職場内で流通する機関誌みたいなものがある。


毎月、偉い人が「激動の時代を生きるために」などと、コピペしてきたのかな?と感じるほどに定型的な有難い言葉を長々と連ね、「最近将棋始めました」で締める訳の分からない文章が巻頭に掲載されている。


その次に、やや偉い人が似たような言葉で叱咤激励し、犬を飼いはじめたことをカミングアウトして締める文章が続く、そんな大変に有意義な冊子だ。


 


その中の1コーナーに「わたしのコンソメスープ」というコラムコーナーがある。


正直に言ってしまうと僕はこのコーナーの意義が全く分からなかった。端的に言うとなぜそこにあるのか全く分からない。意味不明だとすら思っていた。


そこに存在するだけで僕の精神を蝕んでいくような、ただのコラムとは思えないほど恐ろしくも禍々しい「何か」、それがこのコラムにあったのだ。



(Boris Wong)


毎回、様々な社員が登場し、コンソメスープのある風景をコラムにするという、よく分からないコーナーで、なぜコンソメスープにフォーカスしたのか(別に自社製品でもない)、なぜそんなことを書かせるのか、どういう基準で執筆者を選定しているのか、渦巻く謎の答えを求めて質問しても誰も答えを持ち合わせていないという驚異のコーナーなのだ。


 


ある女子社員が執筆を担当した号などは


「仕事で疲れて泣いちゃった夜、コンソメスープを飲んだら元気出ました。がんばろっ」みたいなことが平然と書かれているのだ。平然とだ。


怖い。とにかく怖い。


これを自分のブログに書くのなら文句ない。ワンチャン狙ったおっさんの


「止まない雨はない明けない夜はない。頑張るミサトちゃんが好き(^-^)」


とか気持ち悪いコメントがつくこと請け合い。そういう文章だ。そう、これはブログに載せるべきなのだ。機関誌に載せる意味が全く分からない。


 


そもそも、お前は本当にそんな場面でコンソメスープを飲んだのかと言いたくなる。


疲れた、コンソメ飲もう、という行動原理を持つ人間に僕は出会ったことがない。本当にそんな人間がどれだけいるのか分からないが、いたとしてもすぐに人材が枯渇し、連載が立ちいかなくなるではないか、そう思った。


けれども、そういった人材は尽きることなく、次々とコンソメ派の人間が紙面に登場してくる。どうやら僕がマイノリティらしく、多くの人はコンソメに救いを求めているのだ。


 


みんな辛くて苦しいとき、コンソメスープを飲んでホッとしている。明日への活力にしている人もいる。人間関係が良化した人だっている。恋に発展しそうなやつまでいる始末。なんだかそれが当たり前のようにすら思えてくる。


まるでコンソメスープに救われたことがない自分が人間的に劣っているのではないかと思い始めたほどだった。


 


同時に、戦々恐々とする思いがあった。このコーナーの執筆担当が回ってきたらどうしよう、と考え始めたからだ。


人間的に劣っている僕は、他の執筆者のようにコンソメスープによって救われた経験がない。そんな僕にこのコラムを書く資格があるとは思えないのだ。回ってきたらどうするんだ。考えることはそのことばかりだった。


 


しかし、世の中ってやつはそういう風にできているもので、どうするんだと考えていると本当に回ってくるのだ。


ついにあの、コンソメスープがある風景の執筆依頼が回ってきたのだ。恐怖なのか困惑なのか、よくわからないがあまりよくない感情が僕の体の中を駆け巡った。


 


困った。とにかく困った。適当にエピソードを捏造して執筆してみたが、コンソメ派の皆さんには悪いがどうにもこうにもコンソメにそこまで現状打破する力があるとは思えないのだ。だから、どうしても不自然なエピソードになってしまう。


精神的に落ち込んでいるときにコンソメスープを飲んだらハイになって踊りだした、みたいな良くわからない捏造になってしまい、まるで怪しげな成分が溶け込んだコンソメスープになってしまうのだ。


「嘘をついても仕方がない」


そう決意した僕は、僕の人生の中で唯一、コンソメが関わってくるエピソードを執筆することにした。それだけが唯一、僕の人生における「コンソメのある風景」なのだから、それを正直に書くしかない。


僕が書いたエピソードをかいつまんで説明すると、だいたいこんな感じだ。


 



 


