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いつも、らちもない「分析と解釈」ばかりしているので、今日は、少し現実的な「世の中が幸福になる方法」を考えてみる。
まあ、要するに、「社会の不平等や格差の是正を資本主義の範囲内で実現する方法」の考察である。
そのひとつは、かなり前にビル・トッテン氏などが提唱していた「トービン税」である。つまり、株の取引きに、売り手買い手双方に対して1%の税を義務付けるというものだ。
これによって株取引という、現在では実体経済から遊離し、その規模が実体経済以上のものとなり、小国の国家予算以上の額が1日で動きながら、社会への貢献などほとんどない経済行為が制限され、それに使われるカネの一部が税金になることで実体経済のために使われるようになる。
仮に、安倍政権がこれまで行ってきた「株価維持行為」においてトービン税が存在していたら、その取引額の2%は税金となって国庫に戻り、まともな用途への使用が可能になっていたはずである。そして、買った株は国家資産になるのだから、これも完全な無駄にはならない。
しかし、トービン税を取らない場合、確実に儲けるのは、株の売買を一手に引き受け、手数料を取る証券会社だけである。そしてその背後にユダ金がいるのは確実だろう。
もうひとつは、インターネット上の取引に税を懸けることである。これは、アマゾンなどのネット取引が通常の「店舗を持ってそこに商品を置き、売買する」取引以上のものとなり、ほとんど怪物的な存在になりつつある今、早急に必要なものであり、それが無いと全国の「店舗商売」は絶滅するだろう。そうなった時に、店舗商売がやはり必要だ、と思っても遅いのである。
そもそも、ネット取引は詐欺や事故の温床になるだろう、と私は思っている。
そして、ネット取引に税を懸ければ、国家の税収がかなり増大するのは明らかであり、それを福祉に向ければ、国民の幸福度はかなり上がるだろうと思うわけである。
概して、現在の「不平等状態」(一般国民の不幸)は、商取引や税制における「見えない(水面下の)不正行為」が多いことに由来していると私は思っている。たとえば、農業や漁業など、「人間の生存にもっとも必要な産業」の収入が低く、「価値の無いものに価値があるように見せかける商売」が大儲けをしている、という状態が資本主義のどん詰まりの姿だろうし、それが現在なのである。
それを是正し、「国民全体の経済的平準化」を図るのが政府の本来の役目なのだが、そういう「全体の幸福」ではなく「一部の人間のみの幸福」に政府が奉仕するから、国民は不幸になる。 -
少し古い話になるが、「谷間の百合」ブログの2月23日の記事の冒頭部分である。谷間の百合さんは安倍総理の怒りと屈辱の表情の理由についての推測は書いていないが、皇太子、つまり次期天皇に面談して外に出た時の表情なのだから、これは「新元号」についての了承を皇太子から取り付けようとして拒否されたのだと考えるのが、時期的に見て一番蓋然性が高いのではないか。つまり、新天皇がうんざりするような元号名であり、おそらく「安」の字が入った名称だったと考えるのが一番自然だと思う。
その直後から、NHKなどに「安」の入った元号候補名をアピールするニュースを流したり、安倍シンパ(ネトウヨ傾向の強い人間や上昇志向の強い人間やお飾りの有名人)を集めた「新元号制定識者懇談会」を開いたりしているのは、現天皇や次期天皇の「(安部的)新元号名」への拒否感情を外堀から埋め、強引に実行しようという姑息な手段だと推測できる。まあ、この推測が正しければ、世が世なら、「不忠者め!」と本物の右翼に殺されて当然の連中である。
(以下引用)
これから官邸や自衛隊の独断専行が目に余るようになる。
きのう、総理は異例ともいうべき皇太子殿下と面会したのですが、わたしは赤坂御所を退出して帰路につく車のなかで見せた総理の表情にちょっと衝撃を受けました。
ほんの一瞬でしたが、あの表情を表現するとすれば、屈辱と怒りということになるでしょうか。
傍に誰かいたとしてもとても声を掛けられるような顔ではありませんでした。
何があったのでしょう。 -
