ルネ・クレマンの名作「太陽がいっぱい」の原作は「才人トム・リプレイ君」とか何とか言ったと思うが、アラン・ドロンが見事に演じたあの主人公の悪党若者は原作者から「才人」とされているわけだ。才人だからこそ、完全犯罪寸前まで行き「太陽がいっぱいだ」と呟きながら最後の転落を迎えるわけだが、あの映画の主題は「貧しい若者がいかにしてのし上がるか」ということだったのではないか。その手段に不正な方法を用いようが、それはその若者の境遇からして仕方が無い、ということもあるわけだ。
モンゴメリー・クリフトの「陽の当たる場所」も(見てはいないが、多分)同じ主題であり、実はこれは近代の文学や映画の大きなテーマだろう。つまり、社会全体を変えようという革命と、個人的にのし上がろうという「個人的革命」とのふたつは、一見民主化されているが実は階級が厳然と支配する近代世界の陰画だと思われる。前近代でのたとえば、「ゴリオ爺さん」のラスティニャックや、「赤と黒」のジュリアン・ソレルは、トム・リプレイの精神的双子なのである。すなわち、「社会が俺に何も与えないなら、俺は自分の力で奪ってみせる」ということだ。
で、新コロ詐欺による世界の収容所化がどんどん進行する現在、「貧しい若者の社会的上昇」は可能か、というのが私がここで提出する問題だ。
おそらく、それはほとんど不可能だろう。「親ガチャ」という言葉は、それを予感した若者の心理を言語化したものだと思われる。スマホを使う以外にコミュニケート手段が無い以上、若者の相互のつながりはすべて権力に把握されている。つまり、「革命」も不可能なのである。
後は、「個人的革命」の可能性があるかどうかだが、それは当然犯罪と隣り合わせであり、絶望した若者は、早々と人生をあきらめて「電車のジョーカー」のような暴発行為に走ったりするわけだ。これからはそういう事件が多発するだろう、と予測しておく。
モンゴメリー・クリフトの「陽の当たる場所」も(見てはいないが、多分)同じ主題であり、実はこれは近代の文学や映画の大きなテーマだろう。つまり、社会全体を変えようという革命と、個人的にのし上がろうという「個人的革命」とのふたつは、一見民主化されているが実は階級が厳然と支配する近代世界の陰画だと思われる。前近代でのたとえば、「ゴリオ爺さん」のラスティニャックや、「赤と黒」のジュリアン・ソレルは、トム・リプレイの精神的双子なのである。すなわち、「社会が俺に何も与えないなら、俺は自分の力で奪ってみせる」ということだ。
で、新コロ詐欺による世界の収容所化がどんどん進行する現在、「貧しい若者の社会的上昇」は可能か、というのが私がここで提出する問題だ。
おそらく、それはほとんど不可能だろう。「親ガチャ」という言葉は、それを予感した若者の心理を言語化したものだと思われる。スマホを使う以外にコミュニケート手段が無い以上、若者の相互のつながりはすべて権力に把握されている。つまり、「革命」も不可能なのである。
後は、「個人的革命」の可能性があるかどうかだが、それは当然犯罪と隣り合わせであり、絶望した若者は、早々と人生をあきらめて「電車のジョーカー」のような暴発行為に走ったりするわけだ。これからはそういう事件が多発するだろう、と予測しておく。
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