日米貿易摩擦で日本が押し切られる、という、もはやNEWSにもならないんだが、CIA自民党のCIAアベシンゾーゆえ、コレは「交渉」なんてモノじゃなく、単なる御用聞きみたいなもんだ。かくして、農薬まみれ、遺伝子組み換え、除草剤でも死なないアメリカの補助金漬けの農作物との競争を強いられ、日本の農業は壊滅する。 日米両政府が大枠合意した貿易交渉で、米国産牛肉や豚肉などの農産物への関税を環太平洋連携協定(TPP)水準まで引き下げる一方、日本が求めていた自動車関税の撤廃は見送ることで一致したことが24日、分かった。 首相がCIAの工作員なんだから、どうしようもない。ディープステートのラストリゾート、それが日本だワタシの国だ。 |
"経済・政治・社会"カテゴリーの記事一覧
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不思議なことに、東京都知事にはなぜか右翼候補者が都民に選ばれることが多い。大企業やその下請けを中心に組織的投票が行われるのだろうか。あるいは、都民のほとんどが、都市自体が日本社会の利権体制の中心にいて、自分たちはその恩恵に与っているという意識があるのだろうか。
なお、一水会も右翼だが、暴力行動を取らず、偽右翼や商売右翼をちゃんと批判するところはいい。竹熊健太郎《地球人》さんがリツイート猫も杓子も「何でもいいから韓国を侮れば名が上がる」と、ここぞとばかり叩いている。メディアが報じ存在を示せるからだ。そんな不埒な輩の典型が、東国原英夫氏だ。都知事選を射程に物を語っているだけ。風向きが変われば、別の事を言う不実な輩。しかもその本質を石原氏が見抜き唾棄したのは有名だ。
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「泉の波立ち」の読者コメントだが、面白い着眼である。
冷戦までは西側諸国、つまりユダ金支配諸国では「共産主義」が敵とされていたが、ソ連崩壊と中国の資本主義容認によってその敵がいなくなった(今でも、ロシアと中国を敵視はしているが、冷戦時ほどではない。)ため、新たな敵として認定されたのがイスラム教とイスラム教諸国であるわけだ。それは、共産主義と同様に「資本主義の敵」であるから、というのが下のコメントのポイントだろう。だが、「イスラム教は資本主義の敵」ということは明確にせず、「イスラム教はテロリストの温床」という「イメージ戦略」を、911事件以来作り上げてきたわけである。もちろん、実際にイスラム教徒によるテロもあっただろうが、現在の大きなテロの実行集団は実はCIAによって作られた「反共闘争の手駒(つまり資本主義の戦闘集団)」の後身であるのは確か「櫻井ジャーナル」も繰り返し書いていたと思う。
要するに、今の世界は「資本主義(ユダ金)の自己防衛の戦い」が世界を殺戮の場にしているという点では冷戦時と地続きなのだが、それがはっきりと目に見えないわけだ。
(以下引用)誤字や奇妙な言い回し(なぜか「信教」という語を「キリスト信教」とか「親鸞信教」のように使うなど)は原文のまま。
考えるほど複雑です。無信教な日本人には。
そもそも宗教の危険さを考える時、
オーム真理教のようなモノから、キリスト信教、
仏教も親鸞信教から真言宗のようなところまで、
創価学会のようなところまで色々ありますが、
供物を要求するをモノサシにしたとき、
大量に供物を要求するキリスト教や信教、
階層を作るヒンズー強、
少量の供物は必要な仏教、
それに比べるとイスラム教、供物を分けあう
そんなイメージ。要は宗教的な共産主義。
もしかすると究極の共産主義なのかも。
そう考えたとき、
宗教家のトップが脅威と感じるのはイスラム教。
なのではないか?
人と富を共有する考えは、寺院や教会を消す。
日本は無宗教だからこそ
正義真理、性善説をビジネスでも貫けるのではないのか?
世界政府に必要な宗教や、人としての素性は、
どんな民族像になるのだろうか?
原爆を受け入れる日本人は、
イスラムと対局にあるのか?同じではないのか?
ジハードの逝く果ては、日本が到達した境地? -
なかなか貴重な資料なので、保存しておく。なぜCIA御用達の日本人や日本の組織にはPOがつくのか、まあ、何となく間抜けな語感だからだろう。「もうだめポ」とか(死語かwww)。
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いろいろと故障があって(誰かの意地悪だろう)なかなかネットに記事が書き込めないが、「ギャラリー酔いどれ」から東海アマ氏の透徹した文章を転載する。これほど明快に今の日本を分析し断じることができるのはネット論者では東海アマ氏くらいだろう。
(以下引用)
◆http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-839.html
東海アマブログ 2019年08月15日 (木)
◎10% 消費増税 後、 何が 起きるのか?
より抜粋、
「消費税を上げよ」と主張してきた 最大勢力は、経団連である。
自民党、安倍政権は 経団連の忠実な愛犬であり、
彼らの言うがままに動くだけのことだ。
消費増税すれば、国内消費が減退してデフレは悪化するし、
税収も減るし、景気全体が低迷してゆくことが分かりきっていながら、
なぜ、経団連はこんな馬鹿げた主張を続け、国民を貧窮に追いやり、
日本経済を凋落させているのか?
その本当の理由を見ておかないと、
「国の赤字を減らすためにやむを得ない」という、
真っ赤なウソに騙されたまま、あなたの、なけなしの財産を
大金持ちと巨大企業に献金し続け、
一文無しのホームレスに転落することになる。
もちろん、消費税の本質は、貧しい国民大衆から「広く」金を奪い、
それを大企業と大金持ちに進呈する 仕組みである。
なぜ、立民党が「消費税廃止」を主張できないか というと、民主党時代に、
消費増税した張本人を含んでいるし、経団連の操り人形である 連合や電力総連
などから金が入っているからである。
現在、消費税廃止を明確に主張しているのは、山本太郎のれいわ組だけであり、
れいわ組政策を普及し、支援するために消費税廃止運動を盛り上げる目的で、
ブログを書くことにした。
なぜ、「究極の馬鹿」にしか見えない、消費増税が
どんどん進められたかというと、これは竹中平蔵の持ち込んだ
「新自由主義 思想」が大きな原因である。
新自由主義経済学説は、何度も説明してきたとおり、
「セイの法則」で知られた古典経済学の焼き直しとして
フリードマンが世に提起し、それをレーガン・サッチャー・中曽根らが支持して、
資本主義の新しい思想的支柱として 世界に拡大したものだ。
それは、ケインズが指摘した、
「社会の底辺の消費力が経済全体を支えているので、赤字国債を発行して
資金を捻出し、社会基盤への投資(財政出動)を通じて、
底辺の人々を富ませ、消費力を上げることで、
経済の良好な循環が約束される」という学説を、真っ向から否定し、
不況の原因は、政府による経済介入であり、
「金持ち・大企業に金を渡すことで、トリクルダウンによって
社会経済全体が安定する」という主張である。
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO03461980Q6A610C1000000/
https://ja.wikipedia.org/wiki/新自由主義
ケインズは 不況の原因を、需要の減退であるとし、
セイの指摘である「生産力の減退」を真っ向から否定し、
財政出動によって底辺の労働者に消費力を与えることで 需要を拡大し、
これが社会経済の基本的循環を回復させる とした。
ところが、フリードマンは、不況の原因は、「国家の経済介入による」
と決めつけ、資本主義活動への国家の束縛を排除し、
資本家に完全な自由を与える
(つまり、労働者を自由に首切りし、労働条件を引き下げる自由)ことが、
健全な経済活動の基盤だ と主張し、この屁理屈は、
