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敵に乗ぜられる12の欠陥
① 確信に基づかぬ行動。後悔の種である。
② 無辜の民衆を殺戮すること。災いのもとである。
③ 上官のえこひいき。部下の不平の原因である。
④ 指揮官が自分の失敗を認めぬこと。不祥事のもとである。
⑤ 人民を収奪し尽くすこと。不測の事態のもとである。
⑥ 敵側の離間工作に乗せられること。指導者の不明である。
⑦ 命令を安易に下すこと。部下は無責任な行動を取る。
⑧ 賢人を退けて、用いないこと。指導者は固陋に陥る。
⑨ 利欲に目がくらむこと。災厄のもとである。
⑩ 小人を重用すること。害毒のもとである。
⑪ 防衛態勢を怠ること。国家滅亡のもとである。
⑫ 指揮官の命令が無いこと。軍は混乱に陥る。PR -
敵を凌ぐ12の要件
① 指揮官の威厳は命令や態度を軽軽しく変更せぬことで保たれる。
② 恩恵は時宜を失わず施すことで所期の効果をあげ得る。
③ 機略とは、事態の変化にすかさず対応することである。
④ 戦争とは士気の争奪戦である。
⑤ 攻撃とは敵の意表を衝くことである。
⑥ 守備とは味方の内情を敵に秘匿することである。
⑦ 失策を犯さぬ根底は、数量に関する綿密な把握である。
⑧ 苦境に陥らぬ要件は、兵員・武器・軍需物資におけるゆとりである。
⑨ 慎重さとは、どんな些細なことにも注意を怠らぬことである。
⑩ 知謀とは、根本的な問題について思慮を働かすことである。
⑪ 弱点を取り除くためには果断でなければならぬ。
⑫ 民心を得るには謙虚でなければならぬ。 -
Ⅱ 「尉繚子」より
① 戦争は長引かせてはならない。近郊では一日、千里の遠方なら一月、はるかな辺境でも一年を越してはならない。
② 将帥の不適格者とは、精神が平衡を欠き、判断力に乏しく、人の意見を徴する雅量を持たぬ人間である。
② 自軍が一体となって行動すれば、敵は集結すれば散開できず、散開すれば集結できず、左翼は左翼に、右翼は右翼に膠着させられ、なす術も知らぬ状態になる。
③ 法の整備こそが軍備の第一要件である。統制の無い軍隊では、剛勇の士のみが敵陣に突進し、したがって、剛勇の士のみが真っ先に死ぬ。こういうことでは味方の損害は敵に百倍し、戦えば戦うほど敵を利することになる。これが凡将の率いる軍隊である。また、遠征の途上や戦場で逃亡する兵士に対し、凡将は無策である。これでは士気が低下しないはずがない。さらに、戦場において、自らの安全のみをはかり、他人の背後に隠れようとする兵士に対し、凡将は無策である。
④ 統制の原則。賞罰の規定が明確であること。その適用が厳正であること。士卒百人に一人の卒長を置き、士卒千人に一人の司馬を置き、士卒万人に一人の将軍を置く。この組織に立って、法制を確立すれば、強力な軍隊となる。一人を制御できるなら、十人を制御できる。十人を制御できるなら、百人、千人、万人でも同じことである。こうして統制された軍隊に、戦闘訓練を施し、整備された兵器を与えることである。(徽宗注:「呉子」の中に、一人の兵士を教育し、その一人が十人を教育し、その十人が百人を教育することで、全体の訓練ができる、とある。)
⑤ 刃物をふりかざした暴漢には誰も近づかない。これはその男に勇気があり、他の人間すべてが臆病だからではない。死を覚悟した人間と生に執着する人間との相違である。(したがって、兵士を育てるとは、大軍を必死の一暴漢に変貌させることである。)
(徽宗注:いかにして「必死の一暴漢」に変貌させるか。日本軍の「戦陣訓」のような軍隊的モラルを叩き込むことがその一つ。米国海兵隊のように、日常の訓練の中で兵士の人間性を奪い、徹底的な殺人マシーンに作り変えることもその一つ。つまり、敵は人間ではない、という思想を叩き込むこと。)
④ 人民が平時には生産に、戦時には戦闘におのおのが全力をあげて取り組むようにすることが国を保つ道である。そのためには、賞罰規定を明瞭にし、生産にいそしまぬ者は生活できず、戦争に協力しない者は栄誉を受けられないようにする。さらに、上下の関係を信によって結び、空言を許さないようにする。
⑤ 国を保つには人材が必要である。
