"メモ日記トゥディ"カテゴリーの記事一覧
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今日の分の記事はすでに掲載したので、もう書かないつもりだったが、先ほど、非常に面白いホームページを見つけたので、紹介する。長嶺超輝という人の「法治国家つまみぐい」というもので、社会や法律について、毒の効いたユーモアで分析・解説している。特に、「正義の法律用語辞典」というコーナーは、アンブローズ・ビアスばりの皮肉な辞典で、非常に面白いので、ぜひ御覧になるのをお勧めする。
例として一部を引用する。作者には無断の引用だが、ブログやホームページの記事は、多くの人の目に触れてこそ意味があると思うので、許して貰いたい。なお、まだ一部にしか目を通していないので、この引用部分がベストというわけではないのは勿論だ。
(ここから引用)
かこ-もん【過去問】(名)[司試・書士・公務試等]
(1)入学試験や資格試験などにおいて、過去に出題された試験問題のこと。当該試験での出題傾向を知る上で有益な資料。法律系資格試験においては、「条文」「判例」と並んで、三種の神器と呼ばれるほど重要視されるもの。
(2)受験生らが、回した回数を競い合って遊ぶもの。ただし、多く回した方が勝ちだという単純なルールではないところがミソ。多く回せば、それだけ目が回ってしまうことも多い。
(3)こないだ解いたはずなのに、全く記憶に残っておらず、また新たな気持ちで最初から取り組むことができるもの。
(4)この現象を、既視感(デジャヴ)に対して「未視感(ジャメヴ)」と呼ぶ。
(5)しかし、単に集中力が無いだけの話だったりする。
(6)かといって、あまり相手のことを知りすぎると、マンネリ化して気持ちが冷めてしまうため、つき合い方が非常に難しいデリケートなもの。
か-し【瑕疵】(名)[民]
(1)なんらかの欠点や欠陥があること。
(2)相手方の詐欺・強迫(民法第96条)に基づく意思表示を指して「瑕疵ある意思表示」という表現が用いられる他、瑕疵ある占有(同第187条第2項)や、瑕疵担保責任(同第570条)など、条文内での使用例も多数。
(3)このような、読むことすらままならない身元不明の漢語を好んで使いたがる、格調高き法曹界の体質をあらわす言葉。 -
ネットの世界でいまだに他人に対してサヨクだとかウヨクだとかのレッテル付けをして、それですべてを片づけたつもりの人間がいるが、そうしたレッテル付けをする人間は、それだけで信頼できない考えの持ち主だと見なしていい。そもそも、左翼とは何か、右翼とは何かの定義さえ定かではないのだから。それは、戦時中の「非国民」とか「アカ」とかいうレッテル付けによる他者排斥と同レベルの低俗・卑劣な行為である。
アメリカでも事情は同じで、オバマ大統領の医療保険改革について、「あれは共産主義だ」とかいう批判を述べる人間がマスコミに登場して、見ている我々を驚かせたりする。
もちろん、そういう人間は、マスコミが選んでテレビ取材に登場させている人間、つまり保守層の利益になる発言をするための存在であるのは決まっているが、それに騙されるB層が日本以上にアメリカには多いことが推測できる。要するに、保守層の利益を害する存在、高所得層から低所得層への所得移転につながる政策はすべて「共産主義」だということにされるのである。まあ、たしかにそれは共産主義の理念ではあるから、そうした発言は正しいと言えば正しいのだが、問題は、その「共産主義」がなぜ悪いのかということを、彼らはまったく考えてはいないということである。彼らにとっての共産主義とは、この世における絶対悪であり、ア・プリオリに悪なのだから、今さらそれがなぜ悪なのかについては議論の必要もない、と言わんばかりである。ところで、一部の高所得者の幸福のために、絶対多数の低所得者が低賃金労働に苦しみ、あらゆる手段で金を社会上層部に吸い上げられている現状を変えることが、なぜ悪なのだろうか。
