先ほど書いた記事の中で、野坂昭如の「如」を「之」と書いてしまい、今訂正したところである。
人の名前は難しいが、それにしても昔の人は漢字力があったなあ、とも思う。五木寛之の「之」も「野坂昭如」の「如」も「ゆき」と読むが、実はどちらも「行く」意味である。つまり、「行く」という字の代わりに「之く」あるいは「如く」と書いてもいいわけだ。こういう知識があると、高校生や浪人生などは漢文での得点力が上がるのだが、現代人は薄っぺらい合理主義者ばかりだから、「行く」という意味の字は「行」だけ覚えればいい、と考えるのではないか。そういう「合理主義」は確かに生活を簡便にはするが、それによって文化は貧相なものになっていくのである。
まあ、現実の人間と恋愛するのは面倒だから、小説などを読んで脳内冒険で間に合わせるというような合理主義は、それはそれで平和な世の中を作りはするが、文化とは余剰や無駄の別名でもあるから、そういう状況では余剰や無駄に基盤を置く資本主義そのものが死滅することになるはずである。
人の名前は難しいが、それにしても昔の人は漢字力があったなあ、とも思う。五木寛之の「之」も「野坂昭如」の「如」も「ゆき」と読むが、実はどちらも「行く」意味である。つまり、「行く」という字の代わりに「之く」あるいは「如く」と書いてもいいわけだ。こういう知識があると、高校生や浪人生などは漢文での得点力が上がるのだが、現代人は薄っぺらい合理主義者ばかりだから、「行く」という意味の字は「行」だけ覚えればいい、と考えるのではないか。そういう「合理主義」は確かに生活を簡便にはするが、それによって文化は貧相なものになっていくのである。
まあ、現実の人間と恋愛するのは面倒だから、小説などを読んで脳内冒険で間に合わせるというような合理主義は、それはそれで平和な世の中を作りはするが、文化とは余剰や無駄の別名でもあるから、そういう状況では余剰や無駄に基盤を置く資本主義そのものが死滅することになるはずである。
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