"小説翻案"カテゴリーの記事一覧
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第九章 カルマの終わる時
冬晴れの青い空が頭上に広がっていた。
町の墓地に憐は立っていた。彼の前には、母親たちの古い墓標と、父親の新しい墓標があって、三つとも花が供えられていた。彼の傍に、彼と仲のいい中学生が立っている。
「じゃあ、憐さんは、北海道の修道院に入るんですね?」
「ええ。そうします」
「屋敷はどうするんですか?」
「売って、皆で分けますよ。家も、土地も、工場も。僕には、経営なんてできないからね。乱兄さんの出所後の生活費と、論兄さんの病院の費用は、ある人に預けて、それ以外はほとんど、家の使用人と工場の人たちに分けることになっています」
「もったいないですね」
「そうですか? 僕には、お金は人を不幸にするとしか思えない」
「まさか。誰でもお金はほしいでしょう」
「必要なだけあればいいんですよ。いったい、なぜ世の中に、泣いている人々がいるのか。飢えている人々がいるのか。僕の力では、その中の、ほんの一部しか救えない。人々の心そのものが変わらないかぎり、世の中から『餓鬼』の泣き声はなくならないんです。いつか僕は修道院を出るでしょう。もしかしたら、とんでもない事を始めるかもしれない。自分が何をすべきなのか、しばらく自分を見つめるために、僕は修道院に入るんです。自分の信仰を見つめるために」
「革命家にでもなるんですか?」
「さあ、どうでしょう。僕の性格には合いませんけどね」
「僕は世の中を引っくり返してみたいなあ。そんな事を言うと、親父は、アカみたいな事を言うなって怒鳴るけど」
「世の中を変えるのは、必ずしも革命だけではありませんよ。キリストは世界を変えました。たとえ芥子種のような小さな物でもそれが多くの人の心に撒かれて、大きく広がっていくこともあるんです。世の中が変わるのは、心から変わるのだと今の僕は思っています。でも、それが果たして正解なのかどうか、考えてみたいんです」
「あなたも業家の人間ですからね。多分、すべてに徹底しているのが、業家の特徴なんですよ。僕も見習いたいな」
「そうですか? 僕は駄目な人間です。僕の信仰だって、本物だという自信はない。だからこそ、修道院の厳しい生活を経験してみたいんです。自分の甘さを拭い去って、その後に何が残るか、それとも何も残らないか」
「あなたは、きっとやりますよ。きっと、後世に残る偉人になります」
憐は微笑んで、何も言わなかった。少年の感激に水を注したくはなかったのだろう。
憐は少年に別れを告げて歩き始めた。墓地の入り口に黒卯紫苑の姿が見える。彼が遺産を処分した残りを預けたのが彼女であった。必要な金を除き、後は彼女が使ってくれ、と言ったのである。それが、彼女の人生を泥水に変えた父親の罪の償いであった。
紫苑と目が合った憐は、軽く会釈をしただけで、何も言わずにその前を歩み過ぎた。紫苑も言葉はかけなかった。
憐の立ち去るのを見送った紫苑は、振り返って墓地を見た。小高くなった業家の墓所に、白い花束が見え、そしてその後ろの青い空には、刷毛で刷いたような白い雲がわずかに浮かんでいた。PR -
第八章 裁判
翌日、濫三郎殺しの「犯人」、乱の裁判が行われた。
一日も仕事を休めない貧しい人々を除き、町の大人のほとんどは裁判を傍聴しに来ていた。近くの町の人間までも来ていたが、大半の人々にとって裁判の内容は不満なものだった。彼らの期待していたような、親と子が一人の女を奪い合って、子が親を殺したという話にはならなかったからである。検察側は、殺人の動機の一つにそれも挙げていたが、主な動機は、ただ、目の前のわずかな(金持ちにとってはだが)金銭の強奪であり、被告の粗暴で短気な性格、目先の事しか考えない無思慮による、激情からの犯罪だと決め付けていたのである。それも当然であり、しばらく我慢すれば、親の遺産はすべて乱の物になるはずだのに、わずか200円のためにそれを失うのは無思慮以外の何物でもないだろう。
検察の弁論を、被告席の乱は薄笑いを浮かべて聞いていたが、時々は真面目な表情になり、物思いに耽っているようであった。検察官が、盗まれた金の50円の差について言及した時だけ、はっとしたような顔で真剣になったが、それについての弁明はやはり拒否し、裁判長にはあまり好印象は与えなかったようである。
検察官が、証人として次男の論を呼んだ。
論は法廷の後ろの扉から入ってきたが、体が何だか揺れているような妙な歩き方だった。重そうな黒い外套を着ていて、それにはまだ外の雪がついているところを見ると、法廷の建物に到着してそれほどたっていないことがわかる。
論は、弁護席に立つと、法廷内を見回したが、無関心な表情である。兄の乱を見ても、特に表情の変化は無い。乱に近い席にいて気遣わしげな表情をしている憐には、ほとんど目も止めなかった。
所定の手続きを経て、弁護側の質問、検察側の質問に淡々と答えていき、当日は論も憐も屋敷にはおらず、事件については知るところが無い、という所で、彼の証言は終わりのはずだった。
「以上です」
検察官の言葉で、論は証人台から降りようとしたが、そこで足を止めた。
「そうじゃない」
彼は小さく呟いた。
「どうしましたか?」
裁判長が聞いた。
「茶番ですよ。これは」
「どういうことです?」
「あいつがやったんだ」
「あいつとは?」
「あの犬ですよ」
「それはどういう意味です。ちゃんと話してください。さもないと、法廷侮辱罪になりますよ」
