"経済・政治・社会"カテゴリーの記事一覧
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EU離脱が英国にとって有利か不利かは分からないが、国民投票によって離脱を決めたのだから、それを否定するのは民主主義(直接民主主義)の否定になる。だが、国民投票の時は国民の熱狂があったからだ、として離脱延期をしてもっと議論を深めるのはまだいい。しかし、
メイ首相はあくまで否決された合意案を首脳会議前に3度目の採決にかけ何とか合意案に基づいた離脱の実現を目指す構え。
というのは、議会制民主主義の否定になるのではないか。つまり、二度にわたる下院の否決にも従わないのは、間接民主主義も否定したことになり、メイ首相による独裁制のようなものだ。
要するに、この場合(下院の決定が不服な場合)は下院の解散総選挙を行い、その争点をブレグジット条件受諾の是非に絞り、新たなメンバーでの下院の議決で離脱条件を受諾するかどうかを決めるのが民主主義国家のあるべき姿だろう。
まあ、国民投票の時点で民意は示されており、粛々とそれに従うのが民主主義国家としては当然である。EUとの間での離脱条件交渉が不調なら、イギリスは勝手に離脱すればいいのである。その結果、英国経済が悲惨な状態になろうが、それは別の話だ。要するに、神様じゃないのだから、ブレグジットの結果など誰にも分かりはしない。しかし、民主主義において「民意が示された」以上は政府は民意に従うべきだというのは子供でも分かることである。そして議会制民主主義において、優先する院(英国は下院)の二度の否決を認めないのは議会政治の否定である。
(以下引用)
【ロンドン共同】英下院は14日夜(日本時間15日未明)、約2週間後に迫った29日の欧州連合(EU)離脱を延期することを賛成多数で可決した。延期確定には21、22日のEU首脳会議で全加盟国の承認が必要。ただ下院が2度にわたり離脱合意案を否決する中、延期しても歴史的なEU離脱の行方は見通せず、英国内の混乱や不透明な情勢は続く。
延期の可決は経済や市民生活に悪影響をもたらす「合意なき離脱」を回避し新たな道を模索すべきだとの下院の意思の表れだ。しかしメイ首相はあくまで否決された合意案を首脳会議前に3度目の採決にかけ何とか合意案に基づいた離脱の実現を目指す構え。PR -
・支配階級は官僚制の非効率と失費(非生産的な富の支出)を時に不満としながら、結局はその存在を許容し保護する。煩瑣で時に危険な統治行為を自ら行うことを回避できるからでもあるが、より重要なことは、官僚に自分の支配行為を代行させることによって、その支配が赤裸々な形で現れるのを隠蔽することができるからである。
・官僚制は公然たる階級支配のクッションであり、カモフラージュでもある。
(上島武「ソ連史概説」より)
単純な公務員批判が愚劣である、という意味で上記の引用をした。この「支配階級」はかつての王侯貴族であり、現在の巨大資本家であり、要するに「上級国民」である。官僚は彼らのただの道具でしかない。
ついでにもう一か所引用。多くの企業でも、巨大化すると官僚制的行動様式が生じるのはご存知のとおりだ。で、官僚制とは「組織の統治」の効率化が当初の目的であり、それが「宿命的に」非効率化し、腐敗する、ということが問題のポイントなのである。
「煩瑣な形式主義と繁文縟礼、上長への形式的な忠誠の表明が官僚の行動様式であり、同時に個々の官僚の資格条件となる。専門的能力の吸引、統治業務の効率化という官僚制本来の目的は、これによってその反対物に転化する。業務の渋滞、利権あさり、腐敗、これが官僚制の宿命的随伴物になる。」(同書より) -
誰かがこの問題にたった一言で答えていたが、「鎖国で解決」www
実際、そう思いたくなるから、私はグローバリズムに反対し、そして「鎖国しても日本は生きていけるし、もしかしたらもっといい社会になる」と思っているが、鎖国の是非や功罪を深く考えたことはない。いずれにしても、アフリカは西洋の侵略によって地獄に落とされ、今でも地獄にいるのは間違いない。
(以下引用)
shinshinohara @ShinShinohara
世界史でセポイの反乱を学んだとき、不思議な気がした。イギリスの綿製品が大量に入ってきて、インドの綿工業が崩壊、経済が大打撃を受けたと言うけれど。「イギリスは世界で初めて産業革命を成功させた先進国でしょ?だったら最先端の綿製品は、高くてインド人には買えなかったんじゃないの?」
2019-03-07 22:16:38