⑥ 戦争の五要件。1、作戦計画 2、司令官の選定 3、進攻態勢 4、防衛態勢 5、軍紀の確立。 この五項目について、あらかじめ彼我の優劣を綿密に計量してから戦争は行うべきである。これが戦う前に勝つということだ。
⑦ 命令は変更するな。命令が度々変更されると、部下は、また変更されるだろうと思い、命令に従わなくなる。いったん命令を下したら、大筋で間違いが無い限りは変更せず、多少の疑念は押し切って実行しなければならない。指揮官が確信を持って命令を下せば、部下は疑念を抱かない。信じられない指揮官のために全力を尽くそうとする部下はいない。全力を尽くさずに、死を賭して戦うことはできない。
⑧ 上に立つ者が率先垂範すれば、士卒は手足のように働く。指揮官に敬服し、発奮するのでなければ、士卒は生命を投げ出す気にはならない。生命を投げ出す気がなければ戦えない。
⑨ 相互扶助の観念を民間に養成することで、戦場での協力、発奮も生まれる。勇猛無比の軍隊の基盤は、個々の勇気にではなく、一丸となって戦うところにある。
⑩ 戦争準備段階、あるいは治国の五大要件。1、食料の備蓄 2、論功行賞の徹底 3、人材抜擢 4、兵器の整備 5、賞罰の厳正な適用
⑪ 上に厚く、下に薄いことは国家滅亡の兆しである。官僚のみが富み、君主が富を独占する国家は滅亡するのみである。
⑫ 力を分散すれば弱くなる。
⑬ 信頼感の欠如した軍隊では、下部が勝手に動いても上部はこれを制止できす、流言が至るところに広がり、兵士は任務を守らず、行動を起こせば敗北必至となる。
⑭ 指揮官たる資格は、部下に敬慕されるとともに、畏怖されることである。
⑮ 成算も立たぬうちに軽軽しく物事を口に出す指揮官は部下から軽んじられるようになる。
⑯ 正義のための戦争なら、率先して兵を起こし、敵の機先を制して正義の戦であることを天下に明らかにせよ。利害のための戦いなら、万やむをえず応戦するという形にせよ。すなわち、後手を取ることで大義名分を得るのである。
⑰ 軍隊の構成は、5人に伍長、住人に什長、百人に卒長、千人に率、万人に将軍を置く。これらの幹部が倒れたら、ただちに他の者が代わって指揮をとる訓練をしておく。
⑱ 挙兵の前に、あらかじめ敵情を十分に把握し、検討を加えておかねばならない。
⑲ 敵国内に進攻する際には、迅速に行動し、交通路を遮断して敵を城市に孤立させる。こうして敵を分断した上で、一つまた一つと要害の地を抜き、砦を落とす。一城を占領すればそれを拠点としてまたさらに幾多の交通路を遮断する。攻撃がこのように進行すれば、敵将は互いに不信の念を抱き、敵兵は互いに反目し、軍律も効力を失うに至る。敵兵は渡河点も確保できず、砦を修復する余裕もなく、陣地を構築する暇もない。城があっても無きに等しい。分遣隊は本隊と合流できず、遠征軍は本国に帰れない。兵力はあっても無きに等しい。家畜を集める余裕も、穀物を収納する余裕も、軍需物資を蓄積する余裕もない。これらは、すべて、敵の虚を衝いて迅速に行動することによる帰結である。
⑳ 城の防御において、外城を設けず、周辺に障害物も構築せずに本城だけに頼るのは得策ではない。また、城内に立てこもって防御のみを行うのも得策ではない。城はそれ自体、地の利を得ているのだから、それを利用すれば、一人の兵士が十人の敵兵に相当する。したがって、城攻めには相手の十倍の兵力が必要だとされるのである。
(徽宗注:だが、外部からの援軍がなければ、戦闘が無くても必ず食料は減少し、兵力も損耗して、やがて必ず落城することになる。)
(城の防衛の最後の段階で、)決死の一戦をする時には、弱兵を前衛に立てる。(徽宗注:弱兵で相手を消耗させ、精鋭で勝利を得る。つまり、戦力を完全に使うのである。) -
戦略と戦術の覚え書き
Ⅰ マキァヴェッリ「戦争の技術」より
① 騎兵が歩兵より強いというのは間違いであること
馬は臆病な動物であり、戦場で思い通りに動かすのは容易ではない。前方に危険が待ち構えていると知れば、馬は前進しない。また、通常の場合、馬は拍車で容易に前進はするが、制動をかけ、停止させるのは容易ではない。また、馬は平坦で広い土地を走るのに適しており、山岳の斜面や湿地、林間などでは行動が著しく制限される。したがって、馬の利点は一にその機動性、速度にあり、騎兵自体の攻撃力が高いわけではない。騎兵が有効なのは、追撃の場面、あるいは兵力の速い展開が必要な場面である。
