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参議院選挙が始まって、沖縄でも4人の立候補者が選挙活動を開始した。とはいっても、例によってそのだいぶ前から売名活動は始まっていたのだが。
今回の選挙は、与党の民主党が沖縄選挙区に候補者を立てないという異常な事態になっているのだが、普天間基地の辺野古移設で猛反発をくらっている状況では、誰を立ててもどうせ勝てないと見たのだろう。しかし、そういう時こそタレント候補を立ててでも1議席を確保するのが、まっとうな政党だろう。つまり、民主党は、「勝たなくてもいい」という考えなのである。そして、それはなぜかというと、それがアメリカの考えだからである。
つまり、管・前原・岡田・北澤一派によって民主党の実権がアメリカの手に入った以上、日本の与党が民主党であろうが自民党であろうが、どちらもアメリカの意のままなので、かまわないということだ。
アメリカの政治において、共和党が政権をとろうが民主党が政権をとろうが、すべて財界の意のままに動くのと同じように、日本では自民党が政権をとろうが民主党が政権をとろうが、ジャパンハンドラーズの意のままなのである。これが保守二大政党制の結末だ。
去年8月30日の革命は、このままなし崩しに終わるのか。それともこの参議院選が新たな革命の起点になるか。日本国民の意地が問われている。PR -
日本経済は内部から西欧に侵略されていることの例証。コメントの09は、まさしく我が意を得たり、である。
(以下引用)
日産ゴーン社長の報酬8億9千万円…国内最高
日産自動車は23日、カルロス・ゴーン社長ら役員6人の報酬を開示した。2009年度の役員報酬は、ゴーン社長が8億9000万円だった。
ソニーのハワード・ストリンガー会長兼社長(4億1000万円、自社株購入権は含まない額)を大きく上回り、これまでに開示された国内企業の役員報酬では最高額とみられる。
横浜市で同日開かれた株主総会で明らかにした。ゴーン社長は「会社業績、役員個人の実績、他のグローバル企業の役員報酬の3項目を基準に、金額を算定した」と説明している。
役員報酬の総額は16億9000万円で、報酬が開示対象となる1億円を上回った取締役は計6人。ゴーン社長以外では、志賀俊之・最高執行責任者が1億3400万円、カルロス・タバレス副社長が1億9800万円だった。
(2010年6月23日13時05分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20100623-OYT1T00517.htm
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コメント
01. 2010年6月23日 15:10:25: UwrHtz29hY
日産の納税額はいくらだろうか。もし、ゴーンの年収に相応しくない納税額なら、これからは、いかなる企業であっても危機に陥った時は助けないことにしよう。潰して、新たな企業が生まれたほうが自然だろう。
銀行なども十分監視しよう。国民の血税を盗まれぬように。
02. 2010年6月23日 15:18:38: EJSjheLcHc
役員報酬は、1千万円以下で充分なのだ!
それだけあれば、人間は、充分幸福な生活が送れる!
逆に、それ以上になるとキリストが言うように天国は遠くなる!
西洋人てやつは、貪欲な連中だなあ!
江戸時代までは、日本人は下々から将軍まで、実に質素な生活をしていたが、
世界一幸福な国民だったのだ!
西洋の侵略者が来るまでは!
そろそろ、帰って行ってもらおうではないか!
03. 2010年6月23日 15:22:27: EXKWCXBGiA
自動車産業自体、衰退業種といわれている中で、しかもハイブリッド関連では
トヨタやホンダにかなり遅れをとっているにもかかわらず、この金額ですか。
ソニーにしても、主な日本の電気産業すべての利益をあわせてもサムソン1社に
太刀打ちできないのに、その金額ですか。
私には社長が毛唐白豚野郎というのと、他の毛唐白豚グローバル企業の役員報酬
だけを参考にこのような金額が算定されただけと考えますが...
毛唐白豚野郎の日本社長会なんて、石工組合日本支部あたりで、絶対ありそう??
04. 2010年6月23日 19:11:24: HbPDUassgc
単純な人ですから
製品は工作ロボットで
販売はセルフサービスで
人材は必要なし
究極の選択が好きらしい
発展型が模索できない人でした
05. 2010年6月23日 19:31:00: aQGjYjqhZk
ゴーンやらストリンガーやらがやってるから、いつまで経っても日本経済は回復しないのだ。
よくサムスンを鵜飼の鵜などと馬鹿にする連中がいるが、実際には世界中で破竹の快進撃を続け、トップは韓国人。
日本人は、少しは恥と言うものを知ったほうがいい。
06. 2010年6月23日 20:21:58: E56KEOKXbI
貧乏人は、みんな、ひがむ。
ねたみやね。
07. まるす 2010年6月23日 20:50:09: 3bEVsqHgPljbg: VhOvvU1bWw
>06さん
いいえ!このような報酬が一個人にもたらされ、かたや膨大な数の生活困窮者がいる。。。
これを社会的不正義といいます!
