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常用漢字改訂の最終案が今朝の朝刊に掲載されていた。
ほとんどの人は興味も持たないニュースだろうが、私は興味がある。私の趣味は分析と解釈だが、物事が些細であっても、案外と大きな背景を持った事象というものがあり、常用漢字などもその一つだと思うからである。
以前の改定では、我々が「常用しない」漢字であるにも関わらず、法律用語と皇室用語が幾つか採用されたのが面白かったが、今回も法律用語関連の漢字が多い。それと、病院・介護関係の漢字が多い。
それからわかるのは、今後、病院関係にビジネスと法律(役所)が大きく関係してくるということだ。その下準備としての常用漢字改訂なのである。
まず、法律関係では「淫」「毀」「錮」「勾」「狙」「骸」「痕」「挫」「遡」「踪」「捉」「填」「賭」「蔽」「拉」「賂」などがある。これらは法律関係には限らないが、少なくとも犯罪関係の語彙であり、常用漢字の改訂は、「お役所の仕事のために」改訂されるのが基本だと見ていい。ついでながら、これらの字がなぜ必要かと言うと、次の熟語のためである。
「淫行」「毀損」「禁錮」「勾留」「狙撃」「死骸」「痕跡」「挫傷」「遡及」「失踪」「補填」「賭博」「隠蔽」「拉致」「賄賂」など。
次に、病院・介護関係では、「萎」「咽」「鬱」「潰」「蓋」「顎」「臼」「嗅」「股」「梗」「塞」「喉」「腫」「瘍」「拭」「尻」「腎」「醒」「脊」「椎」「腺」「膳」「箸」「痩」「唾」「貼」「爪」「瞳」「剥」「斑」「匂」「捻」「眉」「膝」「肘」「訃」「哺」「貌」「頬」「勃」「枕」「呂」「脇」など、圧倒的な多さである。これらが病院・介護関係の法律整備や報告書のために追加されたのは一目瞭然だろう。
これらの字の中には単独で用いる「膳」「箸」「枕」などがあり、それらは日常語でもあるが、それ以外の字は明らかに病院関係だ。「萎縮」「咽喉」「鬱病」「潰瘍」「口蓋」「臼歯」「嗅覚」「心筋梗塞」「腫瘍」「清拭」「腎臓」「覚醒」「脊椎」「前立腺」「瞳孔」「剥離」「斑点(紫斑)」「捻転」「容貌(顔貌)」「勃起」「風呂」などの熟語が考えられる。「清拭」や「風呂」は病人や老人の看護には付き物の作業である。
これが表すのは、今後、病院のビジネス化がいっそう進んでいくということである。大手企業が病院ビジネスに参入する、その下準備としての常用漢字改訂なのだろう。役人はその内意を受けて、改訂作業をしたわけだ。べつに、国民生活の便宜のための改訂などではない。
それはまあ、「餅」だの「鍋」だのという漢字は常用漢字として妥当な選択かもしれないが、そうした漢字はあまりに少ない。ほとんどが病院関係であるというのは、明らかに異常な選択ではないだろうか。
たかが常用漢字でも、その背後にあるものはなかなか大きい。PR -
ベーシック・インカムという奇術
ベーシック・インカムという制度は、ちょっと聞くと、実に馬鹿馬鹿しく聞こえる制度である。なにしろ、政府が無条件に国民全体に金を渡すという制度なのだから。その金の使途に制限も条件もない。年齢も不問で渡すのである。ソンナ馬鹿な!