「あの犬。……そうじゃない。犬は俺だ。俺がやったんです」
法廷は大きくざわめいた。事件にはまったく無関係と思われていた次男が、自ら真犯人の名乗りを上げたのである。
その後の論の話は、まったく要領を得なかった。あくまでも論は自分が犯人だと言うのだが、彼にははっきりしたアリバイがあり、彼が犯人ではありえないことは確かだったのである。彼が病気で意識朦朧とした状態であることは明白であり、兄を思う気持ちのあまり、頭がおかしくなってそんな証言をしたのだ、と検察官も弁護人も裁判長も判断した。
論は廷吏に体を抱えられて退出し、裁判は続けられたが、この一幕は、乱の求刑に微妙な影響を与えた。つまり、乱が犯人であることはほぼ確かだが、あるいは冤罪の可能性もある、という心証を人々に与えたのである。
乱は、懲役20年の判決を受けた。
論はそのまま病院に担ぎ込まれ、精神の異常と診断されて、もっと大きな町にある精神病院(当時は、癲狂院と言ったが)に収容された。 -
第七章 論は乱れ、乱は論ずる
警察の留置所にいる乱を訪れた二人目の客は憐だった。彼は鉄格子の前に座った後、しばらくは何も言わなかった。
「どうした、憐。何か話でもあるのか?」
「すみません。兄さんを助けようにも、何の手がかりも無くて」
「いいさ。俺は、親父を殴った時、あいつを殺そうとして殴ったんだ。だから、俺は結局親父を殺した犯人だと言ってもいい。その罪は男らしく引き受けるさ。俺の後で、ほかの誰かが親父を殺そうが、どうでもいい」
乱は、微笑さえ浮かべていた。ここ数日で、すっかり不精髭が伸びてやつれていたが、その目には何か、以前には無かった精神的な光のようなものがあった。
「なあ、キリストは何で、人間の罪を引き受けたんだい? だって、彼は何一つ、罪は無かったんだろう?」
「それが多分、キリストがこの世に生まれた目的だったからでしょう」
「神様に命ぜられたからかい? いったい、神様はどうしてそんな酷い命令をしたんだろう。だって、キリストは神の子なんだろう?」
「アブラハムも、自分の子を神に捧げようとしました」
「それも、俺にはわからない事の一つだ。だって、その子供は、自分が何のために殺されるのかもわからないんだぜ。アブラハムも、なぜ自分の子供を守ろうとしなかったんだ。親のためなら、子供は犠牲にしてもいいってのかい。キリストなら、自分の使命を理解していて、覚悟もあったんだろうが、いきなり生贄として殺される子供にとっては、とんでもない恐怖だろうよ」
「神様の考えを、人間の論理で判断はできないと思います」
「前に、論の奴が言っていたな。キリスト教というのは、奴隷の宗教だと。我々人間は、神の奴隷なんだとさ」
「奴隷ではありません。人間が神を愛し、他人を愛するならば、神様はこの世のことに何一つ口出しはしないんですから。神は、地上を人間に任せたんです」
「なら、すべては人間の責任かい。だって、神様が世界を作ったんだろう。ならば、悪の無い世界を作ればよかったじゃないか。それとも、神様の力にも限界があるのかい。神様が全知全能なら、どうして、もっと素晴らしい世界を作らなかったんだろう。……俺には、善の神と悪の神がいるというゾロアスター教の方が合理的に思えるね」
「論兄さんも同じようなことを言っていましたよ。いったい、この世に悪があるのは何故だって」
「そうだよな。この世に悪があるなら、それは神が十善ではない、という事にはならないかい?」
「神の考える善悪が、人間の考える善悪と同じだとは限りませんよ」
「ならば、俺たちはどう生きればいいんだい」
「それぞれが、自分の信じるところにしたがって生きるしかないでしょう」
「その結果、最後の審判で裁かれて地獄行きかい?」
「地獄なんてありませんよ」
「おや、お前は、正統派のクリスチャンじゃなかったのかい」
「いいえ。ただ、神とキリストを信じているだけです」
「ふむ。まあ、俺は聖書もろくに読んだこともない無学者だから何とも言えんが、キリストというのは、なかなか偉い奴だよな」
「彼がこの世に生まれたのは奇跡だと僕は思っています。そして、そういう奇跡があった以上、神は存在すると信じます」
「まあ、お前の母親も信心深い女だったみたいだから、これは遺伝的性格という奴かな。俺の母親は、気位の高い女だったようだが、俺もそうさ。俺はやくざな男だが、何かをやるとすれば、徹底的にやるんだ。もしも、今回の事件に何かの意味があるなら、それを見届けてやるさ。泣き言は言わない。俺は、運命なんて奴に頭を下げたりはしないんだ」
「兄さんは立派です」
「そうでもないさ。……昔、興味半分で、聖書を少し読んでみたが、まあ、悪くはないよ。旧約のほうは、ただのユダ公の御託だがな。キリストの話は気に入った。……俺はな、もしも流刑にでもなったら、そして刑期が終わったら、生まれ変わるつもりだ。この事件は、俺に考えさせるための、神の試練って奴かもしれないと思うんだ。神様がいるとすればだがな。ほら、聖書にあるだろう。『幸いある日には楽しめ。悩みの日には考えよ』って。俺は、これまで、人生を楽しむことしか考えていなかった。だが、そうしていながら、いつも何か面白くない気分があったんだ。そう、どこかに、救いを求めている『餓鬼』がいる。俺が、自分のことにかまけている間に、そいつらは泣いているんだ」
「『餓鬼』ですか?」
「そう、『餓鬼』だ。なあに、つまらん夢さ! だが、俺の夢にそいつが現れたってのは、何かの啓示じゃないかって思ったんだな」