現代投資家や資本主義企業から 拍手喝采を浴びた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ミルトン・フリードマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/新自由主義
ケインズ理論の正しさは、ヒトラーが、第一次大戦で窮乏したドイツ経済を、
アウトバーンのような巨大な公共事業によって
劇的に復活させたことで明らかである。
https://ameblo.jp/maaiika012/entry-10548967437.html
公共投資の本当の目的は、底辺の労働者、もっとも貧しい人たちを
富ませることで、底辺の需要を拡大し、社会全体の景気を活性化させる
ことだったのである。
ところが資本家たちは、「底辺を富ませて 消費力需要を拡大する」
という基本政策が、どうしても気に入らず、
できるだけ労働者を搾取して、儲けをたくさん自分たちの懐に入れたい
という欲求から脱げ出すことができなかった。
これを正当化する新自由主義思想に喝采し、ケインズ理論を追放して、
新自由主義ばかりを持ち上げる時代がやってきた。
この先鋒となったのが竹中平蔵であり、
竹中が 2000年前後に小泉政権で行った政策は、すべて、
労働者のなけなしの賃金を搾取し、資本家に付け替えるという政策であった。
そして、「自由経済の敵は 労働者の権利」という認識をもって、
徹底的に労働者の権利を剥奪し、正規雇用を 派遣など非正規雇用に付け替え、
まさに、日本国民の格差を拡大し、窮乏に追いやったのである。
https://www.mag2.com/p/money/238834
この竹中平蔵の 格差拡大、労働者窮乏政策がなければ、
日本の「失われた20年」は、とっくに回復し、
派遣労働者が 社会の主流を占めるような事態 にはならずにすんだ。
自民党政権の理論的支柱は、今でも竹中平蔵の新自由主義であり、
消費増税も、この立場から推進されている。
つまり、持たざる民衆、底辺の人々から 消費税によって金を吸い上げ、
この資金で、巨大企業を減税させ、大企業・大金持ちに
資本を蓄積させる というものである。
http://lingvistika.blog.jp/archives/1067303249.html
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-09-02/2017090201_01_1.html
上のリンクでは、2016年に大企業の内部留保が
400兆円を突破しているので、2019年は、グラフの傾斜から推定して、
軽く500兆円を超えているはずである。
内部留保の上昇とともに、非正規率が上昇し、実質賃金が下降している現実
が実に分かりやすい。
これこそ、消費税の大成果というべきであり、500兆円といえば、
2000年代政府予算の10年分、国民一人あたりに還元するなら実に500万円である。
つまり、日本国民は、消費税による企業減税の結果、赤ちゃんから遺体まで、
一人500万円を トヨタやキャノンなど巨大企業に寄付したことになる。
政府が消費増税の理由としている(真っ赤なウソだが)、
国の借金が1000兆円というが、この世界最大級の借金が、
わずか10年程度で、返却できてしまうのが消費税であるが、
もちろん国が借金の返済に使った という話は聞いたことがない。
安倍晋三が、トランプの要求する軍事オモチャを
購入することに使ったのである。
どんなに増税しても、すべて、それはアメリカの金儲けのために使われる
仕組みなのだ。
日本政府=自民党は、アメリカの忠犬ポチ なのだから ……。
さて、来たる10月に10%の消費増税が行われる。
ポイント制による軽減税率など 糞の役にも立たないだろう。
よくも、これほど陳腐なウソ、デマカセを言えるものだ。
ポイント制は クレジットを普及させる目的で、つまり現金流通を廃止したいのだ。
それはヨハネ黙示録に書かれているとおり、
「印のない者は、売ることも買うこともできないように された」
を実現しようとしているのである。
http://tomaatlas.hateblo.jp/entry/2019/01/23/080000
消費税が不景気を招くことは、過去三度の値上げで、見事に証明されている。
https://news.livedoor.com/article/detail/15478434/
我々の稼ぎの一割が、大金持ちに上納されてゆく。
一番貧しい我々から、一番豊かで金が腐っている金持ちに、
稼ぎを吸い取られるのである。
今でさえ、生活がギリギリで悲鳴を上げている家庭が多い。
ましてやシングルマザーは、もはや死ね と言われたに等しい。
「明日の食費がない」 「子育ては苦しみばかり」
【ルポ】シングルマザーの貧困
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/44272
シングルマザーの約半分が貧困に苦しんでいる現実。養育費の未払いも…
https://joshi-spa.jp/905527
母子家庭の半数以上が貧困家庭! 恐るべき日本の現実。
https://cakes.mu/posts/21295
こうした現実の上に、増税が行われる結果、自殺者が激増するのは確実である。
この最大の直撃を受ける被害者は、子供たちである。
子供たちの自殺が激増していて、それは、消費税と密接な関係がある。
自殺の最大の原因は 格差社会であり、貧しさなのだ。
消費増税によって、日本社会は、ますます阿鼻叫喚地獄 に墜ちてゆくだろう。
こんな愚劣の極致のような 安倍晋三政権を支持しているのは、
いったいどんな人間たちなのだ?
YouTubeを視聴すると、頼んだわけでもないのに、
安倍政権支持者ばかりが わんさか表示される。
ほとんど右翼ばかりで、例えば、金子勝など検索しないと表示されない。
あとは、音楽だとかゲームだとか、あたりさわりのない、
非政治的な娯楽コンテンツばかりだ。
ここに、私の勝手に削除されて、見つけられなかったブログが出てきた。
転載していただいていた方に礼をいいたい。
とある博士の おりゃっ!日記
☆https://gajyusan.hatenablog.com/entry/20110419/1303236697
今日のところは、ここに引用された私の文章を 回答にしておきたい。 -
【補足資料5-3-1】南京攻略戦を指揮した第16師団長・中島今朝吾中将の日記
(1937年12月13日)
一、本日正午高山剣士来着す。時恰も捕虜七名あり。直に試斬を為さしむ。
一、……到る処に捕虜を見、到底其始末に堪えざる程なり。
一、大体捕虜はせぬ方針なれば、片端より之を片付くることとなしたる〔れ〕共……中々実行は敏速には出来ず。……
一、……佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大〔太〕平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇、其仙鶴門付近に集結したるもの約七、八千人あり。尚続々投降し来る。
一、此七、八千人之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず。一案としては百、二百に分割したる後、適当のケ処に誘て処理する予定なり。
出典:「南京攻略戦『中島師団長日記』」『歴史と人物 増刊 秘史・太平洋戦争』(1984年)261頁。
【補足資料5-3-2】第13師団歩兵第65聯隊・第4中隊・少尉『宮本省吾陣中日記』
〔1937年12月16日〕
警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎〔束〕の間で午食事中に俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮〔虜〕約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。
〔1937年12月17日〕