いや、馬鹿な話ではないのだ。しかし、相当に奇抜な話ではある。だから、題名を「ベーシック・インカムという奇術」としたのである。それが無意味な空論か、それとも、現在の経済を根本から変える天才的なアイデアかは、残りを読んでから判断してもらおう。
さて、具体的にどのような形態の制度かというと、まあ、いろいろな形態があるとは思うが、たとえば国民新党のホームページで提唱されていたモデルは(うろ覚えだが)だいたい次のようなものだ。
1) 全国民に、一人当たり、月5万円を支給する。(4人家族ならば20万円だ)
2) 所得税は一律30%とする。ただし、これは通常の勤労にかかる所得税だ。
3) 政府から金を一律に支給する代わり、あらゆる保険制度年金制度等は廃止する。
さて、これは国民にとって得な制度なのかどうなのか。これが革命的な制度であることは確かである。それに、これで政府は経済的に成り立つのかどうか。
たとえば、モデル的に次の二つの例を考えてみよう。①は貧乏人の家族、②は富裕なカップルだ。
① 4人家族で、年収200万円の場合
② 2人家族で年収1000万円の場合
計算はこうなる。①の年収は(5×4×12+200-200×0.3)=380万円と、はるかにアップする。
②の場合、年収は(5×2×12+1000-1000×0.3)=820万円となり、もちろん、稼いだ金額よりはダウンするが、その所得820万円は、現在の税制だと所得の33%を取られ、15万円程度が控除されるのだから、現在の税制での所得685万円を上回るのである。
もちろん、現在の税制なら、この他に年金やら健康保険やらが徴収されるので、可処分所得はもっと低くなる。
国民の可処分所得が低くなるなら、政府の取り分が低くなって、様々な政府業務ができなくなるのではないか、と思う人もいるだろう。では、政府のしなければならない業務とは何か。
ベーシック・インカム制度という単純化された制度により、税金や保険や年金に関する業務は大きく削減されるのである。おそらく医療保険も無くなるだろう。この点での不安を抱く人も多いだろうが、何を政府の仕事として残すかは、また別の問題だ。
ある意味では、近代以前の政府と国民の状態に戻ると言ってよい。政府の仕事を極端に減らし、国民は自立的に自分の生活設計をしていくのである。政府の仕事を減らすことで、税金の中で闇に消えていた部分が不要になるのだ。公務員中心社会からの脱却である。
問題は、国民に支給する金と、税金として徴収する金とのバランスがうまくいくかどうかだが、そのあたりは計算の得意な官僚たちに計算してもらおう。
このベーシック・インカム制度の長所は、どのような状況の人間でも、生存に必要な金額だけは常に保証されるということである。
ならば、短所はその裏返しで、遊んでいても月に5万円は支給されるのだから、働かないでいようという人間が出てくる可能性があることだろう。だが、月に5万円では、生存はできても遊興はできない。三年寝太郎のような人間でもないかぎり、月に5万円の収入で十分だという人間はおるまい。
もう一つの問題は、確かに月に5万円で生存はできるだろうが、それは健康な人間の場合であり、病気や身体障害を抱えた人間はどうなるのか、という問題である。原則として、あらゆる保険や年金を廃止する代償としての支給金なのだから、生存するだけで人以上に金がかかる病人や老人をどうするのかという問題を考える必要がある。
だが、これも、税金の一部を弱者保護と福祉に用いるという国民的合意があれば、問題ではなくなる。まあ、原則は原則で、人情や道義に合致すれば例外もあるということだ。
以上がベーシック・インカムという制度だが、どうだろうか。これは子供だましの奇術なのか、それとも、この世に理想郷をもたらす革命的経済思想なのか。判断はこれを読んだ人に任せよう。 -
ロシア語の翻訳・通訳者として著名な米原万里が死んだのは2006年の5月25日で、死因は癌だったとされている。私も、そうだと思っていて、ずいぶん若死にだな、と思っていた。
しかし、その最後の著作かと思われる『他諺の空似』をたまたま読んで、ああ、これは殺されたのだと思った。
もしも、書店にまだあるならば、あるいは公立図書館で借りることができるならば、ぜひ読んでみてほしい。彼女の勇気ある発言が、***の逆鱗に触れ、彼女は殺されたのだと、だいたいの人は感じるはずだ。
「病院での死亡」が病気によるものだなどと、私は信じない。病院ほど、容易に殺人のできるところはない、と私は思っている。そして、死因が何かなどということも、容易に捏造されるものである。 -
