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「私の闇の奥」というブログから転載。記事の書き手、藤永茂氏はたしか、理系の大学教授だった人で、現在、アフリカにおけるアングロサクソン支配の問題を中心に注目すべき記事を多く書いている。オバマの欺瞞性については、彼が大統領職に就いた直後から警告を発しており、世界政治への深い知識と見識のある人物の一人である。権力の飼い犬であるマスコミ知識人とはまったく異なる良心的知識人の代表と言ってよい。長い文章なので、その一部だけを紹介する。
日本の状況、世界の状況に対し、鋭敏な良心の持ち主ほど無力感や絶望感に襲われることが多いようである。私は、「汝の手に堪ゆることは是を為せ」(聖書の箴言より)というモットーで生きており、他人の評判とか評価、他人の愛情、他人の行動はすべて自分の努力ではどうにもなるものではないと思っているから、それらを気にすることもほとんどない。もう一つ、「行蔵は我にあり。褒貶は他人のこと」という勝海舟の言葉も私の生活信条の一つである。それが、この世の不如意や不条理から精神を守る秘訣でもある。これを言いかえれば、大昔のアニメ漫画「ポパイ」で、彼が口癖として言っていた「俺は俺さ」ということだ。原文では「私は私が在るところのものである」という言葉だが、それは、他人のことをあんまり気にしすぎるな、ということである。建設的な批判が実を結ぶかどうかは「他人のこと」であり、我々はそれに関与できない。しかし、批判はそれだけでも世界を良くする役に立つのである。
藤永氏も、(あるいは、彼に似た性格の人々も)もう少し気楽にしたらどうだろう。この世は悪に満ちているが、それと同時に様々な善にも満ちているのだから。
(以下引用。記事前文後文省略)
人間そのものに対して決定的な失望を私に与えたのはイスラエルの行動でした。今の若い人々には想像もつかないでしょうが、ナチ・ホロコーストは私の世代の人間にとって大変な事件でありました。人間の残忍性、一つの人間集団がもう一つの人間集団に加えうる言語に絶する残虐の抹消されえぬ証拠であり、その認識にもとづいて、その悪を徹底的に糾弾し、その悪からきっぱりと手を切るという選択以外に人類が進む道はないと、私たちは思ったのです。それは平和主義の考えなどというよりも、もっと実存的な個人的心情のレベルで痛感したことでありました。ところがどうでしょう。シオニズムを信じる人々は、ユダヤ人が受難したホロコースト、あるいは、ショアーは全くユニークなものであり、ユダヤ人以外の人間集団に対してイスラエルがショアーに類似の苦難を与えてもかまわないという立場をとって何ら恥じる所がありません。このことは、パレスチナ人には、イスラエル建国の直後から分かっていたことだったのでしょうが、「アンネの家」などの仕掛けに騙され続けていた愚昧な私がそれにはっきり気がついたのは、この10年ほどのことに過ぎません。残りの持ち時間が少なくなった私がすっかり落胆し、腹立たしい思いに苛まれる最大の理由の一つは此処にあります。
しかし、人間の残忍性について腹の立つことは他にもあります。それは日本人一般の、罪を犯したと思われる人々に対する残忍さです。テレビのニュースでは、犯罪の容疑者のことを伝える場合、ほとんど例外なく、容疑者の男性を「おとこ」、女性は「おんな」と呼びます。私の耳には、これはひどい差別語に響いて仕方がありません。容疑者はあくまで容疑者であるのですから、えん罪の可能性もあります。ただ普通に「その男性」、「その女性」と呼んだらいいではありませんか。腹立て爺として、ついでに申し上げますと、この頃流行のいやな言葉使いに従えば、“呼んであげたらいいではありませんか。” このやにさがった言葉使いが内包する “思いやり”の欺瞞性に私は身震いすることがあります。近頃、もう死んでしまった親が生きているかのように装って、長寿の祝い金や年金を貰い続けるという罪を犯した人々がしきりとニュースになりました。詐欺は詐欺ですから処罰されるべきですが、あれほど大ニュースとして取り上げる必要があったでしょうか。こういう、こそ泥的な罪人たちがマスコミで嗜虐的にいじめられる一方で、大掛かりな公金泥棒は野放しです。PR -
『西郷南洲遺訓』(岩波文庫)より、現代にも通じる部分を幾つか現代語に訳してみる。ただし、途中省略などがある。③、⑤、⑥などは現代の日本の退廃を予言しているようだ。
①政治を行うのは天の道を行うのであるから、ほんの僅かも私心を挟んではならないものである。心を公平にし、正道を踏み、広く賢人を選挙し、その職に堪え得る人を挙げて政柄を執らせるのが天意である。だから、賢人と認めたら、その相手に即座に自分の職を譲るくらいでないとならないのである。
②人材を採用するのに、君子と小人の弁別が厳しすぎると、かえって害を引き起こすものである。世間の人間の十に八九は小人であるから、その心を察し、その長所を取って小職に用い、その才能や技術を尽くさせるのである。しかし、藤田東湖先生が申されたことは、「小人ほど才芸があって、用いて便利なものだから、用いねばならないものである。しかし、それを長官に据え、重職を授ければ、必ず国家を覆すものであるから、けっして上に立ててはならぬものだ」と。
③広く各国の制度を採り、開明に進もうというならば、まず我が国の本体を知り、風儀を正し、その上でゆっくりと外国の長所を斟酌するものである。そうせずに、みだりに彼に倣うならば、国体は衰微し、風儀は退廃して救うことができなくなって、しまいには外国に支配されることになるだろう。
④文明とは道が広く行われることを称賛する言葉であって、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うのではない。私はかつてある人と議論をしたことがある。「西洋は野蛮じゃ」と私が言うと、「いや、文明じゃ」と抗弁する。「いや、野蛮じゃ」」と畳みかけると、「どうしてそれほどに申すのか」と問い返すので、「本当に文明ならば、未開の国に対したならば、慈愛を本とし、懇々と説諭して開明に導くべきなのに、そうではなく、未開蒙昧の国に対するほどむごく残忍の事を致し、己れを利するのは野蛮じゃ」と申すと、その人は閉口して言葉もなかった。(と翁はお笑いになった。)
⑤租税を薄くして民を豊かにするのが、国力を養成する道である。だから、国家多端で国家財政に苦しんでも租税の定制を守り、上を損じても下を虐げないものである。古今の事跡を見ると、国家財政が不足すると、小利口な俗吏を用いて巧みに民から金を集めて欠乏を補充するのを理財に長けた良臣とするが、これは過酷に民を虐げるものであるため、人民は苦悩に堪えかねて課税を逃れようと人を偽り、狡猾にふるまって、上下互いに欺き、官民が互いに相手を敵とし、ついには国家が崩壊するのである。
⑥正道を踏み、国を以て倒れてもよいというくらいの精神がなければ、外国との交際はできないものである。円滑を旨とし、意を曲げて彼の意に従順する時は、軽侮を招き、信愛の情はかえって破れ、ついには彼に支配されることになろう。 -
「阿修羅」に載っていた、ある本の紹介である。こうした事件から、思うことは二つ。
まず、一つめの事例では、「人間の皮をかぶったケダモノ」がこの世にはたくさんいる、ということ。もちろん、子供を虐待死させた義理の父親のことである。人間の3パーセントは、生まれつきの殺人者である、というのが私の持論の一つだが、こうした人間は死刑にするしか社会を守る方法はないだろう。
もう一つの事例では、政府の無為無策のために、死ななくてもいい人間が毎日死んでいる、ということだ。前の事例は人間個人の資質の問題だが、後の事例は政府が少し国民への思いやりをもてば、すぐにでも解決できる問題なのである。真面目に働いても食っていけないという人間がこの社会にはたくさんいる。それが毎年の自殺者3万人という数字に如実に表れている。実際には統計にカウントされない人数が、その倍はいると私は思っている。そして、それらの大半は、本当は経済的問題からの自殺だと私は推測しているのである。
こうした問題を他人事だと国民が考えている限りは、この国がよくなることはけっしてないだろう。
(以下引用)
不安のない生活が保証される国になる為に、必要なことはなんだろうか 『監察医の涙』上野正彦 ポプラ社 国民の生活第一とは?
