"拾い物など(興味を引いた他人の作品の断片)"カテゴリーの記事一覧
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前の続き。新しい日本国歌、と言うより政党歌向きか。
「ドン・ガバチョの唄」
やるぞレッツゴー 見ておれガバチョ
あーやりゃ こーなって あーなって こーなるでチョ
何がなんでもやり抜くですチョ
頭のちょっといいドンガバチョ ハイ
ドンドンガバチョ ドンガバチョ ハイ
今日が駄目なら明日にしましょ
明日が駄目ならあさってにしましょ
あさってが駄目ならしあさってにしましょ
どこまでいっても あすがある ハイ
チョチョイのチョイのドンガバチョ ハイ
ドンドンガバチョ ドンガバチョ ハイ
*昨日に続いて、井上ひさし追悼の記事で、これも「ひょっこりひょうたん島」の挿入歌、「ドン・ガバチョの唄」である。
ドン・ガバチョはひょうたん島の初代大統領という偉い人だが、他になりたい人もいなかったので、自ら名乗り出て大統領に就任したという奇特な人物である。口八丁手八丁の才人で、日本が大統領公選制をとったなら、ぜひ大統領になってほしい人物だ。ほらふきの詐欺師ではないかという噂もあるが、政治家にはそのような批判はつきものだから、無視してよいだろう。
「今日が駄目なら明日にしましょ。明日が駄目ならあさってにしましょ。あさってが駄目ならしあさってにしましょ。どこまでいってもあすがある」というフレーズの素晴らしいこと! まさしく、全国民を導くリーダーは、このようにまったく根拠のない夢と希望を信じていなければならない。私の敬愛する植木等の歌もそうだったが、かつての日本は何と、明日を信じていただろうか。それが、今では小学生でさえも日本の未来など信じていない世の中である。
「ドン・ガバチョ、カムバ~ック!」PR -
あんまり政治の話題だけだと楽しくないので、今日は「酔生夢人のブログ」から私のお気に入りの歌の歌詞とその解説をいくつか転載しよう。すべて「元気になれる歌」である。今の日本の国歌に推薦する。
「ひょっこりひょうたん島」の主題歌
「ひょっこりひょうたん島」 (ある人の耳コピである)
波を ちゃぷちゃぷ
ちゃぷちゃぷ かきわけて( ちゃぷちゃぷちゃぷ)
雲を すいすい
すいすい 追い抜いて( すいすいすい)
ひょうたん島はどこへゆく
僕らを乗せてどこへゆく うううう うううう
丸い地球の 水平線に 何かがきーっと待っている う
苦しいこともあるだろさ
かなしいこともあるだろさ
だけど僕らはくじけない
泣くのはいやだ笑っちゃお
すすめー
ひょっこりひょうたん島
ひょっこりひょうたん島
ひょっこりひょうたん島
*もう少し枯堂夏子の詞を続けるつもりだったが、それをコピーするつもりだったサイトがコピー不可能だったので、別の歌詞にする。つい先日物故した作家、井上ひさしによる「ひょっこりひょうたん島」の歌詞である。
小説家、劇作家としての井上ひさしよりも、作詞家としての井上ひさしのほうが良かったのではないかというのが、私の気持ちである。おそらく、彼自身は、スラスラと書ける歌詞よりも、作るのに難渋する小説や戯曲の方が価値があると思っていたと思うが、作品の価値は長さや作成の困難さとは無関係である。詩や歌詞というものは、どんなに短くても、素晴らしい価値があることがある。
この「ひょっこりひょうたん島」の歌詞もその一つで、「泣くのはいやだ笑っちゃおう」などというフレーズは天才にしか思いつけないのではないか。「泣くのはいやだ」まではいいが、それがいきなり「笑っちゃおう」に続く、この落差の凄さ。まるで、『2001年宇宙の旅』で、ネアンデルタール人が空中に放り投げた骨が次の瞬間に宇宙を行く宇宙船になり、人類数万年の時間が一瞬に凝縮された、あの奇跡の映像みたいではないか。
まあ、もちろん、私は少々おおげさに言ってはいるが、それでもこの「泣くのはいやだ笑っちゃおう」に励まされた子供は全国で無数にいたはずである。だから、『思ひ出ぽろぽろ』などでもこの歌が効果的に使われたのである。
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「迷スカウトニュース」より、蔵建て男さんの重要な指摘を無断転載する。野球に興味のある人にとっては、非常に興味深い言葉だろう。野球に関心のない人には唐人の寝言にしかならないだろうが。
ホームラン打者に二つのタイプがあるというのは、言われてみればその通りなのだが、本職の野球人も含めて、ほとんど意識されていない。そのために清原のような不幸な失敗例が出てくるのである。もっとも、この記事の記述とは違って、清原自身は落合の打法にあこがれ、研究したことがあったはずである。しかし、落合と清原は、それまで身につけてきた打法が異なるし、体型も体格も異なるのだから、落合打法を清原が真似すること自体に無理があったのだろう。そうした試行錯誤の結果、本来の良さまで無くしたというのが清原の事例だと思う。
ともあれ、ホームラン打者には「打球の角度で打つ」タイプと、「打球の強さ・速さで打つ」タイプがあり、前者の代表が王、田淵であり、後者の代表が中西太などだろう。後者はしばしば、ショートがジャンプして取ろうとした打球がそのままレフとスタンドに入るホームランとなったなどという「伝説」になったりする、強烈な打球の持ち主たちである。しかし、ホームラン打者とは本来、前者のタイプが主流なのではないだろうか。選手を教えるコーチは、そのあたりを考え、天性のホームラン打者の芽を潰さないようにしてもらいたいものである。
(以下、「迷スカウトニュース」より引用。文中の原選手とは現巨人監督の原のこと。)
面白いのは原選手というのは、スイングの弧自体はもの凄く大きいわけでもなければ、フォロースルーの取り方が大きいわけでもなく、それでいてグリップが最後の場面で、写真5のように引き上がっているわけではないところである。すなわち動作によって、ボールを運んでスタンドインさせていたのではなく、ボールを飛ぶ角度にバットを当てることに秀でた才能の持ち主なのだ。実は本塁打打者と言うのは、筋力や技術で無理矢理ボールを飛ばすタイプと、それほど筋力を必要としなくても、天性のタイミング(ここで言えば、ボールを飛ばす角度で捉えられるセンス)でボールを捉えられる選手に別れるのだ。こういったセンスを持った選手は、生まれ持ってのスラッガーだと言えよう。
