-
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
-
*才能というものはまさしく天の与えたプレゼントであって、親からの遺産と実質は同じである。中には、運動能力などのように、まさしく親からの遺産(遺伝)である才能もある。ということは、親の遺産で食っている人間がそのことを誇れないように、才能を与えられた人間は自分の才能について威張る資格は、実は無いということである。それが威張れるのは、天から与えられた才能を開花させる努力を本人がやった場合だけであるが、しかしその場合でも、彼に与えられる賞賛はその努力に対してのものである。なぜなら、それだけが彼のした事であるのだから。
*薔薇が薔薇として生まれたことは、彼の幸運ではあるが、彼の功績ではけっしてない、ということである。更に言えば、薔薇を菫よりも価値があるとするのは、慣習的価値観にすぎない。
*インディアンスの名三塁手アル・ローゼンの言葉。
「人生というものには能力の不平等がある。十五、六人の選手がいれば、そのうちニ、三人はものすごく傑出している。
これは実社会に出てみても同じことだ。医者でも弁護士でも、必ず二、三人は傑出したものがいる。それを野球で少年たちはまず教えられたのだ。といって、普通の能力しかない選手をかわいそうと思ってはならない。能力がなければそれなりに努力する……。私の場合も、自分の能力の限界を知っていたし、その限界のなかで努力した。そうしたなかで集中力、そして根性というものを学びとった。それ以外に才能が無いものに対して集中する……、負けると思っても努力してゆく……こうした精神的な強靭さが、才能や能力以上のものを産み出してくれるのだ。」 (ギル・ホッジス著三原脩訳「ギル・ホッジスの戦法」より、一部改訳)PR -
先ほど書いた記事の中で、野坂昭如の「如」を「之」と書いてしまい、今訂正したところである。
人の名前は難しいが、それにしても昔の人は漢字力があったなあ、とも思う。五木寛之の「之」も「野坂昭如」の「如」も「ゆき」と読むが、実はどちらも「行く」意味である。つまり、「行く」という字の代わりに「之く」あるいは「如く」と書いてもいいわけだ。こういう知識があると、高校生や浪人生などは漢文での得点力が上がるのだが、現代人は薄っぺらい合理主義者ばかりだから、「行く」という意味の字は「行」だけ覚えればいい、と考えるのではないか。そういう「合理主義」は確かに生活を簡便にはするが、それによって文化は貧相なものになっていくのである。
まあ、現実の人間と恋愛するのは面倒だから、小説などを読んで脳内冒険で間に合わせるというような合理主義は、それはそれで平和な世の中を作りはするが、文化とは余剰や無駄の別名でもあるから、そういう状況では余剰や無駄に基盤を置く資本主義そのものが死滅することになるはずである。 -
あまり年齢のばれるようなことは書きたくないが、私が若かった頃は、時代の先導者とでも言うべき人が多かった。三島由紀夫、澁澤龍彦(澁も澤も旧漢字で面倒くさい!)、五木寛之、野坂昭如、筒井康隆といった面々は、マスコミの寵児であるとともに、若い人々への知的啓蒙者の役割を果たしていたのである。彼らの文章を通して、我々は様々な知的世界へと導かれていったわけだ。
今、そういう存在は誰かいるだろうか。
現在の人気作家は、ミステリー小説の書き手がほとんどである。そして彼らの作品は驚異的な取材と資料を咀嚼して書かれているものが多い。だが、その中には一人の三島由紀夫も澁澤龍彦もいない。つまり、無知な若者を知の世界に導く存在はいないのである。
その結果がどうなるか。それは今後の世界を見るしかないが、おそらくは、前にも書いた表層的な知と情報だけですべてが判断される世界になる可能性が高いのではないかと思う。真の知は、自分の能力を超える世界に出会って、それと格闘し、自分の中に取り込むことでしか得られないものだと思うが、現代の若者の出会う知にそういうものがあるとは思われないのである。言い換えれば、インターネットで得るのは情報のみであり、情報検索の作業は、本を読み、自分の頭でその内容について考えるのとはまったく別の作業であるということだ。もちろん、世間に溢れる本の90%がクズであるというのとは、話が別である。 -
私は一般のアメリカ人は嫌いではないが、アメリカという国は現代の最悪の「ならず者国家」だと思っている。政治的・経済的に他国を侵略し、恐喝し、恫喝することで利益を得ているだけでなく、その利益が米国民のわずかな上位層しか潤していない。
そのアメリカとの同盟関係によって日本が経済的に繁栄したのは遠い昔の話であり、バブル崩壊の頃、いや、それ以前のプラザ合意の頃からアメリカは戦後日本への投資の「回収」にかかっているのである。おそらく、日本が稼いだ金の半分くらいは、アメリカに吸い上げられているのではないか。