http://www.asyura2.com/10/senkyo93/msg/740.html
投稿者 行雲流水 日時 2010 年 9 月 02 日 23:14:12: CcbUdNyBAG7Z2
「監察医の涙」
2010年6月12日 第1刷発行(現在第5刷)
■ 虐待
今回の検死は小学校低学年くらいのまだあどけない男の子だった。子どもの検死はどの監察医も嫌がる。やはり幼い子どもの死体を見るのはいくら仕事とはいえ辛いからだ。
東京都二十三区内に変死が発生すると、まず警察に届けが行く。警察ではその事件の内容を把握したうえ、われわれがいる監察医務院に検死の依頼がくる。監察医と補佐と運転手が日ごとにチームを組み、刑事や立会官などと共に死体のある現場へ急ぐ。そうして検死が始まる。
死因が検死だけで分からない場合は、遺体を監察医務院に送り、解剖当番の監察医が解剖する。検死と解剖は交代制で行う。
警察から、検死する遺体は「六歳の男子」などという情報が入ると、現場に向かう足取りが重くなるのは事実である。
男の子の死体と対面した時、まずその男の子があまりにもやせ衰えていることに驚いた。真一文字に口を結んでいる。その表情を見て、どのように死んでいったかきちんと真相を解明するからな、という気持ちになった。
私は検死を始める時、いつも必ず両手を合わせ、遺体に黙とうをしている。まず彼に向かって、気持ちを込めて祈った。
明らかに幼児虐待であった。体のあちこちに症と傷があった。タバコの火を押し付けられたような火傷の痕もいくつもあった。古い傷もいくつかあったから、かなり長い間虐待を受けていたことが分かる。
この男の子は母親が十七歳の時の子どもで、生まれたばかりの時は子どもと二人で生活していたが、最近になって母親に年上の恋人ができたらしい。母子はその男と一緒に暮らし始めた。その頃から母親の様子が変わった。
近所の人と会って挨拶をしても彼女は目を合わさず、うつむくようにして去っていくことが多くなった。いつも手をつないで出かけ、人当たりのいい母親で、近所でも評判の仲のよい母子であったのに、その男と同棲し始めるようになってから母子で出かける姿は見られなくなった。
そのかわり、男が声を荒げて叱る声がしょっちゅう聞こえるようになった。「ふざけるな」という声や、「ごめんなさい」という子どもの泣き声、「やめて」という声、ドスンという大きな音も近隣の住民が聞いている。ベランダに出され「お母さん、お母さん、入れてよ」と言って、窓ガラスを叩きながら泣いている男の子も目撃されている。
元気な人懐っこい子どもだったが、通っていた小学校でも口数が少なくなり、一人でいることが多くなった。
ある時、近所の中年男性が、ポッンと道端に座っている男の子を見つけた。声をかけようと男の子を見ると、頬がはれで傷付いているのに気付いた。
「その傷どうしたの。誰かにいじめられていない?」と尋ねると、「僕が悪いことをしたからお父さんに叩かれたの。でも僕が悪いことしたからなんだよ。お父さんもお母さんも悪くないよ」と笑顔で答えたという。
実の父親を知らない男の子にとって、彼が初めでの父親だった。叱られ、叩かれ、厳しく冷たい父親を、気丈にもかばったのだ。
しかし、男の子への虐待は繰り返されていた。
数日後、彼は脳に強い衝撃を受けて起こる急性硬膜下血腫で亡くなった。
「ご飯を残した」という理由で正座をさせられ、父親に頬を殴られていた。それも何十発も、一時間以上にわたって行われたという。お腹を蹴られたりもしていた。それが日常茶飯事に行われていた。
それを母親は怯えるような目で見ているだけだった。
逮捕された父親は、しつけの一環だと言って悪びれる様子すらなかった。
もしかすると母親も男から暴力を受けていたのかもしれない。それは分からない。何の罪もない子どもに暴力を振るうことは言語道断だが、それを止めずにそのままにして死なせた彼女も同罪である。
最近、児童虐待の疑いがあっても、学校や行政は踏み込んだ対応をせず、その結果子どもたちのSOSのサインを見逃すことが多い。
親から暴力を受けている疑いがあるという近所の人の通報を受け、行政がその家庭を訪れる。しかし、父親から「そんなことはやっていない、この傷はしつけのためにやっただけだ。もう二度としない」と言われると、「はいそうですか」とそれを鵜呑みにし、それ以上追及することをしない。
学校も行政も毅然とした対応で、もっと踏み込んで追及しなければならないと思うのだが、行政上は難しい問題なのであろう。
いかなる虐待を受けても、子にとって頼れるのは親しかいない。どれほど痛かったか。辛かったか。耐えるしかないそのような子を見ると、涙をぬぐわずにはいられない。
もう子どもの検死はしたくない。深々と黙とうする以外になすすべのない自分を情けなく思うのである。059
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■ 刑事の涙
忘れられない事例がある。
現場のある木造アパートの一室に行くと、小学六年生くらいの男の子と、小学二年生くらいの女の子の兄妹が母親の死体の前で呆然と立っていた。女の子の髪はきれいに切りそろえられてはいたものの、真冬の寒い時期だったにもかかわらず、薄いTシャツを着ていた。男の子はというと、シワシワのシャツに、つぎの当てられたズボンをはいていた。
数年前に父親が事故で亡くなり、その後母親が女手ひとつで幼い二人の子どもたちを育ててきた。その母親が子どもたちの前で突然死した事例であった。
死亡した母親は、何年も着ているのだろう、毛玉がたくさんつき、ところどころ虫にくわれた跡のあるニットを着て、ロングスカートをはいていたが、検死をしなくでも体の細さが見てとれた。
部屋はがらんとして物がほとんどなく、全体的に薄暗く、生活苦が見てとれた。あるのはちょうど三人座れるほどの卓袱台と、たたまれた一組の布団くらいだった。この布団で三人が寝でいたのだろうか。
流しには、洗いかけの食器が三つ残っている。よく見ると、その食器にはいくつも欠けたあとがあった。
そんな殺風景な部屋の片隅に、黒と赤のランドセルが置いてあるのが目に入った。
母親が子どものために苦労して働いたお金で買ったのであろう。自分が痩せ細ってしまうくらい楽ではない生活の中でも、子どもたちには新しいランドセルを何とか買ってあげたいという親心に胸が打たれた。