憐はその『餓鬼』が何かを聞かなかった。乱も強いて説明はせず、やがて憐は兄に別れを告げてそこを出たが、兄が気にかけている『餓鬼』のことが、その後長い間、心に残っていた。
竜吉が自死したことを聞いた論は、その後ずっと自分の部屋に閉じこもっていた。おそらく、心の中では、事件の真相を警察に告げに行かねばならないと考えていていたのだろうが、その一方で、「それが何になる?」とでも思うのか、顔に冷笑が浮かび、自分でそれに気づいてぎょっと驚いたような顔になったりした。
彼が直接に手を下したのでは無い以上、彼には法的に咎められる要素は無い。だから、警察に行き、兄を窮地から救うのが彼の為すべきことだっただろう。だが、彼はじっと動かなかった。彼の頭の中はあれこれととりとめのない考えが渦巻くだけで、考えがまったくまとまらないのである。彼の頭は熱を帯び、唇には時々、意味不明の呟きが漏れた。
やがて彼はベッドに倒れこみ、昏睡したような眠りに落ちて行った。
窓の外には、雪が一晩中吹雪いていた。 -
第六章 私生児
憐と黒卯紫苑の対面は、兄の罪を晴らすためには何も実りは無かったが、憐は彼女に強い印象を受けた。まるで泥濘の中から咲き出た蓮の花のような清らかさ、苦難に耐えてきた強さ、悲しみを彼は彼女の顔から感じ取ったのである。
彼女は通常はむしろ蓮っ葉なくらいに明るく、コケティッシュに振る舞う女だったから、彼女からそんな印象を受けたというのは不思議なことだったが、憐という男はぼんやり者のくせに、妙に鋭いところもあったから、彼だけにはそう見えたのかもしれない。
「お茶はいかが?」
「ええ、頂きます」
「大変なことになってしまったわね」
「ええ」
「私のせいだって思っていらっしゃる?」
「え? まさか、そんな事は」
「いいのよ。町の人はみんな噂しているわ。親と子が一人の女を奪い合って、殺し合いになってしまった。悪いのはあの女だって」
洋風の室内の中央には、小さなストーブがあり、その上に、日本ではまだ珍しいサモワールが載っていて、湯気を立てていた。女は、サモワールからお茶を注いで憐に渡した。窓ガラスの外側にはびっしりと氷が張り付いていて寒げだが、室内は暖かい。
「本当のところ、あなたのお父様と私は、もうほとんど関係は無かったのよ。私をこんな女にしたのはあなたのお父様。でも、他の生き方が今より幸せだったかどうかなんてわからないわ。今でも、幸せってわけでもないけど。よその人から見れば、私などいないほうがいいと思われているでしょうね。平和な家庭を破滅させる、悪女だ、売女だって」
女はとりとめもなく語り続けた。憐はほとんど黙って聞くだけである。
「あなたのお兄様に、300円を調達してほしいと言ったのは本当よ。でも、それはどうでもいい事だったの。私にとって、男は、お金を持ってきてくれる人か、そうでないかの2種類だけ。お金の無い男は、私には縁の無い人だわ。お兄様に300円と言ったのは、試してみただけよ。そのお金をどんな方法で手に入れるかも関係ない。それくらいのお金が手に入れられないなら、相手にはしないつもりだったわ。でも、あの人は、150円のお金を手に入れた。300円ではなかったけど、私のために働いてくれたの。だから、ご褒美に、一緒に遊んであげたの。その翌日にはあの人は逮捕され、それが私のせい、ということになったってわけ」
「兄さんが父を殺したと思いますか」
「さあ、どうかしら。まだ出会ってからニ、三度しかつきあっていないけど、かっとなって殺すことはあるかもしれないわね。でも、計画的に人を殺せるような性格ではないと思うわ」
「僕もそう思います。有難うございました。これで失礼します」
「ああ、ちょっと待って」
憐は椅子に座りなおした。
「あなた、神様を信じていらっしゃるんですってね」
「……ええ」
「神様は、私のような悪い女でも許してくださるかしら?」
「マタイ伝に『取税人と遊女とは汝らに先立ちて神の国に入るなり。それヨハネ義の道をもて来りしに汝らは信ぜず、取税人と遊女とは信じたり。然るに汝らは之を見し後もなほ悔い改めずして信ぜざりき』とあります。あなたが遊女というのではありませんが、この世の善悪よりも、大切なのは、神に対する善悪だと思います」
「では、何が神の前の善悪なのかしら」
「自分の心に聞いて、恥ずかしくない行動をすることでしょうけど、もっとも大切なことは、神を愛し、神さまが人間を愛するように他人を愛することだと思います」
「神様が、目の前にいれば、愛することもできるでしょうけどね」
「目に見えないものはたくさんあるはずですよ」
「そうね。自分のちっぽけな心で大きなものの存在をどうこう言うこと自体がおかしいんでしょうね。あなたのお兄さんによろしく。御免なさいと言っておいて」
警察から帰った論を待ち受けていたのは、下男の竜吉だった。この男は町の白痴の女タキが産んだ私生児で、その父親は濫三郎だと言われていた。濫三郎はそれを否定していたが、タキが死んだ後、その孤児を引き取って育てたので、やはりその父親だというのが定説になった。だが、濫三郎は彼をあくまで下男として扱い、自分の子供のようには育てなかった。もっとも、子供に対する無関心は、他の三人に対しても同じではあったが。
「論さま」