shinshinohara @ShinShinohara
ところがなんと、イギリスの綿製品はインドの貧しい人々が作る綿製品より安かったのだ。海を越えて運ぶ手間とコストをかけてもなお。そのために、インドの人々は、綿製品を手仕事で作るという貴重な収入源を失い、経済が大打撃を受けた。当時、イギリスの綿製品は世界のどこよりも安かった。
2019-03-07 22:20:34
shinshinohara @ShinShinohara
当時高校生だった私は、先進国の工業製品は、途上国からすれば高級すぎて、高価すぎて、手が出せないものだとばかり思っていた。自動車やパソコンは、当時、途上国では高嶺の花の商品だったから、「先進国の商品は、途上国には買えないほど高額商品」という思い込みが私の頭にあった。
2019-03-07 22:23:30
shinshinohara @ShinShinohara
ところが実際には、「先進国の商品は途上国の製品よりも安い」ということを知った。安いから途上国でも売れ、売れるから途上国に元からあった産業が潰れ、経済が破壊されてしまうのだ。
2019-03-07 22:25:40
shinshinohara @ShinShinohara
わざと安く商品を売ることで、相手国の産業を潰す行為を「ダンピング」という。まさにイギリスの綿製品は、インドからしたらダンピングだった。あまりにも安すぎる綿製品が国内に流通したインドは、綿工業を生業にしていた人達から仕事を奪い、路頭に迷わせることになったわけだ。
2019-03-07 22:28:21
shinshinohara @ShinShinohara
これと似ているのが、アメリカの食糧。アメリカの小麦やトウモロコシは、アフリカの貧農でさえ太刀打ちできないほど安い。穀物を育てていては、価格競争で勝てず、やむなくコーヒーなどの商品作物を育てる、プランテーションでの雇われ人になった。農家だったのに、給料で小麦を買う皮肉。
2019-03-07 22:32:49
shinshinohara @ShinShinohara
ところが、コーヒーの価格が下落するなどして、給料は低く抑えられた。すると、世界一安いはずのアメリカの小麦でさえ十分に買えない。しかしアメリカの安すぎる小麦の為に、穀物を生産する農家はなくなってしまってる。こうして、アフリカに飢餓が頻発した。
2019-03-07 22:35:56
shinshinohara @ShinShinohara
よく勘違いされていることだが、アフリカは食糧を作れないから飢餓が発生したのではない。穀物などの基礎食糧を作っても生活が成り立たないほど、小麦やコメの価格が下落したためだ。そしてその原因は、アメリカの安すぎる食糧が、世界中に輸出されたことによるのだ。
2019-03-07 22:38:24
shinshinohara @ShinShinohara
かつてアメリカ国内で同じ事が起きた。トラクターや化学肥料が登場し、大規模農家のトウモロコシの生産量が10倍になった。すると、トウモロコシの市況がだぶつき、トウモロコシの価格が暴落。小規模農家は、十分な収入が得られなくなり、農家をやめざるを得なくなった。生き残るには、自らも大規模。
2019-03-07 22:41:58
shinshinohara @ShinShinohara
大規模農家を目指す農家が増えると、みんなトウモロコシを10倍作るようになり、さらにトウモロコシ価格は下落。すると、さらに増産して自分だけ生き残ろうとするから、さらにトウモロコシ価格は下落。
つまり、トウモロコシの生産性を上げれば上げるほど、規模は大きいのだが儲からなくなった。
2019-03-07 22:43:52
shinshinohara @ShinShinohara
西部劇の頃の農家は、三世代を養っていたが、余剰食糧は12人分しか作れなかった。今のアメリカの農家は、10倍の129人分の食糧を作れる。しかし農業だけでは収入が足りず、補助金をもらい、奥さんにも働きに出てもらって、ようやく四人家族を養う程度。生産性10倍で、むしろ余裕を失った格好。
2019-03-07 22:47:09
shinshinohara @ShinShinohara
世界一の生産性を誇るアメリカの農業のおかげで、アメリカでは小規模の農家は生き残れなくなった。ただしアメリカは、工業が発達し始めていた。安い賃金ではあったが、働き口があった。しかしアフリカには、農業以外のめぼしい産業がない。そんなところに、世界一安い食糧を持って行ったらどうなるか。