(徽宗注:ただし、以上は、アジア遊牧民の騎兵作戦を度外視しており、騎馬からの弓の射撃、ヒットアンドアウェイ戦術が歩兵に対して有効なことを考慮していない。)
② 大砲は歩兵に対してはそれほど有効ではないこと
大砲が有効なのは、城や砦などの建造物攻略においてであり、歩兵に対してはそれほど怖い武器ではない。というのは、(徽宗注:弾丸自体が破裂する近代の大砲とは異なり)大砲の与える被害は弓や小銃とそれほど差があるわけではなく、散開した歩兵に対して効率的なものではないからである。また、大砲の弾丸は直線的に飛ぶものであるから、平野において彼方の敵歩兵を狙う場合、僅かな角度の誤りによって、弾丸はその頭上を飛び越え、あるいはその前方の地面に当ることになる。(徽宗注:城を狙うのが、立てた紙を的にすることに喩えられるのに対し、平野で歩兵を狙うのは横にした紙を的にすることに喩えられる。この大砲の弱点は現代の戦闘でも同様だが、弾丸自体の破裂と、その猛然たる爆音、硝煙による恐怖が、大砲の威力を実際以上に見せているのだろう。)
③ 槍が有効な局面は限度があること
古代ギリシアやローマの密集陣形では、槍兵が中心だったと考えられているが、槍を使うにはある程度の空間が必要であり、味方自体が密集していると、槍を扱うことが困難になる。つまり、軍隊が前進していく、その最初の接触の局面では槍先を揃えた兵士の前進は脅威であるが、戦争が乱戦状態になると、槍は逆に不利な武器になるのである。乱戦では、盾と剣が有効であり、その剣も、切るよりも突く攻撃が重装備した敵には有効である。
(徽宗注:槍の有利さは、相手の届かない距離から攻撃できる点にあり、これに馬のスピードを加味して考えたら、馬上からの弓の攻撃と馬上からの槍の攻撃は歩兵よりも優位であると言えるだろう。) -
母親を毒殺しようとした少女のブログより抜粋(文中の「僕」は少女自身。表記は、転記ミスがなければ原文のまま)
7月26日
暗闇の大木に揺ら揺らと紅い光を馳せて蝉が光る茶色く干乾びた其の体に命の残り火を燻らせニイと啼く木々の沈黙の中其の声は雨の様に僕の下へと降り注ぐ
8月25日
変な夢を見ました。僕が彼女を食べる夢です。僕は彼女を手、足、胴体、頭の順に食べました。細い腕は魚みたいに痙攣していて、引きちぎれても未だ動きました。
8月31日
暗い部屋で、蝋燭の炎を見る。ゆらゆら、ゆらゆら、おもしろいよ…
9月4日
生き物を殺すという事、何かにナイフを突き立てる瞬間、柔らかな肉を引き裂く感触生暖かい血の温度。漏れる吐息。すべてが僕を慰めてくれる。
9月27日
隠れる事は喜びでありながら、見つけられない事は苦痛である。見つけられることは危険である。しかし其の逆に、自分が存在していることを確認するためには、誰かに見つけられるしかない。
10月某日
星が空から落ちる。兔たちはオーブンの中で草むらの記憶さえも硬化させる。
10月某日
人は輪になって踊る。丘の上で死体を数え、微笑みながら飲み交わす。撃ち殺された男の匂い、引き裂かれた女の匂い。
10月16日(最後の書き込み)
蒼ざめた馬の通る道に、規則は存在しない。暗闇を進む足跡は草木を枯らし、死を招く。其処に生命は宿らない。在るのは寂しい同じ形。 -
次にアップするのは、数年前に、母親を毒殺しようとして逮捕された少女が自分のブログに書いてあった文章である。まるで萩原朔太郎の詩のような美感がある文章なので、保存してあったのをここで紹介する。
もちろん、この程度の文章を書いている青少年は無数にいるのかもしれないが、私から見たら、小中学校の教科書に載っている愚劣な詩の数倍も詩的美感があると感じる。その少女が社会に復帰した時には、ぜひ文学関係で名をあげて貰いたいものである。
せっかくいい頭脳を持っているのだから、母親を実験台にして毒物実験をやるような愚かしいことをせずに、いい子のふりをして大人になるのを待てばよかったのである。まあ、それが待てないのが青春というものかもしれないが。
タイトルとしてつけた「落ちる星とオーブンの兎」は、私・徽宗皇帝が便宜的につけたものであるので、いつでも修正する準備はある。 -