何もない部屋の中で黒と赤のランドセルが、やたら目立った。
二人は、横たわる母親の死体の前に立っていた。兄である男の子が妹の手をぎゅっと握りしめていた。
そして状況を呑み込めず「おかあさんはどうしたの? 病気? 何で寝ているの?」と泣きそうな顔で心配そうに尋ねる妹に対し、「大丈夫だから。大丈夫だから、心配しなくていいよ」と兄である男の子が繰り返し答えている。
「おかあさんが変」という男の子からの知らせを受けた隣人が通報したらしい。男の子は、涙を見せず、母親が亡くなった様子を淡々と刑事に話している。女の子は動かなくなった母をどうとらえているのだろうか。口をつぐんで兄の傍らに佇み、集まってきた私たちを不安そうに見ている。
この家族には親戚がない。残された二人の子には、まったく身寄りがなかった。母親が死んで、正真正銘この二人だけになってしまった。
男の子は泣いてこそいなかったが、どうしていいのか分からないという困った表情をしていた。お母さんがいなくなって、本当にこれからどうやって生きていけばいいのだろう。不安でいっぱいのはずなのに、妹のことを気遣う兄の姿に胸が締め付けられる思いだった。
男の子に話を聞いていた刑事が、話の途中で「ちょっと」と言って、突然その場から離れた。
刑事が泣いている。
「あまりにかわいそうで。うちにも同じくらいの子どもがいまして」と目を真っ赤にしているのである。普段感情を表に出さない刑事でも、残された兄妹と自分の子どもの姿を重ねてしまい、こみあげてくるものがあったのであろう。
刑事の涙を見たのは、この時が最初で最後であった。
検死の結果、母親は病死と分かった。懸命に働きすぎた過労死のようなものだった。男の子から聞いた話では、どうやらいくつかの仕事をかけもちして朝から夜中まで休みなく働きに出ていたらしい。時には明け方に帰ってくることもあったという。
男の子はいつも母親が帰ってくる音に聞き耳を立てていた。そして、ドアのガチャという音がして初めて深い眠りにつけるのだった。
「警察の人もいるし、区役所の人もいるから大丈夫だよ、何も心配することはない」と男の子に伝えた。何をどうしていいか分からず呆然としている幼い子どもに、「検死が終わったよ。これが診断書です」と従来通りのやり方で診断書を渡して帰るなんてことはできない。
区の民生委員を呼び、この子たちが安心して今後も暮らしていけるように面倒を見てほしい、どうか頼みますよ、とお願いして次の現場へ移動した。
あの時からもう四十年以上経つ。
今でもふと、その兄妹はどうしているかと思い出す時がある。兄妹のおぼろげな姿と同時に、黒と赤の二つのランドセルが鮮やかによみがえってくる。
民生委員と刑事に連れられ、日暮れの中を手をつなぎ、とぼとぼ歩く兄妹の後ろ姿が忘れられない。悲しい運命に遭った幼い子どもたちが、無事に成長し、どうか幸せに暮らしでいてほしいと願うばかりである。
不安のない生活が保証される国になるために、必要なことは何だろうか。023
上野正彦 うえのまさひこ
1929年、茨城県生まれ。医学博士。元東京都監察医務院院長。
54年、東邦医科大学卒業後、日本大学医学部法医学教室に入る。
59年、東京都監察医務院監察医となり、84年に同院長に就任。89年の退官後は法医学評論家として執筆、テレビ出演など幅広く活躍。厚生省医道審議会委員(死体解剖資格審議部会)、杏林大学医学部客員教授、日本被害者学会理事なども務める。代表作『死体は語る』は65万部を超える大ベストセラー。
株式会社ポプラ社
電話03-3357-2212(営業) 03-3357-2305(編集) -
少し長いが、「インド・パキスタン問題」の原点について書かれた「マスコミに載らない海外記事」の文章を転載する。要するに、植民地国家では、どこの国でも政府というものは自国国民のことなどまったく考えていない、ということであり、日本もまったく同様だということだ。
勝海舟によれば、明治政府よりも徳川幕府のほうが、よっぽど民衆のことに配慮していたということだが、我々が徳川時代を暗黒時代だと思いこんでいるのは、明治政府によるプロパガンダのせいにすぎない。同様のプロパガンダが常に民衆をコントロールしているのである。
イギリスの傀儡政権であるインド・パキスタン両国の政府の役目はアングロサクソン国家への奉仕なのであり、それは日本政府の役割がアメリカへの奉仕であるのと変わらない。
(以下引用)
2010年9月 1日 (水)
パキスタンの洪水、分割と、帝国主義者による圧政
2010年8月30日
先月、パキスタン領土の五分の一以上、耕作地の四分の一近くが洪水に呑み込まれ、国連幹部が、この組織の65年の歴史上で最大と表現する、人道的危機を生み出した。
住宅や仕事場の浸水、あるいは農作物や家畜の被害で、2000万人が被災したと言われている。南部シンドで、わずか過去数日の間に住むところを失った100万人以上の人々を含め、800万人のパキスタン人が、緊急支援を必要としている。
公式の死亡者数は現在1,600人を超えるが、洪水の水がひき、破壊の全貌が明らかになれば、遥かに大きな数になるだろうことが広く認められている。
国連や国際支援組織は、政府主導の援助活動が、清潔な飲み水や食料や避難所を、被災者のごく一部にしか提供できていないため、急性コレラや他の水系伝染病や、飢餓によって、文字通り何百万人もの人々が死の危険に瀕していると警告している。
これはとてつもない規模の惨事だ。とはいえ、1947年のインド亜大陸分割の結果、両国が生誕して以来、反動的な軍事的、地政学的対立で膠着状態にある、パキスタンとインドで、互いに対抗している国家主義的な資本家階級にとって、これはいつものことだ。
洪水がパキスタンを破壊してから二週間以上たって、インド政府はようやく、わずか500万ドルの支援金を“パキスタン国民との連帯の意思表示”だとして、イスラマバードに申し出た。
するとパキスタンは、“微妙な問題が絡んでいるので”と言い、申し出を熟考するのに一週間かけた。パキスタン外務大臣シャー・マフムード・ケレシが、パキスタン政府はニュー・デリーの支援申し出を受け入れると発表するには、インド首相がパキスタン側の相手へ電話をかけ、ワシントンがあからさまに催促しなければならなかった。