階段を上りかけてそう声をかけられ、論は足を止めた。その顔には不快感が浮かんだが、彼はこの若者が嫌いだったのである。彼とこの若者は同じ歳で、彼が中学に上がる前にはこの竜吉とわりと仲が良かった。竜吉は、頭は悪くはなかったからである。だが、その考えのいやしい所、卑屈なところ、自分の頭の良さに対する己惚れが鼻につき始め、成長してからは滅多に話すことはなくなった。だが、相手の方では、捨てられた犬が主人の愛顧を求めるような表情で、いつも彼の後を目で追っていた。その視線が鬱陶しく、ますます論は竜吉が嫌いになって行った。
「何だ」
「お話があります」
「ここでは言えない話か?」
「ええ」
「なら、僕の部屋に来い」
論は階段を上がり、その後ろから竜吉が付いて来た。
部屋に入ると、論は振り向いて、竜吉に冷たい目を向けた。
「何の話だ」
「実は、そのう、へへへ、褒美を貰いたいんで」
「褒美? 何のことだ」
「わかってらっしゃるでしょう。濫三郎様の件ですよ」
「親父の件? 何を言っている」
「あなたのお望み通りになったじゃありませんか。あなたは、お父様を殺したいと思っていらっしゃったでしょう?」
「何、じゃあ、親父をやったのはお前か」
「いいえ、あなたですよ」
「何を言っているんだ、お前は」
「私は手を下しただけ。本当の犯人は、あなたです。私は、濫三郎様を殺したいという気持ちは、まったくありませんでしたからね。あなたの為にやったんです」
「馬鹿な! 俺が親父を殺したいなど……」
「嘘はいけません。子供の頃、何度も言っていましたよ。それに、あなたはおっしゃっていた。この世には、生きる価値の無い人間が無数にいる。そんな人間を殺しても罪にはならないと」
「こ……、この悪党め! お前を警察に突き出してやる!」
「いいんですか? 私はあなたから命ぜられてやったと言いますよ。だって、乱様が犯人となれば、この家の財産は次男のあなたが引き継ぐことになります。だから、あなたが殺せと言ったんだと。いいじゃありませんか。あなたは乱様もお父上もお嫌いだったじゃありませんか。邪魔な二人が一辺に片付いたんですから」
「俺は……、俺は……」
「ねえ、覚えていますか。まだ子供のころ、私たちはよく一緒に話したじゃありませんか。今でも、よく覚えていますよ。あなたはおっしゃった。この世に神様などいないと。そして、神がいなければすべては許されるんだと」
「違う! すべてが許されるはずはない」
「おや、あなたはもっと頭が良いお方だったはずですよ。自分の論理を自分で否定なさるんですか? それこそ、あなたが最も嫌った、自己矛盾でしょう」
「論理……、論理か! 論理などクソ喰らえだ! 俺は、お前を警察に突き出してやる!」
「あなたには、できませんよ。黙っていれば、この家の財産は、すべてあなたの物ですからね。ねえ、私は、あなたを尊敬しているんですよ。この世であなたほど賢い人はいないと。昔のように仲良くしようじゃありませんか。私は、あなたの言うことなら、何でもしますよ」
「……そうか。じゃあ、今すぐ、首をくくって死ね」
竜吉は、しばらく黙って論の顔をじっと見ていた。その目にある憐れみのような色が、論には不快だった。
「……いいですよ。どうせ、白痴の浮浪者女の生んだ息子として見下げられて生きていく人生に、未練などありません。でも、私だって業家の兄弟なんです。それが、なぜあなた達は主人面して、私は下男なんですか? 私とあなた達に何の違いがあるんですか。ただ、生んだ母親が違うというだけで、あなた達は一生、紳士として扱われ、私は卑しい下男として扱われるんです。褒美? そんな物は欲しくもない。ただ、私はあなたに人並みに扱って貰いたかっただけだ。私の精神を決めたのは、幼い頃の、あなたのいろいろな言葉です。あの頃のあなたは素晴らしかった。今のあなたは、馬鹿みたいですよ!」
論は無言で背を向けた。やがて竜吉が部屋から出て行き、ドアの閉まる音がした。
それから1時間後、竜吉の部屋で、天井の梁からぶら下がっている竜吉を、下女の一人が見つけ、悲鳴を上げた。 -
第五章 宙に浮いた50円
明治時代のことであるから、物証などはほとんど当てにならず、犯人らしい人物の見当をつけて逮捕し、後は拷問によって自白させるというのが一般的な事件の解決法であったが、この場合は、犯人らしい人物が紳士階級であったから、さすがに拷問はできず、状況証拠のみによって乱の犯行を立証する方針が取られた。
取りあえず、凶行の手段は撲殺であり、その道具は応接間の青銅製の花瓶であろうということになったが、乱は、自分は手で父親を殴っただけであり、断じて花瓶などで殴ってはいないと言い張った。死体の傍には血のついた花瓶が転がっており、彼の言葉は言い逃れだろうと思われたが、しかし、それが嘘だという証拠も無く、検事は困惑した。一番の証拠と思われたのは、乱が所持していた150円の金で、そのうち5円を宿屋の支払いとし、温泉宿で20円程度の散財をしていたが、なおも120円少々が残っていた。その前日までは宿屋の支払いもできない文無し状態だったのだから、これこそが父親の屋敷から彼が金を強奪したれっきとした証拠であろうと思われた。しかも、事件の前日に濫三郎の工場の差配人が、商品の売上として200円を濫三郎に渡し、それを金庫に入れたことが確認されていた。だが、それだと後50円ほどが行方不明であり、乱は、金など取っていないと言い張っていた。では、その150円はどうして手に入れたかという質問には、彼はただ口をつぐんでいるだけだった。問い詰めると、親切な知人から貰ったと答えたが、その知人は誰かと聞いても、答えない。それを答えるくらいなら、投獄され、有罪判決を受けたほうがましだと言うのである。