僕が小学生の頃、どうしてもファミコンがやりたくて近所の金持ちお大尽のガキの家に通い詰めていた。そこでは接待ファミコンが展開され、お大尽のガキにわざと負ける勝負が展開されていた。



(Jim Millard)


接待ファミコンに疲れ、トイレに行こうと豪邸の長い廊下を歩いていると、廊下に煌びやかな巨大水槽が見えた。窓からの光がキラキラ反射し、廊下の絨毯に賑やかな光を落としていた。そこにはカラフルな熱帯魚が悠然と泳いでいた。


今思うとその熱帯魚はグッピーで、そこまで高価な魚じゃないかもしれないけど、カラフルな魚が舞い踊るその光景に、水槽にやってきた竜宮城だと思ったほどだった。


 


そこにお大尽がやってきて、熱烈に自慢を始める。これは魚も高価だけどこれだけ大きな水槽も高価なのさ、水の温度を管理するシステムにも金がかかっている。そんなこと言っていた気がする。


すごいもんが世の中にはあるものだ、そう思ったのを熱烈に覚えている。


「これが餌さ」


お大尽はそう言って小さな瓶を見せてきた。それはプラスチック製の小さな瓶で、ハンドクリームとか入っていそうな外観だった。蓋を開けてみると、中にはカラフルなかさぶたみたいなエサが入っていた。


お大尽がさっとそれを水槽上部からばらまくと、グッピーたちが激しく動き、水槽の中がさらに賑やかになった。


「僕もそのエサあげたい」


僕がそう言うと、お大尽は口角を上げて笑った。


「ダメダメ、グッピーはデリケートなんだ。あげすぎると死んじゃうんだから。今日はもうだめだよ」


僕のショックは計り知れなかった。家に帰っても考えることはグッピーのことばかりだった。我が家の夕食に出された煮魚の茶色との落差が凄まじく、なんでうちにはカラフルな魚がいないのか、水槽がないのか、と嘆き悲しんだ。


「もうやっちまおう」


僕は追い詰められていた。グッピーに餌があげたくて追い詰められていた。


 


そこで作戦をたてた。接待ファミコンの途中でトイレに行き、そこで一気にエサをあげてしまおう。たぶん少量なら大丈夫なはずだ。いける、きっとやれる。


ついに決行の日がやってきた。いつものように接待ファミコンに興じた。そして適当なタイミングでトイレに行くと告げて水槽に向かう。勝負は一瞬だ。大丈夫、やれる。きっとやれる。


 


絨毯に落とし込まれた水槽の光が見えた。光は水の流れに合わせてゆらゆらと揺れている。ついに来た。一気に駆け寄った僕は、水槽横の小瓶を手にし、ふたを開けて中身を一つまみ、水槽の上部に振りまいた。


モアーーー!


なんか様子が違う!


 


昨日はカラフルなエサが踊るように沈下していき、そのエサをグッピーたちがこれまた踊るようにツンツンと食べる光景だったのに、水槽の中身が一気に茶色になっていくだけだった。


昨日の煮魚みたいな、ここにあるはずのない茶色が水槽の中を満たしたのだ。


「なんで、なんで、どうして」


焦った。けれどもなにもすることができず、ただただ浸食するかのように広がっていく茶色の何かを眺めていた。


いったい何が起こったのか全く理解できないが、とんでもないことが起こっているという事実だけはわかる。なんでこんなことに。震えながら、さきほど水槽に入れた瓶のラベルを見る。そこには驚愕の言葉が書かれていた。


 


「コンソメ」


 


なんでこんなことにコンソメがあるんだよ! なんでトイレへと続く廊下にある水槽の横に置いてあるんだよ。ほんと、金持ちの考えることはわからん。


とにかく、コンソメとグッピーのエサが並べて置かれていて、僕は粒状のコンソメをグッピーに振りまいていた。



(Jorge Correa)


「琥珀色、というか茶色に染まる水槽にグッピー、まるで前日に食べた煮魚のようでした。これが僕のコンソメのある風景」


こんな言葉でコラムを締め、入稿したのだった。「コンソメのある風景」は僕の人生でこれしかなかったのだから仕方がない。とにかく書ききれたことに安心し、ホッと胸を撫でおろした。


 