私は、書きながら考える人間なので、書いていない時には何も考えていないようなものだ。ほとんどの思考は「浮遊思考」であり、「断片的思考」であり、同じ事が断片的に頭の中をぐるぐる回っているだけだ。つまり、吉田兼好が言うように「思いは縁に触れて起こる」ものなのだから、何か文章を書いて、書いた部分から連想されることによって次の思索がつながっていくというのが「書きながら考える」ということであり、私はそれ以外にはまとまった思考はできないのである。
で、「暴力論」については、「暴力革命」を論じるために書き始めたのだから、革命と暴力についての一応のまとめはしておきたい。内容は書きながら考えていく。
実は、一昨日から深夜にネットテレビで「ドクトルジバゴ」を観ていたのだが、確かこれを見たのは高校生か浪人のころで、「えらく長いし、退屈な部分が多い映画だなあ」としか思わなかった。ロシア文学が好きで、この映画の原作はノーベル賞を取り、監督のデビッド・リーンは「アラビアのロレンス」などを撮った名監督らしいし、ラジオから流れる「ララのテーマ」はきれいだし、で、見る前の期待が大きすぎたからがっかりしたのだろう。それに当時はロシア革命などにまったく興味も無く、映画は娯楽としてしか見なかったのである。まあ、今でも基本的には同じ姿勢だが、若いころとは違って、子供向けの部分だけでなく、子供の気づかない部分にも面白さが見出だせるようにはなりつつある。昔見た時には、ヒロインのララ(ラーラ)が登場して間もなく悪党の中年男(ロッド・スタイガー)に強姦されたのにショックを受けたが、今見ると、ラーラは婚約者のいる身でありながら、その中年男に性的魅力を感じているのがその表情から分かり、実は強姦ではなく、和姦に近いものだったことも分かって面白い。若いころには普通の男はそういう女性心理など分からないし、分かりたくもないものだ。
まあ、何のためにこんな映画の話をしたかと言うと、もちろんこれが「ロシア革命」を背景にした物語だからで、これを見て私はロシア革命にかなりな嫌悪感を感じ、今に至るまでロシア革命には何の興味も持てなかったのである。ユダヤ資本のハリウッドが洗脳目的でこの映画を作ったとしたら、私に関しては大成功だったわけである。何しろ、革命前の庶民の窮乏状態のひどさや階級差別はほとんど描かれず、せいぜいがデモ隊への暴力が描かれるだけで、そのデモも「世間知らずの連中が抽象的な社会主義思想にかぶれて政府に反抗しているだけ」という印象なのである。その一方「革命の悲惨さと残酷さ」「革命下の窮乏生活と転落したブルジョア階級への民衆の憎しみ」は延々と描かれる。これでロシア革命には意義があったと思うのは無理だろう。
まあ、ロシア革命を否定的に描いていること以外は、「人間ドラマ」としてはなかなか面白いのだが、しかし、「死と貧困と憎悪」が話の大半である映画を娯楽として楽しめるのはかなりなサディストだけだろう。ただし、ロシアの風景のスケール感は素晴らしい。
3)革命と暴力
革命と暴力は車の両輪だ、と前に私は書いたが、その考えは変わってはいない。権力の座にいる階級が自らその権力を手放すはずはなく、その権力は法によって守られているのだから、暴力(不法な力の行使)以外には奪取できないのは理の当然である。ただし、私が「漸進的社会主義者」であることはだいぶ前に書いた通りで、その思想は変わってはいない。つまり、私は社会が(たとえば政治制度や行政組織の変革を通じて)漸進的に進歩していくことは望むが、革命という急激な変革は望まない、ということだ。と言うのは、暴力を肯定した形の変革は、それ自体「必要以上の残酷さ」を伴うからである。新たに権力を奪取した層は、その権力をふるう対象として、前の権力層とその追随者層(単なる役人やインテリ階級まで含む)に対して残酷な行動に出るのが、過去の革命の常であった。そして、革命による以上に人類を幸福にしてきたのが「福祉制度の発生と社会への浸透」だったのである。これは「漸進的社会主義の成果」だと私は思っている。
言うまでもないが、私は「革命の理念」はほとんどが正しいものだっただろう、と思っている。だが、実際の革命の姿は、恐ろしく残酷なものが大半だったのではないか。当然の話で、虐げられた階級は、それまでの復讐を上位階級に対して行うに決まっているからだ。人間性が天使のように善良ならば、そもそも革命などが起こるような事態にもなるはずもない。