08. 2010年6月23日 21:21:26: 5CF5ADImkk
ゴンちゃんはルノーからも報酬もらっているのか?だったらもっとカネもらっているんだろうな。
09. 2010年6月23日 22:20:40: UPq0JUDhF6
外人にリストラしてもらうために呼んだんだよ。役員報酬無くせばリストラしなくて済むんだろうがな。ばからしい。 -
経済とは「経世済民」から来た言葉だと言うが、「経世」とは「世の中を経営する(おさめる)こと」、「済民」とは「人民(の難儀)を救うこと」らしい。つまり、経済とは「人民を救うために世の中を管理する方法を研究する学問」だと言える。ところが現在の経済学で、あるいは政府の経済政策で「済民」が真剣に考えられているだろうか。
世の中というものは放っておくと弱肉強食の世界になるものである。そこに人間らしい理性と道徳性を加味していくのが真の文明であり文化だろう。すなわち、「適者生存」という、単なる弱肉強食の原理を肯定しただけの(新)自由主義思想は、ジャングルの論理でしかないのである。言い換えれば、(新)自由主義とは「政府は口を出さず、経済界の好きなようにさせろ」という思想にすぎない。
しかし、自由主義とは誰にとっての自由なのかを見ずに、「自由」という言葉だけでそれを肯定する人間が、世の中には多い。経済界にとっての自由とは、実は一般国民にとっては地獄かもしれないのである。
いわゆるセーフティネットが存在しないままで規制緩和、つまり自由主義を推し進めるとどうなるか。現在の日本になるのである。
「派遣労働者法」が規制緩和の一つである。
派遣労働者法は経済界の要請によって作られた法律である。そしてあらゆる企業が派遣労働者を利用することによって日本の労働者の賃金水準はどんどん低下していった。(それは企業の利潤が増えたということでもある。)派遣労働者の存在によって正社員もまた労働強化に苦しむようになった。つまり、いつでも派遣社員に切り替えることができることが正社員には分かっているから、会社のどのような理不尽な要求にも従わざるを得なくなるのである。すなわち、日本の労働者は企業の奴隷と化してしまったのである。
かくして、現在の日本の会社の大半はブラック企業となった。ブラック企業とは、①社会に害悪を為す企業、②社員を非人間的に扱う企業、の二つの意味がある。日本の会社の大半は、①でなければ②だろう。それは、派遣労働者法から必然的に導かれた結果なのである。賢い官僚たちにこの結果が見えていなかったはずがない。だが、企業の要望に応えて彼らはこの法律を作ったのである。
つまるところ、経済組織(企業)とは一種の怪物(リヴァイアサン)なのであり、手綱をゆるめると社会破壊的な行動に突き進むものなのだろう。簡単に言えば、経済組織とは個人における「金儲けの欲望」が実体化したものでしかないのだ。それが本来の「経済」の名に値しないことは言うまでもない。その「悪しき経済」を動かす存在である経団連とは、人間のクズの集まりだと私は思っている。
(言うまでも無いが、世の中には良心的な企業も存在することは分かっている。だが、企業が大企業になればなるほど、利益追求が自己目的化し、怪物になっていくというのが事実ではないだろうか。そして、悪質な(大)企業ほど政治を利用し、国民全体に被害を与えるものなのである。現在の消費税増税の議論が経団連から持ち出された意見であることを、我々はよく覚えておくべきだろう。官僚たちが消費税増税で直接に利益を得るわけではない。消費税で利益を得るのは「戻し税」のメリットのある輸出企業なのである。) -
現在の世界が抱える最大の問題は、「人々に、いかにして職を与えるか」である。IT革命は幻想ではなく、実際にあったのだが、しかしそれは無数の人々の仕事を奪う結果になったのである。つまり、作業の効率化によって、これまで10段階くらいあった仕事が5段階くらいに減らされたならば、その削減された仕事に従事していた人間は仕事を失うのである。これが「効率化」のもたらすものだ。様々な仕事において効率化、すなわちリストラ(仕事の再構築)が行われた結果、無数の人間がリストラ(解雇:もちろん、これは世間一般の用法)されたということである。カルロス・ゴーンが日産を建て直したのは確かだが、そのために職を失った人間もたくさんいたわけで、その人々から見ればカルロス・ゴーンは疫病神でしかないだろう。もちろん、経営者の立場から見れば、不要人員を抱えることこそが悪なのだから、ゴーンを責めるわけにはいかない。しかし、問題は、それが全社会的に行われるとどうなるか、ということなのである。もちろん、現在の日本になるのである。
経済学では「合成の誤謬」という言葉がある。私なりの解釈では、それは「個々の事象においては正しい判断でも、全体として見れば間違った判断」ということだ。