逆に原選手よりも遙かに筋力や体格に優れていても、けして原選手のようなホームランアーチストではない選手は過去にも沢山いた。そんな選手に限って打球は速くても、ボールが上がってこない選手なのだ。私はこのような天性の角度を生み出す要因の一つに、打席での脱力したリラックス感が大事だと私は考えている。同じような選手に、落合博満(現・中日監督)などもあげられる。これは天性の部分であり、松井秀喜とは完全にタイプの異なるタイプなのだろう。話はそれるが、元々清原和博も原・落合タイプだったものが、無理矢理筋力の力で本塁打を打ちに行こうとする傾向が強くなってしまい、その資質を鈍らせたものと私は捉えている。ようはタイプによって、筋力の付け方も変わって来るのではないかと私は考える。筋力で飛距離を伸ばそうとするのは、元々が中距離タイプだった選手が、長打力を増したいと考えた場合の方法論であり、元々の飛ばす才能がある選手が、その方法論に走ると、返って周辺筋力が固くなり、持ち味を失い兼ねない危険性があると私は考える。 -
I・モンタネッリの『ローマの歴史』は、ジャーナリストが書いた面白い歴史書で、中公文庫で1095円と、文庫本としては少々高いが、買う価値は十分にある本だ。学問的な価値があるというよりは、歴史の面白さを大衆に知らせる、啓蒙的な本だ。
学者の書いた本は、学問的には正確かもしれないが、その「学問上の定説」そのものがいつひっくり返るかわからないのだから、特に歴史に関しては、学問的な正確さなど、それほど重視する必要はないと私は思っている。もともと、歴史など勝者の側の記録しか残らないのだし。
歴史に限らず、私は専門家と素人の間に、それほど大きな差があるとは思っていない。偉大な科学者も哲学者も文学者も、そのほとんどはアマチュアだったのであり、「専門家」とアマチュアの区別がやかましくなったのは近代以降のことにすぎない。
何かの言説を読む時に大事なのは、その言説に合理性があるかどうかであって、それが専門家の発言か、無名の素人の発言かどうかではない。しかし、世間の大半の人間は「専門家」の言説に、ころりと騙されるのである。テレビなどに出ている有名人の発言だと、鵜呑みにしてしまう、そういう人々がB層と呼ばれ、大衆操作のターゲットになるのである。
話が長くなった。
I・モンタネッリの『ローマの歴史』がどんなものか、少々、引用しよう。若き日のカエサル、つまりジュリアス・シーザーについての記述だ。
独裁者(徽宗皇帝注:スッラのこと。この本ではスラという表記)が引退するとカエサルはローマへもどったが、反動派の支配は続いており、マリウスの甥、キンナの娘婿(徽宗皇帝注:カエサルのこと)を許すはずがなかったから、再びキリキアへと旅立つことになる。その途中、海賊に捕われ、身代金二十タレントゥム、約四千万円を要求された。このおれにそんな安い値をつけるとは何事か、五十タレントゥムは要求しろ、とかれはふんぞりかえってわめいた。従者が身代金を取りに行っている間、詩を作って読み聞かせたが、海賊どもは風流の心がなかった。カエサルは野蛮人のあほうどもとののしり、機会が来たらきっと縛り首にしてやるぞと約束した。身代金が届いて釈放されるとミレトス島へ直行、船団を組織して海賊どもを追跡、金をとりもどし、縛り首にする前に慈悲のしるしとしてのどを切ってやった。(下線部は徽宗皇帝による)
ジャーナリストの文章らしくきびきびとしていてユーモアたっぷりである。歴史の教科書を何冊読んでも、シーザーという人間の人物像はわからない。しかし、この本では、生きた人間が歴史を動かす、その姿が見えるのである。
もう一箇所、カエサルの人物描写の部分。
美男子ではない。禿げ上った頭は少々巨大すぎ、えらが張り、口はへの字に曲がっていて、両側にまっすぐな二本の深い縦じわが刻まれ、下唇がうんと突き出していた。それでいて女にはもてた。四度結婚し、愛人情婦は数知れない。部下の兵はこの大将を「禿の女たらし」と呼んでいる。凱旋行進の時カエサルの兵士たちは、「市民よ、女房を隠せ、禿の女たらしが帰って来たぞ」と叫んだものだ。これを聞いてまっさきに吹き出すのがカエサルだった。(P261) -
Never seek to tell thy love
Never seek to tell thy love
Love that never told can be
For the gentle wind does move
Silently,invisibly
I told my love,I told my love
I told her all my heart
Trembling,cold,in ghastly fears
Ah! she doth depart
Soon as she was gone from me
A traveller came by
Silently,invisibly
He took her with a sigh
( William Blake)
「愛について語るな、お前の愛を」
愛について語るな、お前の愛を
語ることのできない愛もある
優しい風が動くように
静かに、目にも見えず
私は語った、私の愛を
心の限りを私は彼女に告げた
震えながら、凍えながら、蒼ざめた恐怖とともに
おお、あの人は去った!
あの人が去った後
一人の旅人が訪れ
静かに、目にも見えず
溜息とともに
あの人を永遠に連れ去った
(ウィリアム・ブレイク)
ウィリアム・ブレイクの謎めいた詩である。最後の連の「旅人」が何者なのかは、不明であるらしい。私の解釈では「時」だと思うのだが、そのまま正体不明の旅人にしておくのがよいだろう。
訳は原詩を少々アレンジしてあり、ブレイクの詩に基づく二次創作に近い。というより、私の語学力ではこの程度の訳にしかならないということだ。なお、新倉俊一氏の本では、原詩には句読点がもっと入っていたが、朦朧とした雰囲気を高めるために、句読点の大半は省略してある。 -
どらま・のーと:
2005年09月11日 女王の教室 第10話 『真矢、最後の授業』
いい加減目覚めなさい。まだそんなこともわからないの?
勉強は......しなきゃいけないものではありません。
したい、と思うものです。
これからあなた達は、知らないものや、理解できないものに
たくさん出会います。
美しいな、とか、楽しいな、とか、不思議だな、と思うものにも
たくさん出会います。
そのとき、
もっともっとそのことを知りたい、勉強したいと自然に思うから、
人間なんです。
好奇心や、探究心のない人間は人間じゃありません。
猿以下です!
自分達の生きているこの世界のことを知ろうとしなくて、
何が出来ると言うんですか?