ヤフーブログの方の「徽宗皇帝のブログ」は語学関係の記事を中心に書いているのだが、そちらの方にも案外と来訪者がいる。それだけ語学に興味のある人間がいる、ということなのだろうし、また、良い語学テキストは案外と少ないということだろう。
ほとんどの語学テキストは、語学の達人や専門家の書いたもので、学校教科書と似た性質がある。それは、「正確だが、まったく面白くないし、初心者が疑問を持つところにまったく答えていない」ということだ。
あちらのブログにも書いたのだが、物事を習い始めた頃というのは、実は貴重な体験をしているのである。それは、「初心者が何に疑問を持ち、何につまづくのかが、自分で体験できる」ということだ。それはつまり、何かを習い始めた人間こそが、良い教師になれるということだ。学校や塾であっても、教師の講義よりも、仲間や同級生に聞くほうが、理解しやすいものである。それは、教える側に「初心者の疑問」が、まだ生々しく残っているからである。
私は誇大妄想的人間だから、新しい分野を学ぶ時は、まず「自分でその分野のテキストを作ってやろう」という気持ちで学ぶ。そうすれば、学ぶこと自体が面白いし、意気も高くなる。これは学習のポイントの一つであり、「誰かに教える気持ちで学ぶ」ことによって、自分自身の理解が正確になるのである。
私自身は、中国語はほとんどできないが、ヤフーブログの「中国語クエスト」が役に立つことは多分確かだと思う。要するに、現役時代は三流のプレイヤーだった選手でも、名コーチにはなれるのである。私は、頭で物事を把握する人間であり、学んだことを体に刻み込む「猛練習」はできない。しかし、それのできる人間こそが名選手になるのである。 -
有名人のブログで厳禁なのが、「宗教」「政治」「プロ野球」の話題なのだそうである。有名人のブログが面白くない理由もそこにある。「宗教」「政治」「プロ野球」ほど面白い話題は無い、と私は思っているからだ。私自身がよく見に行くブログも、その系統のものである。あとは「漫画」「映画」「小説」関係のブログが多いだろうか。漫画家自身のブログもよく見るが、更新頻度が低いのが多いのが、有名人ブログの欠点だ。本業が忙しくて、ブログどころではない、ということだろう。
芸能人のブログには、まったく興味はないし、政治家のブログにも興味はない。彼らのブログには、どうせ表に出してもいいような、どうでもいい話しか載っていないはずだ。彼らが隠している情報をブログに書けば、それこそ、大変な騒ぎになるだろう。
少し前にあった、芸能人の覚醒剤騒ぎにしても、その背後にいるはずの暴力団のことは、マスコミにはほとんど出てこなかった。表に出る情報というのは、そんなものである。そもそも、アメリカなどでは、麻薬がCIAの大きな資金源であるというのは、よく知られた事実である。アメリカが本気で麻薬を取り締まらないのは、そういう事情があるからだ。アメリカのアフガニスタン侵略の理由の一つはアフガニスタンが麻薬の一大産地で、その利権を握るためだという。パナマのノリエガ将軍も、CIAのために、せっせとアメリカに麻薬を輸出していた人間だ。アメリカの都合が悪くなると、さっさと逮捕されてしまったが。
そうした裏情報は、マスコミには絶対に出ないが、書籍の中には、載ることもある。「アメリカの国家犯罪全書」という本は、別に発禁にはなっていないから、興味のある人は、アマゾンや中古書籍オークションで手に入れて読むとよい。実は、公立図書館で読める場合もある。
こうした本には事実しか書いていないのだが、その事実を知るだけでも、この世界が、学校で習った世界とはいかに違った世界であるかがわかる。特に、若い人々は、世界についての新しいパースペクティヴを持つことが、「騙されない生き方」をするために必要だと思う。
昔、子供向けの小説の中に、次のようなことを書いたことがある。
「この世には、はっきり言って、騙す人と騙される人がいます。あなたたちは、騙す人にも騙される人にもならないでください。」
騙される人間も、実はそれだけで、この世界を悪化させるのに加担しているのである。 -
与謝野馨や平沼らが立ち上げた新党「立ち上がれ日本」は、日本をダウンさせたのが自民党や公明党であることを考えれば、盗人猛々しいとしか言いようがないが、現在の日本が不況にあえいでいるのは間違いない。そして、その気絶寸前の日本を殺すのにもっともいい方法が、消費税アップだろう。