現在の日本の不況は、まさしくその「合成の誤謬」にほかならない。(ついでに言うと、これはデフレ不況ではなく、庶民に金が無いところからくる不況である。デフレは庶民の購買力低下の結果として生じてきたのであり、不況の原因ではない。)個々の企業は合理的判断をしてリストラをしてきた。それはつまり、被雇用者に払う金をできるだけ減らし、会社が利益を上げるようにしてきたということだ。では、それを日本全体として見たらどうなるか。その結果は明らかであり、一般大衆の貧困化がどんどん進んできたのである。そうすると、庶民の購買力は低下するから高い買い物はできない。すると、企業は値下げ競争をするしかない。当然、デフレ状態になるのである。そして、企業そのものが売り上げ低下に苦しむことになる。これこそまさしく合成の誤謬そのものだろう。
この状態を変えるには、ケインズ流の大規模な社会政策が必要だろう。それこそ、日銀に金を印刷させてヘリコプターで庶民の頭の上からばらまくくらいの処方をしないと、この状態は変えられない。もちろん、ヘリコプター云々は冗談だが、たかだか子供手当て程度を「ばら撒きだ」と非難している自民党などには、貧困に苦しむ庶民の姿がまったく見えていないのである。
話が長くなって、「人々にいかにして仕事を与えるか」について論じる時間もなくなったが、菅総理の言う「福祉と経済政策のドッキング」は悪くない案だと私は思っている。ただし、「福祉や教育で金儲けをしよう」というワタミ社長のような連中をいかにして排除するかが問題だろう。 -
これまで10年近く使っていたパソコンが壊れ、新しいパソコンはまだインターネットにつなげないので、「徽宗皇帝の娯楽的語学ブログ」と「酔生夢人のブログ」はしばらくお休みにします。こちらの「徽宗皇帝のブログ」は、別経路で更新してますが、毎日の更新は難しい状況です。
少し前に保存してあった記事を今掲載して、「8月30日を日本独立記念日にしよう運動」の烽火としたいと思います。ご賛同の方が増えれば、先行きの怪しくなりかかった日本革命の方向を正しい方向に向け変える力の一つになるのではないかと思います。それでは、また会いましょう。
「阿修羅」より転載。少し長い文章だが、昨年以来の政治状況をわかりやすくまとめているのと、「8月30日を日本独立記念日としよう」という趣旨から、ここに転載する。すべて戦いには「旗」が必要だ。その旗とは、前に書いた「我に自由を与えよ。しからずんば死を与えよ」というような言葉などであり、その旗の下に人々の心は結集するのである。記念日もその旗の一つである。
では、その「独立記念日」には何をするか? 当然、日本が「真の独立をしていない」ということを歴然と示す沖縄米軍基地の前で、壮大なデモ行進をやるのである。できれば、日本全国から心ある人々が結集してくれれば、沖縄県民だけのデモよりも大きな効果があるだろう。夏休みのレジャーも兼ねて、今年の夏は沖縄で「独立記念日」を祝いませんか?
そうすれば、9月の民主党総裁選挙への大きなメッセージにもなるはずだ。米軍基地を黄色いリボンで飾り、花火を上げて、全員で「ヤンキー・ゴーホーム!」と三唱しましょう。
(以下引用)
植草事件の真相掲示板
投稿者:渡邉良明
投稿日:2010年 6月 8日(火)13時03分34秒
昨年の8月30日こそ、忘れてはならない、われら日本国民の独立記念日。―
本日(6月8日)、菅内閣(マッドマン氏の仰る官内閣)が誕生した。原口一博氏、亀井静香氏、細野豪志氏以外は、新自由主義を引きずる「従米派・芋ヅル内閣」といった感じである。上記の三氏が干されたり、封じ込められたり、あるいは排除されたりしないことを念じたい。
ところで、菅氏は、1980年の第36回衆院選で初当選した。それは、4度に及ぶ涙ぐましい挑戦の結果だった。若き日の彼は、確かに努力・精進の市民運動派・政治家だったと思う。
私事だが、在京中、若き日の私も、まだ清新だった若き菅氏を支援した一人だった。伸子夫人が、私の教え子(当時、市会議員)に伴われて、東京の寓居を訪ねて下さったことがある。しかし、後年、私は、菅氏に直にお会いしてみて、正直、幻滅を感じた。人間としても政治家としても、余り魅力を感じなかったからだ。伸子夫人の方が、まだましだと感じた。
菅氏は、山口県(宇部市)の出身らしく、高杉晋作の「人生、一度だけ」という言葉を愛する。その思いで、若き日の彼は、高杉の生き方を理想としていた。今回、この思いで、彼は、満を持して総理になったのだと思う。実は、今回の総理就任も、民主党代表になって、「3度目の正直」だった。たいへんチャレンジ精神に富む菅氏ではあるが、そんな彼の熱情と執念を、誰も否定はできないと思うのだ。
ところで、日本の政界には、「総理になりたい人と総理にしたい人(=なるべき人)」がいる。その数は、前者が99.9%、後者が0.01%ぐらいだと感じる。
菅氏は、明らかに前者であろう。正直、後者には、小沢一郎氏しかいないと思う。今までは、総理になりたい人(=政略だけは巧みな人)のオンパレードで、どれ程、日本の政治が官僚の言い成りになってきたことか。
正直、菅総理も、そんな狡猾な官僚たちの大きな蜘蛛の糸に絡め取られた“派手な蝶々”のように感じる。だが、実際は、そうであってほしくない、と心から願う次第だ。
