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「ガラガラポン」という政治家用語がある。良くは知らないが、「これまでのものをすべてご破算にして、作り直す」みたいな意味だろう。
現在の日本の不透明な政治状況を見ると、このガラガラポンが一番いいのではないかという気がする。つまり、せっかく日本国民がこれまでの自公政治にノーを突きつけて政権交替させたのに、肝心の民主党がふらふらしているという状態なのである。その理由も明白であり、民主党という政党がその内部に隠れ自民党の人間を大量に抱え込んでいるからである。日本国民が自民党政治にノーを突きつけた以上、民主党内の「自民党的存在」には発言を許すべきではないし、本当なら民主党から出て行ってもらうべきである。だが、民主党首脳部は国会議員の数が欲しいから、彼らを出したくないし、「民主党内自民党」の連中も政権与党にいるという立場を失いたくない。だから、民主党はゴタゴタしているのである。
この状態が続くと、国民はやがて民主党にも愛想を尽かすだろう。
まあ、その受け皿が国民新党や社民党、あるいは共産党ならまだいいが、これまた隠れ自民党にすぎない新党グループに票が流れでもしたら、せっかく端緒についた政治改革が水の泡である。
この際、「民主党内自民党」連中は、全部追い出して、新しい国会議員候補を立てて次の選挙を戦うのが民主党としてはベストの選択であり、国民としても安心して「民主党候補者」に投票できるのだが、おそらくそれはやらないだろう。それができたなら、私は本気で民主党を応援するのだが。PR -
I・モンタネッリの『ローマの歴史』は、ジャーナリストが書いた面白い歴史書で、中公文庫で1095円と、文庫本としては少々高いが、買う価値は十分にある本だ。学問的な価値があるというよりは、歴史の面白さを大衆に知らせる、啓蒙的な本だ。
学者の書いた本は、学問的には正確かもしれないが、その「学問上の定説」そのものがいつひっくり返るかわからないのだから、特に歴史に関しては、学問的な正確さなど、それほど重視する必要はないと私は思っている。もともと、歴史など勝者の側の記録しか残らないのだし。
歴史に限らず、私は専門家と素人の間に、それほど大きな差があるとは思っていない。偉大な科学者も哲学者も文学者も、そのほとんどはアマチュアだったのであり、「専門家」とアマチュアの区別がやかましくなったのは近代以降のことにすぎない。
何かの言説を読む時に大事なのは、その言説に合理性があるかどうかであって、それが専門家の発言か、無名の素人の発言かどうかではない。しかし、世間の大半の人間は「専門家」の言説に、ころりと騙されるのである。テレビなどに出ている有名人の発言だと、鵜呑みにしてしまう、そういう人々がB層と呼ばれ、大衆操作のターゲットになるのである。
話が長くなった。
I・モンタネッリの『ローマの歴史』がどんなものか、少々、引用しよう。若き日のカエサル、つまりジュリアス・シーザーについての記述だ。
独裁者(徽宗皇帝注:スッラのこと。この本ではスラという表記)が引退するとカエサルはローマへもどったが、反動派の支配は続いており、マリウスの甥、キンナの娘婿(徽宗皇帝注:カエサルのこと)を許すはずがなかったから、再びキリキアへと旅立つことになる。その途中、海賊に捕われ、身代金二十タレントゥム、約四千万円を要求された。このおれにそんな安い値をつけるとは何事か、五十タレントゥムは要求しろ、とかれはふんぞりかえってわめいた。従者が身代金を取りに行っている間、詩を作って読み聞かせたが、海賊どもは風流の心がなかった。カエサルは野蛮人のあほうどもとののしり、機会が来たらきっと縛り首にしてやるぞと約束した。身代金が届いて釈放されるとミレトス島へ直行、船団を組織して海賊どもを追跡、金をとりもどし、縛り首にする前に慈悲のしるしとしてのどを切ってやった。(下線部は徽宗皇帝による)
ジャーナリストの文章らしくきびきびとしていてユーモアたっぷりである。歴史の教科書を何冊読んでも、シーザーという人間の人物像はわからない。しかし、この本では、生きた人間が歴史を動かす、その姿が見えるのである。
もう一箇所、カエサルの人物描写の部分。
美男子ではない。禿げ上った頭は少々巨大すぎ、えらが張り、口はへの字に曲がっていて、両側にまっすぐな二本の深い縦じわが刻まれ、下唇がうんと突き出していた。それでいて女にはもてた。四度結婚し、愛人情婦は数知れない。部下の兵はこの大将を「禿の女たらし」と呼んでいる。凱旋行進の時カエサルの兵士たちは、「市民よ、女房を隠せ、禿の女たらしが帰って来たぞ」と叫んだものだ。これを聞いてまっさきに吹き出すのがカエサルだった。(P261) -
Never seek to tell thy love
Never seek to tell thy love
Love that never told can be
For the gentle wind does move
Silently,invisibly
I told my love,I told my love
I told her all my heart
Trembling,cold,in ghastly fears
Ah! she doth depart
Soon as she was gone from me
A traveller came by
Silently,invisibly
He took her with a sigh
( William Blake)
「愛について語るな、お前の愛を」
愛について語るな、お前の愛を
語ることのできない愛もある
優しい風が動くように
静かに、目にも見えず
私は語った、私の愛を
心の限りを私は彼女に告げた
震えながら、凍えながら、蒼ざめた恐怖とともに
おお、あの人は去った!