2019-03-07 22:49:50
shinshinohara @ShinShinohara
食糧を作っていては生活できなくなる。だから農業をやめざるを得なくなるが、農業以外の仕事がない。コーヒーのプランテーションで働いても、十分な収入が得られず、安いはずの食糧さえ買えない。この構造が、アフリカにたびたび深刻な飢餓をもたらした。 -
野口悠紀雄(あまり私の好きな顔ではない)の「世界史を創ったビジネスモデル」という本を図書館から借りてきて最初のあたりを読んだのだが、この本の要点は
1:多様性の確保
2:フロンティアの拡大
を推奨することにあるようで、特に今の日本にはそれが必要という主張らしい。
分かりやすく言えば、グローバリズムを受け入れよ、という主張だが、前々から書いているように、私はグローバリズム否定論者である。しかし、グローバリズムの波はマルクス流(ヘーゲル流かもしれない)に言えば「歴史的必然」かもしれないし、グローバリズムの悪の面を何とか排除した形での受容も考察してみたいと思っているので、ここに「私の課題」としてその意図だけメモしたわけである。
なお、私の考えでは、グローバリズムを受け入れたら、国家の内実が大きく変化し、文化の混交と平準化が生じる。つまりそれまでの国民的文化特質と国民精神が滅び、外観は同じでも実質的に国家が消滅するわけだが、これ(国家の消滅)は実はマルキシズムの予見したところである。ただ、マルキシズムは「資本主義→社会主義」という段階を経て国家という存在が消滅すると見たのだが、現実は「資本主義→グローバリズム」という過程で国家の実質的消滅という事態が目前にあるわけである。EUは「国家消滅」の雛型だと言える。ブレグジットは、国家消滅への英国民の本能的な拒否反応だろう。
参考として別の本から引用する。赤字部分は徽宗による強調。
「ここで大事なことは、計画(徽宗注:ソ連の五ヵ年計画など)の主体を『国家』と規定することを『古典』(徽宗注:マルクスやエンゲルスの著作)は断固拒否したということである。それというのも、彼らの理論においては、革命後に国家は確実に死滅に向かうものと想定されていたからである。」(上島武『ソ連史概説』94P)
「プロレタリアートは国家権力を掌握し、生産手段をまずはじめには国家的所有に転化する。だが、そうすることで、プロレタリアートはプロレタリアートとしての自分自身を揚棄し、そうすることであらゆる階級区別と階級対立を揚棄し、そうすることでまた国家としての国家をも揚棄する」(同書中の、エンゲルス『反デューリング論』からの引用) -
「紙屋研究所」の、少子高齢化問題に関する記事の一部で、紙屋氏の「提言(赤字部分)」とその解説の部分である。
非常に明確な提言であり、その有効性も明らかに思えるが、政府(安倍政権)がけっしてやらないだろう、という悲観的な予測しかできないのが悲しいところだ。
(以下引用)青字部分は徽宗による強調。まさに、ここが非正規社員率の拡大についての最大の問題点だと思う。ではどうすればいいのか。
ぼくの提案は、最低賃金を時給1500円以上に引き上げた上で、住宅費と教育費を社会保障に移転することだ(この延長線上にはベーシックインカムもある)。
なんども書いていることだけど、正社員で年功序列の賃金体系では、年齢が上がるに従ってこの2つの費用を補填するために賃金も上がっていく。逆にいえば、非正規労働者の場合、この2つの重石が結婚して子どもをもつ展望を失わせる。
パートやアルバイトという短時間労働者であることが「悲劇」なのは、人間らしい生活を送れる賃金を得られないからであって、この二つが社会保障に移転してしまえば、短時間労働者でも「健康で文化的な最低限度の生活」に手が届く可能性がある。そうなれば、時短も一気に手に入れられるのだ。*1
かなり歪んだものであるとはいえ、教育は無償化の大きな動きが始まっている。
しかし、住宅費についてはようやく「セーフティネット」という形で部分的に始まったばかりである。公営住宅の整備(または民間住宅の借上げ)か、家賃補助(住宅手当)という形でこの動きを加速させたい。
そして、その原資は、大企業や富裕層から移転させろ、というのが左翼たるぼくの意見である(この点では前田は、高齢者福祉からの移転や「一人ひとり」への負担増という形で提案しており、明確にぼくと意見が違う)。
要は、労使関係に委ねられた雇用という形ではなく、政治ができる政策の形で少子化対策を急いでしなければ時間的に間に合わないのである。