菅氏が、今でも、「人生、一度だけ」を座右の銘になさっているのなら、官僚や閣僚(=取り巻き)に負けることなく、かつ自らの魂を奪われることなく、あくまで「日本独立」を目指して誠実・真摯な政治生活を送ってもらいたいものだ。
少なくとも、口先だけの団塊世代ではあってほしくない。たとえ優しくても、口先ばっかりの未熟な政治指導者など、鳩山由起夫氏だけで充分だ。
今回は、少し視点を変えて、「独立記念日」について一考したい。
アメリカの独立記念日は、周知のごとく、来月の4日である。1776年の同日、トーマス・ジェファーソンが起草した『アメリカ独立宣言』が、大陸会議で採択された。
米国民は、祖国の独立記念日を、それはそれは豪華絢爛たる花火で祝う。東京隅田川での花火大会も見事だろうが、アメリカの独立記念日のそれは、まことに鬼気迫る迫力だ。まるで、“戦争でも始まったのか”という思いにさえなる。実に迫力満点の祝日だ。
また、フランスの「革命記念日」は、7月14日である。1789年の同日、バスチーユ牢獄襲撃・政治犯の解放で、フランス革命の火蓋が切られた。この日は、日本でよく言われる「パリ(巴里)祭」の日でもある。
それでは、現代日本には、「独立記念日」に当たる日は無いのだろうか? ご高齢の方々は、2月11日の「建国記念日(かつての「紀元節」)」がそれだ、と仰るかも知れない。
つまり、紀元前660年、記紀における神武天皇が即位したとされる日で、この日が、旧暦の1月1日に当たる(Wikipedia 参照)。
しかし、正直なところ、現代の日本人(特に、若い方々)にとっては、2月11日の「建国記念の日」に、それほど親しみが持てるとは思えない。では、「その日」は、全く無いのだろうか?
私は、「その日」こそ、昨年の8月30日、つまり、民主党(社民党や国民新党を含めた)が、自公政権を圧倒して、政権交代(未だ、権力交代ではないが)の端緒を開いた日だと思う。
それこそ、律令制の時代以来、連綿と続いた官僚政治から、国民主体の政治の緒(いとぐち)が開かれたと思うのだ。
植草先生始め、多くの方々が語られる通り、その歴史的意義は、限りなく大きいと感じる。その意味で、来月に迫った参議院選挙を前にして、われわれは、今一度、昨年8月30日の衆議院選挙の果たした”歴史的意義”を、じっくりと再考すべきではないだろうか。
事実、昨年を、「日本独立元年」と位置づける識者も多い。リチャード・コシミズ氏は、その代表格であろう。氏の言に従えば、今年が、「独立2年目」ということになる。確かに、この年数の高まりに合わせて、われわれは、アメリカ帝国からの独立(=自立・自尊)の度合いを高めていくべきである。
その思想・運動の原点に、「日本、未だ独立せず」との認識を国民共有の思いとしたい。これは、今回の普天間基地移設問題を見れば明らかだ。
無論、この意識や運動の普遍化は、決して容易ではない。だが、「千里の道も一歩から」である。また、植草先生も記されたように、「有志者事竟成也(志が有れば、事はいつか成就する)」のだ。
どれほど時間がかかろうとも、「日本独立」への方向性は、決して間違っていないと思う。その大きな”一里塚”としての「昨年の8月30日」は、その価値を、どれほど強調しても、し過ぎるということはないと思うのだ。
実際、リチャード・コシミズ氏の後援会として、有志たちにより結成された「独立党」の党是は、「アメリカ合衆国及びその背後で糸を引く国際金融資本勢力からの日本独立」というものである(Wikipedia 参照)。
この気宇広大なる党是を、私は、決して破天荒なものだとは思わない。また、同党是を、笑いもしない。
むしろ、この党是は、明治維新以来、わが国が国際金融資本勢力から受け続けてきた搾取と隷属の実態を実に的確に突いていると思う。事実、植草先生が指摘される日本の「悪徳ペンタゴン」を背後で操る巨大組織こそ、それがロスチャイルドであれ、ロックフェラーであれ、この「国際金融資本勢力」なのだと感じる。
それゆえ、「真の日本独立」のための戦いは、私たち一代で果たせるものではないかも知れない。だが、志を強く持って、われわれが一致団結すれば、必ずや「日本独立」への道が開かれると思う。少なくとも、その先鞭をつけておくべきだと思うのだ。
ところで、私事だが、一昨年の春、横浜の或る会合で、高著『洗脳支配』(ビジネス社)で有名な苫米地英人(ひでと)博士が、「日本人は、史上、未だかつて一度も民衆(=国民)主体の政治を体験したことが無い」と語られていたことを、懐かしく思い出す。同発言は、昨夏の「政権交代」前のものである。
苫米地氏は、かつてのオーム信者(麻原の家族や幹部たちも含めて)を、その洗脳状態から解放したことで有名だ。
博士の言を裏返せば、われわれ日本国民は、昨年の8月30日、民衆(=国民)主体の政治を、日本史上初めて、自分の手中に収めたのである。この平和な無血革命を、日本現代史上初の快挙と言わず、一体何と言おう。