そうした関係を改善しようにも、日本の中に米軍基地がでんと存在している状態ではアメリカに対して言いたいことも言えないのは当然である。それに、官僚の中には、対米従属以外の選択肢は日本にはありえない、それが日本にとっての利益でもあるという思い込みに凝り固まった人間も多いし、プライベートなスキャンダルをCIAに握られている官僚や政治家も多いだろう。
しかし、民主主義の良い点は、選挙で国民の意思表明ができるところである。衆愚政治とか何とか悪口を言っても、実際に去年の衆議院選挙で政治の大地殻変動、イギリスの名誉革命にも等しい無血革命が起こったのである。このことの意義を、日本人自身がまだよく理解していない。自民党政治を捨てることで、日本は初めて米国から独立する機会を得たのである。これは日本独立革命なのである。
後世の歴史では、2009年の衆議院選挙は、あるいは日本の政治のターニングポイントとして位置付けられるかもしれない。しかし、フランス革命が中盤から貴族やブルジョワなどの政治的既得権益者のためになし崩しに革命性を失ったように、今、日本ではマスコミを使った革命の切り崩しが行われているのである。 -
亀井静香と小沢一郎は、どちらも、失礼ながら美男子ではない。見る人が見れば可愛い顔なのだが、女子供受けのする顔ではない。そのために大分損をしていて、マスコミが悪役として立てる、恰好の存在になっている。この二人に鈴木宗雄(字はこうだったか?)も加えてもいいが、実はこの顔の悪い三人は現代日本における数少ない本物の政治家ではないかと私は思っている。もちろん、政治の世界には常に裏の事情があるから、この三人がいつでも正しい事をするとは限らないが、アメリカの支配に敢然と立ち向かっているのがこの三人のように思える。
民主党内でもアメリカの紐付き政治家は沢山おり、前原、生方、それに名前も忘れたが、水戸黄門気取りの爺いなど、すべて民主党の足を引っ張り、日本の政治改革を頓挫させるためにアメリカからの指示で働いている売国奴たちである。
アメリカのやり方は昔から決まっており、日本と近隣諸国を仲たがいさせ、それによって日本がアメリカに擦り寄ってくるように仕向けるのである。そのために官僚・マスコミ・ネット右翼などが動員されるわけである。これらはすべてアメリカのマリオネットにすぎない。
大分前の話になるが、鈴木宗雄が「ムネオハウス」の件でマスコミに叩かれたのも、あれは日本とロシアの接近を邪魔するためのアメリカの策謀に決まっているし、社民党の女性代議士が秘書給与問題で叩かれたのも、日本と北朝鮮の和解を恐れたアメリカの策謀によるものだろう。当然、今回の検察による小沢潰しもアメリカの一部勢力の意図によるものだ。
その一部勢力とは、日米同盟から利益を得てきた既得権益層であり、ジャパンハンドラーズと言われる連中である。彼らとてもアメリカ政界の一部でしかないのだが、話を簡単にするために、ここではアメリカの全体としての対日政策が彼らによって決定されているから、それを「アメリカ」と呼んでいる。
要するに、マスコミの暴走的報道があれば、その裏にはアメリカの意志があると見れば、すべては簡単に理解できるのである。ところが、世の中には政治思想的に硬直した人間が多く、頑として理解を拒否することも多い。
しかし、昨年の日本の政治革命は、日本の庶民の政治理解が飛躍的に進化しつつあることを示している。(それはインターネットの普及のためだろう)今では、マスコミ報道や政治的アンケートの数字などを信じている人間、いわゆるB層はかなり減ってきているのではないかと思う。その判断の実否は今年の夏の参議院選挙で分かるだろう。
ただし、私としては、「裏切り者」や「売国奴」を沢山抱えた民主党が単独過半数を取ることは望まない。国民新党や社民党、あるいは共産党がマルキシズムの夢を捨て、市民や貧しい者のための政党として再出発するなら、共産党でもいいが、それらの弱小政党が議員数を伸ばすほうが望ましいと思う。もちろん、「みんなの党」などという第二自民党など、カスの中のカスであり、そんなのに騙される人間はそれこそB層と言われても仕方がないだろう。 -
選抜甲子園で、沖縄の興南高校が2回戦を勝ち上がった。最初はもたもたした攻撃だったが、相手守備の乱れなどから勝ち越すと、次第に攻守に伸び伸びとし始め、最後は4番打者のホームランなどで快勝した。エースの島袋は10安打を打たれたが、三振も二桁を奪い、2試合で25個くらいの奪三振数である。
チームの試合運びが下手なのと、打線にパワーが無いことから、この後、どこまで行くかはわからないが、他のチームにも有力な所が無いので、案外と決勝まで行くかもしれない。ただし、島袋の調子がもう一つであるから、そこまで行くには第二投手の踏ん張りが必要だろう。