労働時間規制については労働基準法通り「1日8時間」を厳格に守る体制ができればかなり有効な策にはなると思う。しかし8時間で暮らせる賃金を得るためには、やはり住宅費と教育費の社会保障移転は必須だろう。
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いつも、らちもない「分析と解釈」ばかりしているので、今日は、少し現実的な「世の中が幸福になる方法」を考えてみる。
まあ、要するに、「社会の不平等や格差の是正を資本主義の範囲内で実現する方法」の考察である。
そのひとつは、かなり前にビル・トッテン氏などが提唱していた「トービン税」である。つまり、株の取引きに、売り手買い手双方に対して1%の税を義務付けるというものだ。
これによって株取引という、現在では実体経済から遊離し、その規模が実体経済以上のものとなり、小国の国家予算以上の額が1日で動きながら、社会への貢献などほとんどない経済行為が制限され、それに使われるカネの一部が税金になることで実体経済のために使われるようになる。
仮に、安倍政権がこれまで行ってきた「株価維持行為」においてトービン税が存在していたら、その取引額の2%は税金となって国庫に戻り、まともな用途への使用が可能になっていたはずである。そして、買った株は国家資産になるのだから、これも完全な無駄にはならない。
しかし、トービン税を取らない場合、確実に儲けるのは、株の売買を一手に引き受け、手数料を取る証券会社だけである。そしてその背後にユダ金がいるのは確実だろう。
もうひとつは、インターネット上の取引に税を懸けることである。これは、アマゾンなどのネット取引が通常の「店舗を持ってそこに商品を置き、売買する」取引以上のものとなり、ほとんど怪物的な存在になりつつある今、早急に必要なものであり、それが無いと全国の「店舗商売」は絶滅するだろう。そうなった時に、店舗商売がやはり必要だ、と思っても遅いのである。
そもそも、ネット取引は詐欺や事故の温床になるだろう、と私は思っている。
そして、ネット取引に税を懸ければ、国家の税収がかなり増大するのは明らかであり、それを福祉に向ければ、国民の幸福度はかなり上がるだろうと思うわけである。
概して、現在の「不平等状態」(一般国民の不幸)は、商取引や税制における「見えない(水面下の)不正行為」が多いことに由来していると私は思っている。たとえば、農業や漁業など、「人間の生存にもっとも必要な産業」の収入が低く、「価値の無いものに価値があるように見せかける商売」が大儲けをしている、という状態が資本主義のどん詰まりの姿だろうし、それが現在なのである。
それを是正し、「国民全体の経済的平準化」を図るのが政府の本来の役目なのだが、そういう「全体の幸福」ではなく「一部の人間のみの幸福」に政府が奉仕するから、国民は不幸になる。 -
私は、書きながら考える人間なので、書いていない時には何も考えていないようなものだ。ほとんどの思考は「浮遊思考」であり、「断片的思考」であり、同じ事が断片的に頭の中をぐるぐる回っているだけだ。つまり、吉田兼好が言うように「思いは縁に触れて起こる」ものなのだから、何か文章を書いて、書いた部分から連想されることによって次の思索がつながっていくというのが「書きながら考える」ということであり、私はそれ以外にはまとまった思考はできないのである。
で、「暴力論」については、「暴力革命」を論じるために書き始めたのだから、革命と暴力についての一応のまとめはしておきたい。内容は書きながら考えていく。
実は、一昨日から深夜にネットテレビで「ドクトルジバゴ」を観ていたのだが、確かこれを見たのは高校生か浪人のころで、「えらく長いし、退屈な部分が多い映画だなあ」としか思わなかった。ロシア文学が好きで、この映画の原作はノーベル賞を取り、監督のデビッド・リーンは「アラビアのロレンス」などを撮った名監督らしいし、ラジオから流れる「ララのテーマ」はきれいだし、で、見る前の期待が大きすぎたからがっかりしたのだろう。それに当時はロシア革命などにまったく興味も無く、映画は娯楽としてしか見なかったのである。まあ、今でも基本的には同じ姿勢だが、若いころとは違って、子供向けの部分だけでなく、子供の気づかない部分にも面白さが見出だせるようにはなりつつある。昔見た時には、ヒロインのララ(ラーラ)が登場して間もなく悪党の中年男(ロッド・スタイガー)に強姦されたのにショックを受けたが、今見ると、ラーラは婚約者のいる身でありながら、その中年男に性的魅力を感じているのがその表情から分かり、実は強姦ではなく、和姦に近いものだったことも分かって面白い。若いころには普通の男はそういう女性心理など分からないし、分かりたくもないものだ。