私にとって、昨年8月30日の「独立記念日」は、同時に、「革命記念日」でもある。この革命は、“選挙”を通して為された。それは、まことに民主的、かつ平和な革命だった。だが、この民主革命は、未だ成就していないのだ。
今回の「政権交代」の第一の立役者は、何と言っても、小沢一郎氏であろう。同氏の功績は、限りなく大きいと思う。だが同時に、小沢氏の個人的活躍だけで、事が成就したわけではない。
むしろ、「後期高齢者」なる非道な名を冠されたご高齢の方々や、常日頃、自公政治に辟易していた一般国民こそが、この長い間、閉ざされていた「天の岩戸」の扉を開けたのである。
言うなれば、この度の「政権交代」は、決して民主党員や労組員だけの力によるものではない。あくまで、国民の”総合力”によるものだ。
それゆえ、私は、次のように訴えたい。「民主党議員諸氏よ、昨年の壮挙を、決して自分だけ、あるいは自党だけの力に由るものと、錯覚する勿れ! また、決して驕る勿れ! そして、何よりも、初心忘るべからず!」と。
この国民の精神力と団結力によってなされた、昨年8月30日の「政権交代」(第一段階)こそが、新生日本の”独立記念日”と言えるのではあるまいか。
正直、今回のタイトルは、このような歴史的事情に基づいている。この重い史実を、われわれは、努々(ゆめゆめ)軽んじてはならないと思うのだ。 【了】 -
前の記事の参考までに。
中国の国内問題に、なぜアメリカが口を出す必要があるのか。それより、アメリカ国内の人権問題をどうにかするべきだろう。
(以下引用)
YOMIURI ONLINE|天安門事件21年、米が民主活動家の釈放要求 2010年6月5日10時51分
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100605-OYT1T00308.htm
【ワシントン=黒瀬悦成】クローリー米国務次官補(広報担当)は4日、中国で民主化運動が武力鎮圧された天安門事件から21年となるのに合わせて声明を発表し、中国共産党政府に対して、運動に参加したことを理由に現在も投獄されている民主活動家を全員釈放するよう要求した。
声明はまた、事件で殺害や拘束されたり、行方不明となった活動家に関する情報を公開することや、活動家や事件犠牲者の家族に対する嫌がらせをやめるよう要請。中国政府に対し、すべての市民の普遍的人権を守るよう促している。
(2010年6月5日10時51分 読売新聞)
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アメリカが天安門事件について中国に何か言っているようなので、参考までに町山智浩氏のブログより天安門事件の実態についての記事を引用する。
私も以前に天安門事件のことを書いたことがあったが、その時は、推理のみで書いた。その推理はほとんど正しかったようだ。「天安門広場」の外での虐殺については、まったく知らないので、今はコメントしない。この問題が教えるのは、およそ、「民主化運動」というものの背後にはCIAがいる、ということである。
(以下引用)
インチキというものは、放っておくと、トンデモないことになるという話。
天安門事件を覚えているだろうか。1989年、北京の天安門広場に集まった民主化を求める学生たちを人民解放軍が虐殺した、とされる事件だ。
「とされる」としたのはウソだからだ。当時、現場に最後まで残った朝日新聞のスペインのTV局の記者が後に「学生たちは安全に広場から退去し、一人の死傷者も出なかった」と証拠のビデオを提出し、世界のマスコミは天安門広場の虐殺は誤報だったと撤回修正した(死傷者が出たのは広場の外である。それに広場にいた学生たちが撃たれたわけではない)。
詳しい資料です。
http://www.kks.ed.ynu.ac.jp/sub03/murata-tian’anmen2.html
ここが重要なので繰り返す。
天安門[広場内]では一人の負傷者も出ていない。
NYタイムズ、ワシントンポスト、米三大ネットワーク、CNN、BBC、日本ではNHK、朝日新聞その他、全世界のマスコミは後に誤りを認めた。
「天安門広場で虐殺はなかった」
それは現在、公式の事実として国際的に政治レベルでも確定している。
しかし、虐殺という誤報はどこから発生したのか?
カメラマン今枝弘一(当時27歳)が撮った写真のせいだ。米TIME誌にも掲載されたこの写真は学生を踏み潰す装甲車と「説明」された。実際には犠牲者らしきものは見えないが、世界中がその「説明」に飛びついた。今枝は「日本のキャパ」と呼ばれ、一躍スターになった。
天安門虐殺が否定された頃、『宝島30』という雑誌をやっていたオイラは、今枝弘一に直接電話して真偽を追求した。すると彼は装甲車のキャタピラあたりに「テントに包まれた人間らしきものが」踏み潰されているように見えると言っただけだ、と弁明した。
で、オイラは尋ねた。
「今枝さんは、それが人間かどうか確認したんですか?」
「いいえ」
なんだそりゃ?!