あの人が去った後
一人の旅人が訪れ
静かに、目にも見えず
溜息とともに
あの人を永遠に連れ去った
(ウィリアム・ブレイク)
ウィリアム・ブレイクの謎めいた詩である。最後の連の「旅人」が何者なのかは、不明であるらしい。私の解釈では「時」だと思うのだが、そのまま正体不明の旅人にしておくのがよいだろう。
訳は原詩を少々アレンジしてあり、ブレイクの詩に基づく二次創作に近い。というより、私の語学力ではこの程度の訳にしかならないということだ。なお、新倉俊一氏の本では、原詩には句読点がもっと入っていたが、朦朧とした雰囲気を高めるために、句読点の大半は省略してある。 -
前回の真夜女王の御言葉はいかがだっただろうか。
「いいかげん目覚めなさい」
これは阿久津真夜(生徒たちからは「悪魔や!」と言われたりする)がよく言う言葉である。つまり、
「あなたたち子供は、社会の現実について何も知らない。社会は悪意と欺瞞に満ちた世界なのだ。その社会に無垢のまま出て行って傷つくのはあなたたちなのだ。だから、いいかげん目覚めなさい」
ということである。
テレビドラマ『女王の教室』は、テレビ放映時には知らなかったが、DVD化されたものをレンタルで見て、その素晴らしさに感心した作品だ。
善意と情熱で行動すれば、すべてが解決するみたいな、偽善的教師ドラマが蔓延する中で、(それを現実の自分自身の立身出世の手段として利用した小狡い男が、例の「ヤンキー先生」だ。)この『女王の教室』の主人公は、真に生徒のために行動し、身も心もぼろぼろになっていく。その主人公の名前を「悪魔や」と読めるようにしたところにも、作り手の冷厳な現実認識がある。偽善と欺瞞と無知に満ちた社会の中で真実に生きようとするものは、逆に周囲から「悪魔」と見なされるということである。
「いいかげん目覚めなさい」
この言葉は、子供たちよりも、むしろ多くの大人たちに向かって言われるべきだろう。 -
どらま・のーと:
2005年09月11日 女王の教室 第10話 『真矢、最後の授業』
いい加減目覚めなさい。まだそんなこともわからないの?
勉強は......しなきゃいけないものではありません。
したい、と思うものです。
これからあなた達は、知らないものや、理解できないものに
たくさん出会います。
美しいな、とか、楽しいな、とか、不思議だな、と思うものにも
たくさん出会います。
そのとき、
もっともっとそのことを知りたい、勉強したいと自然に思うから、
人間なんです。
好奇心や、探究心のない人間は人間じゃありません。
猿以下です!
自分達の生きているこの世界のことを知ろうとしなくて、
何が出来ると言うんですか?
いくら勉強したって、
生きている限り、わからないことはいっぱいあります。
世の中には、
何でも知ったような顔をした大人がいっぱいいますが、
あんなもの嘘っぱちです。
いい大学に入ろうが、いい会社に入ろうが、
いくつになっても勉強しようと思えば、いくらでも出来るんです。
好奇心を失った瞬間、人間は死んだも同然です。
勉強は、受験の為にするのではありません。
立派な大人になる為にするんです。
イメージ出来る?