そういう「人間性の底流にある悪」を思えば、暴力革命によって生じる悲劇がいかに理不尽なほど残酷なものかも容易に想像できるのである。
まあ、革命が起こる前に、福祉を重視した政策を採り、庶民生活を幸福にするような政治を行えばいいだけの話なのだが、「カネがすべて」という人間が社会の上位を占めると、いつ暴力革命が起こっても当然だ、という世の中になるのである。
以上で、「暴力論」は一応終わりとする。いずれ追記するかもしれないが、まあ、多分しないだろう。「日常の暴力と政治の暴力」の違いなどももう少し考察する気だったが、これは、「そのふたつはまったく別だが、実に混同されやすい」とだけ言っておく。もちろん、「暴力の実行よりも暴力を背景とした威嚇を有効に使う」という点は同じである。 -
まあ、半分は雑談みたいな小論だから、気楽な話から始めるが、この前、「赤い風車」という昔の映画を見ていたら、中に登場する酒場(ムーランルージュ)の歌い手の女が、軍服を着た若い兵士に一目惚れする、という挿話があって、「そう言えば、『高慢と偏見』でも、主人公の妹たちが兵士たちにキャアキャア言う描写があったなあ」と思い出した。今もそうかどうかはともかく、昔は「軍服」にえらい人気があったと考えていい。で、どうでもいいことを分析するのが私の趣味なので、そこから、「なぜ女性(特に若い女性)は軍服が好きか」と考えると、当然、それは軍服が力の象徴であるからだろう。いや、男でも軍服が好きな奴は多いだろうが、軍服には性的魅力(これは男の場合、力の有無で決まる)があるから女性が好むのだと思う。と言うのは、「高慢と偏見」の時代には、兵士になどなるのはロクな人間ではなかったからだ。博打で財産をすってしまった奴とか、罪を犯して家にいられなくなった若者などが軍隊に飛び込んだり、浮浪者が強引に徴兵されたのが当時の兵士である。つまり、カネがあるから女性に人気があったのではなく、「軍服」に惚れたのだ、と思うわけである。
で、軍服とは「力の象徴」である、というわけだが、それも「暴力性」の象徴だ。突然に人の死をもたらすものこそ暴力の最たるものだろうし、武器を手にし、その気になればいつでも人を殺せるのは、昔は兵士以外にはいない。だから女性は兵士に惚れるのであるwww
そこで、では軍隊の対極であるのは何か、と言ったら、「憲法9条」だろう、と話が飛躍する。しかし、憲法9条には「性的魅力がない」と思うわけである。理知的に支持者を得ることはできても、「無意識の中から惹き付ける」魅力が無いことを「性的魅力がない」とここでは言っている。自衛隊員を募集するのにミニスカートの軍服からパンツを見せている若い娘の萌え絵を使えても、憲法9条にはその手は使えない、というわけだ。
2)憲法9条と暴力
憲法9条は言うまでもなく「我が国は絶対に戦争をしません」という宣言であり、その後、「これは『自衛のための戦争以外は』、の意味だ」という解釈になった(もちろん自衛隊の存在を容認するための最高裁のまやかし。)が、要するに、戦争の否定であるのがもともとの内容だ。たしか、そのために軍備(戦力)を持つことも否定されていたのではなかったか。その文言と矛盾するのが自衛隊であるのは誰でも認めているだろう。ここが憲法改正(まあ、本当は改悪だが)論者の最大の攻撃ポイントであるわけだ。要するに、「自衛隊という軍隊が存在するのは事実なのだから、それを認める新憲法を作れ」という、ただそれだけが憲法改定論者の言いたいことである。他の事は、9条を廃止させるための口実でしかない。
で、日本が戦後70年以上もの長期の平和を守ってこられたのも憲法9条のおかげだ、と私やその他の平和主義者たちは主張してきたのだが、もちろん、安保条約があったためだ、と主張する人もおり、まがりなりにも自衛隊があるからだ、と主張する人たちもいるわけだ。
