「世に倦む日々」から転載。
川崎中一殺害事件についての長い記事の末尾だけ載せた。記事前半の、警察の無責任さへの糾弾も頷けるが、最後に書かれたこの部分は、それよりも大事なことを指摘していると思う。いや、前半に書かれた警察の無責任さの問題もここで書かれたことと通底している。
一番の問題は、親も学校も警察も「誰も責任など取らない」ということではないか。
その理由は、犯罪事件の周辺の人々は、「自分にも責任がある」とは本当は思っていないからだ。(それにも一定の理はあると思うし、特に親権者義務を守れないほど追いつめられた家庭が無数にあるだろう、という問題は大きいが、ここでは論じない。むしろ、責任があるとも思っていないのに責任を追及されるという事態が何を生み出すか、に注意を喚起しておきたい。)
何か重大な事件が起こった時、事件の直接の加害者以外の関係者は「自分に本当に責任があるとも思っていないのに世間には責められるから、責任を取ったふりをして、無意味で陳腐な解決案を出して責任逃れをする」ということが常態化し、ほとんど腐臭を放っている、というのが今の日本だ。
ボードレールの詩に「相も変わらず(センペルエアデム)」という作品があるが、何かの機会に、この詩の題名だけが頭に思い浮かぶ。
下の言葉を学校関係者、警察、文科省、そして犯罪可能性のある問題行動の多い子供を持つ親(それは膨大な数に上るだろう)、そしていじめを今まさに受けている子供やその親はどう聞くだろうか。
マスコミ報道やネットの左翼リベラルの言説は、「二度とこういうことが起きないように」と白々と言い、学校と地域が協力して仕組みが云々とか、教師がもっとよく注意して云々と、尤もらしいことを表面を撫でるように言う。同じ念仏言句を繰り返す。そして、結果されるのは、政府の示達で教師に押しつけられる無駄なペーパーワークの増量であり、文科省の「子どもの命を守るため」の天下り法人の設置とか、予算の増額とか組織の拡張とかハコモノの建設だ。
(以下引用)
今は格差社会が進み、親権者義務などと言ってられないほどその主体性の前提基盤が崩壊し、有名無実なものになっている。中産階級社会の一般像と常識が崩れている。そのことが問題なのだ。事件の真相に迫ろうとする者は、だからこそ、被害者の家庭環境の実態を報告して問題提起する必要があるのだ。
マスコミ報道やネットの左翼リベラルの言説は、「二度とこういうことが起きないように」と白々と言い、学校と地域が協力して仕組みが云々とか、教師がもっとよく注意して云々と、尤もらしいことを表面を撫でるように言う。同じ念仏言句を繰り返す。そして、結果されるのは、政府の示達で教師に押しつけられる無駄なペーパーワークの増量であり、文科省の「子どもの命を守るため」の天下り法人の設置とか、予算の増額とか組織の拡張とかハコモノの建設だ。警察庁の監視カメラの増設と高解像度化のための予算増額だ。そして、また同じ事件が起きる。倫理がなくては、社会を生きる人の中に倫理がなくては、人の内面に責任感と正義感がなくては、口先でいくら再発防止を言っても無意味なのに。
川崎中一殺害事件についての長い記事の末尾だけ載せた。記事前半の、警察の無責任さへの糾弾も頷けるが、最後に書かれたこの部分は、それよりも大事なことを指摘していると思う。いや、前半に書かれた警察の無責任さの問題もここで書かれたことと通底している。
一番の問題は、親も学校も警察も「誰も責任など取らない」ということではないか。
その理由は、犯罪事件の周辺の人々は、「自分にも責任がある」とは本当は思っていないからだ。(それにも一定の理はあると思うし、特に親権者義務を守れないほど追いつめられた家庭が無数にあるだろう、という問題は大きいが、ここでは論じない。むしろ、責任があるとも思っていないのに責任を追及されるという事態が何を生み出すか、に注意を喚起しておきたい。)
何か重大な事件が起こった時、事件の直接の加害者以外の関係者は「自分に本当に責任があるとも思っていないのに世間には責められるから、責任を取ったふりをして、無意味で陳腐な解決案を出して責任逃れをする」ということが常態化し、ほとんど腐臭を放っている、というのが今の日本だ。
ボードレールの詩に「相も変わらず(センペルエアデム)」という作品があるが、何かの機会に、この詩の題名だけが頭に思い浮かぶ。
下の言葉を学校関係者、警察、文科省、そして犯罪可能性のある問題行動の多い子供を持つ親(それは膨大な数に上るだろう)、そしていじめを今まさに受けている子供やその親はどう聞くだろうか。
マスコミ報道やネットの左翼リベラルの言説は、「二度とこういうことが起きないように」と白々と言い、学校と地域が協力して仕組みが云々とか、教師がもっとよく注意して云々と、尤もらしいことを表面を撫でるように言う。同じ念仏言句を繰り返す。そして、結果されるのは、政府の示達で教師に押しつけられる無駄なペーパーワークの増量であり、文科省の「子どもの命を守るため」の天下り法人の設置とか、予算の増額とか組織の拡張とかハコモノの建設だ。
(以下引用)
今は格差社会が進み、親権者義務などと言ってられないほどその主体性の前提基盤が崩壊し、有名無実なものになっている。中産階級社会の一般像と常識が崩れている。そのことが問題なのだ。事件の真相に迫ろうとする者は、だからこそ、被害者の家庭環境の実態を報告して問題提起する必要があるのだ。
マスコミ報道やネットの左翼リベラルの言説は、「二度とこういうことが起きないように」と白々と言い、学校と地域が協力して仕組みが云々とか、教師がもっとよく注意して云々と、尤もらしいことを表面を撫でるように言う。同じ念仏言句を繰り返す。そして、結果されるのは、政府の示達で教師に押しつけられる無駄なペーパーワークの増量であり、文科省の「子どもの命を守るため」の天下り法人の設置とか、予算の増額とか組織の拡張とかハコモノの建設だ。警察庁の監視カメラの増設と高解像度化のための予算増額だ。そして、また同じ事件が起きる。倫理がなくては、社会を生きる人の中に倫理がなくては、人の内面に責任感と正義感がなくては、口先でいくら再発防止を言っても無意味なのに。
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