こんな些細な事柄がどうして問題になるのだ、彼が犯人なのは間違い無いのだから、さっさと裁判し、処刑しろ、という声も司法局内部では多かった。そこで、いよいよ裁判が行われることになったのだが、その前日に獄中の乱を二人の人間が訪れた。だが、その話の前の出来事を書いておこう。
乱が逮捕された時の兄弟たちの反応はそれぞれに異なった。憐は大きなショックを受け、茫然自失の体だったが、論はまったく反応せず、冷淡な顔をしていた。「まあ、あいつなら親父を殴り殺しかねない」といった表情である。憐が、兄の嫌疑を晴らすために、事情を知っているらしい黒卯紫苑に会いに行く、と言った時も、「やめておけ」と言った。
「そんなのは警察の仕事だ。お前がいくら動いても何にもならんよ」
「でも、乱兄さんをこのままにしていてもいいんですか?」
「どうしようも無いだろう。それに、なぜ助ける必要がある?」
「だって、兄弟ですよ」
「兄弟が他人とどう違うのか、俺にはわからんね。親父に関して言えば、他人よりもっと嫌いなくらいだ。乱があいつを殺したのなら、感謝はするが、だからと言って乱を助けようとは思わないね。お前も、馬鹿なことはやめるんだ。毒虫が毒虫を殺した、それだけさ」
「兄さんが毒虫だと言うんですか?」
「毒虫ではないが、昆虫並の人間さ。目の前の欲望だけで動く、そんな人間を人間と言う名で呼ぼうとは思わないね」
「乱兄さんが嫌いなんですか?」
「嫌いだね。お前はあいつとほとんど縁が無かったから、あいつに兄弟らしい愛情を持っているんだろうが、俺はあいつの尻拭いを何度もさせられたからね。あいつの放蕩は親父譲りだよ。淫蕩、好色、無責任、ほら吹き、俺の嫌いな欠点をあいつはみんな持っている。あいつを好きになれる人間はあいつを知らない人間だけさ」
「でも、僕たちは兄弟です」
「ああ、残念ながらね。兄弟は助け合うものだと決まっているらしい。もっとも、世間にそんな兄弟がどれだけいるか知りたいもんだね。親の遺産相続ともなれば、互いに食い合い、殺しあうような兄弟は無数にいるようだがね」
「僕は、無力ですが、乱兄さんを救うために働いてみます。仮に、乱兄さんがお父さんを殺したとしても、きっと罪を軽くするくらいはできるでしょう」
「まあ、やってみるがいいさ。どうせ止めたって無駄だろうからね」
憐が出て行った後、論は物思いに沈み込んでいたが、やがて身支度をして、これも屋敷を出た。
雪の降り続く中を、彼は考えに耽りながら歩いた。
やがて彼が着いたのは、警察の留置所だった。逮捕以来、乱はずっとここに留置されているのである。面会の許可を貰って、彼は鉄格子の前に椅子を下して座った。
「おや、お前か」
「ええ、僕です。兄さん」
「お前が来てくれるとは思わなかったよ」
「そうですね。手短かに話しましょう。兄さんは、親父を殺したのですか?」
「いや、違う。親父を殴ったのは確かだが、親父が死んだのは、青銅の花瓶で頭を潰されたからだという話だ。俺は、そんな事はしていない」
「でも、あの日、外部からの来客は兄さんだけですよ。それに、僕も憐も、あの日は一日中外出していました」
「使用人はどうだ?」
「殺す理由がありません」
「親父のことだから、使用人に怨みを買っていたということもあるだろう」
「それはありえますね。でも、例の200円の金はどうなんですか? 兄さんが取ったんでしょう?」
「……お前だけに言おう。だが、これは誰にも話すなよ。確かに、俺が取った」
「では、50円はどうなったんです?」
「ああ、そこなんだよ。俺は、この事を世間の人間に知られるくらいなら、死んだほうがいい。いっそ死刑にされた方がいいくらいだ」
「……」
「俺は、親父を殴って、机の中から金庫の鍵を取り、金庫を開けた。そこには封筒に入った200円の金があった。200円では、例のあの女に言われた金には足りないが、無いよりはましだと思って、俺はその200円を取った。だが、そこで考えたんだ。これをあの女の所に持っていけば、そっくりあの女の物になる。何しろ、金遣いの荒い女だと言うから、これをすっかり使ってしまうだろう。そこで、俺は、そのうち50円だけを家の玄関脇の壁の穴に隠したんだ。この俺が、そんなみみっちい事をしてしまったんだ」
「それがどうして恥ずかしいんです?」
「俺は、金が無いことは恥ずかしくはない。あってもそれを使わないという事が恥ずかしいんだ。つまらない理由で女に嘘をついて、みみっちくも50円を隠した、その自分のふるまいが許せない。何と言えばいいのか、よくわからないが、気品、だろうか。たとえ汚辱の中にいても、この心の支えがある限りは、俺は胸を張って生きていける。だが、俺は自分で自分を裏切ったんだ。俺は、自分を鷲だと思っていたのに、イタチか鼠のようなことをしてしまった、そんな自分が許せない」
「それが兄さんのレゾン・デートル(生きる根拠)なら、何とも言えませんが、僕から見れば、つまらないプライドだし、甘えのように思えますね」
「お前にはそうだろうよ」
「では、兄さんは、親父を殺していない、それは確かなんですね?」
「ああ」
「わかりました」
論は立ち上がって別れを告げようとしたが、その時、乱が目を上げて、彼を見た。
「なあ、『餓鬼』って何だ?」
「餓鬼? 子供のことでしょう」
「そうだよなあ。変な夢を見たんだ。真っ暗な荒野で、無数の人間の泣き声が聞こえるんだよ。俺が、傍を見ると、汚い百姓の爺がいるから、『あの声は何だ』と聞くと、『餓鬼でさあ。餓鬼どもが飢えて泣いているんでさあ』と悲しげな声で言うんだ。その『餓鬼』という言葉が、夢から覚めても、何だか心に残ってなあ」