まあ、何のためにこんな映画の話をしたかと言うと、もちろんこれが「ロシア革命」を背景にした物語だからで、これを見て私はロシア革命にかなりな嫌悪感を感じ、今に至るまでロシア革命には何の興味も持てなかったのである。ユダヤ資本のハリウッドが洗脳目的でこの映画を作ったとしたら、私に関しては大成功だったわけである。何しろ、革命前の庶民の窮乏状態のひどさや階級差別はほとんど描かれず、せいぜいがデモ隊への暴力が描かれるだけで、そのデモも「世間知らずの連中が抽象的な社会主義思想にかぶれて政府に反抗しているだけ」という印象なのである。その一方「革命の悲惨さと残酷さ」「革命下の窮乏生活と転落したブルジョア階級への民衆の憎しみ」は延々と描かれる。これでロシア革命には意義があったと思うのは無理だろう。
まあ、ロシア革命を否定的に描いていること以外は、「人間ドラマ」としてはなかなか面白いのだが、しかし、「死と貧困と憎悪」が話の大半である映画を娯楽として楽しめるのはかなりなサディストだけだろう。ただし、ロシアの風景のスケール感は素晴らしい。
3)革命と暴力
革命と暴力は車の両輪だ、と前に私は書いたが、その考えは変わってはいない。権力の座にいる階級が自らその権力を手放すはずはなく、その権力は法によって守られているのだから、暴力(不法な力の行使)以外には奪取できないのは理の当然である。ただし、私が「漸進的社会主義者」であることはだいぶ前に書いた通りで、その思想は変わってはいない。つまり、私は社会が(たとえば政治制度や行政組織の変革を通じて)漸進的に進歩していくことは望むが、革命という急激な変革は望まない、ということだ。と言うのは、暴力を肯定した形の変革は、それ自体「必要以上の残酷さ」を伴うからである。新たに権力を奪取した層は、その権力をふるう対象として、前の権力層とその追随者層(単なる役人やインテリ階級まで含む)に対して残酷な行動に出るのが、過去の革命の常であった。そして、革命による以上に人類を幸福にしてきたのが「福祉制度の発生と社会への浸透」だったのである。これは「漸進的社会主義の成果」だと私は思っている。
言うまでもないが、私は「革命の理念」はほとんどが正しいものだっただろう、と思っている。だが、実際の革命の姿は、恐ろしく残酷なものが大半だったのではないか。当然の話で、虐げられた階級は、それまでの復讐を上位階級に対して行うに決まっているからだ。人間性が天使のように善良ならば、そもそも革命などが起こるような事態にもなるはずもない。
そういう「人間性の底流にある悪」を思えば、暴力革命によって生じる悲劇がいかに理不尽なほど残酷なものかも容易に想像できるのである。
まあ、革命が起こる前に、福祉を重視した政策を採り、庶民生活を幸福にするような政治を行えばいいだけの話なのだが、「カネがすべて」という人間が社会の上位を占めると、いつ暴力革命が起こっても当然だ、という世の中になるのである。
以上で、「暴力論」は一応終わりとする。いずれ追記するかもしれないが、まあ、多分しないだろう。「日常の暴力と政治の暴力」の違いなどももう少し考察する気だったが、これは、「そのふたつはまったく別だが、実に混同されやすい」とだけ言っておく。もちろん、「暴力の実行よりも暴力を背景とした威嚇を有効に使う」という点は同じである。 -
まあ、半分は雑談みたいな小論だから、気楽な話から始めるが、この前、「赤い風車」という昔の映画を見ていたら、中に登場する酒場(ムーランルージュ)の歌い手の女が、軍服を着た若い兵士に一目惚れする、という挿話があって、「そう言えば、『高慢と偏見』でも、主人公の妹たちが兵士たちにキャアキャア言う描写があったなあ」と思い出した。今もそうかどうかはともかく、昔は「軍服」にえらい人気があったと考えていい。で、どうでもいいことを分析するのが私の趣味なので、そこから、「なぜ女性(特に若い女性)は軍服が好きか」と考えると、当然、それは軍服が力の象徴であるからだろう。いや、男でも軍服が好きな奴は多いだろうが、軍服には性的魅力(これは男の場合、力の有無で決まる)があるから女性が好むのだと思う。と言うのは、「高慢と偏見」の時代には、兵士になどなるのはロクな人間ではなかったからだ。博打で財産をすってしまった奴とか、罪を犯して家にいられなくなった若者などが軍隊に飛び込んだり、浮浪者が強引に徴兵されたのが当時の兵士である。つまり、カネがあるから女性に人気があったのではなく、「軍服」に惚れたのだ、と思うわけである。