さて、どこまで行っても平行線である「憲法9条論議」だが、私自身、「力を背景としない正義は有効か」と言われれば即座に肯定することはできない。日常の暴力と政治的暴力はまったく違うが、敢えて比喩を使えば、町に出て、強そうな若者の悪行を目の前で見て、それに注意できるのは、それ以上の力を持つ者だけだろう。たとえば警官などである。警官は背後に「国家権力」という最大の力を持っているわけだ。まあ、それが下っ端警官まで守るとは限らないが、一般人から見れば、十分以上に大きな力である。
では、憲法9条は無意味か、となれば、当然無意味ではない。何よりも、それは「アメリカの戦争に(表向きは)協力しなくていい」という最大の名目になっていたからだ。9条がなければ、とっくの昔に日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも出兵させられ、軍事費の大半も負担させられていただろう。
つまり、「憲法9条」は、ガンジーの「無抵抗主義」みたいなもので、殴っても殴っても相手が無抵抗だと、殴る人間が周囲の非難の目で見られるから、殴るのをやめる、というわけだ。それが国家関係だと、「殴ったらこちらが非難されるな」というような行為は最初から避けることになる。これが「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」ということだ。
絶対的平和主義とは、「完全無抵抗主義」だから、キチガイのような相手に殴り殺される可能性というのがある、ということを重々承知の上でのみ採用できるのである。
そんなのは嫌だ、殴られたら殴り返したい、と思うのは自然な気持ちでよく理解できるが、では殴り返したらどうなるか、と言えば、「あの戦争」のようなことが再現されるだけのことだ、というのが私の言いたいことだ。要するに、国民の多くが戦闘や飢餓や病気で死に、家族も財産も失う人が厖大に出るだけの話だ。勝ったところでそれらの命が元に戻り、財産の完全な補償がされるわけではない。
では、無抵抗主義なら、どうなるか。相手国の奴隷にされるだけではないか、と言う人もいるだろう。さて、そうだろうか。今の世界で、戦争に負けた国の国民を奴隷にするようなことがありうるだろうか。せいぜいが、その国の資源の所有権が奪われるだけだろう。で、その資源の持ち主は誰かと言えば、「上級国民」なのである。では、戦争で死ぬのは誰かと言えば、「下級国民」なのである。
まあ、話が長くなるのでここまでにするが、憲法9条の「絶対平和主義」は、実は人々が考えるよりもはるかに現実的なものであり、何のコストもいらないという点では一番効率的な平和を作る手段なのである。 -
ウィキペディアから、ゾンバルトの項目の一部である。
この部分を読んだだけでも、私の考えにほとんど一致している。なお、私はゾンバルトの本はひとつも読んだことはなく、どういう思想家かも知らず、ゾンバルトの思想について調べたのもこれが初めてである。だが、下の引用部分(特に赤字部分)に似た発言をこれまでこのブログで何度かしたはずである。
おそらく、ゾンバルトの名前はナチスの敗北と共に「アンタッチャブル(不可触の存在)」視されるようになり、社会の表面からは埋もれていったのだろう。まあ、「焚書」にならなかっただけでも以て瞑すべしだろう。グローバリズムと新自由主義(強欲資本主義)への批判がどんどん強くなっている現在、私は、思想界における彼の復権は近いと見ている。
(以下引用)赤字部分は徽宗による強調。ユダヤ資本主義[編集]
ゾンバルトは社会主義に影響され初期には資本主義を批判していたが、やがて「資本主義の精神」のうち冒険的企業家的要素はドイツ人に、打算的ブルジョワ精神はユダヤ人に属するとした[5]。
1911年の『ユダヤ人と経済生活』で中世の封建制のキリスト教共同体は、近代資本主義に移行し、ユダヤ的な利益社会となったとし、人格的で自然なドイツ経済のなかにユダヤ人は嵐のように侵入し営利の優位を掲げたとした[5]。ゾンバルトによれば、国際的なネットワークを持つユダヤ人は地域的な伝統よりも経済合理性を重んじ、また市民権が剥奪されていたので政治でなく経済に注目し、近代資本主義の重要な担い手となった[5]。ユダヤ人は地域的でなく普遍的であり、国民的ではなく国際的で、具体的でなく抽象的である[5]。