それから数日して、機関誌を発行するグループの偉い人に呼び出された。どうもコラムの内容がまずいらしい。


「コンソメが悪者のように書かれている。コンソメを好きな人が気分を悪くするのでは」


「グッピーがかわいそうなことになっている。動物愛護の観点から書くべきではない」


「グッピーのことを飼っている人や好きな人が気分を悪くするのでは」


「ファミコンという商品名はまずいかも」


「金持ちのお大尽って表現はちょっと良くないのでは」


「そもそも紙面の1/4しかスペースがないのに文章が長すぎる。偉い人のあいさつより長い特集になってしまう」


こういうものだった。


こうして文章を短くし、指摘された点を直した結果、あの大スペクタクルエピソードが以下のような文章になってしまったのだ。


 


「子供の頃、仲の良い友人の家で何かのゲームをしていたら、何らかの魚類がいて、エサをあげたらそれがエサではない別の何かで、魚たちも迷惑そうだった」


 


何が言いたいのか分からない! これ読んだ人、俺が狂ったと思うだろ! そもそも「エサではない別の何か」ってぼかしてるけど、このコーナー「コンソメのある風景」って名前だっつーの。バレバレじゃねえか。


そして、最後の指摘があった。


「そしてなにより、ホッとする風景じゃないとダメだ。ここはそういうコーナーなんだから」


 


似たような話ばかり書かせているのはお前が原因か。だったら最初からそう言えよ、と思ったが、もう締め切りギリギリということで、以下のように直されてしまった。


 


「子供の頃、仲の良い友人の家で何かのゲームをしていたら、何らかの魚類がいて、エサをあげたらそれがエサではない別の何かで、魚たちも迷惑そうだった。でも元気に泳いでいたからホッとした」


 


冒頭で「このコラム、意味が分からねえよ」なんて揶揄していた僕が、コーナー史上最大に意味不明な文章を掲載することになってしまったのだ。


すべては配慮に配慮を重ねた結果の産物、全く本意ではないのにとんでもないことになってしまったのだ。


 



 


いつの間にか時代は変わった。


どんな場面においても文章を発表するということは、書き手と読み手のやりとりであった。


少し前は、その関係は一対一であった。例えば書き手がおかしいことを書いたとして、読み手はそれに抗議をすることもあったかもしれない。それを受けて書き手は訂正するかもしれないし、反論、もしくは取るに足らないと無視することもあったかもしれない。けれども、それで話が終わることだった。


 


けれども、今の時代は読み手がおかしいと感じた想いを、他の読み手と共有することが容易になっている。


それは決して悪いことではないが、同時に炎上などの激しい反応が起きやすくなってしまったとも言えるのだ。それも別に悪いこととは思わないが、それを畏れる現象が確実に起き始めている。


書き手が畏れなくても、編集する人、掲載する人、関係する様々な人が畏れる現象がある。


「何を書くかより何を書かないか」


実は、多くの書き手はもうこの段階にきている。書きたいことを書くよりも、書いてはいけないこと、書いたら面倒そうなことを消去した結果、残ったものを書いている。意識下なのか無意識なのか違いはあるが、そうなってしまっているのだ。


 


特定の何かに言及することは大変にリスキーである。反発も激しくなる。それを防ぐためにとどんどん主語を大きくするという解決策をとる。


例えば山田さんに注意したいけど、ダイレクトだとこのご時世、いろいろと問題がある。ならば山田さんが所属する営業課全体に注意をする。でも、それだと営業課の反発がありそうだ。ならば全社員を注意しよう、そういった現象に似ているのだ。


主語が大きくなれば対象となる範囲は広がるが、対象となった怒りや反発は反比例して薄らぐ。


 


そう遠くない将来、公に発表される文章のほとんどは人類か地球規模で語られ、意味不明なものばかりになっているかもしれない。それはきっとあまり面白くない。


この世に完成された文章など存在しない。反発はあるものだと割り切って、何を書くかで選んだ文章を書けるようになる、それが理想なのだ。


 


ちなみに、コンソメの語源は「完成された」という意味だ。コンソメスープのように一点の曇りもなく澄んだ「完成された」文章など存在しない、でも完成を目指さなければならない、文章のコンソメを目指して。


そう決意することが僕の持つ「コンソメのある風景」なのである。



 


著者名:pato


テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。


Numeri/多目的トイレ 


Twitter pato_numeri


 


(Photo:Thomas Hawk