パキスタンで洪水に見舞われて苦労している人々への僅かな支援提供にまつわる外交的混乱に対し、インドでもパキスタンでも、マスコミのコメントは殆ど見られない。両国のマスコミはそれぞれが、自国政治家達の、国家主義的で、自民族中心主義的な主張をオウム返しにし、敷衍し、あらゆる類の社会的・政治的問題を、天敵の“ひそかな策動”のせいにしてきた長い歴史を誇っている
しかし、インド-パキスタン対立と分割こそが、現在の悲劇の根底にあるのだ。
1947年、インドから去って行くイギリスという植民地大領主と、インド国民会議派とムスリム連盟のブルジョア政治家によって、社会経済的、歴史的、そして、文化的文脈を無視して、亜大陸は、イスラム教のパキスタンと、ヒンズー教徒が大部分のインドとに分割された。
分割によって押しつけられた人為的な国境が、灌漑、電化や、全体的な洪水防止に向けて、南アジアの内陸水路を合理的に管理することを不可能にした。実際、世界銀行が後押しした、1960年のインダス河水利協定にもかかわらず、ニュー・デリーとイスラマバード間の争いで、水は主要論点の一つだ。
インドでもパキスタンでも、支配層エリートは、貴重な資源を戦争と核兵器を含む兵器に浪費することを好み、基本的な公共インフラを作りそこなった。インドとパキスタンは過去に三回宣戦布告された戦争を戦い、十年もたたない昔、四回目の瀬戸際までいった。
分割は、インドとパキスタンの支配層エリートによって、“民主的なインド”と“南アジアのイスラム教徒のための祖国”出現のための“産みの苦しみ”として受け止められた。これは、民族、宗教、あるいは、カーストが何であるにせよ、南アジアの大衆に対する、支配層エリートの酷薄な無関心を強調するに過ぎない。
分割の直接的な結果は、大規模な地域社会での殺りくであり、200万人ものヒンズー教徒、シーク教徒、イスラム教徒の死と、1400万人の強制移住をもたらした。これは人類史上、最大の集団移動だ。
ブルジョア・インドとパキスタンにおいて具現化した“自由”と“独立”は、分割が規定していたのであり、今も規定しているのだ。これは、単に常軌を逸したものどころではなく、二十世紀の前半、南アジアを激しく揺すった、大規模な反帝国主義運動に対する政治的弾圧直後の、唯一の残虐かつ、明白な直接的帰結だった。
マハトマ・ガンジーと、ジャワハルラール・ネールが率いたインド国民会議派は、自分たちのことを、イギリスとムスリム連盟が画策した分割と彼等が称するものによる無辜の犠牲者として描き出している。しかし、国民会議派のブルジョア指導者達が、亜大陸の全ての人々を一つにする、民主的で非宗教的なインドという自らの理想を、裏切ったのだ。それは、亜大陸の労働者と農民の共通の階級的利益に訴えることによって、下から南アジアを統一させるという戦いに対し、彼等が敵対的であり、また本質的に、そうした戦いを組織することができなかったからなのだ。
それとは逆に、第二次世界大戦後のインドにおいて、労働者階級と農民の闘争の高まる波と、イギリス・インド軍兵卒内部の明らかな不和が、会議派指導者に、社会革命を阻止するため、即座に植民地国家を支配する必要があることを確信させたのだ。
独立後、対立する両政権は、大衆を犠牲にして、ブルジョワによる支配を強固にし、農地改革を防ぎ、王侯達の資産を保護し、労働者の不穏状態を鎮圧した。
六十年たって、インドとパキスタンの対立する資本家階級は、南アジアで苦労して働く人々が直面している、差し迫った民主主義的、社会的問題のどれ一つとして解決できないという全くの無能さを証明している。世界の貧者の半数が亜大陸に暮らしている。栄養失調の住民の比率がこれほど高い地域は世界中で他にない。インドも、パキスタンも、国内総生産の5パーセント以上を教育と医療に費やすことをしていない。
分割とインド・パキスタン対立という反動的な論理を踏まえ、経済的に、これほど統合されていない地域は世界で他にない。
南アジアにおける資本主義支配の危機に対するいかなる進歩的解決策も提供することができないインドとパキスタンの資本家階級は、大衆を分裂させるため、益々、自民族中心主義、民族的-国粋主義、カースト制度、宗教的原理主義に訴えようとしているのだ。
分割は、帝国主義者による地域支配の仕組みであったし、またそうであり続けている。アメリカの冷戦において、ソ連との対決上、“前線国家”として機能して欲しいという、ワシントンの要求を、パキスタンの資本家階級は速やかに受け入れた。アメリカは、何度となくパキスタンの軍事独裁政権を、最近ではペルベス・ムシャラフ将軍のそれを、てこいれしてきた。アフガニスタンとパキスタンの国民にとっては壊滅的な結果をもたらしたのだが、1980年代、アメリカは、パキスタンの独裁者ジア・ウル・ハク将軍と組んで、アフガニスタンの親ソ連政権に反対するイスラム教原理主義という反対勢力を組織し、武装させた。
現在、国民感情に逆らって、パキスタン政府は、アメリカ-NATOによるアフガニスタン占領を支援する上で、極めて重要な役割を演じている。
冷戦期の大半、インドの資本家階級は、ワシントンからの“独立”を誇示していた。しかしこの対立も、駆け引きの余地をさらに大きくすることと、世界帝国主義との従属関係の折り合いをつけるためのものでしかなかった。過去十年間、アメリカは、アフガニスタンとイラクに対して戦争をしかけ、侵略したのに、インドの資本家階級は、ワシントンと、“グローバルな戦略的”パートナーシップを構築した。
冷戦中、自らの略奪的権益を追求する中で、アメリカは、インド-パキスタン紛争を永続させようとして、巧みに操作していた。最近アメリカは、ニュー・デリーとイスラマバードの間の緊張を和らげようと狙っている。それで、イスラマバードに、ニュー・デリーが申し出た、スズメの涙のような洪水見舞金を受け取るよう圧力をかけたのだ。
しかし、そうした行為は、アメリカの現時点での戦略的計算だけが動機なのだ。アメリカは、アフガニスタン国内の問題には、パキスタンの支援が必要であり、イスラマバードtインドとのパキスタン東部国境に、軍隊を派兵して、パキスタン国内の反占領勢力に対する対内乱作戦を強化して欲しがっているのだ。