いくら勉強したって、
生きている限り、わからないことはいっぱいあります。
世の中には、
何でも知ったような顔をした大人がいっぱいいますが、
あんなもの嘘っぱちです。
いい大学に入ろうが、いい会社に入ろうが、
いくつになっても勉強しようと思えば、いくらでも出来るんです。
好奇心を失った瞬間、人間は死んだも同然です。
勉強は、受験の為にするのではありません。
立派な大人になる為にするんです。
イメージ出来る?
私があなた達にした以上に酷いことは、
世の中にいくらでもあるの。
人間が生きている限り、イジメは永遠に存在するの。
なぜなら、
人間は、弱いものを苛めるのに、喜びを見出す動物だからです。
悪い者や、強い者に立ち向かう人間なんて、
ドラマや漫画の中だけの話であって、現実にはほとんどいないのよ。
大事なのは、
将来自分達がそういういじめに合った時に、
耐える力や、解決する方法を身につけることなんです。
なぜ、人を殺してはいけないんですか。
そう質問すれば、大人がちゃんと答えられないと知っていたのね、彼は。
だから私は、彼に教えたの。
他人の痛みを知れと。
みんな、自分と同じ生身の人間なんだと。
どんな人にも、あなたの知らない、素晴らしい人生があるんだと。
一人一人の人間の持つ、家族や、愛や、夢や、希望や、思い出や、友情を
奪う権利は誰にもありません。
残される遺族の、苦しみや、痛みや、悲しみを
与える権利も誰にもありません。
だから人を殺しちゃいけないんです!
あなた達も、過ちを犯すかもしれないから、肝に銘じておくことね。
犯罪を犯した人間は、必ず捕まります。
逃げることが出来ても、一生その呵責に苦しみます。
周囲の人間からは見放されます。死ぬまで孤独です。
もういいことは一つもありません。二度と幸せになんかなれません。 -
「陽の当らない邦画劇場」は、私・徽宗皇帝がたまに見に行く映画紹介サイトである。その書き手は、マスターヴィジョンと並ぶ映画鑑賞眼の持ち主で、そして素晴らしい文章家であると私は思っている。その映画紹介文の一つをここに引用する。このような映画が公開されていたということさえも私は知らなかったのだが、それだけマスコミ的に黙殺されていたということであり、それはつまり……ということであろう。
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ポチの告白
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■公開:2009年
■製作:田村正蔵、高橋玄(配給:アルゴ・ピクチャーズ)
■プロデューサー:佐藤輝和、小高勲、高橋玄
■監督:高橋玄
■脚本:高橋玄
■原案協力:寺澤有
■撮影:石倉隆二、飯岡聖英
■音楽:高井ウララ、村上純、小倉直人
■編集:高橋玄
■美術:石毛朗
■録音:西岡正巳
■照明:小川満
■主演:菅田俊
■寸評:
ネタバレあります。
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思い出すと1980年前後から、映画が警察批判をすることがめっきり少なくなったような気がします。 こんな脚本を映画にしたら、街頭ロケの許可がおりなくなるんじゃないか? 映画の人たちはたちまちに心配するわけで、まあ長いものには巻かれてしまえ、どうせヤクザと警察なんて、俺達には関係ないのさと安心してばかりはいられません。
ヤバイ映画です、こんなもん映画にして大丈夫なのか?と観ている方が想像する、その時点で製作者の意図は達成されているのかも。
警察がその敵対勢力と限りなく同質な一面を持っていることは、かつて日本では常識でしたが、本作品では敵対勢力をもはるかに凌ぐ、日本一の組織暴力であると断言してしまいます。もはや「県警対組織暴力」や「セルピコ」の比じゃありません。
所轄の巡査、つまり交番のお巡りさんである竹田八生・菅田俊は身体はでかいし、顔は怖いし、一般人から「熊みたい」と認定されるルックスですが、親切で実直なノンキャリアです。 上司・並樹史朗からも褒められていますし、同僚からは愛情をこめて「タケハチ」と呼ばれています。
そんな竹田を刑事課長の三枝・出光元は刑事に昇任させてあげるのでした。
身重の妻・井上晴美と社宅に引っ越せたのも、三枝課長のおかげです。 竹田は課長に深く感謝し、妻の止めるのも聞かずに、愛娘の名付け親にすらなってもらうのでした。
竹田に後輩ができました。 彼の名前は山崎・野村宏伸といい、やはり課長の世話で中途採用されたノンキャリアでした。 中国語や韓国語もたくみに使いこなす山崎は、竹田のよい相棒になります。
ファミリーを形成して手下を増やしていく手段は、まるでマフィアのようであります。
ある日、ジャンキーが民家に立て篭もりました。
竹田と三枝のチームは現場に到着すると、犯人の説得にあたりますが効果なし。 そこで三枝は竹田に人質救出を命じました。 現場を取材していた大手新聞社のカメラマン、北村・井田國彦と、怪しげなバーを経営している草間・川本淳市は、警察と犯人の奇妙な関係を裏付けるような写真を撮ります。
麻薬中毒患者をさらにシャブ漬けにしてスパイとして活用し、いよいよ危なくなったら使い捨てにしようとして、警察に裏切られてキレたジャンキーを拘置所で自殺に見せかけて抹殺。
麻薬取引を見逃す代償として、不法銃器の取り締まり実績をアップするためにヤクザに架空の取引のヤラセを強いる。未成年がソープランドで働いているのを見逃して、賄賂をもらう。架空の請求書で裏金作り、しかもそれは所轄のつつましい行為ではなく、本庁からの指示という仰天な実体。押収した覚せい剤を横領して自ら中毒になる警官。
小は自転車窃盗の誘発から、大は麻薬密売の上前をハネる、まで。リアルです。警察ならこれくらいやってそうだと思わせるほど、おまけにマスコミに対する情報操作の実体までが克明に語られます。
この映画は、ヤバイというより怖いです。
どこが怖いかというと、悪が必ずしも裁かれないというのは歴史が証明しておりますのでこの際、どうでもいいんですが、警察の真実を告白しようとした人間が、裁判所までグルになって完全に社会から葬られるということ、警察の機関に収容されてしまったら、事実なんていくらでも捏造できるということです。
この映画には真実というものが登場しないのです。何もかも、隠蔽されてしまう恐怖。やってもいないことをやったというのは、ただの駄ボラですが、やったことをやっていないというのは犯罪です。しかも、それが警察ですから、手の打ちようがありません。
これは怖いですよ。
竹田は、上司の命令に忠実に従い、汚職の首謀者となっていきます。 すべては警察の、警察による、警察のための正義と、身内の幸福のためであって、忠実な犬=ポチになっていくのです。ヤクザも三国人も呆れるほどの赤裸々さですが、組織ぐるみの犯罪というのは、それが国家権力の手になるものであれば、誰も裁くことができません。ある意味、警察の犯罪というのは最強で、最悪です。
ポチは、三枝のために忠実に尽くしていましたが、その三枝の身が危なくなると、あっさりと見捨てられ、ポチはホンモノの捨て犬のように、社会的に抹殺されることを自覚します。竹田はここでも忠実に捨てられるかと思われましたが、論告求刑の日、最後に証言を求められた竹田は、すべてを告白しようとしますが、すでに警察に懐柔されていた裁判官に退廷を命じられてしまいます。