資本主義制度の創始者である砂漠の民族ユダヤ人は放浪的で抜け目がないのに対して、森の民族ゲルマン人は心がひろい[6]。ユダヤ教は悟性の宗教であり、感性と情感に欠けるため、自然の世界や有機的な世界とは対立し、合理主義と主知主義はユダヤ教と資本主義の特色である[5]。したがって、近代合理主義を推進したのはヴェーバーのいうようなプロテスタンティズムでなくユダヤ教であるとした[5]。資本主義とユダヤ教の本質は、貨幣によって表現され、貨幣と流通は社会関係を抽象化し、抽象化の精神はユダヤ人に具体化される[5]。彼はユダヤ世界と資本主義を同一視するという、ブルーノ・バウアーやマルクスらの考え方を再利用して、「太陽のようにイスラエル(ユダヤ人)はヨーロッパを飛翔した。そして彼らが来るところに新しい生命が生い立ち、彼らが退くところでは、今まで咲き誇っていたものはすべて荒廃に帰する」と述べた[7][8]。ゾンバルトのこの著書は友人のマックス・ヴェーバーから批判され、またヒトラーが資料として用いた[6]。
翌1912年の小冊子『ユダヤ人の未来』では、ユダヤ人はドイツの芸術、文学、音楽、演劇、新聞を牛耳っており、それはユダヤ人が聡明で器用であるからだが、このユダヤの優位性は放置すると取り返しのつかないことになる「人類最大の問題」であると主張した[7][9]。また、スペイン、ポルトガル、フランスも、ユダヤ人追放後の後遺症に悩み、さりとて、ユダヤ人とヨーロッパ人との同化や融合も自然の法則に反しており、ユダヤ人種と北方民族の血の融合は不吉な星に司られているとし、しかしドイツはユダヤ人なしにはやっていけないとゾンバルトは論じた[7][10]。ポリアコフは、こうしたゾンバルトの主張をアパルトヘイト政策であるとしている[7]。
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私は政治用語や社会学用語などの言葉のイメージが非常に気になるのだが、その中でも一番嫌いなのが「暴力革命」という言葉である。実にイメージの悪い言葉で、この言葉を使う人間は、それだけで死刑にされてもいい気がするwww まあ、そういう覚悟の表明として敢えて使うというアホ(その言葉を使うこと自体が革命に悪印象を与え、革命を遠ざけるのだから、「アホ」と言っている。)がいてもいいが、客観性を重んじる学者の世界ですら「暴力革命」という言葉は普通に出てくるのではないか。
そこで、暴力とは何なのか、少し考えてみたい。
1)「暴力」とは何か
辞書的な定義は「無法な力」「力づくの行為」(「デイリーコンサイス英和・国語辞典」による。)と書かれている。とすると、法律を背景にして行動する警察や軍隊を「暴力装置」と呼ぶのは不適切だ、となりそうであるが、それらの機関が「力」を背景とする国家装置であるのは自明である。とすれば、「法律を背景にした力」は暴力ではない、と一応は認められるだろうか。
では、「暴力革命」とは、「無法な力、力づくの行為によって達成される革命」という理解で、特に問題は無い、となりそうである。つまり、「暴力革命とは不法行為なのだから当然悪である」と思われそうだが、はたしてそうだろうか。少し、保留しておく。
さて、戦争は暴力か、ということを考えてみよう。普通の人間の感覚では、戦争こそは最大の暴力である、と思われるのではないか。しかし、戦争で人を殺しても殺人罪に問われることは無いのだから、戦争は「法的に殺人を許容するもの」であるわけだが、その対象が「敵国の兵士や人民」に限定されるというのが通常の殺人との違いである。(兵士以外の一般人を殺してはならないというのが建前だが、大量破壊兵器は兵士と一般人を器用に区別したりはしない。)戦争とは「法的に(殺人などの)悪が許容されている」ものだ、ということをここでは指摘しておく。
広い意味で「暴力」と「力」を区別するのは、その力が「何かに制御されているかどうか」だろうと思われる。そして、その制御主体は普通は「法律」であるわけだ。しかし、法律は抽象概念であり、その法律を実行する「暴力装置」が存在しないと機能しない。ここでは敢えて「暴力装置」と書いたが、それ以外に適切な言葉が無いからそう書いただけだ。
