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徽宗皇帝のブログ

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日本近代の「二重規範」という宿痾
「カマヤンの燻る日記」旧記事だが、これは凄い論考だと思う。
今の日本も「上と下」、あるいは「身内と外」が厳然と区別され、そのそれぞれに対する規範がまったく違い、上や身内に対しては法すらが適用されず、下や外に対しては「上による法の恣意的使用」が行われているのは確実だろう。そこで、今、「憲法」を対立軸として政府と国民一般との間に大きな闘争が起こりかかっているのだが、これは日本国民がやっと「近代的市民」に近づきつつあることを示していると思う。
この時にあたって、下の考察をできるだけ多くの人の目に触れさせ、日本という国の根本的欠陥がどこにあるのかを認識してもらうのは大きな意義があると思う。
先に、私が特に強い印象を受けた部分を赤字で引用しておく。もちろん、この論考の文章全体が重要な記述に満ちているのだが。



十五年戦争は軍官僚らの私的関係を優先し、日本全体を破壊した戦争


 冒頭に述べた如く、天皇制国家は神政政治体制だ[10]。権力は公式には神に由来する。天皇からの距離が階級である以上、階級が上位であるほど神に近いことになる[11]。職業軍人たちは神々の末端だ。徴集兵は、神性を持たないという意味で人間であり、神々への供物だった。徴集兵らが「涙ぐましいほど忠実に仕え」たのは、半神たちに仕えていたからだ[12]。これを「忠孝」と当時は呼称した。神に拠らず、人間が人間を統治するのが近代国家だ。戦中日本は神が統治した。

 日本の開国と「近代化」は、そもそも欧米に対し体面を整えるためのものだった。近代化の本質である「法の遵守」も体裁にすぎない。

法を参照点にしない悪癖は、日露戦争にすでに萌芽がある。

十五年戦争は日露戦争への無反省が招いた。



そして、十五年戦争への無反省、および社会全体の「法の軽視」は、安倍一派による憲法破壊の企図の成功と海外派兵を招き、再び日本に戦争の惨禍をもたらし、日本を破壊し尽くすだろう。
法の遵守こそが近代化の本質である、という指摘は重い。国民の人権は、国民全体の「法の遵守」(特に、「上」に法を守らせること)によってのみ守られるのである。
(なお、文中の「大義名文」は「大義名分」の誤記だろう。私もよくやるミスである。些細なことだが、こうした「重要文書」には、一点の誤記も誤字もあってほしくないから、指摘しておく。)




(以下引用)

2005-02-27

[][]レポート;『インパール兵隊戦記』に見る、日本の「二重規範」の問題 07:24 レポート;『インパール兵隊戦記』に見る、日本の「二重規範」の問題を含むブックマーク レポート;『インパール兵隊戦記』に見る、日本の「二重規範」の問題のブックマークコメントAdd Star

〔以下は、2002年12月に書いたレポート。「情実主義」について。〕


http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1039180795/2-22


このレポートでは、黒岩正幸『インパール兵隊戦記 「歩けない兵は死すべし」』(光文社NF文庫、1999年)*1をもとに、日本軍と日本政治の「二重規範」について考えたい。

1;二重規範

「法のもとの平等」は、近代国家の前提の一つだ。だが、戦前の日本、特に十五年戦争期の日本には、この前提が欠け、法治国家として壊れていた、と、私は考える。結果、その身分によって適用される法が異なる、という前近代性が、かなりあからさまに現れた。このレポートではそれを「二重規範」と呼ぶ。「二重規範」という語は社会科学系でしばしば用いられるが、「二重規範」を俗な言葉に砕くと、「二枚舌」「不正直」ということになると、私は理解する。


「法のもとの平等」が壊れる萌芽は、天皇制自体にあったと言える。皇道派の理解した天皇制は神政政治体制だ。1930年以降の日本は、神政政治体制になったと私は考える。法源が天皇の権威に求められ、法執行者の正当性が天皇との距離に求められる体制は、「身内」と「身内以外」を差別する二重規範の温床となる[1]。軍官僚らから見ると、「神」により近いのが「身内」、「神」からより遠いのが「身内以外」だ。「身内以外」という意味で、敵も下級兵士も、軍官僚から見ると、同じだ。