そんないいかげんなことで世界は「天安門広場の虐殺」を信じ、人によっては今だに信じているのだ。
で、恐ろしいのは、後世には「天安門広場で虐殺があった」ということが歴史的事実として残るだろうということだ。
「天安門広場虐殺」と書かれた新聞雑誌が圧倒的に多く、その後の事実修正はひっそりと行われ、テレビや雑誌などではほとんど報道されなかったからだ。
特にひどいのは、現場に最後までいて死傷者なしで撤収する一部始終を一緒に体験した朝日新聞の記者が(つまり彼は今枝よりも長く深く学生側に入り込んでいた)「死傷者はいない」と社内で主張したにも関わらず、朝日新聞はなかなかそれを記事にせず、世間と同じように「虐殺報道」に乗り続けた。その記者が個人的に集会を開くなどで証拠を見せたりして苦労した末に、朝日新聞はやっと虐殺報道を修正した。
しかも、今枝の天才的なところが、彼自身は虐殺があった「ような」ことしか言っていないという点だ。
彼の曖昧だがサジェスティブなコメントに勝手に発情した世界のマスコミが、ただ装甲車が佇んでいるだけの写真を指して「民衆を戦車が蹂躙した衝撃の瞬間!」と叫び狂っただけだったのだ。
以上のような事実関係を『宝島30』に書いたら、当時はまだあった『マルコポーロ』という雑誌に「今枝弘一氏は“虐殺があった”とは言ってない。あの誤報道の責任を彼に負わせるのはよくない」というような反論記事が出た。
そりゃ、あんたのいうとおり、たしかに今枝は「虐殺があった」とは言ってないよ。けど、明らかに世間とマスコミを「虐殺」の方向に意図的に誘導したじゃん!
いまだに、天安門広場で学生が死んだと信じている人のほうが、後の「死傷者ゼロ」という報道修正を知っている人よりも圧倒的に多いが、信じてる人に「なんで信じてるんですか?」とアンケートしてみればいい。
6割以上が今枝の写真を理由に挙げるはずだ。責任あるよ。
それをかばうなんて、あんたもジャーナリストとしてどうよ?
その奇妙な今枝擁護記事を書いたのはたしか勝谷ナントカとか言う男だった。
「マルコポーロ」は、後に例のホロコースト否定トンデモ記事がきっかけでつぶれた(笑)。
現場の目撃者(しかも身内)を信じず、虐殺という「物語」を信じようとしたのは朝日新聞だけではない。
広場から最後の学生が安全に撤収するまでビデオカメラを回し続けたスペインのTVマンたちも「けが人ひとつなかった」と言ってもテレビ局は信じてくれず、彼らの映像を放送してくれなかった。彼らは今枝よりも長く現場にいて、証拠のビデオ映像があるのにだ!
人は証拠よりも自分の信じたいものを信じる。
だからスペインのTVマンたちは自分たちが体験した事実を証明するために一年近くかけてさらに証拠や証人を集めなければならなかった。
その証拠映像はドキュメンタリーとして編集され、NHKで放送されたが、日本のマスコミはそれをほとんど黙殺した。
「虐殺!」ということでさんざん盛り上がった手前、引っ込みがつかなくなったのだ。
しかも、今枝の写真に始まる「虐殺のイメージ」は単に誤報というだけでなく、その後の世界の中国に対する政策にまで影響を与えた。
やっぱり、どう考えても彼には大変な責任あるよ。
<追補しました>
「天安門広場の外では300人死んだのだから事件の本質自体は変わらない」と言ってる人もいるので、ついでながら言っておく。
それもまた「証拠や証言よりも、自分の信じたいものを信じる」ことなのだ。
この事件の本質は、世界が当時信じた「善意の学生運動を政府が軍で弾圧した」という単純な話ではなかったのだ。
死者300人について最も責任を負うべき者は、学生のリーダーだったのだ。
なぜなら、彼らは意図的に、軍の介入と「虐殺」を引き起こそうとしたと、アメリカの映画やテレビのインタビューなどですでに告白しているからだ。
そもそも政府にとって、北京に解放軍を入れるのは内外ともに悪い効果しかないことが明らかなので、絶対にやりたくない最後の手段だった。そのため政府は最後まで無血で学生を排除しようと説得していた。
しかし、学生側のリーダーたちは説得を拒み続けた。なぜなら彼らは「虐殺が必要だ」ったからだ。
1995年製作のアメリカ製ドキュメンタリー映画「天安門THE GATE OF HEAVENLY PEACE」(日本でもちゃんと公開済)で、学生リーダーの柴玲(チャイ・リン)が無責任にも、カメラの前ではっきりとこう言っているのだ。
「政府を追い詰めて人民を虐殺させなければ、民衆は目覚めない。だけれど、私は殺されたくないので逃げます」
彼女らは、政府と学生を煽って、なんとかして虐殺を起こそうとしたのである。そして、いざ軍が来るという情報を得ると、自分たちだけCIAの手引きでこっそり海外に脱出したのだ。
軍が入ってきた時、広場に残った学生たちは柴玲たちがいなくなっていることに気づいて呆然とした。
いつの間にか中国を脱出していた柴玲たちは見てもいない「天安門の虐殺」を世界のマスコミに向けてアピールした。
要するに今枝の写真は彼らの企みに利用されたのだ。
真実はそういうことだったのである。