法廷は、警察と警察に飼いならされた犬=マスコミが大量動員したサクラで満員です。 真実は一切、世間に公表されることはありません。 日本のマスコミにおいては、でした。
一度は、竹田にボコられた草間でしたが、警察の汚職に本気で取り組む決心をして、同じく新聞社の犬ぶりに失望した川村とともに、外国人特派員の前で記者会見を開いていました。そして、竹田こそが警察犯罪の最大の犠牲者であると、そしてもう日本のマスコミなんてクソなので、このテーマに関心を持った外国人記者に協力を依頼して、告発することにしたのでした。 最初はやさしいお巡りさんだった竹田がみるみるうちにVシネマのヤクザと化して行くのに対して、いかがわしいチンピラだった草間はエンディングではまるで戦隊ヒーローものの二番手のようなカッコよさです。
しかし、そこまでやっても、警察も、裁判所も、マスコミも誰一人、傷つくことはありませんでした。いくら告発してもそれが、日本のメディアに載らなければ、それは真実とは認定されないということですね。
ラストの、竹田というか菅田俊さんの独白は、これはもう菅田さん以外ではありえないくらいのキレっぷりです。
大多数のちゃんとしたお巡りさんに失礼だろうと怒るキモチも十二分にありますが、そうではない警察の部分、報道されない不祥事にならない不祥事は、警察の信用を失墜させることよりも、もっと根深い悪だと、この映画は訴えます。
そして、もう一人の忠実な犬の怒りは、国家そのものに差別された者の言葉にならない絶叫です。
これは本当に怖い映画です。
一般の市民にとって、最も身近な警察が信用できない、こんな怖い話ほかにありませんから。
(2010年04月06日 )
【追記】
※本文中敬称略
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愚民支配の原則と戦略
*以下に書く文章は、「シオン長老の議定書」とか「Yプロトコル」とか言われている文書の抜粋である。これはY民族迫害のために作られた偽書であるという説もあるが、書かれた内容自体は、いわば「悪の政治教科書」とでもいった内容であり、現実に人民を支配するのに有効な事柄ばかりである。いや、現在の世界そのものがこういう思想や戦略で動いているようにしか見えない。ならば、この文章を研究することは、我々が愚民化しないために絶対的に必要なことではないだろうか。ただし、元の文章は小難しい文章なので、読みやすく変えて(ただし、その古風な趣きは残すが)ここに掲載する。元の文章そのままではないのだから、誤解が含まれるのは勿論だ。それを割り引いても、ここに書かれた内容について知るのは、我々「被支配者」にとって大いに役立つだろう。
*私は、この世界は一部の人間たちによってコントロールされていると思っているが、それは基本的には〈Y民族〉とは無関係だと思っている。確かに他民族を人間扱いする必要はない、という思想を土台にするなら、その政治的行為は強力極まりないものになるのは確かであるが、言うまでもなく、一部の人間の悪事のために、その民族全体が迫害されることはけっしてあってはならないことである。くどく言うが、世界を支配する巨大資産家(経済的モンスター)は、その民族とはまったく無関係の存在なのであり、自分たちの悪事を隠すために民族迫害のタブーを利用しているだけなのである。したがって、以下の文章中での「異民族」云々は「支配される連中」くらいの意味で読むべきである。
以下の文章が、「シオン長老の議定書」あるいは「Yプロトコル」と呼ばれる文書の抜粋である。注の部分が筆者・徽宗皇帝による注釈と解説。
○我々の合言葉は「力と偽善」である。政治上の問題で勝ちを制するのは何といっても力であり、国家の事業に携わる人士に必要な力が蔵せられる場合は殊にそうである。奸策と狡猾との「偽善」は我々の目的を達成する唯一の手段である。それ故に我々の計画遂行に役立つ事なら、「暗殺、買収、詐欺、裏切り」等に尻込みしてはならない。政治上の権力を獲得するに必要な場合は、躊躇することなく、他人の財産を奪取する事を心得ていなければならない。
○自然の本性には自由は無く、「理性と性格と才能の不平等」をその法則とする。(注:これは、フランス革命における『自由・平等・博愛』のスローガンを嘲弄したものだろう。他の場所で、「自由と平等が両立するはずはないではないか!」という発言も書かれている。また、フランス革命自体がこの議定書を書いた人々の筋書きによる出来事だったとも書かれている。つまり、『自由・平等・博愛』は、愚民たちを釣るための餌にすぎなかったという趣旨である。)
○(我々は)人間の貪欲を利用して支配する。(注:他の人々を押しのけて自分が上に行きたいという欲望が下層階級の連中を死に物狂いに働かせ、その働きを利用することで上の人間は労せずして利益を得るわけである。井伏鱒二の「さざなみ軍記」に書いてある、貴族の庶民支配の原理が、まったくこれと同様である。)
◎この目的(支配)のために我々は始終、「新聞、雑誌」を利用して、この命令に盲目的に信従するように(人々を)鼓舞する。
○我々の仕組んだ「ダーウィン、マルクス、ニーチェ」の教説に注意なさるがよろしい。(注:この部分の説明は長くなるので、最後に補注として説明する。)
○いわゆる「民権」とはただ概念としてのみ存在しえるもので、けっして実際に実現することはできない。実際、我々の命令にもとづき、我々の密使(為政者)を選任する投票にしても、下層民が憲法政治(立憲政治)から得るものは何もない。(注:これと同趣旨のことをルソーも述べている。「イギリス人は選挙で代議士を選ぶが、庶民が支配者であるのは選挙の間だけで、それが終わるとまた彼らは奴隷に戻るのである」と。ただし、日本における2009年衆議院選の「無血革命」によって、日本の立憲政治は変わる可能性がある。)
◎優越を得るための、極度に緊張した闘争と経済生活に対する衝動とは、絶望的な、しかも悲惨極まる「冷酷な社会」を実現するであろう。否、すでに実現したのである。(注:前出の「我々は人間の欲望を利用して支配する」とほぼ同趣旨。ただし、その行く先にあるのが「冷酷な社会」であることを、我々のどれだけが理解しているか。)
○自由主義の社会では、買収と贈賄の汚職が至る所に侵入し、富は「巧妙なる奸策」と「虚偽の駆け引き」によって得られ、徳義(社会道徳)は、ただ「厳罰と酷法」によって維持される。
◎我々の統治の主要任務は、社会的理性を去勢し、反抗を可能ならしめる彼らの思索を奪い、そして一般の知力を空虚なる雄弁の交戦に堕せしめることである。(注:このために利用されるのが公教育とマスコミであることを、今では多くの人が知っているだろう。)
◎異民族諸国民および各個人たちは、あらゆる時代において、「言葉」を「行為」と思ってきた。彼らは単なる外見に満足して、公的世界において「約束が実行されたかどうか」ということには滅多に気がつかなかった。(注:社会生活を営む上での基本の基本が、「相手の言葉ではなく、行為を見よ」であるが、社会の多くの「善人たち」は言葉を行為と区別していない!)