消費税が10%に上がれば、それは国民生活を直撃し、消費は今よりダウンして現在の不況が大不況になるのは目に見えている。にもかかわらず、「立ち上がれ日本」が消費税増を公約(?)として打ち出したのは、キチガイ沙汰だが、これは、彼らの背後にいるのが経団連であることを意味している。新党の声明と前後して、経団連の提言として「消費税10%」という発言が新聞に載っているのである。
いったい、彼らは、日本国民をこれ以上窮乏させてどうしようというのか。国民に金が無ければ、消費は減退し、ひいては企業売上げの減少につながるのは当然の理屈である。
実は、これには裏がある。実は、経団連の主要人物の多くは輸出企業関連の人物なのである。そして、これはあまり知られていない事実だが、税法上、輸出企業は消費税によって利益を得ているのだ。このあたりは、インターネットで調べればすぐに分かる。つまり、輸出企業は、消費税増によって利益を得るから、消費税増を主張しているのである。何と、分かりやすい連中だろう。彼らは、「国民から金を奪って、俺たちに寄越せ」と主張しているわけだ。はっきり言って、乞食である。いや、これほど品性の下劣な人間たちは、乞食にもそうはいない。金の亡者であり、日本国民の敵である。昔風に言えば、まさしく「非国民」と言うべきだろう。
こうした連中は、いったい国民がこういう事実を知って、彼らの会社に対して不買運動でも起こしたら、どうするつもりだろう。
「いや、俺たちはマスコミを握っているから大丈夫さ」
さあ、どうだろうか。
とりあえず、私たちは、経団連が消費税10%を提言しているという事実を、よく覚えておこう。 -
9 国富とは何か。
ある中国の古典の中に、「政府がいくら金があっても、国民が貧しいなら、それは豊かな国ではない」という趣旨の言葉があったが、私がここまで論じてきたのも、結局はそれに近いことだ。ただし、それに加えて、「国民のわずかな一部だけがいくら金を持っていても、国民が全体として貧しいなら、それは豊かな国ではない」という言葉も入れよう。
たとえばアメリカは世界一の貧乏国とは言えないまでも、国民の多くが貧困ラインにいるという点では、相当な貧乏国なのである。かつてのアメリカの繁栄を知る者は、なぜアメリカが今のような状態になったのか、信じられない思いがするだろう。
だが、1960年代の繁栄の前に、1930年代の大不況と貧困の時代がアメリカにもあったのである。その大不況の反省から、アメリカは投資銀行と貯蓄銀行の分離を行い、金持ちのマネーゲームが庶民生活に影響を及ぼさないようにした。その結果、金持ちは他の金持ちから奪う以外に資産を増やす手段がなくなり、金融が庶民生活を破壊することはなくなったのである。そして、高い累進課税と高い労働分配率によって、庶民の資産はどんどん上昇した。これが1960年代までのアメリカの繁栄の原因である。だが、レーガン以降の(民主党大統領も含め)ほぼ全大統領による金持ち優遇政策により、労働分配率はどんどん低下し、庶民の税金は上昇し、その一方で金持ちの資産は数倍に膨れ上がった。これが現在のアメリカの貧困の姿である。
要するに、国富の総量は決まっているのである。したがって、政治と経済の課題は、その分配をいかにすれば、国民が全体として幸福になるかということなのである。これはべつに共産主義の勧めではない。ほとんどの企業人は強欲という病に犯されている。それが政府や法律まで味方につけたなら、国民の大半が貧困のどん底に陥るのは当然だということなのである。
幸いなことに、世の中には金持ちより貧乏人が圧倒的に多い。これは何を意味するかと言えば、彼らが選挙での投票の権利を正しく使えば、今の状態を変えることは簡単にできるということなのである。口先だけではなく、実効性のある庶民のための政策を主張する政治家に投票することで、今の状態は変えられるのだ。
そういう、投票の威力を前回の衆議院選挙で国民はやっと分かったはずだ。後は、現在の世の中の不合理や不平等、不公平がどこに起因しているかについての理解を国民一人一人がすることである。
この一文も、そのための一助になれば幸いだ。
2010年4月12日
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8 自由主義とは何か