天然ガスを、イランから、パキスタン、さらにはインドへと輸送する“平和のパイプライン”の計画をだめにしようとする企みではワシントンは骨惜しみをしていない。何故なら、そのような計画は、経済的にイランを孤立化させるというアメリカのキャンペーンを危うくするからだ。同様にアメリカは、印・米民間核協定は、南アジアにおける核軍備競争をひき起こしかねないというパキスタンの警告を無視した。なぜならワシントンは、インドを、戦略的パートナー、かつ中国への対抗勢力として何とか獲得したいからだ。
六十年間の独立が、地主制度の清算、カースト迫害の廃絶、宗教と国家の分離、国家統一と独立といった、民主的革命の基本的課題を、インドとパキスタンの資本家階級が実現できていない無能さを歴然と示している。こうした焦眉の課題は、永久革命という視点に基づいてのみ、つまり労働者階級が主導し、全ての粉骨砕身して働く人々と 虐げられた人々を受け入れる反資本主義闘争の一環としてこそ実現されよう。
南アジアにおいて、永久革命という全体像の主な要素は、南アジア社会主義合州国の設立によって、1947年の分割を下から清算する戦いだ。
Keith Jones
記事原文のurl:www.wsws.org/articles/2010/aug2010/pers-a30.shtml -
「阿修羅」に掲載された、千島学説という怪しげな学説に関する議論のコメントの中に、「世間の常識を疑うこと」「権威を疑うこと」「教育を疑うこと」という、私の主張に関係する議論があったので、転載しておく。11(14)は、私と似た考えの持ち主で、13(15)が私と対立する意見の持ち主である。つまり、13(15)氏は「常識は信じるべきだ」「権威は信じるべきだ」「教育は信じるべきだ」という思想の持ち主のようだ。文章からすると、理系の人間らしくみられるが、こうした信念の持ち主が多いから、世の中は一部の人間の思いのままに動かされるのだなあ、と溜め息が出る。もちろん、私などの考え方を「ひねくれた考え方だ」「陰謀論者だ」「トンデモ論者だ」と思う人も無数にいるわけで、そうした人々から見れば13(15)氏などが健全で理性的な考えに見えるわけである。そうした「健全な理性」の人々の作り上げた世界が現在の狂った世界なのだが。10、12のコメントは、ここでは不要なので、飛ばして読むのがよい。
(以下引用)
10. 2010年8月22日 17:06:29: O511otWCcI
薬害問題とはレベルの違うこれ程のデマを信じてしまうということは、義務教育に問題ありだな..
中学の理科で、造血器官が骨髄だ位のことは学ぶだろうに。
それとインターネットにはデマ情報が多いことも一緒に教えて、免疫を付けさせないと駄目だ。
11. 2010年8月24日 14:02:32: LYiNQVdMZU
まったくです。
義務教育そのものに洗脳が含まれているのですから。
小学校から大学までずっとそういう洗脳され尽くしてきたとなると、洗脳そのものが実態となってしまったようで、その反対になる異質な論はこの様なコメントで代表されるわけで、免疫つけるというは、鵜呑み教育制度に従順になれという事でしょう。
そんな戦時中じゃあるまいに。
21世紀はそんな時代の終焉期なのですよ。
あらゆる権威常識を見直して、残すのは残すが捨てなければならないのは捨てる!
このような意志が無いといけません。
本当の免疫力とは有用なものを残し、無用なものを捨て去ること。
それで丈夫な身体に、丈夫な心になれる。オツムもそうです。
もうレベル程度の問題じゃない。
ラベルを全部いっぺんは引っぺがして、最初から貼り直さないといけない。
医療世界はそれほどラベル違いが多いのです。
いちどご破算にしてから始めた方が早いくらいですよ、きっと。
と、寅さんレベルでもの申しておりますけど。
12. 2010年8月24日 15:59:59: L0TE8cTeWY
別に権威がどうこうではなく、単に千島理論は正しさを証明できず、千島理論の否定する骨髄造血や癌の細胞分裂、ウイルスの伝染などはちゃんと治療に役立つレベルまで立証された、というだけです。
現代医学に不信があるからといって、妄想に逃げこんでもどうにもならないのです。
13. 2010年8月25日 01:14:38: 6i0Cj58c76
11さんは、子育て終わって悠々自適。生来健康で医者要らずの文系の方と拝察しました。
この世には疑ってかかるべきこと多く、現に国内政治で起きている謀略紛いを目の当たりにすれば、
そのようにお思いになるのもむべなるかなと..
しかしながら、自然科学を世事と同列に論ずるは愚の骨頂であります。
義務教育の課程は世間で言われているような「暗記」(つまり真偽の程が判らぬままただ詰め込む)
ものばかりではありません。数学には公理(誰でも正しいと感じ取ることができるもの)があり,
その公理から、暗記するしかないと思われている公式の殆どは導きだすことができます。優秀な学生なら、
そのことを中学の段階で感得することができ、「公式は、忘れても直ぐ自分で導き出せる」楽しさを知ります。
そして、そのような生徒・学生は、少なくとも理系科目については自分が学んでいる内容はデマではないと
確信することができます。当たり前と感じる公理から導き出せる公式は、「当たり前」に正しいのです。
生命科学の基礎となる教科としての生物は、自分自身で教科書に書かれていることが正しいかどうかを
判断することは、中学・高校の段階では中々できませんが、彼らにとって数学や物理の公式が正しいことは
空気と同じ位当たり前のことと感じることができるため、生物学の内容も疑いもせず良く吸収し、
ご心配の「洗脳人間」ができあがります。その洗脳人間の一部が医学部に代表される生命科学分野に進学します。
中高と学んできた生物学が本当に正しかったのかどうかは、彼ら一握りの者たちによって確認される訳です。
彼らは患者さんの骨髄標本を自ら鏡見し、治療せず放置したら生命を危うくする白血病の患者さんが、
骨髄移植によって寛解に導けることを、多数の患者さんから実体験を通して体得して行きます。
なぜ「放置したら生命を危うくする」ことが分かるかというと、一方で病院に来ないでいつまでも
頑張っている患者さんが、手遅れとなって病院に搬送されてくる例を多く体験するからです。
「義務教育そのものに洗脳が含まれている」との考えは、子育ての終った無責任な方にのみ許されるものです。
貴殿に中学のご子息が居たとして、「学校で習うことは嘘ばかりだから勉強などしなくて良い」と
果たして言えるでしょうか?