そして、警察や軍隊が機能しなくなった状態、つまり国家体制が崩壊した状況では、「生(ナマ)の暴力」が社会の表面に浮かび上ってくる。これが帝政ロシア崩壊期のロシア社会であったわけだ。そこでは、肉体的な力や武器を持つ存在が、その者がいる「小社会」を支配する。つまり、「暴力支配の社会」である。
この状態では議会そのものが無力な存在なのだから、背後に暴力を持つ者だけが国家支配の有力者になっていくわけだ。ヒトラーが権力を握ったのも、背後に暴力を持っていたからだし、ロシア革命も中国の革命も同じだろう。
基本的に、革命は暴力以外の方法では不可能だ、と見るのが正しいかな、と思われるのだが、イギリスの「名誉革命」もあるではないか、と言われるかもしれない。それが本当に暴力を背景としていないかどうかは疑問だが、あまり調べていないので何とも言えない。まあ、革命と暴力は車の両輪かな、というのが私の印象だ。
と言うのは、「現在の状態から利益を得ている人々がその国の体制の中枢にいる」わけだから、それを自分から進んで返上し、不利益を受け入れるというのは人間性から言って不可能な話だろう、と思うからである。それ(権力の穏健な移譲)が可能なのは、「法の支配」が健全に機能している場合だけだろうし、その法の支配者とは実は国家体制から利益を得ている連中なのだから、「法の支配」つまり「本当に客観的に正しい法律運用」はまず存在しない、と私は見ている。まして、権力を手放したら、次の権力者によって、前の権力者が死刑にされるのでは、権力を手放すはずがない。
最初に戻って、「暴力革命という用語は適切か」という問題を考えると、まあ、その時に存在した法律(形骸化はしていても)に反する行為によって政治権力を奪取するのだから、言葉としては間違ってはいないが、「時の政権の行う力づくの行為は暴力ではないのか」という疑問も残る、としておこう。つまり、「不法な」という言葉には法の絶対視が背後に存在し、それは法を執行する連中の不正義を隠蔽していることも多いということである。
極端な言い方をすれば、「法律もまた暴力装置である」とすら言えるかもしれない。その好例は「治安維持法」であるが、有害性の無い(ように見える)法律も「強制力を持つ」点では暴力装置だ、と見做すことも可能だろう、と極論を言ってみる。我々が、食い物にも事欠くような状態でも税金を払うのは、法律という暴力装置が我々を威嚇しているからであるのは誰でも認めるだろう。そうでなければ税金を払う奴などいやしないwww
で、法律とは社会体制の維持を目的として定めるのだから、その体制を破壊する行為は当然「暴力」行為であることになるが、その法律そのものが「現在の社会悪を容認するもの(たとえば、最初の方に書いた、戦争の容認)」であるならば、どこまでも法律に従うならば、その不正義は永遠に変革が不可能だ、となるわけだ。
ここに至って、「暴力革命にも三分の理はある」という結論が出てきそうだが、まあ、まだ「暴力革命の持つ悪」の考察はしていないので、もう少し結論は保留しておこう。 -
「MSN」ニュースに載っていた、「なぜヘイト本が書店に溢れるのか」云々という「 business insider japan」が元記事らしい記事の一部で、タイトルを略したのは、あまりに長くて覚えられないからである。記事内容は、書店経営の実情が分かって(そして出版社や書店がどんどん潰れる理由も分かって)好記事だと思う。
記事も長いので、一部だけ転載する。まあ、根本を抑えればその産業や社会全体が支配できるというのは「ユダヤプロトコル」の基本思想である。書店と取次店の関係はその一例。テレビと電通の関係も同様。
(以下引用)
私はもうそろそろ声を上げないといけないという決意から、「ランク配本」と「見計らい本」の二つのシステムについて今、語り出しています。
ランク配本とは、店の規模の大きさによって自動的にランクが決められ、配本される冊数が決まってしまう制度です。大型書店が優先されて小さな書店は、売りたい作家の本の販売実績がどれだけあっても後回しにされてしまうのです。
私は4年前に小野雅裕さんの『宇宙を目指して海を渡る』という本に感動し、著者にNASAからお越しいただき、ト-クイベントを企画し本を販売しました。