で、軍服とは「力の象徴」である、というわけだが、それも「暴力性」の象徴だ。突然に人の死をもたらすものこそ暴力の最たるものだろうし、武器を手にし、その気になればいつでも人を殺せるのは、昔は兵士以外にはいない。だから女性は兵士に惚れるのであるwww
そこで、では軍隊の対極であるのは何か、と言ったら、「憲法9条」だろう、と話が飛躍する。しかし、憲法9条には「性的魅力がない」と思うわけである。理知的に支持者を得ることはできても、「無意識の中から惹き付ける」魅力が無いことを「性的魅力がない」とここでは言っている。自衛隊員を募集するのにミニスカートの軍服からパンツを見せている若い娘の萌え絵を使えても、憲法9条にはその手は使えない、というわけだ。
2)憲法9条と暴力
憲法9条は言うまでもなく「我が国は絶対に戦争をしません」という宣言であり、その後、「これは『自衛のための戦争以外は』、の意味だ」という解釈になった(もちろん自衛隊の存在を容認するための最高裁のまやかし。)が、要するに、戦争の否定であるのがもともとの内容だ。たしか、そのために軍備(戦力)を持つことも否定されていたのではなかったか。その文言と矛盾するのが自衛隊であるのは誰でも認めているだろう。ここが憲法改正(まあ、本当は改悪だが)論者の最大の攻撃ポイントであるわけだ。要するに、「自衛隊という軍隊が存在するのは事実なのだから、それを認める新憲法を作れ」という、ただそれだけが憲法改定論者の言いたいことである。他の事は、9条を廃止させるための口実でしかない。
で、日本が戦後70年以上もの長期の平和を守ってこられたのも憲法9条のおかげだ、と私やその他の平和主義者たちは主張してきたのだが、もちろん、安保条約があったためだ、と主張する人もおり、まがりなりにも自衛隊があるからだ、と主張する人たちもいるわけだ。
さて、どこまで行っても平行線である「憲法9条論議」だが、私自身、「力を背景としない正義は有効か」と言われれば即座に肯定することはできない。日常の暴力と政治的暴力はまったく違うが、敢えて比喩を使えば、町に出て、強そうな若者の悪行を目の前で見て、それに注意できるのは、それ以上の力を持つ者だけだろう。たとえば警官などである。警官は背後に「国家権力」という最大の力を持っているわけだ。まあ、それが下っ端警官まで守るとは限らないが、一般人から見れば、十分以上に大きな力である。
では、憲法9条は無意味か、となれば、当然無意味ではない。何よりも、それは「アメリカの戦争に(表向きは)協力しなくていい」という最大の名目になっていたからだ。9条がなければ、とっくの昔に日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも出兵させられ、軍事費の大半も負担させられていただろう。
つまり、「憲法9条」は、ガンジーの「無抵抗主義」みたいなもので、殴っても殴っても相手が無抵抗だと、殴る人間が周囲の非難の目で見られるから、殴るのをやめる、というわけだ。それが国家関係だと、「殴ったらこちらが非難されるな」というような行為は最初から避けることになる。これが「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」ということだ。
絶対的平和主義とは、「完全無抵抗主義」だから、キチガイのような相手に殴り殺される可能性というのがある、ということを重々承知の上でのみ採用できるのである。
そんなのは嫌だ、殴られたら殴り返したい、と思うのは自然な気持ちでよく理解できるが、では殴り返したらどうなるか、と言えば、「あの戦争」のようなことが再現されるだけのことだ、というのが私の言いたいことだ。要するに、国民の多くが戦闘や飢餓や病気で死に、家族も財産も失う人が厖大に出るだけの話だ。勝ったところでそれらの命が元に戻り、財産の完全な補償がされるわけではない。
では、無抵抗主義なら、どうなるか。相手国の奴隷にされるだけではないか、と言う人もいるだろう。さて、そうだろうか。今の世界で、戦争に負けた国の国民を奴隷にするようなことがありうるだろうか。せいぜいが、その国の資源の所有権が奪われるだけだろう。で、その資源の持ち主は誰かと言えば、「上級国民」なのである。では、戦争で死ぬのは誰かと言えば、「下級国民」なのである。