前の計算式を打者指数、投手指数として、それぞれの選手の数値を出せば、選手の能力が客観的に把握できるという実用性もあると思うが、ただし、守備力を数値的に測る手段は存在しない。たとえば、失策率などは、難しい打球には手を出さないというずるい方法を取れば簡単に向上するのだから、守備力の目安にはならないし、守備機会数も、守るポジションと投手の個性(投球傾向)によって大きく変動するから、目安にはならない。まあ、取りあえずは、守備機会の多さと、失策率を併用するくらいしか考えられない。だから、普通、守備の名選手とは、印象で語るしかないのである。ついでに、守備ポジションによる守備機会について言おう。もっとも守備機会の多いのは、もちろん、もっともボールを受けるキャッチャーであり、次には一塁手である。(公式定義による守備機会がどうかは知らないが、私は、選手がボールに触れる機会を守備機会と言っている。キャッチャーの場合は、投手が投球するごとに、守備機会となるのである。もちろん、受け損ねればエラーだ。)以下、内野手と投手がほぼ同じで、外野は1試合に多くてもせいぜい4,5回くらいの守備機会だろう。したがって、守備機会が多いからといって、その選手の守備範囲が広いかどうかはわからない。守備の上手下手は、どうしても印象で判断するしか無いようだ。これは今後の野球批評・選手評価の研究課題だろう。
以上書いてきたのは暇人の暇つぶしの考察ではあるが、選手の評価は(潜在的なものも含めて)チームの勝利への貢献度によるべきだという原則は正しいと私は思っている。そして、これまでの選手評価は、その点では著しく不備だったのではないだろうか。たとえば、長打力はあるが、走れない選手は、時にはチームの攻撃の障害になることもある。その選手がベーブ・ルース並の長打力を持っているのならともかく、出塁率または獲得塁率が著しく低い選手の長打力など、それほど高く評価はできないだろう。逆に、塁を進めるという点では、犠打成績はもっと高く評価すべきであって、私の考えでは、進塁打や犠打は0.5塁打と評価すればいいと思う。(なぜ0.5かと言えば、塁は進めたが自分はアウトになるからである。野球とは、相手のアウト数を増やし、こちらのアウト数を増やさないようにするゲームでもあるのだ。それが勝利への方程式なのである。)そうすれば、たとえば生涯打率が2割7,8分程度の選手でも、実は3割打者以上にチームに貢献していたということが判明するかもしれない。進塁打や犠打の多かった巨人の千葉茂あたりが川上以上のチーム貢献度だったという評価も出てくるのではないだろうか。もっとも、スター選手のスター性やカリスマ性はまた別の話である。それにしても、どの選手に人気があり、どの選手に人気がない、という評価は、球団の一部の人間の恣意的判断で決まっているのではないだろうか。それで給料が決められるとしたら、選手が可哀想だと私は思うのである。
さて、話が球団経営まで進んでしまったが、選手評価についての私案はここで終わろう。私のこの一文が、選手評価についての、これまでの硬直的な思考に一石を投じることができれば幸いである。 -
さて、それでは、史上最高の投手は誰か。(ここでも、記録の残っていない黒人リーグの神話的選手サッチェル・ペイジや、記録が不完全なサイ・ヤングなどは除かれる。)
第1位は、多分、大方の予想通り、ウォルター・ジョンソンである。数字は被走者率1・07に防御率2.17で、総合3.24。(この数字は、打者とは違い、もちろん、小さいほどいい。)ちなみに被走者率の内訳は、イニング当たりの与四死球が0.24で、被安打が0.83である。1試合平均に直すと、1試合で2.1個の四死球、7.5個の被安打である。案外、大したことは無いなあ、と思うのは野球観戦の素人である。1試合で、2個の四死球と、7ないし8本の安打で、どれだけ得点ができるか。それを示すのが、生涯防御率の2.17である。この生涯防御率がいかに偉大な数字かは、他の名選手の数字を見ればわかるはずだ。どんなに好投をしていても、安打一つもしくは四死球一つの後、手元が狂って好球を投げ、ホームランを打たれたら、それで2失点だ。あるいは、同じ回に2、3本の安打が続き、そのうち1本が長打なら、1失点は確実だ。そのような綱渡りを毎試合続け、それで生涯防御率が2点そこそこというのは、神業に近い。しかも、相手にはベーブ・ルースやタイ・カップのような怪物的打者や走者がいるのである。
