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徽宗皇帝のブログ

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電気完全依存社会という「海の上の筏(いかだ)」
「東海アマ」氏の最新記事の一部で、前半は過去の自分の思い出話が中心なので省略する。引用記事も、書かれたすべての「意見」を肯定しているわけではないのはもちろんだが、総体的には優れた見識だと思う。
要するに、「電気完全依存社会」は、天国でも何でもない、ということだ。その根っこに原発という人類最悪の「時限爆弾」があるのだからなおさらだ。

(以下引用)

 だが、私が交通の歴史を振り返ってみて、自転車や車に関して、150年前の開発時と比べて、どれほど進歩しているのか、大きな疑問がある。
 今でも100年前の大古車が売られているし、半世紀前の車など、実用車として生きている国など珍しくもない。
 アメリカで軽自動車がブームになているが、すべて30年近い前の生産だ。
 エンジンがついて、人間を運んでくれるという本質において、私には「進歩」が実感できないのである。

 まあ、燃費は確実に進歩している。私はスズキアルトに乗っているが、燃費は四駆なのにリットル24Km前後だ。だから、自動車の未来はアルトにあると確信している。
 EVが未来の主役になることは永久にないと考えている。水素車も同じだ。それは、ガソリン車のような耐久性がなからだ。
 だから、EV車に進歩は感じられない。

 EV車が未来の主役であるかのように宣伝されている本当の理由は、温暖化を口実にした原子力発電の推進にあると断定してもいい。
 原発を推進しているのはダボス会議と国連だが、その核心人物であるアルゴアは、世界最大のウラン鉱の所有者だ。そしてビルゲイツは、世界最大の新型原子炉開発者だ。
 だから、世界のエネルギーを電気に一元化して、原発でまかなうという発想の裏側が実に明瞭に透けてみているのである。

 これに踊らされて電気の大量消費社会を作ろうとして、JRはリニア新幹線の工事を進めている。また、自民党は、すべてを電気でコントロールするスーパーシティ(スマートシティ)を作ろうとしている。
 一方で、世界の化石燃料利用を、二酸化炭素を口実に廃止させようとしている。

 人類の煮炊き、暖房をすべて原発電気に変えようというのだ。竈や暖炉、薪ストーブなどもっての他として敵視する社会を作ろうとしている。
 そして、電気オンリー社会で、楽ちん生活をすることが人類の進歩であるかのようなデマで人々を洗脳しようとしている。

 だが私は、原発電気による暖房などいらない。薪ストーブの暖かさから離れるつもりはない。今でも、エアコン暖房は極力使わない。こんなものに進歩は感じられないのだ。
 私は、今でも電気温水器は使いたくない。せいぜい灯油ボイラーを使っている。
 能登半島地震でも、電気一元生活をしていた人は、いまだに停電でひどい目に遭っている。一方で、昔ながらの竈、囲炉裏を使っている人には大きな影響がない。

 竈や囲炉裏での調理には郷愁があるだけでなく、実際に食事の質が違うように思える。高級な電気釜で炊く飯より、竈の羽釜で炊いた飯の方がはるかにうまい。
 囲炉裏で、焼いた焼魚や焼鳥は、電気式調理では、うまさを再現できない。
 電気生活は、どんなに便利ではあっても、私には進歩と思えないのだ。

 そもそも楽ちん生活、歩かないですむとか、重労働しないですむなんてのが、本当に進歩なのか?
 人間の真の健康は、筋肉を働かせて汗をかき、日光を浴びるところから生まれるのではないのか? 人間が体液の循環を失うことは健康を失うことなのだ。
 楽ちん生活への誘いは、人類を滅ぼす目的さえ疑ってしまう。

 温水便座は文句なしに進歩だと思っているのだが、なかには、肛門をきれいにしすぎることで免疫機能の低下を指摘する人もいる。
 低燃費アルト以外の車が進歩しているようには見えない。大半の車が、儒教的な序列と見栄に支配されているようにしか思えない。さらにリニアが進歩だなんてのは、もっての他だ。

 これは新幹線の4倍の電気を浪費し、本当にこれを必要とする人などほとんどいないのだ。結局、沿線の狸や狐を乗車させるつもりなのかと思う。
 リニアは、原発電気社会を演出するために計画された。リニアが全線開通すれば100万キロワット級原発が必要になり、その存在理由を作り出すために計画されたのだ。
 実際には、名古屋品川間は40分しか短縮されないが、大深度の駅に昇降する時間が20分もかかるので、時短効果などリニアには存在しないのだ。

 我々は、人類史を民俗学的視点で振り返り、人間が楽しく、解放されて生きるために、どのような民俗、風俗が適しているのか? 人間に本当に必要なものは何なのか?  明確にビジョンを持つべきだ。
 それは楽ちん生活ではない。人々の主体性を引き出し、人間としての能力を引き出し、健康を確保できるライフスタイルでなければならない。

 毎日歩き、体液を循環させ、日光を浴びることで免疫力を確保し、笑顔の絶えない人間関係を作り出し、大自然とふれあいながら美しい、快適だと感じる感受性を確保できるライフスタイルだと私は思う。
 それは、少なくともAIに依存する社会でないことは確かなのだ。国家権力が作り出した秩序に整然と従うわけでないことは確かだ。

 コンピュータや技術革新が人類の未来を救ってくれるわけではない。
 何が人を救うのか?
 その答えは、歴史を民俗学的視点で振り返る中に見えてくる。
 

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