◎世論を掌中に収めるためには、それ(世論そのもの)をして「了解に苦しましめ」ねばならない。すなわち、各方面から互いに矛盾した種々の意見を言わせ、異民族の人民を迷宮に彷徨せしめ、政治的問題に関しては、何等の意見も持たぬ方がましであると断念せしむるべきである。
◎政権掌握に必要な第二の秘訣は、「風俗、習慣、欲望、社会生活の基準」を繁縟ならしめ、何人もその選択に迷い、互いに理解することができぬような混沌状態に陥らしめるにある。(注:これは情報洪水の現代において、もっとも重要なポイントの一つである。)
◎商工業への投機を奨励せねばならぬ。投機の役割は工業(実業)に対立するにある。投機によって世界の富をことごとく我々の手に収め、以て異民族全部を下層階級に投げ込む事が必要である。(注:金融業という「自分では何一つ生産せず、金で金を生む」職業が世界を支配している点に、世界のあらゆる不幸の根本原因がある。そして、国際金融家は、自分たちに都合がいいように様々な国際機関を利用するのである。ところが、我々は学校で、WTO、GAT、世界銀行などは有益な組織だと偽りの知識を埋め込まれるのだ。)
○我々はあらゆる国家に、(我々以外には)異民族無産大衆と、我々に心服する数人の富豪と、我々を守護する警官と軍隊のみがあるように配慮せねばならない。(注:警察や軍隊の真の仕事は、国民の保護ではなく、支配層の保護だということだ。)
○我々は欧州大陸及び、それを基点とした他の諸大陸に「動揺と紛争および敵対関係」を惹起せしめねばならない。(注:これは、この書が書かれた当時の世界情勢であるが、現代でも「動揺と紛争および敵対関係」は庶民支配の道具に用いられている。一例がアメリカのイラク戦争、アフガニスタン派兵である。戦争や紛争などの大義名分があれば、支配層の望む政策のほとんどは実行できるのである。)
○我々に抵抗を試みようとする国家に対しては、我々はただちにその隣接諸国との戦争を以て、対応し得るように準備しておらねばならぬ。
○あらゆる政治的成功の最大の要訣は、あらゆる企画を厳重に秘するにある。真の政治家の言説はけっして外交官の行動と一致してはならぬ。
○我々は法律用語の最も巧緻な措辞や難解な問題に通暁して、法外に大胆で、かつ不当にも見えかねない決断を下す必要がある場合に、弁解する途をあらかじめ備えなくてはならない。
◎我々の望み通りの結果を得るためには、その過去において後ろ暗い傷を持っている大統領を選挙すべきである。そうすれば彼等は我々の指令の忠実な実行者となる。(注:日本のK元総理についても、殺人・レイプその他の様々な暗い噂がある。)
◎我々は、法律を提案したり変改したりする権利を議院から剥奪して、それを我々の傀儡たる大統領の手に委ねるであろう。(注:日本では、国会は唯一の立法府であると定められているにもかかわらず、成立する法案は内閣提出の法案がほとんどである。議員立法による法案はほんの一部にすぎない。すなわち、国会は内閣に支配されている。宮本政於の「お役所の掟」その他に、官僚支配の実体が書かれている。)
○我々は戒厳令布告の権利を大統領に与える。(注:要するに、いざという時には、大統領(そしてその背後の人間)は法律を無視した行動が可能だということである。)
◎共和国の新憲法を施行すると共に、我々は国家機密の保護という口実を設けて、政府の処置に関して質問する権利を議院から奪取するであろう。
◎大統領は、様々に解釈し得る現行法律を解釈する場合には、我々の意味において解釈するであろう。また彼は、我々が是非そうして貰いたいと指示するならば、現行法を廃棄するであろう。こうして我々は初期に当たって共和国憲法に取り入れざるを得なかったもののすべてを「なし崩し的」に変更させることができる。
◎言論機関におけるいかなる報道も、書籍の内容も、我々の検閲を経ないでは絶対に公表を許さない。このことはある程度までは現在でも実行されてはいるが、その方法として、全世界の各地からのニュースを少数の通信社に集め、そこで手を加えて、それから諸方面へ配布している。 (注:アメリのロイター、日本の共同通信などが想起できる。しかし、インターネットの急速な普及によって、9.11事件などはその最初の段階から米政府やその背後の連中による自作自演であるという見方が広まっていた。実際、あまりにも粗雑なシナリオではあったのだが、表のマスコミはまた見事にそうした見方を無視したのである。これ一つを取っても、マスコミが支配者の道具でしかないことは明白である。)
筆者補注:「ダーウィン、マルクス、ニーチェ」の教説がなぜ陰の支配者(と仮に呼んでおこう)にとって都合がいいのかを説明する。
まず、ダーウィンの進化論は「適者生存」の思想を人々の頭に植え付けた。つまり、生き延びた者は、生き延びるにふさわしい存在であり、滅びた者は滅びるのが当然の「無価値な」存在だったという思想である。これによって、たとえば欧米人種の行ってきた過去の悪行(他人種からの略奪行為や大量虐殺)も正当化される。弱い者、無能な者は滅びても当然であり、弱者への同情はセンチメンタルな感情でしかない、というわけだ。そして、もちろん、資本主義社会における様々な悪行(詐欺行為や非人間的な搾取)も正当化される。なぜなら、強い者が生き残るのは当然であり、資本家が金の無い人間に勝つのも「適者生存」だからである。