論は、黙ったまま、兄に目礼してそこを立ち去った。 -
第四章 誰が濫三郎を殺したか
乱が温泉街に伴った女は、名を黒卯紫苑と言い、下の名は「しおん」ではなく「しえん」と読む。この女が、例の14歳で濫三郎の情婦になった女で、この事件の時には20歳だったがまだ見かけはまったくの小娘だった。もっとも、濫三郎のような人間の妾を6年もやっていれば相応に鍛えられてあばずれにはなっていただろうが。
この女は、2年前から軽魔町の遊楽街で飲み屋をやっており、そこには町の名士たちも結構集まっていた。中には、華族様までもいたらしく、彼女はいわばこの小さな町のサロンの「椿姫」的存在だったようだ。その客たちからの収入もあって今では濫三郎だけに頼ってもいなかったが、金貸しなどもしていて、結構強欲な女だという評判もあった。
父親の妾である女をなぜ乱が温泉街に連れていったのかというと、簡単な話、乱は父親を攻略する手がかりを求めてこの女の飲み屋に行き、一目ぼれしてしまったようなのである。確かに、美しい女だし、一見はかなげな容姿だから、男なら誰でも心を惹かれるだろうが、所詮は水商売の女である。手練手管にかけては、世間知らずの大学生がかなう相手ではない。その女が、どういうわけか、300円、今で言えば300万円くらいの金が緊急に必要だとか何だとか言って、乱をそそのかし、父親との再交渉に赴かせたというわけである。女とすれば、駄目でもともと、男から幾らか金を絞ることができればいいくらいの気持ちで吹っかけてみただけだろう。
恋に落ちた男は仕方の無いもので、その足で乱は父親の所に行き、どうやら口論の果てに父親を殴り殺して金を奪ったらしいというのが、当時の世間の評判であった。
当の乱自体、父親に手をかけたことは認めていた。つまり、父親を殴って気絶させたのは事実らしい。ということは、彼が殺したことはほぼ確実であり、この事件の興味は、後はこの珍しい尊属殺人に対して裁判でどのような判決が出るかに移った。何しろ、尊属殺人の量刑が通常の殺人よりはるかに重かった時代の話であるから、悪ければ死刑、うまく行っても無期懲役か長期の徒刑は免れないだろうというのが大方の予測である。
当日、濫三郎は珍しく一人で家にいた。彼の呑み仲間がこの日に限ってその場にいなかったのには何かの理由があったのだろうが、例の語り手はそれを知らないと言っている。とにかく、濫三郎は一人で家にいて、論と憐は外出していた。だから、この屋敷には主人の濫三郎と使用人たち以外にはいなかったのである。そして、使用人たちは表座敷の方には滅多に顔を出さないから、殺人者にとっては(偶然の機会ではあるが)絶好の機会だったわけである。
午後2時ごろ、乱が屋敷に現れ、濫三郎との会談を求めた。濫三郎はしぶしぶ承知して、応接間で彼と面談した。
その20分後くらいに、興奮した顔で応接間から出てきた乱は、そこで顔を合わせた下男にぎょっと驚いたような顔をしたが、そのまま何も言わず、屋敷を出て行ったそうである。
その下男は不審に思ったが、それ以上は気に留めず、他の用事をし、やがて夕食の支度ができて主人を呼びにいった時に主人の他殺死体を発見したわけである。 -
第三章 論
論は、見たところ、しっかりした性格の人物に見えた。鼻梁の高い白皙の顔に金縁の眼鏡をかけ、その眼鏡の奥の目には冷笑的な光があった。彼は東京帝国大の2年生であり、ドイツ文学を専攻していたが、文学よりも哲学に興味を持ち、特にニーチェの超人哲学に惹かれていた。藤村操の哲学的自殺にも見られるように、まだ人間が真剣に思索していた時代であったから、彼もまた神の存在の有無とか、この世の善悪の基準とかいう問題で頭を悩まし、軽い神経衰弱にかかったのである。そういう問題に取り付かれたのは、彼がまだ尋常小学校の高学年の頃だというから、かなり早熟な人間だったのだろう。
彼は同じ東京に住んでいながら、兄の乱とはほとんど顔を合わさなかった。実のところ、私大に通う兄を馬鹿にしていたのである。兄のほうも、弟の頭脳を畏怖し、放蕩の清算のための金の無心をする時以外は、彼を敬遠していた。兄だけではなく、彼の同級生でも、彼と論争して勝てる人間はほとんどいず、彼を己惚れさせたが、その半面、親しく語る相手がいないことは、彼の心を自閉的にし、憂鬱の中に閉じ込めることが多かった。
彼が特に心を悩ませている問題は、神はいるのか、いないのか、という問題であった。神がいるなら、すべては解決である。神の与えた律法のとおりに人間は生きていくしかない。もちろん、ではそれはどのような神か、という問題があるが、少なくとも、神の律法に従うだけだということは変わらない。だが、神がいないとしたら? そうすれば、この世の善悪はすべて相対的なものになり、極端に言えば、「すべては許される」ことになる。果たして、どちらなのか。そして、それは証明することが可能なのか。
「お前は、神さまを信じているらしいね」
彼は憐に言った。帰って翌日である。取りあえず、二階の空き部屋にしばらく滞在することにしたのであった。憐は、困ったような顔で答えた。
「ええ」
「それはどんな神様なのだい?」
「キリストの神です」
「なぜ、その神様が正しい神様だと思うのだい?」
「わかりません」
「その神様が間違いだったらどうしようと思わないのかい?」
「いいえ」