「二重規範」は、公式には士官未満への自決命令と士官以上への担架輸送待遇を、非公式には「軍隊は泥棒の養成所」の精神を生む[2]。


古参兵士から下級兵士への暴力による制裁が加えられたとき、「軍隊では真実を語ってはならない不文律があった」と黒岩は書いている[3]。不正直であれ、と、軍隊は兵士に教えているのだ。


〔注釈〕


  [1] たとえば丸山真男は終戦直後に「超国家主義の論理と心理」で日本の神政政治的側面を指摘している。丸山真男「超国家主義の論理と心理」『増補版 現代政治の思想と行動』(未来社、1998年)21頁。「遵法というものはもっぱら下のものへの要請である。」*2


  [2] 黒岩正幸『インパール兵隊戦記「歩けない兵は死すべし」』(光文社NF文庫、1999年)184頁。


  [3] 同前、64頁。


2;インパール作戦について

 インパール作戦の全体像は掴みにくい。「統帥権」が国政から切り離された後の昭和史は、断片の集合という様相を示し、なかなかその全体を見通すのが困難だ。合理性を喪失した歴史だからだろう。十五年戦争史自体断片の集合であり、インパール作戦はその典型だと感じる。以下、自分なりに理解したインパール作戦の性格を述べる。


 インパール作戦は、決行する必要のなかった作戦だ。軍官僚たちの人間関係(情実)を過度に重視した情緒主義が、戦略的合理性を欠いたこの作戦の実施に至った。インパール作戦の悲劇は、作戦が不成功であることが客観的に明確になったあと、牟田口司令官がそれを認めず作戦が中止されなかったことで凄絶なものとなった[4]。「戦闘で敵に殺された戦死者よりもはるかに多くの将兵が、飢えと病気と味方の弾で死んでいったのである。[5]」


 十五年戦争は軍官僚らの私的関係を優先し、日本全体を破壊した戦争だと理解するが、インパール作戦はその典型だと言える。


  [4] 「インパール作戦 賭の失敗」戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁二郎『失敗の本質』(中公文庫、1991年)171頁。 *3


[5] 黒岩 前掲書、9頁。


3;『インパール兵隊戦記 「歩けない兵は死すべし」』について(以下、『戦記』と略す)

 黒岩は、「下っ端の兵士」として、この回顧録を書いた。


「下っ端の悲しみは、生きているときも死ぬときも、同じ下っ端の兵士でなければ分からない」からだ[6]。


 この回顧録は戦後39年を経て発表された。アラカンの桜のエピソードを軸につづっている。書かれている個々の事柄は事実だろうが、実際に書いたものと書くのをためらったものとの葛藤を私は文章から感じる。


 「純情」という言葉が『戦記』には三回登場する[7]。現在において「純情」という語はあまり用いられないし、必ずしも現在は美徳とはされない。黒岩は軍隊の残酷な二重規範に「純情」を対峙させている。「純情」という語で示そうとした心情は人権と公正を求める正当な人道意識だ。


 黒岩は「輜重兵は軍馬を食わない」と記述している[8]。情の移った「身内」は特別扱いするのが当然だ、とする考えだ。情としてこれは自然だが、この論理は軍隊の二重規範をある面で下支えしてしまう。もちろん自然な情を否定するべきではなく、法という参照点で公正な裁定がなされないこと、審判の不在に問題があるのだが。


 『戦記』の1944年七月二十七日の記述はやや幻想的だ。この日に人肉食をした兵士の記述がある。また七月三十一日には「人間である限りノドを通らないものがあるはずである」「わが中隊ではないが、野獣化した兵士が」「新しい死体の腰からももの肉を切りとって」などの記述がある。黒岩は否定しているが、これは黒岩が実際に見聞した第三中隊内部の人肉食事件を示しているのではないかと私は思う[9]。前述の軍馬の記述は、人肉食を非難する意図が強いのだろうと私は思う。中隊内での人肉食を語ることを避けるため、黒岩はアラカンの桜のエピソードを中心につづるという手法を選択したのではないかと私は想像する。