次に、マルクスの教説がなぜ陰の支配者にとって都合がいいのかだが、陰の支配者とは要するに、表舞台には出てこない大富豪や大財閥である。彼らは政治そのものを動かす力があるので、税金すら払わず、(いや、アメリカにおいては紙幣を印刷する権利すら持っているのだが)高額納税者(世間の人間は、これを大富豪と錯覚している)として公表されることはないために彼らの存在は世間には知られていない。しかし、誰かが搾取しているからこそ、大多数の人間は貧困から逃れられないのだと人々が思うことは避けられない。そこで、そのスケープゴートとして彼らが用意したのが表に出るレベルの富豪・資本家であり、「資本家対無産階級」という対立図式である。この資本家はあくまで世の法律に従って生産活動をする実業家に過ぎず、暴利をむさぼっているわけではない。しかし、彼らは目の前にいる、目に見える存在である。そこで貧民の憎しみは彼らに向けられ、陰の支配者の望む「混乱と無秩序」が作り出されるのである。その間に、もっと大きな金を動かして、投機市場を操作することによって、あるいは定期的に大恐慌を起こすことで低レベルの資本家の金はみな大富豪の手に入っていくのだが、それは庶民には見えないのである。つまり、マルキシズムの効用とは「分割して統治せよ」のパターンの一つなのである。
最後に、ニーチェの教説の目的だが、それはキリスト教の破壊である。キリスト教は本来、清貧と貧しい者への施しを教えており、資本主義にとっては都合の悪い思想だ。そこでカソリックやプロテスタントの中枢にスパイを潜入させてキリスト教を変質させると同時に、キリスト教の神自体をニーチェによって否定させたのである。ニーチェとはいわば、思想的テロリストである。アメリカ政府の中枢は一見、キリスト教信者が占めているように見えるが、それは、彼らが自分をキリスト教徒だと名乗っているからにすぎない。(多くの俗衆は、言葉を事実と誤認する、という「議定書」の嘲笑を見よ。)彼らの行為を見れば、それがキリスト教的精神からどれほどかけ離れているかがわかるだろう。
*さて、以上をお読みになって、どう感じただろうか。もちろん、私自身、ここに書かれたことのすべてを信じるわけではないが、これが現実政治の教科書として有効なことだけは否定できないだろう。つまり、多くの人が心の隅に止めておくべき文章なのである。 -
「分裂勘違い君劇場」より転載。かなり前の記事だが、現在の日本の状況を、かなり正確に分析していると思う。表現に過激な部分があるので、すべてを文字通りに受け取る必要は無いが、現代の日本で生きるヒントにはなるはずだ。ただし、私としては、「農業の工業化」という方法、あるいは「農業株式会社」という方法で日本が自給自足の道を歩むことで、「新しい日本の物語」が描けると思っている。
以下、転載。
もう、日本という物語は、終わったのだ。
いま、トヨタは、恐るべきスピードで、次々と、世界中に工場を建設している。
そして、日本の熟練工を世界中に派遣して、現地の人々に、技術を伝承している。
さらに、最近では、もはや、外国人の熟練工が、外国人の熟練工を育て始めている。
ゆくゆくは、だんだん日本人でなくてはならない必要性が薄れていくだろう。
いまや、トヨタは、急速に日本への依存度を弱めてきているのだ。
そして、これは、トヨタに限ったことではない。
もはや、日本の経済力を支えている企業は、植物ではない。
日本という土地から動くことのできない木や草ではない。
もはや、どこの国へでも行ける、動物になりつつあるのだ。
こういう中で、企業に増税を課せば、次に建てる工場を、どこの国にするか、という経営会議で、どんな意志決定が下されるかは、だいたい想像がつくだろう。
企業に増税したくても、増税できない状況に政府が追い込まれている、というのは、そういうことなのだ。
もちろん、今すぐに、という話ではない。
日本が今まで営々と築き上げてきた産業集積があるからだ。
しかし、その残照が続くのは、もはや、そう長いことではない。
世界中に張り巡らされていくインターネット回線は、発展途上国に、英語圏の産業集積へのアクセスを、ますます容易にしている。
それによって、英語圏の産業集積は、ますます価値を増大させ、日本という言語の壁のなかに閉じこめられた日本の産業集積の力は、相対的に衰退していく。
そして、ますますパワーアップしていく英語圏の産業集積に、より自由にアクセスできるようになった発展途上国の人々と、相対的にますますショボくなっていく日本の産業集積に依存する日本人との落差は縮まっていき、日本人だけ特別のゲタをはかせては、もらえなくなっていく。
確かに、いまの労働環境は、酷い。福祉政策もひどい。改善しなければならないところは山ほどある。
一刻も早く、窮地にいる人々を救うべく、具体的な効果のある政策を打ち出さねばならない。
しかし、一方で、こういう風に、世界が音を立てて変化していくとき、いくら声高に、企業を非難し、
最低賃金を引き上げる法律を作り、同じ賃金のまま労働時間を短くするよう規制を作り、
コストのかかる正社員の数を増やすように要求し、
生活保護手当の支給基準をゆるめ、また、支給金額を増やせと、政府に訴えたところで、
歴史の歯車が逆回転し出すのだろうか?