はっきり本人が「虐殺させなければ」と言っている映像が残っている以上、
学生たちを踏みにじったのは軍の戦車ではなく、柴玲たちなのである。
柴玲が亡命後に最初にしたことは美容整形だった。
現在、アメリカやヨーロッパのTVドキュメンタリーでも、亡命した学生リーダーたちは「学生を利用し、事件の責任を負うべき者」として批判されている。そのうちのいくつかは日本のテレビでも放送されている。
また柴玲たちのその後を追ったノンフィクションも出版されている。
この事件で評価すべきは、柴玲たちの冷酷な企みにも負けずに無血撤収を成功させた学生たちと、柴玲たちが期待していたような最悪の事態を食い止めた軍側の指揮者たちである。 -
「月刊『日本』」上の山崎行太郎と佐藤優の対談の一部で、佐藤優氏が沖縄独立の可能性について述べた部分を転載する。(直接の元記事は「阿修羅」より)
私自身は基本的には沖縄独立論には与しない。なぜなら、現在の沖縄の文化は、多少の琉球文化の色彩はあるにせよ、その9割以上は日本文化であり、日本文化を母として育った人間がそこから離れることにはデメリットが大きすぎるからである。しかし、普天間基地移設問題に見られるような沖縄への差別待遇が今後も続くようなら、沖縄の人間は沖縄独立を現実的選択肢の一つと考えるようになってくるかもしれない。
実際のところ、普天間基地一つがたとえ県外や海外に移設したところで、沖縄の基地負担はそれほど軽減されるわけではない。普天間基地問題は「本土対沖縄」という基本問題の象徴にすぎないのである。沖縄の人間が望むのは特別扱いではない。沖縄を養子ではなく本当の子供として認知してくれということなのである。もちろん、佐藤優氏の発言中にもあるように、「日中両属」の歴史が沖縄にはあり、本土支配層の意識や無意識の中に、「あそこは日本ではない」という考えがあったために、現在の沖縄問題があるのだろう。しかし、「日中両属」は、日本の支配層が琉球を経済的に利用するためにそうさせてきたのである。要するに、「宗主国アメリカ対属国日本」のミニチュア版が「宗主国日本対属国琉球」であり、琉球が沖縄になった現在でも沖縄は実は支配層の目からは「異国」なのである。
しかし、再度言うが、現在の沖縄の人間は日本文化の中で育ち、精神は日本人以外の何者でもない。したがって、私は沖縄独立論にはそれほど魅力を感じないのである。たとえ独立によって政治や経済で自由な選択が可能になると言われようが、本土の人間が支配しようが沖縄の人間が支配しようが、支配者と被支配者の関係は変わることはない。かえってこれまで以上に暴虐な政治が行われる可能性だってあるのである。それよりは、2009年の「無血革命」によって日本がこれから変わる可能性に賭けるほうが、まだ期待はできるだろう。もっとも、菅政権はアンシャンレジュームの復活であるという疑いはかなり濃いのだが。
(以下引用。最初の「佐藤」の太字のみ補足。)
佐藤 本来、沖縄にはあまり「沖縄」としてのアイデンティティーは希薄です。久米島であり、座間味島であり、渡嘉敷島といった、島ごとのアイデンティティーは濃厚ですが、沖縄という行政単位に対する帰属意識は希薄なのです。ところが、大江裁判、教科書問題という、本土(内地)から中国や韓国に対するような視座で批判されるようになった結果、「沖縄」という意識が醸成されつつあり、これは、放っておけば、沖縄独立論につながります。私はソ連崩壊の過程でどのようにバルト三国が独立したかを見てきましたが、同じことが沖縄でも起きる可能性があると思っています。その土地のエリート五十人ぐらいが独立を本気で考えれば、独立に振れてしまうのです。知事が総理になりたいと思い、渉外部長が外務大臣になりたいと思い、県会議長が国会議長になりたいと思い、県会議員が国会議員になりたいと本気で思うようになると、案外独立は早く実現します。
外務省というところで行政官をしていた悪い癖で、損得を勘定してしまうのですが、沖縄が独立した場合、尖閣諸島のガス田とEEZ(排他的漁業圏)の漁業権による収入で、クウェートのような国家として、沖縄は独立可能でしょう。そして、そこにほぼ確実に中国が介入してきます。こうした実務的なことも踏まえて、今の一部保守論壇の沖縄に対する態度というのは危険だと思うのです。
――沖縄の独立がありうる、ということですか。
佐藤 そうです。沖縄で気をつけなければいけないのは、あそこには、本土と異なり、易姓革命思想があるということです。もっと平たく言えば、長いものには巻かれろ、という感覚があります。沖縄は歴史的にも、中国の冊封体制と日本の幕藩体制との間で揺れ動いてきました。琉球王国は、幕藩体制のなかでの「異国」だったのです。このため、沖縄の歴史書である『中山世譜』は漢文体、『中山世鑑』はかなを交えた読み下し文で書かれています。このことからもわかるように、歴史も中国と日本の間でふたまたをかけています。日本と一緒にいる方が得だから日本に所属しているけれども、今回のような教科書問題などを契機に、日本と一緒にいてもろくなことはないんじゃないか、天命が変わりつつあるんじゃないだろうか、という流れが起きてもおかしくありません。これをなんとしても食い止めなくてはならない。