まあ、話が長くなるのでここまでにするが、憲法9条の「絶対平和主義」は、実は人々が考えるよりもはるかに現実的なものであり、何のコストもいらないという点では一番効率的な平和を作る手段なのである。 -
ウィキペディアから、ゾンバルトの項目の一部である。
この部分を読んだだけでも、私の考えにほとんど一致している。なお、私はゾンバルトの本はひとつも読んだことはなく、どういう思想家かも知らず、ゾンバルトの思想について調べたのもこれが初めてである。だが、下の引用部分(特に赤字部分)に似た発言をこれまでこのブログで何度かしたはずである。
おそらく、ゾンバルトの名前はナチスの敗北と共に「アンタッチャブル(不可触の存在)」視されるようになり、社会の表面からは埋もれていったのだろう。まあ、「焚書」にならなかっただけでも以て瞑すべしだろう。グローバリズムと新自由主義(強欲資本主義)への批判がどんどん強くなっている現在、私は、思想界における彼の復権は近いと見ている。
(以下引用)赤字部分は徽宗による強調。ユダヤ資本主義[編集]
ゾンバルトは社会主義に影響され初期には資本主義を批判していたが、やがて「資本主義の精神」のうち冒険的企業家的要素はドイツ人に、打算的ブルジョワ精神はユダヤ人に属するとした[5]。
1911年の『ユダヤ人と経済生活』で中世の封建制のキリスト教共同体は、近代資本主義に移行し、ユダヤ的な利益社会となったとし、人格的で自然なドイツ経済のなかにユダヤ人は嵐のように侵入し営利の優位を掲げたとした[5]。ゾンバルトによれば、国際的なネットワークを持つユダヤ人は地域的な伝統よりも経済合理性を重んじ、また市民権が剥奪されていたので政治でなく経済に注目し、近代資本主義の重要な担い手となった[5]。ユダヤ人は地域的でなく普遍的であり、国民的ではなく国際的で、具体的でなく抽象的である[5]。資本主義制度の創始者である砂漠の民族ユダヤ人は放浪的で抜け目がないのに対して、森の民族ゲルマン人は心がひろい[6]。ユダヤ教は悟性の宗教であり、感性と情感に欠けるため、自然の世界や有機的な世界とは対立し、合理主義と主知主義はユダヤ教と資本主義の特色である[5]。したがって、近代合理主義を推進したのはヴェーバーのいうようなプロテスタンティズムでなくユダヤ教であるとした[5]。資本主義とユダヤ教の本質は、貨幣によって表現され、貨幣と流通は社会関係を抽象化し、抽象化の精神はユダヤ人に具体化される[5]。彼はユダヤ世界と資本主義を同一視するという、ブルーノ・バウアーやマルクスらの考え方を再利用して、「太陽のようにイスラエル(ユダヤ人)はヨーロッパを飛翔した。そして彼らが来るところに新しい生命が生い立ち、彼らが退くところでは、今まで咲き誇っていたものはすべて荒廃に帰する」と述べた[7][8]。ゾンバルトのこの著書は友人のマックス・ヴェーバーから批判され、またヒトラーが資料として用いた[6]。
翌1912年の小冊子『ユダヤ人の未来』では、ユダヤ人はドイツの芸術、文学、音楽、演劇、新聞を牛耳っており、それはユダヤ人が聡明で器用であるからだが、このユダヤの優位性は放置すると取り返しのつかないことになる「人類最大の問題」であると主張した[7][9]。また、スペイン、ポルトガル、フランスも、ユダヤ人追放後の後遺症に悩み、さりとて、ユダヤ人とヨーロッパ人との同化や融合も自然の法則に反しており、ユダヤ人種と北方民族の血の融合は不吉な星に司られているとし、しかしドイツはユダヤ人なしにはやっていけないとゾンバルトは論じた[7][10]。ポリアコフは、こうしたゾンバルトの主張をアパルトヘイト政策であるとしている[7]。
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私は政治用語や社会学用語などの言葉のイメージが非常に気になるのだが、その中でも一番嫌いなのが「暴力革命」という言葉である。実にイメージの悪い言葉で、この言葉を使う人間は、それだけで死刑にされてもいい気がするwww まあ、そういう覚悟の表明として敢えて使うというアホ(その言葉を使うこと自体が革命に悪印象を与え、革命を遠ざけるのだから、「アホ」と言っている。)がいてもいいが、客観性を重んじる学者の世界ですら「暴力革命」という言葉は普通に出てくるのではないか。
そこで、暴力とは何なのか、少し考えてみたい。
1)「暴力」とは何か