「ふむ。……お前は偉いよ。俺は、それが怖くてならない。ある神様を信じた後で、その神様が偽者だったとわかったら、自分の人生のすべてが無意味になるような気がする」
「無意味にはなりません」
「どうして?」
「どうして無意味になるのですか?」
「疑問に対して疑問で返すのは反則だよ。だが、まあ、考えてみよう。……そうだな。俺は、自分の人生のすべてに責任を持ちたい。自分のしたことの結果に責任があると思うのだな。だが、信仰はそうはいかない。それが神様であれ何であれ、他の者に自分の一部を預けることになる。それが失敗したら困る、というのがその心理かな」
「それは信仰ではなく、投資ですよ」
「投資? ハハハ、面白い意見だな。なるほど、俺は神様に投資して利益を上げようと思っていたわけだ。じゃあ、お前は何のために神様を信じるのだい?」
「信じる以外に道が無いからです」
「それほど、神様について考えたのかい?」
「いいえ。考えなくても、それ以外には無いとしか思えないのです」
「ふむ……お前は幸せだよ。俺はそうはいかない。俺には、不合理なものは信じられない。この世にはびこる無数の悪を許容する神様なんて、俺には信じられないんだ。いいかい、この世には、何の罪もないのに、悪に苦しむ無数の人間がいるのだよ。特に、小さい子供たちとかね。おっと、原罪などという言葉は持ち出さないでくれよ。俺は原罪なんて信じないからな。幼い子供が、自分の知りもしない先祖の罪のために裁かれるなんて、そんな馬鹿な話はない。とにかく、罪無くして流された涙が一粒でもある限り、俺は神様を信じないよ。いや、たとえ、神様がそういう世界を作ったのが真実だったとしても、そんな神様なら俺はそんな愚かしい世界の入場券を神様に謹んでお返ししたいのさ」
「……兄さんは、優しいんですね」
「優しい? そうかな。そうじゃない。ただ頑固なだけだろう。例のトマスと同じさ。キリストが目の前に現れて、その手の穴に自分の指を突っ込むまでは、キリストの復活を信じない。俺は、それよりもまだ悪いよ。キリストが真実だろうが、俺の罪まで勝手に贖わないでくれ、と言いたいんだ。つまり、根っからの我利我利亡者か、己惚れきった合理論者なんだろうな」
「僕にはわかりませんが、そうした考えは兄さんを不幸にしているだけのように思えます」
「そうだな。多分そうだろう。そして、俺が度し難いのは、俺がその不幸を愛し、自己満足しているということさ。誤った認識のままで幸福であるよりは、正しい知識を得て不幸であるほうがいい、ということかな」
「知識そのものは、けっして人間を不幸にはしないと思います」
「まあな。俺の場合は、正しい知識が得られないことに、うんざりしているだけかもしれない。俺は、馬鹿かもしれん。まあ、お前のほうが、よっぽど賢いようだよ」
「……」
こうした問答が、論と憐の間にあったらしいのだが、例の語り手がそれをどうして知っているのかというと、彼はその頃中学生で、どうやら憐と友達だったらしいのである。早熟な彼は、憐との間に、神の存在の有無について議論をし、その際に憐とその兄の間のこの問答が語られたということだろう。これは事件そのものとは関係の無い問答ではあるが、論という人間の人物像を表す話なので、記録しておくことにする。
乱とその父親との交渉が不調に終わった後、乱は町の旅館にずっと滞在し続け、山に雪が降り始め、麓の村や町にも積もり始めたある日、再び父親との再交渉に出かけた。帰ってくると、彼は懐から高額紙幣を出して旅館のツケを払い、そのまま、ある女を伴って近くの温泉町に出かけたが、その後、父親の他殺死体が発見されて、二日後に乱はその温泉街で逮捕された。彼が犯人であることはほぼ確実に思われたが、なぜ彼がそのまま逃亡せず、近くの温泉街で遊びほうけていたかは謎であった。 -
第二章 乱
乱という人物の人間性があまり他人に信頼されそうなものではない、という事を書いたが、彼の特徴を一言で言えば、「空想家」あるいは「夢想家」ということに尽きる。もっとも、これは業家の兄弟全員に共通する性格で、この話の中の人物の不可解な行動も、彼らの空想的性格に起因するように思われる。ただし、その空想の傾向はそれぞれに異なり、長男は「文学的空想家」、次男は「哲学的空想家」、三男は「宗教的空想家」とでも分類できるかもしれない。
当時は、人間というものは毎日の生活に没頭して生き、余計な空想などしないのがまともな人間だと思われていたから、業家の兄弟のこの性格はあまり好意的には見られなかった。ひどい場合には、「あの家の人間はみな氣違いだ」と言われることもあったのである。念のために言っておくが、この「氣違い」という言葉は当時の人間が言ったので、それを私は(いわば良心的歴史家として)仕方なく記述しているだけである。
父親の度を越した好色は、確かに常軌を逸した部分があり、大地主でもあった彼が自分の小作人の、まだ14歳の小娘にまで手をつけた時には、町中の非難を浴びたものであるが、それよりも非難を浴びたのは当の小娘であった。男に甘く、女に厳しい封建時代とはいえ、「まだ小娘のくせに、男を垂らしこんだ」という、本人にとっては理不尽な非難であるが、その娘の父親は、そのために毎月のお手当てを貰うことになったから、案外と満足したかもしれない。どうせ、同じような水飲み百姓の嫁にやるなら、「旦那様」の妾になってくれたほうが、金銭的には潤うというものである。また、酔余の酔狂から、かつてこの町に住んでいた、汚らしい白痴の浮浪者の女に手を出して身ごもらせたという噂もあり、彼の淫蕩さ、不埒さには際限が無かった。その息子たちであるから、業家の兄弟には皆、異常な面があることは当然かもしれない。