私があなた達にした以上に酷いことは、
世の中にいくらでもあるの。
人間が生きている限り、イジメは永遠に存在するの。
なぜなら、
人間は、弱いものを苛めるのに、喜びを見出す動物だからです。
悪い者や、強い者に立ち向かう人間なんて、
ドラマや漫画の中だけの話であって、現実にはほとんどいないのよ。
大事なのは、
将来自分達がそういういじめに合った時に、
耐える力や、解決する方法を身につけることなんです。
なぜ、人を殺してはいけないんですか。
そう質問すれば、大人がちゃんと答えられないと知っていたのね、彼は。
だから私は、彼に教えたの。
他人の痛みを知れと。
みんな、自分と同じ生身の人間なんだと。
どんな人にも、あなたの知らない、素晴らしい人生があるんだと。
一人一人の人間の持つ、家族や、愛や、夢や、希望や、思い出や、友情を
奪う権利は誰にもありません。
残される遺族の、苦しみや、痛みや、悲しみを
与える権利も誰にもありません。
だから人を殺しちゃいけないんです!
あなた達も、過ちを犯すかもしれないから、肝に銘じておくことね。
犯罪を犯した人間は、必ず捕まります。
逃げることが出来ても、一生その呵責に苦しみます。
周囲の人間からは見放されます。死ぬまで孤独です。
もういいことは一つもありません。二度と幸せになんかなれません。 -
日本のネット界にはなぜ右翼的人間が多いのか、という疑問を持った人間は多いだろう。あまりにそうした発言が多く見られるので、それこそが日本国民の中心的意見ではないかという錯覚を抱きそうになるが、言うまでもなくそれは錯覚なのである。
常識に属することを改めて書くのも気が引けるが、騙されやすい人間、人を疑わない純真な人間のために説明すると、ネット上の総発言数は、(発言者数×発言回数)であり、発言者数は少なくても、その少数の人間が何回も発言すれば総発言数は多くなる。つまり、1000人が1回ずつ発言すれば千回の発言数だが、100人が100回発言すれば1万回になるのだ。個人数であれば10分の1の人数だのに、総発言数は10倍になる。しかも、自動投稿というシステムもあるというから、「工作員」をある程度雇えば、インターネット上の「大多数」は簡単に形成できることになる。
したがって、インターネット上の発言は、その発言内容で判断するべきであり、同種の発言が多いかどうかは、「民意」の判断材料としては、あてにならないと言える。
まあ、私自身、若い頃は日教組とか共産主義者が嫌いで、日本国憲法は現実に合わない空虚な理念だと思っていた男であるから、ネット右翼の若者たちが右翼的発言を本気で書いている場合もあるだろうとは思う。しかし、沖縄に住む人間として、日本の対米従属の歪を常に押し付けられている現実から、やはり右翼的思想は誤りだと考えるようになった。もちろん、その「右翼思想」が「対米従属思想」である場合の話だが。
日本古来の文化を守り、その美点を伸ばしていこうという意味ならば、私も右翼思想の持ち主である。
そもそも、ネット右翼の若者たちは日本の将来にどのようなビジョンを抱いているのか。まさか、今さら「天皇中心の神の国」にしたいわけではあるまい。それに、対米従属路線を続けるならば、アメリカに対する天皇の地位はどういうことになるのか。まさか天皇を米大統領や米企業・国際資本の下僕にする気はあるまい。そのあたりをはっきりさせてもらいたいものである。日本をアメリカの属州・奴隷国家にしようと画策する人間が本物の愛国者であるとは私には思えない。
日本古来の文化がグローバリズムによって破壊されている現状を見れば、真の右翼ならば、反米思想・反グローバリズムを主張するのが当然だろう。
ついでながら、私は欧米の文化も大好きであるし、欧米の一般庶民も好きだ。しかし、欧米資本による獰猛な経済的侵略が世界を破壊している現状への批判から、グローバリズムそのものを批判しているのである。 -
スポーツという英語の訳語に「運動」という日本語が当てられるのは、間違いではないだろうか。体を動かすのはスポーツの大前提ではあるが、ではラジオ体操はスポーツかと言われれば、首をひねるだろう。(今時、ラジオ体操などをやる人間がいるかどうかも疑問だが)
スポーツとは、何よりも他人との身体能力の優劣を競うことを前提とした運動であり、そこが何事であれ他人と争うことの嫌いな私がスポーツが嫌いな理由である。もちろん、これには私の身体能力が低いことも大きな原因になっている。身体能力の低い子供にとっては、学校の体育の授業は地獄のようなものだ。そもそも、それが本当に「体を育てる」ことが目的なら、なぜ子供たちに競わせる必要があるのか。運動場で好き勝手に歩いたり走ったりさせておけばいいではないか。もちろん、年を取った今では学校体育など関係はないが、今現在、体育を無理にやらされている運動音痴の子供たちには同情に耐えない。