そんなふうに企業に規制をかければ、日本の経済力を支えている企業は、
新規採用も、新規工場も、新規出店も、極力、日本ではなく、
外国で行うようにするだけだ。
要するに、日本から、どんどん雇用が失われていくだけだ。
企業からの税収も減り、ますます福祉予算が枯渇して、生活保護手当基準が厳しく
なっていくだけだ。
もう、映画は終わったのだ。いつまでも、未練たらしくエンドロールを眺め続けてもしょうがない。
いまはまだ十分すぎるほど暖かいけれども、映画館の暖房は切られ、館内の隅の方ではすでに冷気が忍び寄ってきている。
外には、木枯らしが吹き荒れているが、まだ日は明るい。
完全に日が沈み、凍てつく夜が訪れる前に、今夜の暖をとれるねぐらを見つけにいかなきゃならない。
ぶっちゃけ、いまの生活水準は、幻影なのだ。
一人あたりのモノの割り当てが半分になったら、生活の全てを、半分にしなきゃならないのだ。
もちろん、全てのモノが半分になったわけじゃない。
人間らしい暮らしをする人間の数の増加以上に、急激に供給量が増大しているものもある。
また、人間自身の労働によって生み出されるモノやサービスは、人間の増大に比例して増えていくから、問題はない。
しかし、石油にしろ、レアメタルにしろ、魚にしろ、供給量がさほど増えてないモノは、あまりにも多いのだ。
もっと正確に言うと、
(1)供給が制約されてしまうもの
(2)供給を制約することができるもの
の一人当たりの割り当てが減っているのだ。
このうち、(1)は、石油とかレアメタルみたいなヤツだ。
そして、(2)の「供給を制約することができるもの」とは、ネットワーク外部性や特許やブランドによって、「独占」することのできるものだ。
つまり、ウィンドウズとかワードとかエクセルとかインテルCPUとかイーベイとか、タミフルとか、プロザックとか、ゲノム創薬とかルイヴィトンとかナイキとかだ。
この2つのものの、相対的な価値がどんどん上昇しているので、労働の相対的な価値が、どんどん低下しているのだ。
労働の絶対的な価値は、少しも変わってないのに。
結局、国際貿易は、ババ抜きゲームなのだ。
確かに、貿易することによって、豊かになることはあっても、貧しくなることなんて、原理的にあり得ない。
しかし、いままでずっと貿易によって安価に手に入れることができていたものが、供給が制約されることによって、
安価に手に入れられなくなると、貿易によって豊かになっていた生活は、急速に貧しくなっていく。
そのとき、貧しくならずに、逆に豊かになっていくのは、供給が制約されているモノを手にしている人々だ。
すなわち、石油や、レアメタルや、ウィンドウズや、インテルCPUや、タミフルを牛耳っている人々だ。
何も牛耳れなかった人たちは、ババを引いたのだ。
しかし、だからといって、マイクロソフトやナイキだのの独占企業に就職すれば、
経済的に豊かな人生が保証されるなんてことは無い。
供給が制約される/できるものを牛耳っているのは、その会社の所有者であって、
その会社の社員ではないからだ。
むしろ、ナイキの海外工場では、幼い子供たちが、不衛生な工場の中に閉じこめられ、奴隷のようにでたらめな低賃金で、体をこわすほどの長時間働かされている。
供給が制約されているモノをなにも牛耳っていない普通の人々は、ババを引いてしまったのだ。
僕たちは、そろそろ、自分がババを引いてしまったという現実に、気がつかなきゃならないのだ。
だから、今は、多くのモノを、諦めるべき時なのだ。
もっと生活規模を縮小すべきなのだ。
もっと安い家賃の部屋に引っ越そう。できれば、ショップ99の近所に。
新刊なんか買わずに、ブックオフで十分だ。図書館で十分だ。ネットの無料コンテンツで十分だ。
高価な服やバッグやアクセサリーをほしがる女の子とはさっさと手を切ろう。
海外の安宿を泊まり歩くバックパッキングでも、一食30円の屋台のタコスでも、現地の人たちに混じって、陽気に楽しめる気だてのよい女の子とつきあおう。おしゃれな服なんていらない。穴の開いたジーンズをはいて、薄汚れたリュックサックを背負って、化粧もせずに、ブラブラすればいいじゃないか。
伴侶とも、子供たちとも、貧乏暮らしを楽しもう。
高いレストランで食事をするのもやめだ。
おいしいものを食べたければ、自分たちで、おいしい料理を工夫しよう。
ちょっとした工夫で、驚くほど簡単に、安くておいしいものなんて作れちゃうものなのだ。
子供にも、無理にお金をかける必要はない。
高い塾に行かせたり、家庭教師をつけるより、自分で教えよう。子供と一緒に勉強しよう。
サービス残業までして、無理して会社に貢献しても、いつまでも正社員でいられる保証なんてない。
正社員という既得権益の賞味期限は、もう切れかけていることに、気がつかなきゃならない。
ましてや、このまま順調に昇進し続けると思いこむなんて、いつか白馬にまたがった王子様と結ばれることを夢見る少女のようなメンタリティだ。
もう映画は終わって、エンドロールが流れているんだよ。
それよりも、まだぬくもりの残っているうちに、お金とスキルをためよう。
会社の都合で、たくさんのプロジェクトを押しつけられて、疲弊するのはばからしい。
うまく立ち回って、つまらないプロジェクトからは、逃げ回り、スジのいい一つのプロジェクトだけに専念しよう。
そこでじっくりと納得のいくまでいい仕事をし、自分のスキルを磨き上げ、顧客やエンドユーザの喜ぶ顔を見よう。
それが、明日へつながる。
その会社じゃなくっても、どこでも生きていけるすべを育て上げるのだ。
もはや会社なんて、自分のスキルを獲得し、自分のブランドを構築するためのツールでしかない。
会社に貢献して出世する、という人生モデルは、とっくに終焉しているのだ。
そうしてスキルと人脈をためると同時に、500万円もらって200万円貯金する暮らしを3年続ければ、
貯金も600万円になる。
そうすると、会社との交渉で、優位に立てるのだ。
自分のやりたいプロジェクトを堂々と要求し、スキルのたまらない、くらだないプロジェクトは、
きっぱりと断ることができる。
どうしても、会社がそれを押しつけてくるのなら、さっさと会社を辞めてしまおう。
どうせ、その会社内での地位なんて、そんなに長続きするものじゃない。
そして、いまの自分に最適のポジションを提供してくれる会社をじっくり時間をかけてリサーチし、
自分を上手に売り込むプレゼンテーション資料を、じっくりと時間をかけて作り上げ、
効果的に自分を売り込み、おいしい仕事をゲットしよう。
自分をマーケティングしよう。
何しろ、二年は遊んで暮らせるだけの貯金があるのだ。
交渉の際、足下をみられる心配はない。
十分な余裕を持って、上手に立ち回ることができるはずだ。
要するに、こういう社会状況において、桁違いに有能だというわけでもない一般人がとるべきもっとも効果的な戦略とは、まだ日本の過去の遺産が残っているうちに、その遺産を使ってスキルとお金を貯金し、そのスキルとお金でもって余裕と自由と未来を買う戦略なのだ。
余裕と自由こそが、お金で買える、もっとも価値あるものなのだから。
日本の過去の遺産の残照がいつまでも続くという幻想にとらわれたまま、
年収500万円を受け取って、年収500万円の暮らしをしたり、
いつまでも正社員の地位にしがみつくために、無理な仕事を引き受けて、
会社に媚び売って、疲弊するのは、あまり賢い生き方ではない。
それは、いつ突然、ワーキングプアに転落するかも知れない、極めてリスキーな生き方なのだ。 -
更新が長いこと止まっているホームページだが、現代日本の映画界を救う見識と批評眼を持った男、現代最高の知性の一人、マスターヴィジョン氏のホームページm@stervisionから、彼の文章の素晴らしさをよく表した一文を引用する。マスターヴィジョンさん、早く、ホームページの更新を再開してくれ!