さて、政府の仕事とは何だろうか。それは、放っておけば放埓な「自由」のはびこる社会に、「正義による秩序」を与えることである。言葉を変えれば、弱肉強食の世界に法的な規制を加えて人間らしい生活秩序を与えることである。放任状態での「自由」とは、「力ある者にとっての自由」でしかない。そこに「道義に基づく規律ある自由」を打ち立てるのが政府の役目だと言ってよい。
昔の西部劇でよくあったシチュエーションだが、まだ法の支配が及ばない西部の町では、地方ボスがその町を支配するという状況が生じる。そこで、町の大多数の合意で保安官を雇うことにして、その保安官によって町に秩序が確立するのである。これが「法の支配」の原型である。こうした状況で、「それは自由への干渉だ」と言う批判が成り立つだろうか。
最近は露骨な欲望肯定の発言が幅を利かせており、「正義」という言葉は偽善扱いであまり評判が良くないが、社会的な意味での「正義」とは、「公正」のことである。政府の役目は、社会を公正なものにすることだと言っていい。では、「公正」とは何か。
よく、「機会の平等」と「結果の平等」という区別が論じられる。社会主義や共産主義は「結果の平等」であり、「悪平等」だ、というのが右側の論者によくある発言だが、そのような発言は、資本主義社会あるいは自由主義社会において本当に「機会の平等」があるかどうかという部分を見てから言うべきだろう。もちろん、機会の平等など存在しないのである。機会の平等を言うなら、あらゆる青年は義務教育を終了した時点で同額の金を与えられ、そこから人生にスタートするべきだろう。その原資となるのは、もちろん、全国民に対する100%の相続税である。死ぬ時点で親が子供に金を残すまでもなく、子供には政府から均等な金が与えられるのだから、遺産はすべて国庫に納入すればよいのである。
もちろん、そんな政策など永遠に実施されることはないだろう。人間というものは、自分の「稼いだ」金を子孫に残したがるものなのである。つまり、金持ちは永遠に金持ちで、貧乏人は永遠に貧乏人であるというのが、金持ちの理想とする社会なのである。これがつまり「保守主義」という思想を経済的に見た時の実体だ。もちろん、保守主義とは文化的伝統を守ることだ、という考えもあるだろうが、現状を維持するとは、実際には身分と財産の固定化のことなのである。
そして、本題の「自由主義」だが、自由とは誰にとっての自由なのかが問題だ。貧乏人や下層階級の人間に、どのような自由があるというのか。はたして「やりたいことができる」のは誰なのか。言うまでもなく、権力を持つ者である。かくして、カール・マルクスの名言「自由とは、何よりも権力である」という言葉が妥当するわけだ。それも知らずに、下層階級の連中が、「自由主義」を擁護するという喜劇が行われているのである。その自由は、「君たちの自由」ではないよ、と誰かが言ってあげるべきだろう。
つまり、自由は確かに理想ではあるが、「(経済的)自由主義」とは実は、強者(富者)のための自由を法的・政治的に保障させるための口実なのである。言い換えれば、「俺たちがどんな悪事をやっても、政府はそれに対して口を出すな」というのが経済的自由主義の意味だ。皆さんは、そういう意味の自由をお望みだろうか?
「では、お前は、自由の束縛を望むのか?」とお尋ねになる向きもあるだろう。その通り、私は束縛を望む。ただし、それは私への束縛ではなく、「経済的犯罪者」への束縛なのである。つまりは、自由の束縛の中にしか、社会正義は存在しないと私は考えているわけだ。法律にせよ道徳にせよ、束縛以外の何だろうか。束縛を拒否する人間とは、つまりあらゆる法律と道徳を自分に適用することの拒否を主張しているのである。もちろん、だいたいの「自由主義者」は、そこまでも考えず、ただ幼児的な欲望のままに自由をくれ、自由をくれと叫んでいるだけなのだが。
もちろん、ここでは経済論としての自由を論じているのであり、たとえば冤罪で投獄された人間や独裁国家で自由の束縛に苦しむ人々の場合は、話がまったく別である。
要するに、「経済的自由主義」とは資本家や大実業家が、自らの犯罪的収奪の隠れ蓑としている思想だという、私にとっては常識にすぎないことを改めて主張しているだけである。 -
7 欲望というエンジン