人と違い、「細胞」はデータを捏造しません。自身や会社の利益のためにデータを捏造することは
断じて許されない行為ですが、そんなつもりのない一科学者が細胞を眺めれば、真実は目の前にあるのです。
14. 2010年8月26日 12:25:13: tAni8mIv8s
>13さん
11です。
常識あふれる、どこに出しても納得できるお話文で、これには真っ向から反論できない雰囲気を感じました。
まずはそのとおりかも知れません。
おっしゃる様にうがった見方で陰謀的に考える人と、ただ自然体に考えて矛盾を発見する人とあるようです。
ただ、12さんのおっしゃるように、癌治療にしても、ウイルス伝染に対応する現場医療をみていると、立派な言い分と実際の結果は違ってるんじゃないのか?
と、子供の様な素直な気持ちで見る方が分かりやすいのではないかと思うのです。
細胞分裂の映像についても裏を知ったら、それはちょっとおかしいと思う事が隠されているものです。だいいち、癌治療がそれほど効果あるのなら年々ガン死亡者が減って行くのが当然であり、少数集団でなく国民全体の数字統計で増加しているという紛れもない現実です。
その現実と理論が合わないのではないのか?とそこに疑問を持つことの方がまず第一歩であり、そこに洗脳教育があるのか無いのかは見直し作業が必要ですから、確かに断定は出来ません。
しかし、そこにある現実を重視して「なぜ治せないのか、なぜ増えて行くのか」という事実の解明をしなければならないと思います。
我々はずっと歴史的に教えられてきた常識に対して批判もしない、疑問も持たないとすれば真の学問の発展進歩はあり得ないと思います。
なぜ、その常識にはんする話しがあっても、そこでストップするのか?始めから排除しているのではないのか? 議論も対等な立場に置かないのは一体なぜなのか?
こういう事を考えて行くと、やっぱりそこには何か恣意的なものが隠されていると思うのは当然です。
それ以外に偶然だとか、既に医学上の結論が出ているからというなら、そこには、やはり洗脳教育の成果で「物事の正確な判断が出来ない」「既成論にとらわれて、公正な論議が出来ない」のではないでしょうか。
既に医学は進歩しきって論議の必要がないというなら、そこで終わりです。
その進歩しきった医学が治せない(例えば)癌は増えるのは仕方がないというなら、そこで終わりです。
まだ医学は進歩途上にあるというのなら、別の面からの異論を対等な立場にならべて比較検討する土俵が必要です。
「義務教育そのものに洗脳が含まれている」事はあると思います。
全部否定ではありません。一部あるでしょう。
ここの阿修羅掲示板はその国家教育さえ嘘捏造がある事を前提にしているのではないでしょうか。
そこから真実を探って行くという世界です。
最初からまっすぐ正しい世界だったらこの様な掲示板は無用です。
何が本当で何が嘘なのかを提示しているのです。
提示者の個性や生活など関係なく、本質はどうなのか?という事が主題なのです。
世界が、日本が常識だけで間違いなく回っているとしたら、ここの掲示板は御用済みなのです。
嘘や捏造があると思うから、その反対情報を提示して読者から考えて戴くという様な情報提供が大切です。
国家や学会が言っていることだけが真実なのか、マスコミが流す情報はまったく正しいのか、重要な情報を隠していないのか?
常に疑問をもって(ただ単純に世間に疑いをもつ不信感とは違います)、検証しあってそこから真実が導き出されるのです。
だから洗脳が含まれているから学校教育を全部否定するとかではなく、その中に嘘が含まれていないのかという事を言うのです。
既成事実だからと言ってもいくらでも間違いはあったという事はどの世界でも起きている事です。
医学の世界でも、それを指摘する人はいるのです。しかも専門家自身が言うのです。
ただそれが少数派だからと言って切り捨てるのは公正でなく、しかも医学の進歩を妨げる事になります。
医学はもう進歩の必要が無くなった。完成した。と言うのなら、後はもう異論は受け入れる必要はないでしょう。
そんな事はあり得ないのですから、癌治療の根本が間違っている」と主張する医学者が居たら、その立場の人に平等な場を与えてやらなければ、既成既得権威が異端者排除目的に、異端論を潰すだけの行為と見られても反論できないでしょう。
異端論でも医学会で発表できる様な体制が無い!
のですから。とても平等な世界ではないのです。「ある」といくら口で説明されても現実はそうではないのですから。
私は松下博士や牛山博士の国会証言記録を読んで、その対応をした国家公務員たる官僚やその関連の医師達が揃って行ったのが、徹底した「検証無視」だと知って、その時代から医学会の本質は少しも変わっていないと思うようになりました。
またコメント覧に書き込まれるいろいろな方のなかに、やはり同じ様な考え方で、そんなのは始めからトンデモ論だの、疑似科学だの、狂っているとか、最初から決めつけて相手にしない態度が多い事を知りました。
そういう人達は同じ土俵には登らせない。権力を利用して発表の場さえ制限する。
マスコミなどを使って市民にそのような偏向報道をさせている。
(マスコミは学会の権威筋の情報をそのまま鵜呑みして記事にする)
学会のデータでさえも、自己都合のよい方向に導き出す、都合の悪いデータは隠す、このような「科学的データ」を信用できないので、よそから持ってきた情報を提示すれば、それが疑似科学だ、そのような話しは極少数派であって、大多数はこうだから認められない。
これで大体終わりです。
また政界や省庁とも長い間のつきあいですから、そこを強力までさせるとすると、今じっさいに医療界、医学会は決して民主主義世界ではあり得ません。
また
「自身や会社の利益のためにデータを捏造することは
断じて許されない行為ですが、そんなつもりのない一科学者が細胞を眺めれば、真実は目の前にあるのです。」
という言葉も空虚に聞こえます。
もはや、WHOまでその様ないやらしい事が起こっているのですから、
「断じて許されない」などと言う言葉は既に死に体でしょう。
こんな事を論じても詮無しでしょうが、私は現在生き証人として松下博士の指導のまま実験検証して貰いたいと思っています。
また
最近では若手の医師もその異端論を実際に実験してみたら検証されたという話しを聞きました。
しかし、学会はハナから相手にしないという。
これではいくら立派な言葉をならべて主張し合っても無駄です。
その無駄話を書いてしまいましたが・・・
15. 2010年8月27日 00:53:51: vtOtje0Iu6
11さん、13です。
> その無駄話を書いてしまいましたが・・・
いえ、無駄ではないと思いますのでご返信します。
> 我々はずっと歴史的に教えられてきた常識に対して批判もしない、疑問も持たないとすれば
> 真の学問の発展進歩はあり得ないと思います。
仰るとおり同意します。疑問を持つことは重要なことと思います。医者や科学者になっても権威に屈せず
疑い深い人は多く居ります。そしてそういう人は時に大発見をし、学問を飛躍的に発展させるようです。
ただ、11さんのこの崇高なご主張が、このスレッド(元投稿の真偽性)にそぐわないのが私には残念ですが。
> 「義務教育そのものに洗脳が含まれている」事はあると思います。
> 全部否定ではありません。一部あるでしょう。
一部と仰るなら否定しません。歴史や文学など、立場によって評価が分かれる学問はそうかも知れない..