本日は一部は南京入場式に参加、大部は、捕慮〔虜〕兵の処分に任ず、小官は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加、壮〔荘〕厳なる史的光景を見〔目〕のあたり見る事が出来た。
夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。
中隊死者一傷者二に達す。
〔1937年12月18日〕
昨日来の出来事にて暁方漸く寝に付〔就〕く、起床する間もなく昼食をとる様である。
午后敵死体の方〔片〕付をなす、暗くなるも終らず、明日又なす事にして引上ぐ、風寒し。
〔1937年12月19日〕
昨日に引続き早朝より死体の処分に従事す、午后四時迄かゝる。
夕方又捕虜の衣類の始末につき火災起る、少しで宿舎に延焼せんとしたが引留む事が出来た、明日は愈々渡河の予定にて兵は其の準備に晩く迄かゝる、牛肉の油上〔揚〕迄作り、米、味噌の久しぶりの配給、明日の食料の準備をなす、風寒く揚子江畔も漸く冬らしくなる。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)134頁所収。
【補足資料5-3-3】第13師団歩兵第65聯隊・第8中隊・少尉『遠藤高明陣中日記』(原文はカタカナ)〔1937年12月16日〕
定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に逢ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出し・〔第一大隊〕に於て射殺す。
一日二合宛給養するに百俵を要し兵自身徴発により給養し居る今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたりものゝ如し。
〔1937年12月17日〕
幕府山頂警備の為午前七時兵九名を差出す、南京入城式参加の為十三D〔第13師団〕を代表してR〔聯隊=第65聯隊〕より兵を堵列せしめらる、午前八時より小隊より兵十名と共に出発和平門より入城、中央軍官//学校前国民政府道路上にて軍司令官松井閣下の閲兵を受く、途中野戦郵便局を開設記念スタンプを押捺し居るを見、端書にて×子、関に便りを送る、帰舎午後五時三十分、宿舎より式場間で三里あり疲労す、夜捕虜残余一万余処刑の為兵五名差出す、本日南京にて東日出張所を発見、竹節氏の消息をきくに北支より在りて皇軍慰問中なりと、風出て寒し。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)219〜220頁所収。
【補足資料5-3-3】第13師団山砲兵第19聯隊・第8中隊・伍長『近藤栄四郎出征日記』
〔1937年12月16日〕
午前中給需伝票等を整理する、一ヶ月振りの整理の為相当手間取る。//
午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本展の様だ、お陰で随分酩酊した。
夕方二万の捕慮〔虜〕が火災を警戒に行つた中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
月は十四日、山の端にかゝり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨〔いたま〕しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、一生忘るゝ事の出来ざる光影〔景〕であつた。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)325〜326頁所収。//は改ページ個所。
【補足資料5-3-4】第13師団山砲兵第19聯隊・第・大隊大隊段列・上等兵『黒須忠信陣中日記』(原文はカタカナ)
〔1937年12月16日〕晴
午后一時我が段列より二十名は残兵掃〔湯〕蕩の目的にて馬風〔幕府〕山方面に向ふ、二三日前捕慮〔虜〕せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて思ふ存分に突刺す、自分も此の時ばが〔か〕りと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。
山となつて居る死人の上をあがつて突刺す気持は鬼をも//ひゝ〔し〕がん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供を居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切つて見た、こんな事は今まで中にない珍らしい出来事であつた、××少尉殿並に×××××氏、×××××氏等に面会する事が出来た、皆無事元気であつた、帰りし時は午后八時となり腕は相当つかれて居た。
出典:小野賢二ほか編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち─第十三師団山田支隊兵士の陣中日記─』(大月書店、1996年)350〜351頁所収。//は改ページ個所。
【補足資料5-3-5】第16師団輜重兵第16聯隊・輜重兵特務兵『小原孝太郎日記』
〔1937年12月24日〕南京・下関
扨〔さて〕、岸壁の下をのぞいたら、そこの波打際の浅瀬に、それこそえらい物凄い光景をみた。何んと砂〔浜〕の真砂でないかとまがふ程の人間が、無数に横〔往〕生してゐるのだ。それこそ何百、何千だろう。南京の激戦はこヽで最後の幕をとぢたに違ひない。決定的のシーンだ。数へ切れない屍体が横〔往〕生してゐる。敵はこヽまで来て、水と陸よりはさみ打ちに逢って致命的な打ゲキをうけたわけなのだ。わが南京陥落はかくてなったわけわけママである。
出典:江口圭一・芝原拓自編『日中戦争従軍日記─輜重兵の戦場体験─』(法律文化社、1989年)143頁。
【補足資料5-4】北支処理要綱(1936年1月13日 閣議決定)
北支処理ノ主眼ハ北支民衆ヲ中心トスル自治ノ完成ヲ援助シ以テ其ノ安居楽業ヲ得セシメ且日満両国トノ関係ヲ調整シ相互ノ福祉ヲ増進セシムルニアリ之カ爲新政治機構ヲ支持シ之ヲ指導誘掖シテ其機能ノ強化拡充ヲ期ス
要綱
(一)自治ノ区域ハ北支五省〔河北・山西・山東・綏遠・チャハル〕ヲ目途トスルモ徒ニ地域ノ拡大ニ焦慮スルコトナク第二項以下ノ要領ニ則リ徐ニ先ツ冀察二省及平津二市ノ自治ノ完成ヲ期シ爾他三省ヲシテ自ラ進ンテ之ニ合流セシムル如クスルモノトス冀察政務委員会ニ対スル指導ハ当分宋哲元氏ヲ通シテ之ヲ行ヒ民衆ノ自治運動ニシテ公正妥当ナルモノハ之ヲ抱容セシメツツ逐次其ノ実質的自治ヲ具現セシメ北支五省ノ自治ノ基礎ヲ確立ス
冀東自治政府ニ対シテハ冀察政務委員会ノ自治機能未タ充分ナラサル間其ノ独立性ヲ支持シ翼察ノ自治概ネ信頼スルニ至ラバ成ルヘク速ニ之ニ合流セシメルモノトス〔中略〕
(五)北支処理ハ支那駐屯軍司令官ノ任スル所ニシテ直接冀察翼東両当局ヲ対象トシテ実施スルヲ本則トシ且飽ク迄内面的指導ヲ主旨トス又経済進出ニ対シテハ軍ハ主動ノ地位ニ立ツコトナク側面的ニ之ヲ指導スルモノトス但当分ノ間冀察政務委員会指導ノ爲一機關ヲ北平ニ置キ支那駐屯軍司令官ノ区処(自治機構ノ指導竝ニ顧問ノ統制等)ヲ受ケシム関東軍及北支各機開ハ右工作ニ協力スルモノトス、其ノ他在支各武官ハ右工作ニ策応シ特ニ大使館附武官及南京駐在武官ハ適時南京政権ニ対シ北支自治ノ必要性ヲ理解セシムルト共ニ自治権限六項目ノ承認ヲ強要シ、少クモ自治ヲ妨害スルカ如キ策動ヲ禁遏セシムルモノトストス
出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)322〜323頁。
これは1936年1月13日の閣議決定だ。岡田内閣時、2.26事件以前の閣議決定だ。 「北支処理ノ主眼ハ北支民衆ヲ中心トスル自治ノ完成ヲ援助シ」 は、満州国を作ったのと同じロジックだ。 「(五)北支処理ハ支那駐屯軍司令官ノ任スル所ニシテ」 とは、具体的なやり方は現地司令に任せる、という意味だ。
東京裁判では南京虐殺は30万人だと言われた。埋葬記録から追跡できるのは、10数万だ。 -
「カマヤンの燻る日記」から転載。