そして昨年2作目の『宇宙に命はあるのか』を発刊される時に小野さんから逆オファーをいただき、再びト-クイベントをすることになりました。
『宇宙を目指して……』の販売実績は1位アマゾン、2位隆祥館 3位楽天 4位紀伊國屋書店新宿店と、リアル書店では1番でした。にもかかわらず、2作目「宇宙に命を……」がランク配本で入ってきたのはなんと「1冊」でした。イベント用に120冊は事前確保していたのですが、売り切れそうになり、藁をもつかむ思いで出版社の編集担当者の方にお願いしたら、40冊を敏速に手配してくだささり、お客様に届けることができました。
もちろん取次の担当の方の中には、この制度に抗うように小さな書店の依頼に親身になって本の手配に奔走して下さる社員の方がいらっしゃいます。悪いのはこの制度なのです。
2年前のムックシリーズがいきなり
そして後者の見計らい本制度。これは出版流通業界の慣行なのですが、書籍の問屋にあたる取次店が、書店が注文していない本を勝手に見計らって送ってくるシステムです。かつて出版業界がビジネスとして好調だった頃は、書店は自分で本を選ばなくても良いのでこのシステムを評価する人もいました。
しかし、一方的に送られてくる本の中には、隆祥館としては売りたくない差別を扇動するヘイト本やお客様から見てニーズの低い5年も前に出た本などが多く含まれています。そういう本も送られて来た以上、書店は即代金を請求され、入金をしないといけないのです。
2019年1月に取次店から『月刊Hanadaセレクション』のバックナンバーが見計い本でいきなり配本されて来たときは驚きました。奥付を見ると2017年12月24日発刊が3冊、2018年4月18日発刊が3冊、8月21日が4冊。過去、さすがに2年前のムックが送られてくるということはこれまでなかったと思います。販売実績を少しでも見てくれれば、うちはこの『月刊Hanada』はほとんど売れていないのです。それなのになぜ? という思いはぬぐえませんでした。 -
辺野古問題の解決は、辺野古問題を論じることでは不可能だろう。沖縄以外の他県民はこの問題にまったく関心が無いし、安倍政権の沖縄に対する無道徳ぶりや悪辣さにも関心が無い。
要するに、日本国民の8割までは安倍政権と同じ下劣な人間か政治的白痴だ、ということだ。まともな人格を持っているのは1割くらいだろう。
私だって、ネットで安部(自民党)批判の発言をすることで不利益はあっても何一つ個人的利益は無いのは熟知しているが、ああいう連中の思い通りに世の中が動かされているのに黙っていると自分自身の「気が飢える」(これが続くと人間はゾンビ化する)から批判の声を上げているだけだ。威張れたものではないが、無道徳な白痴集団よりはマシだろう。だが、ネットでの発言など、「筆は1本箸は2本、衆寡敵せず」である。(付言すれば、マスコミの筆は筆ではなく、実は箸なのである。つまり生活手段)
選挙での投票行動くらいは自分の思い通りにできるのに、ほとんどの国民はまともな政治判断ができず、あるいは自分が本心では「社会全体にとって正しい」と思っている投票行動すらしない。国民の過半数が政治的白痴である国では民主主義こそが最悪の政治形態だ、とすら言える。- 竹熊健太郎《地球人》さんがリツイート
- 土木施工管理技師や一級建築士よりもずっと権威のある技術士が「90mのコンクリ棒を7万本とかもうそこは埋め立ての適地ではないということ。予算も3、4兆円まで膨らむだろう。もう利権で進めているとしか考えられない。政治も国防も関係ないデタラメな工事だ」と話していた。
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- 竹熊健太郎《地球人》さんがリツイート
- サンデーモーニング、辺野古問題。田中秀征氏「工事の規模、費用、時間がどんどん嵩む。出来た時には米軍にとって必要なくなってる恐れがある」青木氏「90mの軟弱地盤改良工事は経験ないし、不可能。引き返すなら、今しかない」pic.twitter.com/k1v9cndpFl
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