もちろん、政治システムとしての共産主義が実現不可能な夢想であることは言うまでもない。世界中の人間が聖人にでもならない限り、どんなに働いても所得は同じという状況で真面目に働く人間などいるわけはない。しかし、そのことと、現実の不平等や不正を是正する政策を「共産主義」呼ばわりして弾圧することは、話が別である。
「自由の国アメリカ」のお題目のもとに、特権階級があらゆる「自由」を謳歌し、他の国民は自由のための基盤を奪われている、そういう国がアメリカである。
ついでながら、この小文のタイトルを「レッテル張りをする豚たち」と付けたのは、豚に対する差別的発言であり、レッテル張りの実例になるかもしれないので、これを読んでいる豚がいたら、あらかじめお詫びしておく。 -
選抜高校野球で興南高校が優勝した。これで沖縄からは三度目の優勝である。決勝戦では、さすがに優勝を意識して、これまでのような伸び伸びしたところがなく、エラーなどで相手の日大三高に最初リードを許したが、島袋投手が悪いなりに踏ん張り、やがて打線が3点のビハインドを跳ね返して逆に2点をリードした。ところがまたエラーめいた2失点で同点に追いつかれる。普通なら、これは日大三高のペースである。だが、延長戦に入って、これまで好投していたエースを代えたのが裏目に出て5点を失い、そのまま興南が逃げ切った。日大三高の監督はキャリアのある監督だが、自分から動きすぎて、相手興南の無策に負けてしまったという形だ。興南の監督の采配は、勝負どころでスクイズをやったりすることはあるが、基本的に選手任せという感じである。それでいいのだと思う。試合をするのは選手であり、監督ではない。今回の選抜では、他校のベテラン監督たちが策に溺れて失敗する場面が多かったせいか、逆に興南のガキヤ監督の無策の策が功を奏した形である。
チームとしても、前の2回の大会出場では初戦負けをしていたために、一つ勝ったことで緊張がほぐれ、その後はいわば無欲の勝利ではなかったろうか。それが決勝まで進んで欲が出たために、決勝戦でのエラー続出という結果になったのだろう。
全国制覇は大いに称えていいが、興南ナインにとっても教訓の多い試合であったと思う。それはもちろん、全国の高校球児にとっての教訓でもある。
ともあれ、興南ナイン、それに興南高校おめでとう! -
選抜高校野球で沖縄の興南高校が決勝に進んだが、準決勝の日大大垣戦では島袋投手が6回まで無安打の好投を見せた。二回戦までは三振も奪うが点も取られるという試合が続いていたが、準々決勝から三振奪取数は減り、逆に点は取られていない。つまり、「打たせて取る」投球になってきたわけだ。そして、彼自身、昨日の大垣戦での「打たせて取る」ピッチングを、理想の投球が出来たと述べている。
打たせて取るピッチングというものについて、私は昔から疑問と興味を持っている。幼稚な疑問なのだが、それは、「打たせて取る」というのは本当に意識してできることなのかどうかということだ。確かに、事実として打たせて取るピッチングになっていることはよくある。だが、同じ投手が打たれっぱなしになることもあるのである。「打たせて取る」ことと「打たれる」ことの違いが、私にはわからないのである。
打者がクリーンに球を捉えたヒット性の当りでも、それが野手の正面を突けば、凡打である。それは単なる幸運であって、勝負で言えば、打者の勝ちだろう。では、それと「打たせて取る」こととの間に、本質的な違いはあるのだろうか。
ピッチングの面で言えば、「抑える」ピッチングと「打たせて取る」ピッチングはどのような投げ分けがあるのだろうか。もちろん、良く言われるように、打者の好きなコースにポイントを少しずらして投げれば、打者は打ち損じるとされている。しかし、打者がそのように都合よく打ち損じてくれるものだろうか。
現実的な現象として、確かに「打たせて取る」という投球内容になっていることは良く見かけることである。おそらく、投手技術としても「打たせて取る」技術は実際に存在しているのだろう。それを明確に説明した投手技術の本を読んでみたいものである。
ついでながら、三振を取る投手のバックよりも、「打たせて取る」投手のバックの方が、打撃が良いという傾向があると思われる。それは、守備でのリズムの良さが、打撃での良いリズムにつながるからだろう。自分が動いて捕球し、相手を抑えるという気分の良さが、打席でのリラックスにつながるわけである。