長いので、補足資料(南京大虐殺が事実であったことを示す資料など)は別記する。
日中戦争が軍人たちの暴走から起こった出来事であることが明確だと分かる文章である。そしていったん始まった戦争はどんどん拡大するのがその性質であることも分かる。
(以下引用)
2007-03-03日中戦争開戦史
日中戦争は戦後日本の建国神話に属する。日中戦争はしないで済んだ戦争だ。なんども終結の機会はあった。無能で欲どおしい人々によりムダに拡大し止らなくなった。日中戦争の開戦史を以下に見る。以下は http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1052070202/ から。某教授より聴いた授業の講義録の再掲である。
第5講 日中全面戦争の開始−盧溝橋事件と南京事件 1937-1938
Ⅰ;「盧溝橋事件」の発生
盧溝橋は、「マルコ・ポーロ橋」とも呼ばれる。「盧溝橋事件」は、ごくごく小さな事件だった。現地ではいったん事件は解決した。それを、政府が拡大した。
1 事件の概要
1-1;「盧溝橋事件」の発端
起きた時は、1937年7月7日 午後10時40分頃だ。起きた場所は、北平〔ペイピン。現在の北京〕西南郊外、「盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)北側の永定河〔えんていが・川の名前〕左岸。〔川の右左は、「上流から見て」右か左か決まる。〕 ここに、日本軍演習地があった。「盧溝橋事件」の発端は、日本兵1名の行方不明事件だった。
日本軍が北京に駐兵していたのは、以下の理由による。1900年に「義和団事件」があり、1901年に「北京議定書」(列強に清朝が詫びをいれた文書)が成立した。 「北京議定書」により、列強は清朝に駐兵権を得、日本も清朝に駐兵していた。1-3;現地停戦協定の成立 「支那駐屯軍」の措置
駐屯軍参謀長橋本群少将、北平特務機関長松井太久郎大佐らは、「事件」収拾に動いた。松井と中国軍第38師長・天津市長張自忠との間で、7月11日午後8時に、停戦協定が成立した。
ここで一旦「事件」は終結したはずだったが…2;「盧溝橋事件(1937年 7月)」の経過を、もう少し詳しく見る。
日本軍は当時、夜襲の訓練をよくしていた。ソ連より火力が弱いから、夜襲を重視していた。 「盧溝橋事件」は、夜襲訓練で起きた。
■7月 7日 午後10時40分頃
北平(北京)西南郊外、盧溝橋北側の永定河左岸(日本軍演習地)において、 「支那駐屯軍歩兵第1連隊第3大隊第8中隊」(中隊長・清水節郎大尉以下135名)が夜間演習中、 数発の実弾射撃を受けた。
演習は、空砲を使う。実弾は、空気を裂くので、音で判る。この実弾を撃ったのは誰なのかは、いまだに判らない。中隊長は演習をやめ、集合した。2等兵1名が行方不明だった。これが問題となった。
清水中隊長は、豊台の大隊長一木清直少佐に連絡した。大隊長一木清直少佐は、連隊長牟田口廉也大佐〔後にインパール作戦を指揮〕に連絡した。兵が行方不明になったことを重大視して、大隊を出動させた。
■同日 午後11時頃
「行方不明」の志村菊次郎 2等兵は、午後11時頃、無事に中隊へ帰隊した。「行方不明」の志村2等兵は迷子になって集合に20分ほど遅れただけだった。つまり「行方不明事件」は起きていなかった。志村2等兵は、インパール作戦で戦死したので、戦後彼から証言を得ることができず、真相は判らない。
■7月 8日 午前 2時過ぎ
清水中隊長から連絡を受けた一木大隊が、午前2時過ぎに盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)に到着した。だがもう「行方不明事件」は終わっていた。
■同日 午前 3時25分頃
再度の銃声が、午前3時25分頃、大隊の周辺から聞こえた。
一木大隊を取り囲むように中国軍がいた。「どうやら、周りの中国軍にからかわれているらしい」と、大隊長一木少佐は考えた。大隊長一木少佐は、「要するに日本軍の面目さへ立てばよいので…断然攻撃をしたい」と、 連隊長牟田口廉也大佐に電話で要請した。 「バカを言うな」と、一木少佐は止めてもらうつもりだったようだ。
連隊長牟田口廉也大佐は、「重大な挑戦である」「やって宜しい」と、攻撃を許可した。まさか許可が下りてしまうとは思っていなかった一木少佐は、牟田口廉也大佐の気が変わるかもしれない、と、慎重に、朝まで実行を待った。が、中止の命令はこなかった。夜明けになって、一木大隊は、攻撃を開始した。
■7月10日
「蒋介石軍が北上」の情報が走った。これにより、日本軍部内の「拡大論」が「不拡大論」を圧倒した。陸軍中央〔参謀本部〕が、「関東軍2個旅団・朝鮮軍1個師団・内地3個師団」の華北派遣(兵力約10万人)を決定した。元々、華北に駐兵していた日本軍は5000人程度だった。これを20倍に増強する命令だった。
■7月11日
近衛文麿内閣が、華北への派兵を承認した。各界に「挙国一致」を要請した。日本政府は「重大決意」声明 を出した。これで話がややこしくなった。【資料5-1】
■同日 午後 8時
マルコ・ポーロ橋現地では、日本軍と蒋介石軍の停戦協定が成立していた。現地では事態は収束した。「停戦協定」の内容は、下記の通り。中国第29軍代表が遺憾の意を表明する。中国軍は責任者を処分する。盧溝橋城(宛平県城)・竜王廟から、中国軍が撤退する。抗日各種団体を取り締まる。
■7月17日
日本政府は図に乗って「停戦協定」に対し、中国軍幹部の陳謝と更迭を、追加要求した。蒋介石は「最後の関頭」声明(廬山談話)を出した。
日本政府は「上げた拳の下ろし先」を探していた。日本政府と蒋介石との間で、「強気」の応酬がされ、感情的にエスカレートした。
■7月19日 中国政府は、日中両軍の同時撤退などを提起した。
■7月25日 日中両軍が衝突(郎坊事件)
■7月26日 日中両軍が、再び衝突(広安門事件)
■7月27日 日本政府は、内地3個師団の派遣を最終的に承認する。
■7月28日 午前 8時 日本軍は、蒋介石軍に対し、総攻撃に出る。【資料5-1】政府「重大決意」声明(1937年7月11日)
今次事変は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし。思ふに、北支治安の維持が帝国及満州国にとり緊急の事たるは茲に贅言を要せざる処にして、支那側が不法行為は勿論排日侮日行為に対する謝罪を為し及今後斯かる行為なからしむる為の適当なる保障等をなすことは東亜の平和維持上極めて緊急なり、仍て政府は本日の閣議に於て重大決意を為し、北支派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなす事に決せり。然れども……政府は今後共局面不拡大の為平和折衝の望を捨てず、支那側の速かなる反省によりて事態の円満なる解決を希望す
出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)365-366頁。〔解説〕
「仍て政府は本日の閣議に於て重大決意を為し」という言葉が問題となり、話をややこしくした。「重大決意」とは何を意味するのか? 日本政府は「派兵する」という意味として書いたようだ。中国政府は「宣戦布告」だと解釈した。日本・中国両国間で感情のエスカレートが、これによって起きた。Ⅱ;「盧溝橋事件」の、「拡大論」と「不拡大論」
1 事件第一報と陸軍内の反応
1-1「拡大派」
陸軍省では、軍事課(編成・動員担当、課長・田中新一大佐)。参謀本部では、第一部作戦課と、第二部(情報部)とりわけ支那課。「このさい、これ(盧溝橋事件)を利用して、〈華北(北京周辺)〉を蒋介石から切り取ろう」、という論を張った。「華北分離論」。
「支那課」は、1937年7月10日に「蒋介石北上」の情報を流した。何に基いた情報だったのかは判らない。1-2「不拡大派」
陸軍省では、軍務課(軍事政策担当)。参謀本部では、第一部長石原莞爾少将と、戦争指導課(課長・河辺虎四郎大佐)。石原莞爾は「満州事変」で出世していた。