「起きて半畳、寝て一畳」という言葉がある。人間が生きるにはそれだけのスペースがあればよい、ということだ。それは勿論、他の生活物資でも同じことで、人間がいくら頑張っても、一度に飯を10杯も食うのは難しいし、できてもそれは快楽ではなく拷問にしかならないだろう。いくらきれいな衣服が好きでも、一度に服を10枚も着る馬鹿はいない。高級なホテルが好きな人間でも、ベッドで寝ている間は自分がどこにいるのかという意識さえもない。つまり、一日三食喰えて、夜寝るための住居があれば、人間、本当はそれ以上の金はほとんどいらないということだ。だが、それでは資本主義は成り立たない。Aの商品よりはBの方が高級で、Cはそれよりも高級だ、という序列を消費者にマスコミと宣伝を通して「教育」し、彼らに常に消費の欲望を掻き立てる。物を得るには金がいる。金が欲しいから他人と競争して、その競争に打ち勝って出世する。そして高給を得て高級な商品を購入する。これが資本主義社会の庶民の姿である。もちろん、出世競争に敗れた人間は「下流社会」行きだし、能力があっても不運な人間も同じことだ。
「象箸」という言葉がある。ある王様が象牙の箸を作らせたのを見て、その臣下が暇を願って他国に行ったという話だ。なぜ、と聞いた知人に、その男は「象牙の箸を使いだしたら、他の器もそれにふさわしい器にしないと気が済まなくなるものだ。当然、それに入れる食物も、それにふさわしい美味珍味になるだろう。それは食事だけにはとどまるはずがない。やがて生活のすべてが贅沢品で満たされ、その費用をまかなうために国民から苛酷な税を徴収することになり、国民から恨まれて、他国のつけいる隙をつくり、この国は滅びるはずである」と答えたという。まるで、「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな話だが、象牙の箸一つから国が滅びるというのは面白い。だが、ここでの意図は、実はこの象箸の話の中に、資本主義社会の欲望の原理があるからだ。それは、欲望は無限連鎖であり、かつエスカレートしていくという原理である。
我々は、かつてはクーラーの無い社会に生きていた。夏は暑いのが当たり前で、時々涼しい風でも吹けば、それでよかった。だが今、我々はクーラーの安楽さに慣れて、それ無しでは生活もできないような気分である。身の回りのあらゆる品々はそうである。我々の年代では、電化製品など無いのが当たり前で、昔はテレビも冷蔵庫も無かったのである。せいぜいがラジオくらいか。しかし、ラジオしか無かった時代の我々には、未知の世界への畏怖と憧れと夢があった。要するに、贅沢品など、無ければ無いで、実はやっていけるのである。ところが恐ろしいことに、贅沢には薬物中毒と同じ禁断症状がある。いや、薬物依存症よりもたちが悪い。なぜなら、麻薬なら、次から次へと新製品やら一段上の高級品が出てくるわけではないが、贅沢品は常に「ワンランク上」の商品を餌に我々を生存競争の渦の中に投げ込むからである。それこそ、「死して後已む」というか、「馬鹿は死ななきゃ治らない」というか、死ぬまでこのレースは続くのである。そうした下等動物の生存競争のエネルギーを利用して金持ちは一層金を稼ぎ、またこの奴隷たちが購入する商品によって一層懐を豊かにする。
いや、私は金持ちの存在自体を否定しようというわけではない。自分が彼らの立場なら、同じようにする可能性も十分にある。だが、悲しいことに、彼らは自分が稼いだ金の使い方を知らない。彼らが、世界中の文化や芸術や科学の発展のために、あるいは人間全体の幸福度を増すために金を使ったことなどない。慈善事業への寄付行為も、節税対策か、別種の金儲けの布石でしかないのである。つまりは、彼らもまた一種の依存症なのだ。金の魔物に取り付かれた精神異常者でしかないのである。私が金持ちを批判するのは、その一点においてである。そう、彼ら自身も不幸な人間なのである。本当は、彼らは不幸なのだが、自分たちを幸福だと信じている。それは、より幸福な状態を知らず、物質的な幸福こそが幸福だと信じているからである。他人の不幸の上に成り立つ幸福など、本当は幸福などではないのだが。
「起きて半畳、寝て一畳」という言葉を彼らは馬鹿にするだろう。王侯貴族の生活も知らない貧乏人が何をほざく、と。
しかし、たとえば日本なら、毎年3万人から4万人の自殺者が出るが、その死体の上に自分の豪華な生活があると知りながら、平然としていられる、そうした神経は、600万人のユダヤ人を虐殺したとされているヒトラーよりも病的だと私は思う。あるいは、平和なイラクに戦争を仕掛け、その国を破壊しつくして、国民のそれまでの生活のすべてを奪って平然としているその神経も、同じである。つまり、日本であれ米国であれ、「自分の金儲けのためなら世界中の人間が死んでも平気だ」という連中が世界を動かしているという、この事態が私には不愉快でならないのである。だから、せめてはできるだけ多くの人々が、そうした世界の裏の姿を知って欲しいと思う。 -