島袋の良さは外角低目へのコントロールである。球威や球速自体はそれほどあるわけではないから、外角低目を審判が辛く判定すると、非常に苦しくなる。今日の打たれたパターンも、外角低目をボールと判定された後、それより甘く入れた球を痛打されたのが多かった。
捕手の山川は、去年の夏より打撃が悪くなった感じである。昨年は中軸を打った選手たちよりいい打撃をしていたのだが。その代わりに、今日は三番四番を打った選手の打撃が目を引いた。今日5打数5安打の三番打者の打撃のシュアさと勝負強さは賞賛に値するし、四番打者の打球の鋭さも見事だった。最初の2打席とも外野手の正面を突いたが、どちらも少し左右に飛べば、二塁打、三塁打確実な当りだった。それがどちらもヒットにならなかったのに腐ることなく、5打席目でセンターオーバーの豪快なホームランを放ったのは、いい根性である。いつでも打ち気満満の顔もいい。これまでの成績がどうかは知らないが、鍛えれば案外とプロでもやれる選手ではないだろうか。もちろん、三番の選手も、主将を務めながらの活躍であるから精神力は素晴らしいはずで、大学、ノンプロで鍛えて体力をつければプロも射程に入ってくるだろう。 -
*私は市民図書館愛好者で、毎週10冊の本を借りるのが習慣だが、自分の金を出して本を買うわけではないので、その10冊は別に好きな作家だけには限定されない。少しでも興味を持てば、借りて、そのまま読まずに返す本も多い。そうした本の中には思い掛けない掘り出し物もある。掘り出し物とは、自分にとって有益な知識や情報のことである。もちろん、ただ読んで面白かったというのも掘り出し物ではある。
市民図書館の本には、新しい本は少ないが、古い本でも有益な情報はあるのである。
たとえば、松任谷由美(字はこうだったか?「由実」かもしれない。Jポップはほとんど聞かないので、歌手名もうろ覚えだが、彼女の「ルージュの伝言」は大好きだった。)の歌について中沢新一が次のように言っているが、これは鋭い分析だと思う。
出典は、山田詠美と中沢新一の古い対談集「ファンダメンタルなふたり」である。
中沢「ユーミンの詞って、よく出てくる単語がきまっているでしょう。「恋」とか「雲」とかは当たり前として、「もう一度」や「いつか」というのはいかにもユーミンらしいよね。なかでも「あの」という指示代名詞の使い方が、並じゃないんだ。知らない人にとっては「あの」と言われても、「何、それ」ってことになるけれど、知っている同士ではすごく意味ある言葉でしょ。「あの」と言うときは、共感を潜在的に強制するんだ。ぼくもよく使うけれど、これは、相手のサブリミナルを巻き込みながら話題にひきこもうという言葉だから、ちょっとズルいと言えばズルいんだ。「ね」と言うのと同じでしょ。日本語として絶妙だよね。メッセージはないのに、コミュニケーションを成り立たせちゃうんだものね。」
(下線部は徽宗皇帝による)
*私自身はユーミンの歌には詳しくないので、彼女の歌に「あの」が頻出するかどうかは分からないが、「あの」という言葉が聞き手との間に共犯関係を作る言葉だという分析は正しいと思う。それに加えるならば、「あの」という言葉は、出来事がすでに終わったという事を暗示しており、彼女の昔の歌の多くが、失われたものへのノスタルジーを歌っていたことと、「あの」の使用は関係があると思われる。
*ついでながら、使う単語が限定されているというのは、欠点でも何でもないのであり、むしろ、日常の言葉を拒絶し、音楽における楽音のように詩として成り立つ言葉を選び抜いて使うというのは優れた詩人として当たり前である。その代表が立原道造であり、彼の詩は、「立原道造用語」というべきもので構成された詩の建築物、あるいは詩の音楽なのである。 -
今日は月曜日。新しい週の始まりだが、3月という月もあと三日で終わりだ。昔、「雨の日と月曜日の朝は」という歌があったが、確か、「雨の日と月曜日の朝はいつも私を落ち込ませる」とかいう歌詞であったと思う。まあ、世の中には、仕事や学校が楽しくて仕方が無いという人間もいるだろうが、「これから長い一週間が始まるのか!」とうんざりしている人も多いだろう。私自身もかつてはそうだったのだが、その原因は、自分で自分の気分や主観を過大視していたからである。自分が今、こういう気分であるというのは確かだが、それを必要以上に大きく見る必要は無い、ということである。自分の感情や気分を心の中でこねまわしているうちに、それを増幅させてしまっているということが多いのだ。
ある意味では、恋愛もそうであり、「その人を愛する根拠」など、実はほとんどない。他の人と「その人」との間には、実はそれほど大きな違いは無いのである。だのに、「その人」が絶対的な存在に思えてくるのは、それはあなたがその幻想を育てたからである。これがスタンダールの言う「結晶作用」である。