【参考図5-1】盧溝橋事件当時の陸軍中央首脳
陸軍大臣 ─── 陸軍次官 ──┬─ 軍務局長 ┬ 軍事課長 田中新一大佐
杉山元大将 梅津美治郎中将 │ 後宮淳少将 └ 軍務課長 柴山兼四郎大佐
│
└─ 兵務局長 飯田祥二郎少将
参謀総長 ─── 参謀次長 ──┬─ 総務部長 中島鉄蔵少将
閑院宮戴仁元帥 今井清中将 [1] │
多田駿中将[2] ├─ 第1(作戦)部長 ─┬ 作戦指導課 河辺虎四郎大佐[4]
│ 石原莞爾少将〔3〕 .└ 作戦課 武藤章大佐[5]
│
├─ 第2(情報)部長 ─┬ ロシア課 笠原幸雄大佐
│ 渡久雄少将 ├ 欧米課 丸山政男大佐
│ └ 支那課 永津佐比重大佐
├─ 第3(運輸・通信)部長
│ 塚田攻少将
│
└─ 第4(戦史)部長 下村定少将
教育総監 ──── 本部長
寺内寿一大将 香月清司中将
出典:秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会、1991年)より作成。〔解説〕 〔1〕参謀次長今井清中将は、当時重病だった。 〔2〕参謀次長多田駿中将は、石原莞爾を支持していた。 〔3〕作戦部長石原莞爾少将は、参謀本部の事実上のリーダーだった。 〔4〕河辺虎四郎大佐は、不拡大論者だった。 〔5〕武藤章大佐は、拡大論者だった。
2 「拡大派」の論理
中国の抗日意識や中国軍の抗戦力を軽視した、楽観論を「拡大派」は展開した。「一撃論」。ガツンと一撃ショックを中国に与えれば、中国はすぐに折れる、という意見だ。華北を「第二の満州国」にし、あわよくば蒋介石政権を倒す、という「華北分離論」を展開した。
3 「拡大派」と「不拡大派」の対立
「不拡大派」の論理 対ソ戦準備と「国防国家」建設こそが軍部の最優先課題であ、り中国との戦争に、戦力・国力を消耗すべきでない、と、「不拡大派」は考えた。
議論は、「拡大論」が押し切った。「蒋介石軍が北上」の情報に、「拡大論(一撃論)」が「不拡大論(慎重論)」を圧倒した。7月10日に、陸軍中央は、内地3個師団等の華北派遣を決定した。11日に、閣議承認した。8月13日には、戦火は上海に飛び火した。15日からは海軍も加わり、「海軍航空隊」が、南京を九州から渡洋し、爆撃する。
「拡大派」は、「不拡大派」を排除した。石原莞爾部長を9月28日転出させた。石原莞爾は「関東軍参謀副長」に左遷された。関東軍参謀長は東条英機だった。 東条と石原莞爾は犬猿の仲だった。石原莞爾は東条の下にはいられず、帰国した。 これは命令違反であり、石原莞爾はそれにより失脚した。 〔ここで失脚したために、戦後、東京裁判では石原莞爾は戦犯にならず、破格の待遇を得た〕
「不拡大」を執拗にとなえる「戦争指導課」は、「作戦課戦争指導班」に格下げされた。(10月26日) 〔「作戦指導課」は石原イズムに染まっていた。〕Ⅲ 戦線の拡大と初期講和工作
1 宣戦布告問題と、「大本営」の設置
1−2
「宣戦布告」なき戦争 陸海軍省はそろって、アメリカが「中立法」を適用するのを恐れ、中国への「宣戦布告」に反対した。「中立法」とは、戦争している当事国にもの(武器や弾薬)を売らない、というアメリカの国内法だ。
1−3
「大本営」の設置(11月20日) 日露戦争以来32年ぶりに、陸海軍の最高統帥機関=「大本営」を、皇居内に設置した。陸海軍の強い要求で、「大本営」構成員から、首相・外相らの文官は、すべて排除した。
「大本営」は、臨時統括司令部だ。 陸軍と海軍は完全に分かれ、陸軍参謀本部には、小船一隻動かす権限がない。 それを統括するのが「大本営」だ。「大本営」は、明治時代には、条文上は軍人のみで構成されていたが、元老文官が参加していた。2−1
石原莞爾作戦部長は、転出直前に、ドイツ駐華大使トラウトマンを介して、国民政府と和平交渉をはかろうとした。これが「トラウトマン工作」の発端だ。9月に、接触に成功した。
1936年日独防共協定で、日本とドイツは提携関係にあった。ドイツは蒋介石軍に武器を売っていた。ドイツは蒋介石軍の軍事顧問もしていた。ドイツは日本と蒋介石軍の仲介役に適任だった。Ⅳ 近衛声明と戦争の泥沼化
1 南京大虐殺(1937年12月〜38年2月):20万人前後の戦闘員・捕虜・一般市民を殺害 【補足資料5-3】
日本軍は上陸作戦以来、中国各地で、虐殺・略奪・放火・強姦を繰り返した。日本軍は投降中国兵を「捕虜」とみなさなかった。激戦による報復意識があった。「現地調達」という考え方が、略奪を許すこととなった。
日本軍による虐殺と略奪は、中国人の抗日意識の高揚と日本軍への非協力を招いた。その結果また日本軍が虐殺と略奪を行なう、という悪循環が起きた。虐殺と略奪には性暴力も必ず伴なう。南京攻略以降、「慰安所」(従軍慰安婦)が、激増する強姦対策として設置された。2 「国民政府を対手とせず」政府声明(1938年 1月16日) 【資料5-2】
近衛文麿は自ら外交交渉の相手を否定しまい、戦争終結の手段を失った。日中戦争は泥沼化した。「トラウトマン工作」打ち切りと、「対手とせず」声明で、中国国内は、抗日の一点で強固に結束した。国共内戦から国共合作へ。
現地軍はさらに大作戦を続行した。1938年4〜6月には徐州作戦、 6〜11月には武漢作戦。その後も続々と大兵力を投入した。【資料5-2】「国民政府を対手とせず」政府声明(1938年1月16日)
帝国政府は南京攻略後尚ほ支那国民政府の反省に最後の機会を与ふる為め今日に及べり、然るに国民政府は帝国の真意を解せず漫りに抗戦を策し内民人塗炭の苦しみを察せず外東亜全局の和平を顧みる所なし、仍つて帝国政府は爾後国民政府を対手とせず帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす、元より帝国が支那の領土及主権並に在支列国の権益を尊重するの方針には毫も変る所なし、今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し、政府は国民が此の重大なる任務遂行の為め一層の発奮を冀望して止まず
出典:外務省編『日本外交年表竝主要文書』下(原書房、1965年)386頁。以下カマヤンによる余談だけど、近衛文麿の声は子供のように甲高い〔記録媒体の音が割れてそう聞こえるだけなのかもしれないけど〕。近衛文麿のルックスは裕仁に似て、裕仁を端正にしたような感じだ。近衛文麿の声は裕仁がつっかえずに喋っているような声質だ。
-
「阿修羅」から転載。
右とか左とかいった党派性を排した実に客観的で周到な分析で、繰り返し読む価値のある好記事だと思う。これを読めば、太平洋戦争の起因から敗因までほぼ分かる。
下の文章から、高橋是清が参謀本部に批判的だったことを知ったが、「226」の主な目的のひとつは高橋是清の暗殺にあったのではないか。もちろん、参謀本部が背後で糸を引いたわけだ。
(以下引用)
米中ソ3国と同時に戦う! また裂き状態だった旧日本軍の意思決定(日経ビジネス)
http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/782.html
投稿者 肝話窮題 日時 2019 年 8 月 17 日 01:32:36: PfxDcIHABfKGo isyYYouHkeg 
森 永輔 日経ビジネス副編集長
2019年8月15日https://cdn-business.nikkei.com/atcl/gen/19/00005/080700040/p1.jpg?__scale=w:500,h:324&_sh=06704d0a10
フィリピンで戦う日本軍(写真:Roger-Viollet/アフロ)日本は産業力が伴わないにもかかわらず、対中戦争を戦いつつ、対
米戦争に突入していった。それどころではない、ソ連を加えた3カ国
と同時に戦う方針を二度までも立てようとした。その背景には、政府
と陸海軍が統一戦略を立てるのを妨げる明治憲法の仕組みがあった。
高橋是清はこれを是正すべく、参謀本部の 廃止を主張したが……。
引き続き、吉田裕・一橋大学大学院特任教授に話を聞く(聞き手 森 永輔)