[6] 同前、10頁。


[7] 同前、21頁、30頁、72頁。


[8] 同前、167頁。


[9] 同前、189頁、281頁。


4;二重規範の背景 

 「二重規範」が何によって生まれるのか、二つの側面から考えたい。一つは「神政政治という理屈」の側面、もう一つは「二重規範」を許すに至った経緯・歴史的側面から。

 4-1;「神政政治という理屈」 

 冒頭に述べた如く、天皇制国家は神政政治体制だ[10]。権力は公式には神に由来する。天皇からの距離が階級である以上、階級が上位であるほど神に近いことになる[11]。職業軍人たちは神々の末端だ。徴集兵は、神性を持たないという意味で人間であり、神々への供物だった。徴集兵らが「涙ぐましいほど忠実に仕え」たのは、半神たちに仕えていたからだ[12]。これを「忠孝」と当時は呼称した。神に拠らず、人間が人間を統治するのが近代国家だ。戦中日本は神が統治した。


 上級兵は下級兵を、ビンタで/理不尽な暴力で、教育した。これは以下の効果がある。


・理不尽な暴力を被ると、自身の価値感覚を低減させ、人命への価値意識を低減させる[13]。


・理不尽な暴力は、道理への感覚を磨耗させる。理不尽な暴力は、被害者の内面でしばしば自責感自罰感に合理化され、時には一層の献身(マゾヒズム的な献身)を喚起することがある[14]。


[10] 前掲「超国家主義の論理と心理」『増補版 現代政治の思想と行動』15頁。「天皇の神性が否定されるその日まで、日本には信仰の自由はそもそも存立の基盤がなかったのである。」


[11] 同前、23頁。「上から下への支配の根拠が天皇からの距離に比例する。」


[12] 黒岩、前掲、40頁。


[13] エーリッヒ・フロム 鈴木重吉・訳 『悪について』(紀伊国屋書店、2001年)。とくに「死を愛することと生を愛すること」*4


[14] 理不尽な暴力の被害者が、加害者を肯定する心的動きについては、児童性虐待などの研究で散見する。


 4-2;経緯・歴史的側面

 私は以下のように日本近現代史を理解する。


 日本の開国と「近代化」は、そもそも欧米に対し体面を整えるためのものだった。近代化の本質である「法の遵守」も体裁にすぎない。法を参照点にする、という意識を内面化させるには遥かに時間がかかった。法を参照点にしない悪癖は、日露戦争にすでに萌芽がある。明治天皇及び伊藤博文との約束を破って、陸奥宗光と桂太郎が日露戦争をはじめたのは、前例として挙げていいと思う。


 十五年戦争は日露戦争への無反省が招いた。


 十五年戦争は、石原莞爾が法的手続きを無視して独断で満州事変を起こし、政府がそれを追認してしまったことに起因する。軍人永田鉄山が待ったをかけたにも関わらず、若槻首相と幤原外相が追認した。永田は日本の文民統制を守ろうとしたのに、政府がそれを自ら棄ててしまった。


 これが範型となり、蘆溝橋事件の戦線拡大を近衛首相が追認し、軍部は政府のコントロールから離れた。これらはいずれも手続きの正当性を逸脱した行動だ。大義名文のない、戦争目的のない、軍官僚たちが私利私欲ではじめた戦争だ。モラルハザードを招き、戦争の基本的性格が、追認と二重規範となった。


 若槻と幤原は、なぜ満州事変を追認したのか? 1931年には、三月事件十月事件と、軍によるテロという圧力があった。テロという国家反逆行為に対して、政府は適切に懲罰しなかった。日本政府は暴力に易々と屈した。天皇制国家は実にたやすく、法に則らない暴力による体制へ転落した。

5;二重規範の招くもの

 軍紀は、日本では、体裁を整えるためだけのものだ。その不合理さが表れた究極形が自決命令だ。


 自決強要・自殺命令は、「戦陣訓」と、事務上の処理の都合による[15]。優先順位の甚だしい錯誤だ。体裁を整えるためだけに自国民を殺し続けた軍隊は、兵士に仲間を殺させた。仲間を殺させることで共犯意識を強要した。自国民を殺しつづけた軍官僚たちの責任は曖昧化され、一方個々の兵士…多くは徴集兵…には「仲間殺し」の共犯者意識で沈黙させる。このメカニズムは、児童性的虐待の加害者が被害者である児童に共犯意識を植え付けることで沈黙させるのと同じだ[16]。


 「身内」「身内以外」の区別は、天皇という権威の源泉を中心に、恣意的に拡大縮小される。その、境界線の操作は、戦後の十五年戦争を語る言説を混乱させる[17]。言説を不毛化させ、責任を不明瞭化させるために、境界線は恣意的に操作される。戦場では『戦記』にあるように、上層の職業軍人と下層の徴集兵は区別されたが、戦争責任論議では、しばしばこの区別など存在しなかったかのように語られ、下級兵士を二重に苦しめる[18]。