スポーツとは「競技」であって、運動そのものではない。
私がスポーツが嫌いなのは、その勝利至上主義や陰での不道徳な行為の蔓延にも理由がある。特に嫌いなのがサッカーで、そこでは審判に見つからないようにインチキをすることが、戦術の一つとして公然の秘密になっているからだ。相手のシャツを引っ張ったり、無防備な相手に危険なタックルをして大怪我をさせたりという汚いプレーが賞賛されたりするような卑劣なゲームのどこにスポーツマンシップがあるというのか。(フローラン・ダバディー「黄金時代」アシェット婦人画報社P53~P54、P191~P192参照)
もちろん、日本での学校サッカーは、そこまでひどくはない。だからこそ、日本のサッカーは弱いのである。国際化とは、モラルのレベルを国際水準に「引き下げる」ことでもあるのである。 -
私・徽宗皇帝は1970年代に青春を送った人間なのだが、愛好する歌は、戦時中や終戦直後の歌が多い。もちろん、60年代70年代の歌にも好きなものはある。80年代以降は、まったく歌には興味を無くしていて、70年代までで歌の知識はストップしている。また、曲名は知っていても、誰が歌った歌かはわからないものも多い。以下に挙げる私の愛好する歌のリストにしても、そのナンバーワンの「みんな夢の中」は浜口蔵之助の作詞作曲ということは知っているが、歌手が誰かは知らないのである。
そういう音楽知らずの徽宗皇帝が選ぶ、昭和歌謡曲の名曲はこれだ!
1位 みんな夢の中
2位 木綿のハンカチーフ
3位 真夏の出来事
4位 夜来香
5位 何日君再来
6位 楚州夜曲
7位 ルージュの伝言
8位 春一番
9位 君は総天然色
10位 なごり雪
11位 ヨイトマケの唄
12位 翼の折れたエンジェル
13位 或る雨の午後
14位 夢でもし逢えたら
15位 鵙が枯れ木で鳴いている
ほとんど女性歌手の歌ばかりである。中に灰田勝彦と大滝詠一(字はこうだったか?)が入っているくらいで。
灰田勝彦やディック・ミネは、私の親父くらいの年齢の頃の人気歌手だが、今聞いても新鮮な歌を歌っており、彼らの歌は、ぜひリバイバルしてほしいものである。
11位の「ヨイトマケの唄」は、差別語が入っているという理由で、多くの人はほとんど聞く機会が無い歌である。丸山明宏、今の美輪明宏の名曲だ。
15位の「鵙が枯れ木で鳴いている」は、誰が歌っても感動する歌である。伴奏無しのア・カペラで歌ってもいい。
最初は、15位には杏里の「悲しみが止まらない」を入れていたが、こういう「カラオケ名曲」は誰でも知っているから、差し替えた。
大高静流(という字だったか?)のように奇特な歌手が、もう一度こうした曲をカバーしてくれたら、ケチンボの私でも、CDを買う気になるのだが。 -
昨日の夢。小説の材料。
猫町遊夢という男がいて、黒服に黒い帽子、一見、ボヘミアンか犯罪者。
ある少女に、その男が接触してくる。少女は水商売の姉ともども、たいへん不幸な生活をしていたので、男の誘いを売春の勧誘でもかまわないと思って、男に会う。
猫町遊夢の家は、船の船室のようである。男は少女に、その家庭状況をいろいろ聞く。少女は話の途中で眠くなり、眠り込む。少女が目覚めると、男の姿は無く、手紙がある。
その手紙には、この家を少女とその姉に譲ること、家賃や電気代などは不要なこと、食事の材料などは、ある所から定期的に届けられることなどが書いてある。
遊夢は、その後彼女たちの前には現れない。
まあ、そういう童話的な話だが、冒頭の感じから「ロリータ」的な話を予測して読む読者が多いだろうが、実はこれは生活に苦しむ人間に「猫的生活」による救いの暗示を与えているのである。つまり「猫の恩返し」であるが、「恩返し」という人間的要素を排してある。要するに、住む家と食べる物があれば、生きていくことはできるのであり、人間の不幸の大半は、それ以上を望むところから来る、ということである。猫的な生き方も悪いものじゃない、という話だ。
猫町遊夢という名前は、なかなかいいので、そのうち書いてみるつもりだ。友人に「へしみ」というペシミスト、ブラック・ジャックに対するドクター・キリコのような人物を配することも考えている。「へしみ」は能面の悪鬼の面「へしみ(べしみ)」でもある。「へし」はやまいだれに「悪」の字だが、私のパソコンはIMEパッドが使えないので、ひらがな表記しかできない。