その逆のパターンが、かつての怪物投手江川の場合であった。彼はいつも三振で相手を抑えるため、野手の守備機会は少なく、打撃も向上しなかった。彼の二年生の夏は、予選のほとんどをノーヒットノーランで勝ちながら、決勝だか準決勝だかでわずか1点を取られて敗退したのである。
興南打線がこの数試合、打撃が活発なのは、島袋投手の「打たせて取る」投球と関係があるのは確かだろう。 -
朝日コムの「釜本邦重の日本FW論」の過去記事の中に、いい発言があった。それは、少子化のために廃校となった全国の小中学校をリサイクルしようという発言だ。具体的には、グラウンドはそのままスポーツグラウンドとして利用し、校舎の一階部分は幼稚園、二階部分は養老院にすればどうかという考えである。
このように、同じ施設の中に幼稚園、あるいは保育所と養老院を共存させるというのは、非常にいい考えである。幼児にとっては、幼い頃から自分たちとは違う存在に接することで社会の遠近感を養う土台が作れるし、老人にとっては、刺激の少ない生活の中で、幼児やスポーツイベントに接することは心理的に好影響を与えるだろう。
現在の日本には、廃校に限らず、無駄に眠っている施設はたくさんある。潰れたままのゴルフ場、潰れたままのホテル、ほとんど利用されることもない公務員のための慰安施設。こうしたものを点検し、再利用することで、新たな事業機会も生まれ、日本経済活性化にもつながるのではないか。「金がないからできない」という官僚の言葉は、もう聞き飽きている。 -
郵貯限度額引き上げにより増加の見込まれる郵貯マネーの使途についての議論が高まっているらしい。
亀井郵政大臣は、その金を公共事業やその他の社会的インフラ整備の事業に使うのが良いという考えのようだが、私もそれに賛成である。現在のような不況の時代に公共事業によって経済を活性化するのはもっとも妥当な金の使い道であり、これはいわば民間の金のうち不要不急な金を政府が借りて、社会全体の経済浮揚に役立てようという考えだ。というのは、税金の使途はほとんど固定しており、新しい政策のために使える部分はそれほど無いからである。かつて財政投融資が批判されていた高度成長の時代とは、時代状況が違うのである。
ロックフェラーの飼い犬の西川によって、あやうくロックフェラー(もちろん、オリックス社長も飼い犬の一人だ)に盗まれるところだった郵便貯金や郵政資産を何とか守りきって、国民のために使ってほしいものである。
郵貯の肥大化によって民間の金融機関が圧迫されるなどと、マスコミがまた例によって寝言を言っているが、「雨降りには傘を貸さず、天気の日に傘を押し付ける」民間金融機関の存在意義などどこにあるのか。だいいち、銀行に金を預けても金利など無い上に、陰では小額預金者を「ゴミ」扱いしている連中ではないか。むしろ、郵貯が成長することで、民間金融機関の仕事が良心的になる可能性のほうが高いと見るべきだろう。 -
*先日、市民図書館から借りてきた本のほとんどはエッセイ集ばかりで、中には、これまで一度も作品を読んだことのない作家の本も混じっている。エッセイを読んで、その作家の人格や考え方が気に入れば、小説作品も読んでみようかな、と思ったからだ。何しろ、世間にはあまりにも沢山の作家がいて、その中の誰が自分と合う作家なのか、探すのも容易ではないからだ。お気に入りを探すのに、エッセイで試してみるというのは、悪くない方法だろう。エッセイの苦手な作家には気に入らない方法だろうが。たとえば、高村薫など、抜群の力量を持った作家だが、非常に真面目な人間で、ユーモアのある人間では無い(と思う)から、彼女のエッセイを読んで、彼女のファンになるという人間は多くはないだろう。
*で、読んでみた結果、というより、流し読みをした結果。
篠田節子:元公務員らしく、書き方が公務員。本人自身がエッセイは嫌いと言っているのだから、エッセイは書かないほうがいい。
三浦しをん:文章に芸があり、自虐的ギャグを書けるところはいいが、書いている内容が内輪受け狙いすぎて、特定読者以外はついていけない。