過去に起きた出来事をどう評価するかといったような分野もそうです。これは検証のしようがありません。
しかし、自然科学は後から誰でも検証できる学問分野なのです.
科学論文の構造は「これこれ、こういう方法でやったら、こんな結果が得られました」という形です。
後から誰でも、記載されている方法を真似して、結果を検証することが可能なのです。
> 異端論でも医学会で発表できる様な体制が無い!
これは、そう言っている方の誤解か曲解だと思います。
科学論文は「これこれ、こういう方法でやったら」の部分が正しく論理立てられていれば、
「こんな結果が得られました」の内容は不問です。勿論、結果に有用性が認められなければ没になります。
それは科学に限らず工学でも何でもそうなりましょう。何ら役に立たなければその研究は無意味ですので。
> 学会はハナから相手にしないという
具体的にどのような論文を投稿したか、発表されようとしたかを知らずに一概には言えませんが、
「これこれ、こういう方法でやったら」の部分に何らかの論理的な問題があったのではないでしょうか?
科学雑誌も大発見(インパクト)に飢えていますので、方法論さえ正しければ喜んで掲載となるはずです。
まあ、査読者(掲載前に内容をチェックするボランティアの科学者)自身の主張と相容れない内容だと、
意地悪されて掲載拒否の判定となることもあるでしょうが、他の雑誌に投稿すれば良いだけの話です。
査読者は毎回異なりますので、付け回されて永延と意地悪されることはありません。
方法論さえ正しく記載されていれば、余程結果が面白くない限りは掲載してくれる雑誌は幾らでもあります。
> 学会のデータでさえも、自己都合のよい方向に導き出す、都合の悪いデータは隠す
いずれ誰かに検証されてしまいますので、データを隠しても無駄です。捏造したらアウト!です。
万が一、データが捏造だったことが明らかになれば、後日その研究者は仲間から相手にされなくなります。
少し前にもTVでニュースになったような..韓国の先生でしたか..?
世の中、もう少し益しな人間で成り立っているとはお考えになれませんか?(政治を除いてですが..)
科学やってる連中はかなり益しだと思いますが..(私の率直な疑問です)
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植草教授のブログから転載。大元の出典名が最後に書かれている。日本の大偏向右翼新聞、「読売」がCIA御用達の新聞であることがよくわかる。これも一部の人間にとっては常識に属する話ではあるが、機会あるごとにこういう情報は広く世間に流す必要がある。それのみがマスコミによる大衆洗脳に抗する手段である。もちろん、読売だけでなく、今では朝日も毎日も、そして当然ながら超右翼産経新聞、日経新聞もすべて偏向マスコミであるし、テレビも同様である。
(以下引用)
さて、その戦争を煽りに煽った新聞社で、読売新聞の社主として君臨していたのが正力松太郎(CIAのコードネームはPODAM)であり、
また、朝日新聞の主筆として君臨していたのが緒方竹虎(CIAのコードネームはPOCAPON)である。
この二人は、戦後、一時的にA級戦犯としてその責任を問われるが、CIAのエージェントとして、アメリカをバックにつけて復権し、正力松太郎はメディア王として、日テレ、読売新聞を支配し、また、初代の科学技術庁長官にもなる。
緒方竹虎は政界に進出し、自由党総裁となって、総理大臣にあと一歩というところにまでなる。
要するに、戦前から日本を戦争のどん底に突き落とすことに加担した、マスコミの体質は変わっていないのである。
機密費の件にしろ、記者クラブの件にしろ。マスコミをウラで牛耳っている経営者、幹部にしても。だから結局、終戦直後のキャノン機関が関わったといわれている下山事件、三鷹事件などの真相も殆ど報道をされてこなかったし、
最近でいえば、日航機墜落事故の追及も やはり、なかなかされない。
重光葵、浅沼稲次郎、中川一郎をはじめとする政治家の不審な死も、マスコミはそれ以上は踏み込もうとはしない。
アメリカとの密約においても当然そうだ。
要するに、日本に報道の自由なんて実際はなく、戦前と同様に、権力側が統制している構造があるわけなのである。
これがマスコミの世界における「既得権との癒着」だ。
国民は なぜ不思議に思わないのだろうか?」
(ここまで「誠天調書」様からの転載)
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「阿修羅」記事より転載。インターネットの世界ではほぼ常識に近い判断が、表のマスコミに今頃出てくるのも愚かしいが、それでも、「我々」つまり、世間の「常識」を疑い、それに敢然と立ち向かう阿修羅たち(そういえば、「百億の昼 千億の夜」の阿修羅も、神や仏に対し、「ノー」を突き付ける存在だった。)の判断こそが真相であったことが、政治家や政府高官の口で確証されたことはなかなか画期的である。
(以下転載)
「鳩山はアメリカに辞めさせられた」んだってさ
http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/705.html
投稿者 有島実篤 日時 2010 年 8 月 30 日 18:20:47: JnUMLBjEgL1oc
歯医者で『週刊現代(8月21・28日合併号)』を読んでいたら、立花隆との対談で、野中広務がこんなことを言っていいます。
立花 (野中が)・・・鳩山が首相を辞めたのは、実はアメリカから要求されたからなんだと話されている。しかもアメリカは、単に鳩山に「辞めろ」と言うだけじゃなく、「小沢も道連れにしろ」と要求してきたという。あれはどの程度根拠のある話なんですか。
野中 その話は、アメリカ側の意向を鳩山さんに伝えた外務省の元高官から、私が直接聞いた話です。
・・・
『これからの日米関係のために、日本の総理を辞めなさい。ついでに小沢を降ろしなさい。それから普天間問題では沖縄に行って仲井真弘多知事に会い、辺野古案を受け入れる宣言をしなさい。それだけやって総理を辞めなさい』と。鳩山さんはそのメッセージに忠実に従ったことになる。
いかがわしい者同士の話であり、中身の真偽については確かめようがありませんが、それにしても、たとえ?流週刊誌とは言え、こんなとんでもないことが堂々と活字になっているのに、何の騒ぎにもならないというのはどういうことなんでしょう。
せめて「週刊誌の記事?そんなものどうせ根も葉もないことでしょう」ということであってほしいと思います。
よもや、「アメリカが日本の総理を辞めさせた?そんなこと今まで何度もあったし、みんな知ってることでしょう」なんてことでは絶対あってほしくないと願うのですが…、無理なんでしょうね。 -
ハンカチ王子はプロレベルか、という問題は野球ファンにとっては興味深い問題だが、彼が六大学野球で残した実績などからそれを考えてみよう。下記の数字が、4年春までの結果である。さて、この数字はかなり微妙である。念のために言うと、これはインターネットの六大学野球情報から取った数字だが、もとの表自体も失点と自責点の数字が逆ではないかと思われるなど、正確さの点では保証はできない。とりあえず、この数字がだいたいは正しいとして考えよう。
数字は、その母集団のレベルによって意味が異なるから、問題は現在の東京六大学のレベルがどの程度かということだが、おそらくはプロの二軍よりもやや下といったところだろう。あるいは、かなり下かもしれない。ノンプロがちょうど二軍レベルと考えていいと思う。なぜプロの二軍より下かというと、大学野球というものは、高校野球でのプロレベルの選手がドラフトで指名され、その「指名されなかった」残りかすだからである。ひどい言い方だが、大学野球からプロ入りできる人間のパーセンテージは、全体の一割もいないのだから、仕方がない。もちろん、東北福祉大などのような野球名門校には野球エリートが集まるが、東京六大学の中でプロが意識できるレベルの選手が集まるのは法政・明治・早稲田・慶応の4校だけであり、その法政・明治もかなりレベルが落ちている。下の齋藤佑樹の数字はそういう「実質的四大学リーグ」の中での数字なのである。
斎藤佑 48試合 25勝 9敗 286 1/3投球回 207被安打 5被本塁打 82与死四球 265奪三振 45失点 51自責点 通算防御率 1.60