-前編では、アジア・太平洋戦争中の日本軍が、その兵士をヒトとして扱っていなかった点について、伺いました。(前編はこちら http://www.asyura2.com/18/warb22/msg/781.html)
今回は、日本軍が総力戦*態勢を整えていなかった点についてお聞きします。*:軍隊だけでなく、国の総力を挙げて実施する戦争。軍需物資を生産する産業力やそれを支える財政力、兵士の動員を支えるコミュニティーの力などが問われる
食糧の調達が十分でなく、多くの餓死者が出ました。そこから容易に想像がつくように、他の軍需工業品についても、供給力が伴っていませんでした。産業に、総力戦を支える力がなかった。例として、吉田さんは軍靴に注目されています。
雨のために凍死するものが続出した。軍靴の底が泥と水のために糸
が切れてすっぽり抜けてしまい、はきかえた予備の新しい地下足袋も
たちまち泥にすわれて底が抜けてしまった。そのために、はだしで歩
いていた兵隊がやられてしまったのである。雨水が体中にしみわたり、
山上の尾根伝いに、深夜はだしで行軍していたら、精神的肉体的疲労
も加わって、訓練期間の短くて、こき使われることの最も激しい老補
充兵が、倒れてしまうのも当然のことであろう。(『遥かなり大陸の戦
野』)(中略)
頑丈な軍靴を作るためには、縫糸は亜麻糸でなければならなかった。
亜麻の繊維から作られる亜麻糸は細くて強靭であり、特に、陸海軍の
軍靴のように有事の動員に備えて長く貯蔵しておく必要があるものは、
「絶対にこの糸で縫うことが必要である」とされていた(『製麻』)。しかし、亜麻は日本国内では冷涼な気候の北海道でしか栽培するこ
とができない。そのため、日中戦争が始まると軍の需要に生産が追い
付かなくなった。北朝鮮や満州での栽培も試みられたが十分な成果を
あげることができず、結局、品質の劣る亜麻の繊維まで使わざるをえ
なくなった。(中略)
以上のように、こうした基礎的な産業面でも、日本はかなり早い段
階から総力戦上の要請に応えられなくなっていたのである。
なぜ、このような準備不足のまま、アジア・太平洋戦争に突入したのでしょう。日中戦争については、意図せず戦線が拡大していった面があります。満州事変は、関東軍が勝手に始めたもの。時の若槻礼次郎内閣が意思決定して開始したわけではありません。日中戦争の火蓋を切った盧溝橋事件にしても偶発的に始まった。しかし、対米戦はそうとは言えません。真珠湾攻撃によって、こちらから仕掛けたわけですから。吉田:おっしゃるとおりですね。対中戦争は国家意思に基づいて始めたものではありません。盧溝橋事件も、偶発的に始まったことが最近の研究で明らかになっています。他方、対米戦は4度の御前会議を経たのち、閣議決定して開戦しました。
■統一した意思決定ができない明治憲法
-盧溝橋事件(1937年)によって日中戦争が始まる前の1935年に、陸軍で軍務局長を務めていた永田鉄山が刺殺されました。総力戦をにらみ、それに耐える国家体制を作るべく様々な構想を練っていた戦略家です。彼が生き続けていたら、その後の展開は違ったものになっていたでしょうか。
吉田:そういう考えは、あり得ます。彼は非常に優秀な軍事官僚で、重要人物です。しかし、彼一人で状況を変えることができたかは判断がつかないところです。私は、より大きなシステム上の問題があると考えています。
https://cdn-business.nikkei.com/atcl/gen/19/00005/080700040/p2.jpg?__scale=w:300,h:400&_sh=000740290b
吉田 裕(よしだ・ゆたか)
一橋大学大学院特任教授
専門は日本近現代軍事史、日本近現代政治史。1954年生まれ。1977年に東京教育大学を卒業、1983年に一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。一橋大学社会学部助手、助教授を経て、96年から教授。主な著書に『昭和天皇の終戦史』『日本人の戦争観』『アジア・太平洋戦争』など。(写真:加藤康、以下同)-システム上の問題とは?
吉田:明治憲法です。これが定める統治構造は分散的で、総力戦を戦うのに必要な統一的な意思決定をするのに不向きでした。さまざまな決定が折衷案もしくは両論併記になってしまうのです。
例えば、陸軍は対ソ戦をにらみ北進を主張する。海軍は石油をはじめとする東南アジアの資源を求めて南進を主張する。すると、結論は「南北併進」になってしまうのです。1941年7月に開かれた御前会議はこのような決定をくだしました。
さらに言えば、南北併進に基づく決定をしながら、政府は米国との外交交渉を継続するのです。戦争の準備をすれば日米関係は悪化します。外交交渉は進まない。つまり、その場しのぎの決定しかできず、それが悪循環を引き起こしたのです。陸海軍の間に統一戦略はない。政府と軍も進む方向が異なる。三つどもえの状態に陥っていました。
-明治憲法のどこに問題があったのですか。
吉田:いわゆる統帥権*の独立ですね。
*:作戦・用兵に関する命令。陸軍の統帥部として参謀本部が、海軍の統帥部として軍令部があった。それぞれのトップは参謀総長と軍令部長
総力戦を戦うのであれば、本来なら、国務(政府)と統帥(軍)が統一した戦略をもって臨む必要があります。しかし、これはなかなか実現しませんでした。
「国家機関の分立制」「政治権力の多元性」といわれる仕組みを採用していたからです。「統帥権の独立」を盾に、軍は政府の外に立つ。軍の中でも陸軍省と海軍省が分立している。軍令*については陸軍の参謀本部と海軍の軍令部が分立している。政府においても、各国務大臣は担当分野についてそれぞれが天皇を輔弼(ほひつ、補佐)する仕組み。各国務大臣の権限が強く、首相の権限は弱かったわけです。
-明治憲法は、なぜ「国家機関の分立制」を採ったのですか。
吉田:同憲法の起草者たちが政党勢力を恐れたからです。政党が議会と内閣を制覇し、天皇大権が空洞化して、天皇の地位が空位化することを恐れた。
総力戦を戦うならば、明治憲法を改正しこれを改める必要があったと思います。
■高橋是清が主張した参謀本部の廃止
-総力戦をにらんで、憲法を改正しようという具体的な動きがあったのですか。
吉田:首相や蔵相を務めた高橋是清が1920年に参謀本部廃止論を唱えています。この軍事上の機関が内閣のコントロールから独立して、軍事、外交、経済の面で影響力を及ぼしている、とみなしていました。陸軍大臣や海軍大臣の統制に服していた参謀総長や軍令部長が、だんだんそれを逸脱するようになってきたのです。
首相に在任中だった原敬も、「何分にも参謀本部は山県(有朋)の後援にて今に時勢を悟らず。元来先帝(明治天皇)の御時代とは全く異りたる今日なれば、統率権云々を振廻すは前途のため危険なり。(中略)参謀本部辺りの軍人はこの点を解せず、ややもすれば皇室を担ぎ出して政界に臨まんとす。誤れるの甚だしきものなり(下略)」(『原敬日記』)として参謀本部に批判的でした。
ただし、憲法改正までは言っていません。明治憲法は欽定憲法(天皇が国民に下賜した憲法)なので、「欠陥がある」とは言い出しにくいのです。もちろん、明治憲法も改憲の手続きを定めてはいたのですが。
参謀本部や軍令部は明治憲法が規定する機関ではありません。これらは、そもそも統帥権をつかさどる機関として設置されたのではありません。最初は、政治(政府)の影響力が軍に及ぶのを遮断する役割でした。明治の初期は、政治家であり軍人である西郷隆盛のような人が力を持っていました。そうすると、軍が政争に巻き込まれる可能性が生じます。それを避けようとしたのです。
統帥権の独立と言うけれど、明治憲法のどこにもそのような規定はありません。内閣が担う輔弼の役割の範囲外と書かれてはいないのです。そうではあるけれども、既成事実の積み上げによって、政治や社会が容認するところとなった。戦前の日本にはシビリアンコントロールが根付かなかったですし。内閣には常に陸海軍大臣という軍人の大臣がいたので、純粋なシビリアンの内閣は存在しませんでした。