6 金は貧しい者の懐から金持ちの懐に流れる
言うまでもなく、日本の庶民は貧しい。高度経済成長期には、企業が稼いだ金のうち労働者への給与となる支出、つまり労働分配率はかなり高いものだった。しかし、1980年代のバブルの頃から、それは著しく下がり始めたのである。「悪平等」がマスコミで批判され、能力主義がもてはやされた結果、同じ会社内での幹部社員と平社員の給与格差はどんどん広がっていった。幹部社員になれる数は一握りであり、国内消費のほとんどは貧しい庶民が生活の必需品を買うという「生存のための消費」であるから、給与格差の広がりと共に、消費は低迷し始めたのである。(モデル的に考えよう。100名の社員の中でもっとも優秀な人間には2倍の給料を与え、それ以外の社員は1割減俸とする。最初全員が20万円の給与ならば、一人は40万円に昇給し、その他は18万円に下がる。では、収支決算はどうなるか。会社は最初2000万円の人件費だったが、この処置で人件費はどうなったかというと、1822万円となり、178万円節約できたわけである。これが「能力主義・成果主義」の実体であろう。もちろん、全員に1割減俸を言い渡してもいいが、それだと社員が会社に反抗する。ところが、一部だけでも昇給した人間がいれば、「能力と実績の差で給与に差がついたのであり、それに文句を言うのは焼餅であり、見苦しい」ということになる。これが「能力主義」や「成果主義」の一つの側面である。そして、言うまでもなく、減俸された99人の消費活動の減退は、たった一人の昇給者の贅沢ではカバーできないのである。)そして、バブルが崩壊した後は、金持ちによる贅沢品の需要までも無くなり、日本は長期に渡るデフレ時代となった。
繰り返すが、庶民の懐に金が無いという、この一事が、現在の日本の長期不況の根本原因なのである。特に、小泉政権において、(「痛みを伴う改革」! それは、庶民にだけ痛みを強要する改革でしかなかった。)様々な福祉予算の削減と公共料金の値上げが行われ、金持ちはより金持ちになり、貧しい者はより貧しくなる政策が取られた結果、日本がアメリカ的な「格差社会」になりつつあるのは誰でも知っていることである。
金持ちは消費をしない。これは不思議な話だが、彼らは金を使わないのである。いや、使わないで済むように政治を動かし、いつでも損をせず得をするようなシステムを作った結果、金持ちは金を使わなくても済む社会ができるのである。(あらゆる法律の背後には、それで利益を得る一部の人間の姿があると見てよい。)彼らにとって金とは紙の上の数字でしかない。消費をするのは、それが生存と直結している中流から下流の人間たちだけだ。そして、資本主義の原理が、「相手に損をさせて自分が得をするゲーム」である以上、庶民は消費行為によって一層貧しくなり、資本家は一層豊かになっていくわけだ。これは、膨大な金を持った人間と、わずかな金しか持たない人間がポーカーでもする場合を考えればよい。どんなにいい手が来ても、相手がレートを吊り上げれば、資本の無い人間は勝負から下りるしかないのである。これは企業対企業でも同じであり、資本の無いライバル企業が相手なら、こちらは幾らでも安売りすればよい。そして、相手が潰れたら、今度は(ライバルはいないのだから)いくらでも商品の値段を吊り上げることができるわけだ。
要するに、法律による歯止めの無い資本主義とは、弱肉強食のジャングルなのだが、そこにいる猛獣たちは、きれいな身なりをして上品な風をする紳士淑女たちなのである。
もちろん、それで資本主義を否定するわけにはいかない。だが、金持ちという、圧倒的な力を持った存在と、無力な庶民を同じ土俵で戦わせるのは、「公平」な方法かもしれないが、「正義」にかなっているとは言えないだろう。それが、20世紀前半に労働者保護の法律が各国で次々に作られた理由であり、労働組合などができた理由なのである。ところが、日本では貧乏人までが「俺は、労働組合は嫌いだ」と公言する始末だ。あまつさえ、選挙では自分たちから徹底的に収奪し、自分たちをいじめ抜いている与党政権(注:この文章の土台部分が書かれたのは自公政権の頃である。)に投票する始末である。奴隷制度が盛んだったころ、黒人は奴隷であることが幸せなのだという発言をする連中が黒人の中にいたという。これはつまり、「内面化された制度」という奴である。奴隷自身にそう思わせることができれば、それは支配が最高水準に達したということである。