さて、結論を言えば、現在の齋藤祐樹はプロレベルではない、と思う。甲子園を沸かせた頃の彼の力を10とすれば、現在の彼は7か8くらいだろう。そして、その力が10に戻る可能性は少ないと思う。もちろん、彼の野球頭脳、投手頭脳はすぐれたものがあるとは思うが、奪三振の割合を考えれば、彼には投手としての「武器」が無いと思われる。安定した制球力に加えて、スピードボールか、空振りの取れる鋭い変化球があってはじめて、投球技術が生きてくるはずだ。彼にそういう「武器」があるようには見えない。そこが、3年時から4年春にかけて、六大学でさえも彼が勝ち切れなくなっている理由である。25勝の大半は1、2年時のものなのだ。つまり、周囲は進歩しているのに、彼の進歩は無かったのである。むしろ、1、2年時より退化したのではないか。そういう人間が、プロに入ってこれから進化するとは思えないのである。
私は齋藤佑樹のファンだから、このような結論は残念だが、投手というものは精密機械のようなものであり、フォームが変化すると、そのフォームを全盛時に戻すことはほとんど不可能に近い。大リーグの松坂投手も肥満からフォームに微妙な変化が生じたのが今年の不振の原因だろう。そうなると、彼はもはや全盛時の状態には戻らないと私は推測する。齋藤佑樹の場合には、前に踏み出した足が突っ張るようなフォームに、なぜなってしまったのか、原因は不明だが、今のままではプロの一軍レベルになるのは難しいと思う。
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「阿修羅」記事の一部を転載。元記事の筆者伊丹万作は映画監督・脚本家で、その脚本「無法松の一生」は日本映画の名作の一つ。また、彼の息子伊丹十三も監督で、日本社会の暗部に関わる映画を撮ろうとして不審な「自殺」を遂げている。下に引用した「戦争責任の問題」は、言いかえれば「騙される側の責任」を批判した文章で、現代の日本人もまた、同じことを繰り返そうとしている。
共同通信という正体不明(本当は、その正体はだいたいわかっている。電通や大手マスコミ同様に国民支配装置の一つである)のニュース配信会社が、民主党党首選挙について「国民」は圧倒的に菅総理を支持しているというデマを流し、テレビが早速それを取り上げて、「政治と金」の問題に関して「説明責任を果たしていない」小沢が党首選に出るのはいかがなものかとアジテーションをしている。そしてそれを見た国民は、やっぱり小沢はまずいよね、と思うわけである。
これまで何度も騙されてきた通り、日本国民は今度もまた騙されるのだろうか。「ユダヤ・プロトコル」(それが偽書であれ何であれ、これは確かに愚民支配の最高の教科書だ)の教える通り、マスコミを握った権力は、思いのままに世界を支配できるという、この状況はいつまで続くのだろうか。
(以下引用)
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として
◎自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。
「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。
たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、
◎一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最小限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。
●だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、
●「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」
ことを主張したいのである。
だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。
我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。
これは明らかに
●知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。
つまり、●だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
また、もう一つの別の見方から考えると、
●いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたらとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
つまり
●だますものだけでは戦争は起らない。
●●だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らない
ということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、◎ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、
●◎あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
そして、このことはまた、同時に
●あのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の●奴隷根性とも密接につながるものである。
それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。
しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、
●彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、
一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、
私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
●◎「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。
いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。
この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、
それ以上に現在の日本に必要なことは、
まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、
だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
後略
ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー
TITLE:戦争責任者の問題│伊丹万作 -
ヤクルトスワローズの佐藤由規投手が日本人最速の161キロを出したということがニュースになっているが、神宮球場のスピード表示は他球場よりかなり高めに出るというのが定評らしい。実際、テレビで放映された「161キロ」の球を見ても、左打者の膝元にどろんと落ちるようなボールで、とても161キロには見えなかった。スピードガンは、高めのボールと低めのボールでは同じようには計測できないという話も聞いたことがある。要するに、この「161キロ」は神宮球場の夏の夜の夢だろう。
だが、ひとたびそれがニュースになると、それは一人歩きを始める。佐藤投手はこれからずっと「日本人最速投手」の冠がつくわけである。
あるいは、情報時代の現代だから、からかい半分に「神宮球場の」スピード王とでも言われるか。どちらにしても佐藤投手には責任のないことだが、あまりいい加減なスピード表示は、笑えない悲喜劇を作る可能性もあることだし、神宮球場の管理責任者は、同球場のスピードガンを信頼できるものにしてもらいたいものである。少なくともあの「161キロ」は、私の目には150キロそこそこにしか見えなかったのである。あれが161キロなら、江川投手の高校2年時のストレートは170キロはあったことになる。「夢の160キロ」が、こんな風に「達成されてしまった」のは、なんとも悲しい話である。