大田実海軍中将が玉砕にあたって東京に送った電文は「沖縄県民斯く戦へり。県民に対し後世特別の御高配を賜ることを」と結ばれていますが、大田中将が心配していたのは、まさに今のような状況なのではないか。これは情緒的なものというよりも、ものすごく計算されたもので、沖縄を日本につなぎとめておくためには特別の配慮が必要なんだ、ということだと私は解釈しています。 -
日本の富がアメリカに収奪されていることとは別に、日本全体、あるいは世界全体の労働構造の変化と、それに伴う大衆の貧困化という問題がある。
それは、言葉を変えれば「物から情報へ」という変化に伴う労働構造の変化とその影響である。これには過渡期的な部分(短期的問題)もあるが、全体としては世界全体の本質的変化である。そして、それに伴って世界人口の大半は貧困化を余儀なくされる。
貧しい生活の不満のはけぐちにテレビでサッカーを見て喜び、子供たちは貧しさから脱出する手段として将来はサッカーの名選手になることを夢見る。現在のアフリカの庶民の生活が世界全体の一般的な庶民の姿になるのである。ヨーロッパの庶民生活もすでにそれに近いものだし、日本もそうなりつつある。
つまり、労働先進国は未開発国と同じ姿になり、中低開発国(中国、東南アジア)はこれからしばらく発展した後、ヨーロッパや日本と同じになるのである。
もちろん、低開発国の優位性は労働賃金の低さによるものだから、現在の中国ですでに賃金闘争が起こり始めているように、その優位性は長くは続かないのである。
では、世界の貧困化、あるいは富の二極分化はなぜ起こるのか。それを資本家による収奪の結果だと見るのは単純すぎるだろう。もちろん、結果としては世界人口の大半を占める中低所得層から高所得層への富の転移が生じているのだが、それは世界歴史上の常態であって、今に始まったことではない。それより大事なのは「労働構造の変化に伴う貧困化」である。
それは、簡単に言えば、「技術革新によって労働構造が変化し、その結果、これまでの労働の多くが不要になり、人口の大半は貧困化を余儀なくされる」ということである。つまり、「技術革新によって社会あるいは世界全体は貧困化した」ということになる。
昔、マニュファクチュアの頃に工場に機械が導入されると、工場労働者は、機械は自分たちの仕事を奪うものだと言って機械を打ち壊すという行動に走った。これを「ラッダイト」と言うが、彼らの考えは正しかったとも言える。ただ、その当時はまだ技術革新が未開の段階だったので、新しい技術革新に伴って新しい仕事が生まれる余地があった。しかし、現在の技術革新は、「これまでの仕事を不要にするが、新しい仕事(労働市場)をほとんど生まない」のである。なぜなら、ITによる仕事の効率化とは、労働者に対してこれまでの仕事に加えて新しい仕事を負担させていくだけで、そのための人員を増やすことはないからである。だからこそ経営者から見れば「効率化」になるのだ。これを労働者から見れば実は「労働強化」にほかならない。これがIT革命の正体なのである。
IT労働者が「IT土方」と言われていることを知っている人も多いだろう。ITは誰に富をもたらしたのか。そして、それはなぜなのかというと、上に書いたとおりなのである。
IT化によって中間管理職は不要になった。仕事はITで指示し、その報告をITで受ける。労働者のほとんどは末端労働者であり、ごく一部の管理職がいればいい。したがって、その一部の管理職には高給を払っても、全体としての賃金は極端に抑えることができる。その待遇に不満を言う社員は、どんどん首にしていい。なぜなら、それらは取替え可能な未熟練労働者だからである。仕事そのものはマニュアル化されており、いつでも労働者の取替えはできるのだ。
「物から情報へ」という変化について幾つかの例を挙げよう。たとえば、「書籍」や「CD」という「物」が、現在では「情報」オンリーになりつつあることは多くの人が感じているだろう。それに伴って、そういう情報の「物」部分の製作に従事していた人々の労働市場は失われるわけである。絵画もそうだ。コンピューターグラフィックスが絵画の主流となれば、絵の具や筆やキャンバスなどの「物」を作る仕事はどんどん不要になっていく。
つまり、我々のこの世界はどんどんヴァーチャルリアリティ化しつつあり、ヴァーチャルリアリティこそが現実の中で主要な位置を占めつつあるのである。ヴァーチャルリアリティは流行語といった次元の問題ではない。
そして、何よりの問題は、こうしたイノベーションによる世界全体の労働構造の変化と、それに伴う世界の貧困化なのである。この問題を解決しないかぎり、世界の未来は暗い。
問題解決の道筋だけを言えば、やはり最終的には「富の配分の適正化」になると思うが、あるいは「新しい労働市場の可能性」を誰かが考え出してくれるかもしれない。それを期待して、この問題提起を終わろう。
