに、両親も怪我をしたり家具の下敷きになってしまっているのではないか、助けを求めようにも求められないのではないか、と思うと不安で胸が潰れそうです。

ただ、一般人の自分が両親の状況を知れたとしても、できることは通報したり救助を依頼する程度で、なおのこと自分は冷静でいなければならないと自戒しています。

ライフラインが動いているうちに、とお米を炊いておむすびを作り、鍋いっぱいに豚汁を作って夫と食べました。万が一、何かが起きたとしても、まず自分と身近な人の安全を確保した上で慎重に、パニックを起こさないよう落ち着いていたいと思います。


http://d.hatena.ne.jp/hase0831/20110311ルポ 大津波、街消えた (Unknown)
2011-03-12 08:40:10
河北新報 3月12日(土)1時36分配信

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110312-00000902-khk-l04


巨大な津波が、船を、車を、住宅をのみ込んだ。街が消えた。家々がなすすべもなく燃え続けた。11日、国内で観測史上最大マグニチュード(M)8・8の地震が東北を襲った。突き上げる揺れ、牙をむき迫り来る海。東北は恐怖に震えた。

 宮城県南三陸町の高台にある志津川高に避難した。海と街を見た。
 午後3時35分ごろ、海の奥が白く波立ち、遠くで大型の漁船が流された。

 直後だ。町の中心部を南北に貫く新井田川沿いで、土煙が上がった。川を逆流した津波が、住宅を押しつぶした土煙だ。

 堤防を乗り越えた津波が、川沿いの建物を次々と襲った。瞬く間に50~60軒がなぎ倒された。

 周囲には避難住民約200人がいた。若い女性2人が抱きつき、泣きだした。あちこちから「キャー」という悲鳴が上がる。「なんで、どうして」。あまりの光景に、言葉がつながらない。

 新井田川からあふれた津波と、海から押し寄せた津波が一つと化し、町を西へ向かった。津波の高さは2階建ての町役場より高い。10メートル以上はあった。3棟ある町役場のうち木造2棟を押し流し、鉄筋コンクリートの防災庁舎ものみ込んだ。

 防災庁舎の屋上には、避難した職員とみられる30人ほどの姿があった。津波が屋上をたたいた。しばらく立ちこめる水煙。数分後、屋上が見えた。そこにいたのは10人ほどになっていた。

 防災庁舎の屋上にある高さ5メートルほどの無線アンテナによじ登り、津波を逃れた人もいた。

 津波は、海岸線から約2キロ離れた志津川高がある山の麓まで達した。山にぶつかってさらに北に向かった。

 町から建物の姿は、ほぼ消えていた。(河北新報社志津川支局・渡辺龍)

        ・        ・        ・

 仙台市中心部から国道4号を南下した。名取市の境、名取大橋を渡ると、無残な光景が広がった。数え切れない住宅が、がれきと化していた。

 名取川河口から逆流した茶色い津波が、家々を押し流した。上空からヘリコプターがサーチライトを照らし、取り残された人を捜す。遠くで、赤い炎が夕空を不気味に染める。住宅が燃えているようだ。津波が消防車などの行く手を阻む。

 近くの会社員渡辺昭さん(54)は「河口から一直線に津波が来た。3人ぐらいが流されているのを見たが、救助されたようだ。火災の方向に自宅がある。心配だ」。赤く染まる空を見詰めた。(河北新報社スポーツ部・原口靖志) 最終更新:3月12日(土)1時36分

拍手

PR

コメント

コメントを書く