第2位は、おそらく意外に思われるだろうが、クリスティ・マシューソンで、被走者率1.08に防御率2.47の総合3.55で、ウォルター・ジョンソンとはだいぶ開きがあるが、これは時代が下がるほど打力は向上しているので、割り引いて(割り増しして?)考えるべきだろう。また、彼の与四死球率はイニング当たり0.17(1試合当たり1.53個)で、これはウォルター・ジョンソンより優れている。あるいは、史上最高にコントロールの良かった投手かも知れない。(なお、ベテラン投手は、戦略的に四球を出すこともあるので、1試合の平均死四球が2個程度の投手は、その気になれば無四死球試合は簡単にできる投手だと思われる。)
以下、簡単に書くと、第3位はホイト・ウィルヘルムという、日本ではなじみの少ないナックル・ボーラーで、この投手は被安打率が第2位である。つまり、打者が打ちにくい球を投げるという点では、史上最高に近い投手ということになる。第4位がグローバー・アレキサンダーで、総得点3.68.これも非常にコントロールのいい投手である。第5位はサンデー・コーファックスの3.87。彼の被安打率は0.75で、これが史上最高の被安打率、つまりもっとも打たれなかった投手である。第6位がホワイティ・フォードの3.95.第7位にやっと現代のトム・シーバーが入って、3.96。ここまでが3点台である。
以上から分かるように、良い投手とは、ランナーを出さない投手。そしてランナーを出してもそれを得点にさせない投手のことなのである。勝ち星がどうのこうのとか、奪三振率がどうのこうのとかは投手個人の評価の面では二義的三義的なものにしかすぎない。
ちなみに、1998年の日本プロ野球の投手成績上位を見ると、セリーグの防御率1位投手野口がこの計算式(投手指数と仮に呼ぼう)では3.60。第2位の川上が3.66。第3位の伊藤が3.86。パリーグ防御率1位の金村が3.95で、3点台はこの4人だけである。彼らの生涯最高に近いシーズン成績ですら、過去の神話的選手の「生涯成績」にさえも及ばないということである。もちろん、好調時のシーズン成績で言えば、前述の名選手の成績ははるかに向上するのである。たとえば、サンデー・コーファックスの全盛時には1試合の被安打は2,3本だったと言われている。つまり、毎試合、完封か、悪くても1、2点だったということである。
日本でも、過去には村山実がシーズン防御率0点台という驚異的な成績を残しているが、この時は監督兼任で、リリーフ中心だったか、あるいは先発しても長いイニングは投げなかったような気がする。もともと、投手というものは短いイニングなら、相当に力を発揮できるものである。前述の名投手たちは、先発完投が当たり前の時代の投手たちであるから、その記録の重みも大きい。 -
次に、投手評価の計算方法を示そう。その方法の基本的考えは、投手能力を勝ち負けや防御率などの偶然性の高い計算だけで測らず、また、奪三振数など、チームの勝利とは無関係な要素も考慮しないということである。
では、それはどのような方法か。それは、投手の個人責任を表す部分と、チームにとっての結果を表す部分の二階建て方式である。前者は、その投手が1イニング当たりで出した走者の数、つまり打たれた安打と出した四死球をイニング数で割った数字である。出したランナーが多いほど、チームを危険な状態に置いたということで、こういう投手は当然、チームの敗戦の責任がある。点に結びつくかどうかは偶然性の要素が大きい。少しでもランナーを出さないようにするのが、投手の第一の使命なのである。もちろん、バックの守備能力で打たれるヒット数は変わるが、ランナーを出すのは基本的には投手の責任だ。
後者は勝ち星ではなく、防御率を用いる。ランナーを出した後、それが相手側得点に結びついたかどうかには、投手の頭脳や精神力、ランナーを背負っての投球技術など、投手個人の責任の部分もあるので、投手能力測定の要素になる。それに対して、勝ち星はチーム力と偶然による部分が大きいから、計算には入れない。このイニング当たりの走者数と防御率を加えた数が、その投手の真の能力を表す数字である。