[15]  黒岩、前掲、206頁。


[16] たとえば ロバート・K・レスラー 河合洋一郎・訳 『FBI心理分析官/異常殺人者ファイル(上)』 など。児童性的虐待では「子供は大人に従うべきだ」という通念を利用し、加害者は性搾取をし、被害者に沈黙を強要する。被害児童は罪悪感を抱え、沈黙する。*5


[17] 「日本人」の境界線の歴史的変遷については、たとえば 小熊英二『〈日本人〉の境界― 沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮植民地支配から復帰運動まで』(新曜社、1998年)など。


[18] 小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、2002年)などを見ると、この二重の苦しみを与える言説は、吉本隆明による丸山真男批判がはじまりのようだ。この手の上層下層の区別を不明瞭化する言説は、吉本の意図とは別に、いわゆる保守言説に流用され、戦争責任問題を曖昧化するための言説として利用され一般化してしまったように思う。*6


6;二重規範をどう超えるか

 6-1;「自由」と「忠誠」の分岐点

 「下級兵士にビンタが雨あられと飛んでくるのは後方のことで、前線では少なかった。後方では無抵抗ででくの坊だった兵隊が、前線では実弾をこめた銃を持っているから、上官もうかつには殴れなかった」と、黒岩は書いている[19]。これは面白い示唆を与えている。


 近代は銃によって生まれた。武芸を積んだ騎士も農民の銃砲によって死ぬ。これが欧州の「自由」思想を下支えした。一方、日本では豊臣秀吉の刀狩以降、武装反抗の手段が民衆から奪われた。日本では「忠孝」というマゾヒズムが推奨され培われた。「自由」と「忠孝」の分岐点は、ここにある[20] 。

 6-2;優先順位の混乱

 十五年戦争期の日本政治には、「優先順位」の錯誤・混乱が常にあると思う。戦争も政治行為の一つであり、軍部も行政の一つだ。この「優先順位」の錯誤・混乱は、現在まで続く宿痾だ。兵站を無視した作戦、目的の不明な戦争、これらは「優先順位の混乱」によるものだ。その「混乱」は、「身内」「身内以外」の二重規範とその境界操作で、言説としてはしばしば不毛化され、的確に客体視した言葉が、広く浸透したものになっているかどうか疑問だ。

 6-3;政策提言の試み

 日本史学は政策提言を目的とした学問ではないかもしれないが、それでも過去からの反省を現代政治へ生かすための提言を試みるのは悪くないと思う。それを以下試みる。


 「近代」の範型となったキリスト教社会には、聖書解釈の強靭な伝統がある。条文と条文の間の矛盾をどう優先順位をつけて解釈するかの伝統がある。それは瑣末な事柄を延々議論する伝統でもあるが、その蓄積は重要だ。中世キリスト教社会では教会による「司法権」が絶大だった。日本にはこの伝統は、ない。近代政治に不可欠な審判が、日本政治には欠けている。それが「統帥権」の暴走を許すことにもなった。解釈には、その知的背景となる原則が必要だと私は思う。それを欠くと解釈は「事情変更の原則」により、追認の言説へ転落する。


 現在の日本の憲法論議も同じだ。条文間が対立したときどういう原則であたるべきか、日本ではまずそれを明言化しておく必要があるように思う。憲法を判定する基準として、現在の日本ならば


 A;国家は国民に危害を加えない。


 B;国家は国民(主権)の命令に従う。


 C;国家は国家自体を守る。


このような原則を立てて明言化し、判定基準とするべきだと考える。この三原則はSF作家アシモフロボット三原則の変奏だが、同時にこれは工業製品に求めらる「安全性」「利便性」「耐久性」の原則を表している。近代国家は人工物だ。この三原則は、政治では「基本的人権」「国民主権」「防衛・福祉」に相当すると思う。


 政教分離原則のない戦中の日本の招いた悲劇から、私たちは何かを学ぶべきだろうと思う。


[19]  黒岩、前掲、216頁。


  [20] だが、各自武装と武装解除のどちらが望ましいかは、難問だ。




*1


*2

現代政治の思想と行動

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