辞書的な定義は「無法な力」「力づくの行為」(「デイリーコンサイス英和・国語辞典」による。)と書かれている。とすると、法律を背景にして行動する警察や軍隊を「暴力装置」と呼ぶのは不適切だ、となりそうであるが、それらの機関が「力」を背景とする国家装置であるのは自明である。とすれば、「法律を背景にした力」は暴力ではない、と一応は認められるだろうか。
では、「暴力革命」とは、「無法な力、力づくの行為によって達成される革命」という理解で、特に問題は無い、となりそうである。つまり、「暴力革命とは不法行為なのだから当然悪である」と思われそうだが、はたしてそうだろうか。少し、保留しておく。
さて、戦争は暴力か、ということを考えてみよう。普通の人間の感覚では、戦争こそは最大の暴力である、と思われるのではないか。しかし、戦争で人を殺しても殺人罪に問われることは無いのだから、戦争は「法的に殺人を許容するもの」であるわけだが、その対象が「敵国の兵士や人民」に限定されるというのが通常の殺人との違いである。(兵士以外の一般人を殺してはならないというのが建前だが、大量破壊兵器は兵士と一般人を器用に区別したりはしない。)戦争とは「法的に(殺人などの)悪が許容されている」ものだ、ということをここでは指摘しておく。
広い意味で「暴力」と「力」を区別するのは、その力が「何かに制御されているかどうか」だろうと思われる。そして、その制御主体は普通は「法律」であるわけだ。しかし、法律は抽象概念であり、その法律を実行する「暴力装置」が存在しないと機能しない。ここでは敢えて「暴力装置」と書いたが、それ以外に適切な言葉が無いからそう書いただけだ。
そして、警察や軍隊が機能しなくなった状態、つまり国家体制が崩壊した状況では、「生(ナマ)の暴力」が社会の表面に浮かび上ってくる。これが帝政ロシア崩壊期のロシア社会であったわけだ。そこでは、肉体的な力や武器を持つ存在が、その者がいる「小社会」を支配する。つまり、「暴力支配の社会」である。
この状態では議会そのものが無力な存在なのだから、背後に暴力を持つ者だけが国家支配の有力者になっていくわけだ。ヒトラーが権力を握ったのも、背後に暴力を持っていたからだし、ロシア革命も中国の革命も同じだろう。
基本的に、革命は暴力以外の方法では不可能だ、と見るのが正しいかな、と思われるのだが、イギリスの「名誉革命」もあるではないか、と言われるかもしれない。それが本当に暴力を背景としていないかどうかは疑問だが、あまり調べていないので何とも言えない。まあ、革命と暴力は車の両輪かな、というのが私の印象だ。
と言うのは、「現在の状態から利益を得ている人々がその国の体制の中枢にいる」わけだから、それを自分から進んで返上し、不利益を受け入れるというのは人間性から言って不可能な話だろう、と思うからである。それ(権力の穏健な移譲)が可能なのは、「法の支配」が健全に機能している場合だけだろうし、その法の支配者とは実は国家体制から利益を得ている連中なのだから、「法の支配」つまり「本当に客観的に正しい法律運用」はまず存在しない、と私は見ている。まして、権力を手放したら、次の権力者によって、前の権力者が死刑にされるのでは、権力を手放すはずがない。
最初に戻って、「暴力革命という用語は適切か」という問題を考えると、まあ、その時に存在した法律(形骸化はしていても)に反する行為によって政治権力を奪取するのだから、言葉としては間違ってはいないが、「時の政権の行う力づくの行為は暴力ではないのか」という疑問も残る、としておこう。つまり、「不法な」という言葉には法の絶対視が背後に存在し、それは法を執行する連中の不正義を隠蔽していることも多いということである。
極端な言い方をすれば、「法律もまた暴力装置である」とすら言えるかもしれない。その好例は「治安維持法」であるが、有害性の無い(ように見える)法律も「強制力を持つ」点では暴力装置だ、と見做すことも可能だろう、と極論を言ってみる。我々が、食い物にも事欠くような状態でも税金を払うのは、法律という暴力装置が我々を威嚇しているからであるのは誰でも認めるだろう。そうでなければ税金を払う奴などいやしないwww
で、法律とは社会体制の維持を目的として定めるのだから、その体制を破壊する行為は当然「暴力」行為であることになるが、その法律そのものが「現在の社会悪を容認するもの(たとえば、最初の方に書いた、戦争の容認)」であるならば、どこまでも法律に従うならば、その不正義は永遠に変革が不可能だ、となるわけだ。
ここに至って、「暴力革命にも三分の理はある」という結論が出てきそうだが、まあ、まだ「暴力革命の持つ悪」の考察はしていないので、もう少し結論は保留しておこう。