そして、ある段階から、軍が自分の要求を通すための口実として統帥権を利用するようになったのです。ロンドン海軍軍縮条約(1930年に締結)あたりからですね。それに、政党も乗じるようになりました。
-当時、政友会の衆院議員だった鳩山一郎が、同条約の調印は統帥権の干犯だとして、時の浜口雄幸内閣を糾弾しました。
吉田:そうですね。
-高橋是清と原敬はどちらも政友会を率いて首相を務めました。政友会は親軍的なイメージがありますが、そうではないのですね。
吉田:ええ、少なくとも1920年代は親軍的ではありませんでした。
■日中、日米、日ソの3正面で戦う
-ここまでご説明いただいたような事情で、戦前・戦中の日本はずっと統一した意思決定ができなかった。
吉田:はい。そのため、1941年ごろには、3正面作戦を戦おうとしていました。なし崩し的に始まった日中戦争が泥沼化し、1941年12月には対米戦争が始まる時期です。
1941年6月に独ソ戦が始まると、陸軍はこれを好機ととらえ、対ソ戦を改めて検討し始めました。ドイツと共にソ連を東西から挟み撃ちにしようと考えたわけです。関東軍が満州で特種演習(関特演)を行ったのはこの文脈においてです。
この時、兵力はもちろん、大量の物資を満州に集積しました。「建軍以来の大動員」を言われる大きな動きでした。つまり、日露戦争よりも大規模な部隊を配備したわけです。しかし、予想に反してソ連が踏ん張り、極東に配備していた戦力を欧州戦線に移動しなかったので、対ソ戦は実現しませんでした。動員した兵力と物資は無駄になり、その後、ソ連とのにらみ合いに終始することになったわけです。
-ゾルゲ事件はこのころの話ですか。駐日ドイツ大使館員をカバーに利用していたソ連のスパイ、ゾルゲが、「日本が対ソ戦を始めることはない」との情報を得て、ソ連に通報。スターリンはこの情報を元に、対独戦に集中した、といわれています。
吉田:この頃の話ですね。ただし、スターリンはゾルゲがもたらした情報をさして重視しなかったといわれています。
-対中、対米、対ソ戦を同時に戦う。後知恵ではありますが、無謀に聞こえますね。
吉田:その通りですね。しかも、1942年の春ごろ、陸軍は再び対ソ戦を考えるのです。マレーシアを落とし、フィリピンを占領して、初期作戦を予定通り終えたことから、南方は持久戦に持ち込み、対ソ戦を始めようと考えた。満州に配置された関東軍の規模がピークを迎えるのはこの頃です。
同じ時期に海軍は、ミッドウェーやソロモン諸島に戦線を拡大します。米国の戦意をそぐのが目的でした。いずれも失敗に終わりますが。
初期作戦が終了した後も、陸海軍で統一した戦略がなかったわけです。陸海軍が統一した軍事戦略をようやく作ることができたのは1945年初頭のこと。本土決戦を前にしてのことでした。
■日露戦争時の「勝利の方程式」から抜け出せなかった
-陸軍がなぜそれほど対ソ戦にこだわったのか、また海軍はなぜマリアナ諸島やソロモン諸島のような遠くにまで戦線を拡大したのか、素人には理解できないところです。
吉田:日露戦争の時から続くロシア、ソ連の脅威が陸軍の頭から離れなかったのでしょう。加えて、満州事変のあと満州国を建国し、ソ連と国境を直接接するようになったことが大きい。しかも、ソ連の部隊増強ペースはかなり速かったのです。
-満州というソ連との緩衝地帯を自ら無くしておいて、その脅威におびえるとのいうのは、皮肉な話です。
吉田:その通りですね。
海軍も日露戦争の成功体験から逃れることができませんでした。海軍の基本的な考えは、日本海海戦*のような艦隊決戦で決着をつけること。そのため、太平洋を西進する米艦隊の戦力を、「漸減邀撃(ぜんげんようげき)」してそいでいく。具体的には、第1陣は潜水艦部隊、第2陣は一式陸上攻撃機を使った空爆、第3陣は魚雷を積んだ軽巡洋艦です。この一式陸上攻撃機の基地がマリアナ諸島のサイパンなどに置かれていました。
*:東郷平八郎司令官が率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を破った海戦
そして、艦隊の規模が同等になったところで、西太平洋で艦隊決戦を挑む。そのために巨大な戦艦「大和」や「武蔵」を建造したわけです。
しかし、艦隊決戦は対米戦争の最後まで行われることはありませんでした。マリアナ沖海戦は、空母を中心とする機動部隊同士の戦いになりました。ミッドウェー海戦も機動部隊が前衛を構成し、大和は後ろに控えているだけでした。燃料の石油を食いつぶしただけです。むしろ、空母を戦艦が守るかたちで布陣すべきでした。
ソロモン諸島の基地は、米国とオーストラリアを結ぶシーレーンを遮断する役割を担っていました。
前編で、陸軍は「白兵戦によって勝った」という“神話”ができたお話をしました。陸軍も海軍も、日露戦争の総括が甘かったのです。
注:引用において、漢数字は算用数字に改めた
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00005/080700040/
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「神戸大好き」ブログから転載。
書かれた内容をすべて肯定するわけではないが、私は「日本国憲法の下の象徴天皇制」というのは世界で最も賢明な国家システムで、しかもそれは日本でしか存在し得ないと思っているので、下の記述に大筋では賛成だ。
天皇制さえ無くせばすべて理想的な社会ができる、という主張の人は、今のアメリカの悲惨さを見ればいい。それに「象徴天皇制」によって民主主義と天皇制が両立しているのは誰が見ても自明なことであって、日本社会の悪を天皇に帰することは究極のナンセンスと言うべきだろう。問題視すべきなのは、天皇を「現人神」として押し立てて、その背後に隠れて私欲を満たそうとする輩であり、新自由主義者たち、下の文章に言われている「グローバリスト」なのである。
要するに、「敵を間違えるな」ということだ。
-
「抑圧された秩序と秩序無き自由」を読み返すと我ながら面白いので、一部を再掲載しておく。日本社会の「階級」に関する部分だ。私は、この文章を書いた時点と基本思想はほとんど変わっていないが、天皇という「システム」の是非(または利益不利益)についてはまだこの時点ではあまり考えていなかった。
(以下再掲載)
Ⅱ 戦後民主主義のダブルバインド
日本は敗戦によって戦前の社会がいったん滅び、アメリカ的民主主義の洗礼を受けて再生した、というのが戦後日本社会に対する世間一般のイメージ(私に言わせれば一つの神話だが)だろう。確かに「焼け跡の青空」のイメージは、それまであったものが消滅したという印象を与える。だが、実際には、戦後の社会を作ってきたのは戦前と同じ人間である。なぜなら、敗戦後の日本においても社会の上層部にいたのは「戦争に行かなくて済んだ人間たち」であったからだ。確かに戦争協力者の一部は公職追放などの罰を受けて、一時的に社会の表舞台から退場した。しかし、ほとんど全部の成人男子が戦争協力者であった以上、この措置が形式的なもの以上になるはずはなかったのである。むしろ、「私は貝になりたい」のような映画に描かれたように、真の戦争犯罪者はその地位を利用して罪を逃れ、不運な下っ端が処刑されたことも多かっただろう。戦争によって利益を得た実業家や、国民を戦場に追いやり、死に至らしめた政治家や官僚のほとんどは、そのまま戦後の日本社会で新たな富や地位を作る競争に有利なスタートを切ることができたのではなかっただろうか。
太宰治の「斜陽」に描かれたような華族の没落などもむろんあっただろうが、それも単に一部の人間の贅沢な特権が奪われただけのことに過ぎない。もともと根拠の無い世襲的特権を剥奪されたことに、同情するには及ばない。国民全体の悲惨な運命の中で、何も彼らだけが理不尽な運命にさらされたわけではないのである。むしろ真の悲惨は、何も持たない下層階級の中にあったはずである。最初から何も持たなかった貧民階層の多くの人間は、戦後の飢餓状態の中で無数に死んでいったのではないだろうか。そして、そうした人々は、日本人の体質として、「お上」に向かって不満の声を上げることも無く、従順に死んでいったのである。この体質は、現在でも変わってはいない。日本人は、政治を自分の問題として考える習慣が無いのである。それが諸悪の根源なのであるが。