世の中には「趣味で恋愛をしている」人間も多いし、それが楽しいなら、それでいいだろうが、恋愛で悩み、苦しむというのは、実は自分で育てた幻想で悩み苦しむということなのである。つまりは、子供の「ごっこ遊び」と違いは無い。しかし、恋愛が脳内のシュミレーションの境を越えて、現実の人間との交渉になってくると、失恋も「よつばと!」のよつばの言う「あの、死んだり、殺したりするやつな?」ということになるのである。 -
昨日もなかなか来訪者が多く、おそらくその読者のほとんどは政治的な情報に興味があるのだろうと思うので、今日はテリー伊藤の「お笑い外務省機密情報」から少し紹介する。他人の書いた文章でブログを埋めるのも何だが、自分の書いた記事よりは興味を持たれているようだし、こうした情報が一般に広まるのは大いに意義があることだから、社会の向上のために縁の下の力持ちになろうというわけである。それほどたいした仕事ではないが。
*次に挙げる部分は、大使の生活の金銭面の話だが、その前の部分に、外交官という連中が、仕事らしい仕事をまったくせず、いかに遊んでくらしているかという話が延々と書いてある。あまりにも長いので、その部分は省略するが、そういう前提で次の部分を読むとよい。
われわれはまず、「大使は2~3年間で1億円が貯まる」というショッキングな証言を、ある民間企業関係者から聞いていた。
そして、関係者が全員「間違いない」と断言することがある。
それは、大使がその任期中、給料をほとんど使うことがなく、まるまる日本の個人口座に置きっぱなしにしていることだ。
大使は、「住」が公邸、「食」は公費でお抱えのコックか公費のパーティー、「衣」はタキシードさえあれば充分。人によっては、その「衣」も工夫して公費で落とす方もいるという。交際費は、もちろん公費。交通費は、運転手付きのベンツが自在に使えるから、必要ない。
生活費の一切が、実質的に税金で賄われるのだ。
だから、「特命全権大使」という高い地位に対して支払われる高給は、使う必要がない!
この給料は年齢などによって、もちろんまちまちだから、貯まる金額は一概には言えないわけだが、海外に何年かいるうちに1億円前後が貯まるケースは、やはり多いと思われる。
これに「海外赴任は大変なはずだ」という時代錯誤の前提に基づく、いろいろな手当、さらに現地や一時帰国した東京での講演会など副収入を重ねていくと、「人によっては2年弱で1億円を貯める大使も全然珍しくありません」(企業現地法人の元トップ)ということになる。(中略)それに海外にいる外交官は免税特権まで手に入る。
*こうした羨ましい生活のできる外交官になるには、残念ながら「外交官試験」に通らないといけない。これは外務省が独自に行う試験で、当然ながら身内の者を優先的に合格させるはずである。だから、外交官には二代三代にわたる外交官一族が多いのである。そうした連中は現代の貴族であり、仕事は現地採用の人間にすべてさせて、「良きにはからえ」とやって、自分たちは時々、外国に遊びに来る政治家や皇族のお世話をすればいいだけである。それ以外の日々は、遊んでいるだけである。海外に出た日本人がトラブルに遭った時、日本大使館にだけは頼らない(頼れない)というのは常識である。もしもそれが常識でない人がいたら、そうした事例を自分で調べてみることだ。 -
昨日は休日だったので、レンタルショップで借りてきたDVDなどを見たが、その二つとも古い時代劇で、一つは稲垣浩の「士魂魔道・大龍巻」、もう一つは小林正樹の「拝領妻始末・上意討ち」という、それぞれサブタイトル付きのいかにも二流作品っぽい物だ。もちろん、この両監督とも一流監督だが、これらの作品はあまり有名ではない。見て、なるほど、あまり評価されないわけだ、という気がした。「大龍巻」は、「隠密剣士」とか「仮面の忍者赤影」とかいったテレビ時代劇のように安っぽい感じが漂っているし、「上意討ち」は、「切腹」のように堂々とした始まり方だが、中盤は単調で、最後の10分は三船敏郎の臭い芝居が長々と続いて腰砕けで終わっている。
私は三船敏郎は大好きなのだが、彼を使いこなせるのは黒澤明だけだったのではないかと思っている。というのは、彼の演技には非常に頑固なところがあって、いかにも芝居くさいのである。特に、彼の剣戟は「真の剣豪とはかくあるべし」という思い込みでできていて、見ている方は、「またこれかよ」と言いたくなる。ところが、言うまでもないが、「椿三十郎」や「用心棒」における三船のアクションは、空前にして絶後のものであり、これは黒澤の的確な指示によるものだろうと思われる。なぜなら、ここに述べた4作品とも、殺陣は久世竜によるものだからである。