*注:下の「クレしん」に出てくるアンニュィな美女、チャコは多分、小林麻美がモデルだろうな。
(ここから引用)
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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲(原恵一)
脚本&絵コンテ:原恵一 演出&絵コンテ:水島努 音楽:荒川敏行&浜口史郎 主題歌:こばやしさちこ
作画監督:原勝徳&堤のりゆき&間々田益男 美術監督:古賀徹&清水としゆき 制作:シンエイ動画
声の出演:矢島晶子(しんちゃん) 藤原啓治(父 ひろし) ならはしみき(母 みさえ)
こおろぎさとみ(妹 ひまわり)| 津嘉山正種(ケン) 小林愛(チャコ)
傑作である。それも生半可な傑作ではない。一人の作家が一生に一本 作れるかどうかという類の作品だ。おそらく原恵一はこの映画のゼロ号試写において、キャリアの最高作を作ってしまった者のみが味わう恍惚と不安におののいたことだろう――そう、本作のなかでもリスペクトを捧げている「カリオストロの城」を作り上げた直後の宮崎駿のように。 ● 今回、原恵一は本気(マジ)である。ここまで「付き添いのお父さん」にターゲットを絞っちゃっていいのか!?…と心配になるほど、三十男の心に直球をズバンッと投げこんで来る。なにしろ本篇には映画版のレギュラーである「カラオケ好きの原作者・臼井儀人」も「グラビア・アイドルのゲストキャラ」も(なな、なんと!)オカマ・キャラすら出てこないのである。いや、もちろんこれは「クレヨンしんちゃん」なので、クッダラナイ脱力ギャグはテンコ盛りだし(キャラを真面目に振りすぎた前作の反省も踏まえて)しんちゃんは最後の最後の最後まで徹底して無責任でお馬鹿で快楽主義者な5才児であり続ける。ドラマに足をすくわれて「動画」としての魅力を損なうこともなく、中でもクライマックス・シーンの作画は(普段あんまり「上手い」と思わせない作風の)原恵一と水島努がアニメーターとしての底力を見せつける。変幻自在の“ザ・劇伴”を繰り出す荒川敏行&浜口史郎のスコアも素晴らしい。 ● これは「わたしたちが過ごしてきた20世紀」への心のこもった鎮魂歌であり「今、わたしたちが生きているこの21世紀」に向けての決意表明でもある。1960年代に生を受けた者は必見。このサイトを読んできて少しでもおれの目利きを信じてくれるなら観に行ってくれ頼むから。いや大丈夫、平日の夜ならガキもそんなに居ないって。
[以下、内容に触れています]本篇はいきなり太陽の塔のアップから始まる(=太陽の塔を知らない観客はこの時点で脱落) しんちゃん一家の住む埼玉県春日部市にテーマパーク「20世紀博」がオープン。父ちゃん母ちゃんは、な~つかしいなあ:)を連発して、人気アトラクション「バーチャル万博」に通いづめ(おおお、おれなんか万博のパビリオンの名前ぜ~んぶ言えるもんね←威張ってどーする) もう、親はニコニコ、子どもはイヤイヤ。そのうち大人たちは子どもに還って「21世紀博」から戻って来なくなる…。 ● これ、じつはマッシュルーム・カットのケンと、長い黒髪のアンニュイなチャコをリーダーとする秘密結社「イエスタデイ・ワンスモア」の陰謀。そもそも「21世紀」とは「おれたちの輝ける未来」だったはずだ。手塚治虫が夢見た「未来」はこんな耐えがたい悪臭をはなつクソみたいな時代では断じてない。いま一度、自分たちの手に「輝かしい未来」を取り戻すため、おれたちは時計の針を20世紀へと戻すことを選択する。そう、おれたちの「黄金の20世紀」、…街に匂いがあった時代へ、だ・・・てなことを津嘉山正種の声で言われた日にゃあ、もうおれなんか涙を流して「そーだそーだぁ!」と同意しちゃうわけよ(どーせならチャコの声は池田“メーテル”昌子でお願いしたかったね) なにしろあーた、この人たちはテーマパークの地下に「昭和の町並み」の完全なレプリカを作っていて、その町はつねに夕焼けで、地面はまだアスファルトに覆われてなくて、何処からともなく豆腐屋のパ~プ~が聞こえてくるのだ。もちろんケンとチャコもその町の安アパート「昭和荘」の2階で同棲時代を送ってる。おおおお、おれも、おれも。おれも入れて。夕陽の町の住人にしてくれい!<完全に洗脳されてる。 ● というわけで春日部から、…いや、日本中から大人の姿が消えるという「ビューティフル・ドリーマー」な状況が現出し、がらんとした町に残された子どもたちはご飯を食べることすらままならない。幼稚園児がぽつりと呟く一言「“懐かしい”ってそんなにイイモノなのかなあ?」 やがて始まる子ども狩り。しんちゃんと幼稚園の級友たちで構成される かすかべ防衛隊の面々は、大人たちの目を覚ますべく「イエスタデイ・ワンスモア」に戦いを挑む。――最後の最後の最後の最後、しんのすけ はアクション仮面や ぶりぶりざえもん の手を借りず、自分ひとりの力で大人の前に立つ。わずかに残された力を振り絞るように吐き出す台詞。つまり「未来」っていったい「どういうこと」なのか。ぐはっ(←涙が堰を切った音)だめだ。もう両目は栓を抜いた風呂桶のよう。おれは今、この文章を泣きながら書いている<バカ。 ● ドラマを締めくくるのはよしだたくろうの名曲「今日までそして明日から」――♪わたしは今日まで生きてみました ときには誰かの力を借りて ときには誰かにしがみついて わたしは今日まで生きてみました そして今 わたしは思っています 明日からもこうして生きていくだろうと♪ 1度でも「昔は良かった」と嘆息したことのある人はこれを観てよおく反省するよーに(特に>アントニオ猪木と新日本プロレス関係者)