姫野カヲル子:借りてきたエッセイ集の中では一番ユーモアセンスがあり、面白かった。ただし、下ネタというか、性的な話題が多いので、良い子の皆さんが読むものではない。
養老孟司:ざっと流し読みをしただけだが、あまり面白そうな話題もなさそうなので、未読。文章がやたらと断定的なところは、かつての威張り屋「文豪」石川淳の文章を思い出す。
村上龍:読んだのは「フィジカル・インテンシティ2」だが、作者と距離を置いて批判的に読めば面白い。彼の長所と欠点は表裏一体で、「自分を恰好いい」と思っている彼に同化して読めば、彼の発言がいちいち自己賞賛につながるのだから、読み手のナルシシズムも満足させられて楽しいかもしれない。しかし、「自分を恰好いいと思っているところが恰好悪い」と思うような読者から見れば、彼の発言の一つ一つが皮肉な批判の対象となり、それはそれで面白いわけだ。世界のあちこちを飛び回り、美味い料理に舌鼓を打ち、サッカーを「世界的観点」から見ている自分に陶酔している、そんな彼を恰好いいと思うような読者に向けて書かれたような本である。 -
*才能というものはまさしく天の与えたプレゼントであって、親からの遺産と実質は同じである。中には、運動能力などのように、まさしく親からの遺産(遺伝)である才能もある。ということは、親の遺産で食っている人間がそのことを誇れないように、才能を与えられた人間は自分の才能について威張る資格は、実は無いということである。それが威張れるのは、天から与えられた才能を開花させる努力を本人がやった場合だけであるが、しかしその場合でも、彼に与えられる賞賛はその努力に対してのものである。なぜなら、それだけが彼のした事であるのだから。
*薔薇が薔薇として生まれたことは、彼の幸運ではあるが、彼の功績ではけっしてない、ということである。更に言えば、薔薇を菫よりも価値があるとするのは、慣習的価値観にすぎない。
*インディアンスの名三塁手アル・ローゼンの言葉。
「人生というものには能力の不平等がある。十五、六人の選手がいれば、そのうちニ、三人はものすごく傑出している。
これは実社会に出てみても同じことだ。医者でも弁護士でも、必ず二、三人は傑出したものがいる。それを野球で少年たちはまず教えられたのだ。といって、普通の能力しかない選手をかわいそうと思ってはならない。能力がなければそれなりに努力する……。私の場合も、自分の能力の限界を知っていたし、その限界のなかで努力した。そうしたなかで集中力、そして根性というものを学びとった。それ以外に才能が無いものに対して集中する……、負けると思っても努力してゆく……こうした精神的な強靭さが、才能や能力以上のものを産み出してくれるのだ。」 (ギル・ホッジス著三原脩訳「ギル・ホッジスの戦法」より、一部改訳) -
あまり年齢のばれるようなことは書きたくないが、私が若かった頃は、時代の先導者とでも言うべき人が多かった。三島由紀夫、澁澤龍彦(澁も澤も旧漢字で面倒くさい!)、五木寛之、野坂昭如、筒井康隆といった面々は、マスコミの寵児であるとともに、若い人々への知的啓蒙者の役割を果たしていたのである。彼らの文章を通して、我々は様々な知的世界へと導かれていったわけだ。
今、そういう存在は誰かいるだろうか。
現在の人気作家は、ミステリー小説の書き手がほとんどである。そして彼らの作品は驚異的な取材と資料を咀嚼して書かれているものが多い。だが、その中には一人の三島由紀夫も澁澤龍彦もいない。つまり、無知な若者を知の世界に導く存在はいないのである。
その結果がどうなるか。それは今後の世界を見るしかないが、おそらくは、前にも書いた表層的な知と情報だけですべてが判断される世界になる可能性が高いのではないかと思う。真の知は、自分の能力を超える世界に出会って、それと格闘し、自分の中に取り込むことでしか得られないものだと思うが、現代の若者の出会う知にそういうものがあるとは思われないのである。言い換えれば、インターネットで得るのは情報のみであり、情報検索の作業は、本を読み、自分の頭でその内容について考えるのとはまったく別の作業であるということだ。もちろん、世間に溢れる本の90%がクズであるというのとは、話が別である。