日本の戦後社会は表面的には「日本国憲法」や「民主主義的教育」によって大きく様変わりしたように見える。しかし、権力と経済の実態面ではほとんど戦前の利権構造を残したままだったのではないか、というのが私の推測である。戦後五十数年もたてばだいぶ様変わりはしただろうが、現在の政治家、官僚の家系の中にも戦前からの政治家、官僚の家系も多いはずだ。問題は、戦前からの有力者は、戦後の時代でもやはり有利なスタートを切っていたことに、多くの人が気づいていないことである。そして、現在の「階級」の土台は、その時期に形成されているのである。実業の世界はそれよりはもう少し実力主義的世界ではあるだろうが、やはり主要銀行を始めとして、戦前の財閥と関係の深い所も多いだろう。つまり、日本は見えない身分社会なのである。学歴競争の勝利者の中から日本の上層部に入り込む人間も多少はいるかもしれないが、それも会社で言えば係長クラス、相撲にたとえれば、せいぜい十両くらいまでであろう。彼らは、確かに日本の社会を動かす主要な歯車になるが、しかしあくまでそれは道具的な存在でしかないのだ。
なぜ敗戦によっても日本の社会構造が変化しなかったか、というと、第一には戦前に社会の支配的立場にいた人間の多くは戦場に行くことなく、そっくりそのまま生き残ったということ。次に、戦後の産業の復興もまずは戦前から存続した産業を元にして始まったことが原因である。この状況では当然、戦前から指導的立場にいた連中が主要な地位を占めたはずである。仮に表向き権限委譲がされても、実際には院政的支配が行なわれていたのではないか。官僚の中でも公職追放されたのは運の悪い一部の人間だけで、多くは官僚としての技能やキャリアを買われて、そのまま戦後の政府や地方自治体の中で地位を見つけただろう。というのは、日本社会は縁故社会であり、戦後、職を失った人間は、まず自分の元の職場の知り合いに頼んで元の職に復帰させてもらったと思われるからだ。つまり、日本社会の基本構造は、戦争によっては何も変わらなかったのである。戦争で死んだ無数の兵士たちは、戦場に行かなかった老人や、その縁故者たちの犠牲になっただけの死に損だったのであり、彼らの死によって今の日本があるなどと賛美するのは、お門違いもいいとこだ。むしろ、あの戦争を美化することによってあの戦争への反省が消えてしまう事こそが、彼らの死を犬死ににしてしまう事になるだろう。
かくして、戦前の体制はしぶとく生き延びたが、それでも戦後しばらくの間は、GHQによって、戦争に反対した共産主義者や社会主義者の刑務所からの解放などが行われ、日本は民主主義国家としての道を歩み始めたかに見えた。しかし、ソ連の経済発展によって恐怖を感じたアメリカの資本家たちの策謀で、アメリカはすぐにヒステリックな共産主義排斥思想一色に染まり、その波は日本にも押し寄せた。日本を「反共の砦」にしようとする米政財界の意向を受けて行なわれた、朝鮮戦争前のレッドパージ(共産主義者の公職追放、弾圧)や戦争犯罪人の釈放、公職復帰などのいわゆる「逆コース」によって日本は戦前の体制に完全に戻ってしまったのである。日本を戦争に向かわせ、数百万の国民の命を奪った政治家や官僚たちがのうのうと政治の表舞台に復帰し、国民もむしろそれを歓迎するかのごとくであった。たとえば、ノモンハンや東南アジア戦線で幾万人もの日本兵を無駄死にさせた張本人である大本営参謀T.Mなどが国会議員に立候補し、当選したりしているのである。同じく戦争推進者の一人であるK.Nなどは日本の総理大臣にまでなっている。日本人がいかに忘れっぽく、大衆宣伝に踊らされ易いかは、この一事でも分かる。この時期に、日本政治のこの自殺行為について発言しなかった知識人階級の責任は重い。とは言え、他人の戦争責任を言えば、自分の戦争責任を問われかねない状況で、他人を批判できるような人間も少なかったであろうことは理解できる。しかしながら、日本社会を腐らせ、ほとんど倫理的な死を招いて無道徳社会を作る真の原因になったこの出来事に対する名称としては、「逆コース」などという言葉はあまりに軽すぎる。はっきりと「日本支配者層復活」と言うべきだったのである。かくして戦前の社会のエートス(気風)を残した人間たちが政治と経済の中枢に残ったまま、日本は表向きだけは民主主義国家を標榜し、この偽りを抱いたまま戦後五十数年を過ごすことになり、そのダブルバインド(二重拘束)が日本を神経症的国家にしていったのである。 -
料理研究家小林カツ代の講演記録である。これも、戦場体験者の父から聞いた貴重な「戦争の記録」だろう。
終戦記念日によせて
2019/8/16(金)
終戦記念日によせて
小林カツ代
「キッチンの窓から見えるもの」
2004年8月28日須坂市メセナホールにて
第6回信州岩波講座での講演要旨
2004年8月31日 信濃毎日新聞に掲載
《キッチンから戦争反対》
私が戦争を体験したのは、まだ小さい頃のことだった。ある日、空襲警報が鳴り、母に手を引かれて逃げ回った。焼夷弾で焼けた死体をたくさん見たけれど、幼かったのでそれほど深く何かを感じることもなく大人になった。
父は生粋の大阪の商人で、よく笑い話をする面白い人だった。けれども、毎晩、睡眠薬を飲んでいた。そして、お酒を飲むと、戦争中に中国で体験したことを話した。
「お父ちゃんは気が弱くて一人も殺せなかった」。上官の命令に背いて、どれだけ殴られたか、日本軍がどんなに残酷なことをしたか…。父は泣きながら話していた。
まるで「遊び」のように現地の人を殺す日本兵もいたそうだ。ギョーザや肉饅頭の作り方を教わり、仲良くしていた人たちが住む村を焼き討ちしろと命令が下りた時、父は「あそこはやめてくれ。村人を逃がしてからにしてくれ」と頼んだ。だが、父のその姿を見て笑う人たちもいたという。
同じ部隊に、ことに残酷な上官がいた。命乞いをする人に銃剣を突きつけ、妊婦や子どもを殺すその上官を、父は止められなかった。それは悪夢だった。生涯、睡眠薬を手放せなくなった父は「これくらい何でもない。殺されたり拷問にかけられた人たちにどうお詫びしたらいいか」と語っていた。
でも、子どもの頃の私は、父からそんな話を聞かされるのが嫌で仕方なかった。短大に入った頃は、ちょうど社交ダンスや歌声喫茶が全盛で、友達と遊んでばかり。自由を謳歌していた。
戦後、父は毎年、戦友会に出かけた。ガンになり死期が迫っても、やせた体に背広を着て、出かけようとした。私は、「戦争はいかん」と言いながら欠かさず戦友会に行く父を許せず、「なぜ行くのか」と問いただした。すると父は、初めてその理由を話してくれた。
残酷な行為をしたあの上官は、戦後 成功を収め、大金持ちになった。「あんな残忍なことをして、よく軍法会議にかけられなかったな」と陰口をたたいていた人たちも、成功者と見るや、すり寄っていった。戦友会では、その人を一番いい席に座らせ、昔のことなど誰も口にしなくなった。
けれども、父は許せなかった。その人の隣に座って「忘れへんのか。夢に出えへんのか。よくあんな残酷な目にあわせたな」ーそう毎年言い続けるのだ、と父は言った。「中国の人に代わって、罰のつもりで言う。自分への罰でもある」と。
ノンポリだった私は、その言葉を聞いて雷に打たれたような気持ちになった。父の意思を継いで、2度と戦争はしない、してはいけないと決心した。
父も、その上官も、もう亡くなった。私は料理研究家になってよかったと思っている。切った野菜のくずから芽が出てくる。スーパーでしおれていたホウレンソウが、水で洗うとみるみる精気を取り戻す。野菜だって何だって、命あるものはすべて生きたがっている。それに気づくことができた。
だから私は、キッチンから戦争に反対していく。原っぱは、きれいな公園などしないで、そのまま残して欲しい。諫早湾も、そして憲法も、そのままにしておいてほしいと私は思う。
(2004年8月28日 須坂市メセナホールにて 第6回信州岩波講座での講演要旨)
2004年8月31日 信濃毎日新聞に掲載