乱の話から脱線したが、乱の性格が空想的であるというのは、彼が計画していた実業の事業内容からも推測できる。彼は、この甲府盆地にワイン工場を作ろうと計画していたのである。ワインを飲む人間もほとんどいない時代に、ワイン工場を作ろうということだけでも、彼の非常識ぶりはわかる。もちろん、それからだいぶ後になって、山梨が葡萄の生産に適していることが知られるようになったが、ワインを飲む人間もいないのに、ワインを作っても商売にはならなかっただろう。それで、彼の話を聞いた人々は、彼を山師的な人間だと考えた。それだけではなく、彼の話し振りそのものが、現代で言えば躁鬱病的なところがあり、熱狂と憂鬱が交互に訪れ、その別々の時期に会う人間には彼が同じ人間とも思えなかった。だが、概して言えば、狂騒的な期間の方が長かったようだ。
彼は大体においては鷹揚な人間であり、またそのことを誇りとしていた。要するに、気前良く人におごるのが好きだったのである。だから、実家からの仕送りが滞り、知人から借金をしなくてはならなくなったりすると、それに非常な屈辱を感じたようだ。本来なら、母親の残した巨額の財産を自由に使えるはずだのに、それがすべて父親に専有されていることを、彼は理不尽だと感じていたのである。そこで、彼は父親から財産の一部を譲ってもらい、それで父親とは永遠に縁を切るつもりで故郷に帰ってきたのだが、その当てが外れたことは先に述べた通りである。
こうした不満がいつか爆発するだろうということは、誰もが感じていた。だから、濫三郎が何者かに殺された時、ほとんどの人が真っ先に彼の顔を思い浮かべたのである。
乱が帰郷してから1週間後に、今度は次男坊の論が帰ってきた。彼は軽い神経衰弱を患って、その療養のために温泉に行こうと思っていたのだが、その前に久しぶりに実家に顔を出し、はからずもここに業家の三人兄弟のすべてがほぼ十年ぶりに揃ったのであった。 -
この話の、問題の事件の半年以上前に、末っ子の憐はそれまで預けられていた寄宿制の学校から帰ってきた。それは東京にあるキリスト教系の学校で、幼い頃から瞑想的傾向の強かった三男に、この寄宿舎生活が悪影響を与えたと言う人もいる。もともとぼんやりした性格だったのが、神がかりの傾向まで出てきたと言うのである。だが、他人に説教をしたりすることはなく、他人の悪行を見ると悲しげな顔をするだけなので、それほど害は無い人間だと思われていた。彼の母親は、依怙地なほどのキリスト教信者で、それが明治初期の流行とはいえ、浄土教系仏教徒の多いこの町ではあまり評判が良くなかった。その母親も憐が中学に上がる少し前に死に、その遺志で彼は東京の私立中学校に遣られたのである。というのも、業家の生活は、子供の教育上、あまりよろしくはなかったからであった。濫三郎は、かなり好色な人間のようで、家の女中、工場の女工などの多くに手をつけていたが、女房がキリスト教に入れ揚げ、清らかな生活を送ろうとするのに反撥して、町の酒場や遊郭で毎晩どんちゃん騒ぎをするばかりでなく、飲み屋の女や売春婦を家に連れ込んでは、人の面前だろうがかまわずに不埒な行為に及んだりすることも多く、こんな雰囲気の中で息子を育てるわけにはいかないと女房は思ったのだろう。濫三郎としても家に子供などいない方が気楽だから、それを承知したのだが、それ以前に、上の二人もとっくに別の学校の寄宿舎に放り込んでいたのである。
この事件の当時、長男の乱は大学4年生、次男の論が大学2年生、三男の憐が高等部3年生だったが、憐は学校を中退したのかどうなのか、一学期の初めころに故郷に帰ってきて、そのまま親の家に住み着いたのである。濫三郎は、息子のその行為を薄気味悪く思ったが、別に害になる人間でもなさそうなので、そのままにしていた。もともと、学校を卒業しようが、中退しようが、息子に関心などなかったのである。家に帰っても、憐は父親に何かを言うわけでもなく、女たちが現れてどんちゃん騒ぎが始まると、黙って二階の自分の部屋に行くだけであった。最初は、その顔に批判の色を探していた濫三郎も、彼が特に自分を批判しているわけではないと知ると、彼をまったく気にすることはなくなったが、なぜかその放埓さに少し歯止めがかかったように家の召使いたちの目には見えた。人間、人から批判されると反撥するものだが、黙って見られていると、少しは自分の行為が恥ずかしくなるものらしい。
憐が帰ってきたその年の冬、木枯らしが強く吹く12月のはじめに、大学卒業を来春に控えた長男の乱が軽魔町に帰ってきたが、こちらは実家には住まず、町の旅館に宿を取った。というのは、彼は父親を毛嫌いしており、母親の仇くらいに考えていたからだが、その彼が帰ってきたのは、父親と交渉すべき問題があったからである。それは、母親の遺産相続の問題である。もちろん、母親の財産はすべて父親の物になっており、本来なら父親が死ぬまでその財産は彼の手には入らないのだが、それを今すぐに貰いたい、というのが彼の希望だった。どうやら、彼は卒業を機に新しい事業を始めたいのだが、それには元手が必要だったらしい。父親が死ねば、長子としてその財産はほとんど彼の手に入るのだが、それが彼には待てなかったわけだ。父親が今すぐ死んでくれればそれが一番だが、あいにく、濫三郎は百姓上がりなだけに、不摂生な生活にも関わらず、体だけは因業なほどに丈夫で、年齢もまだ50を少し過ぎた程度で、まだまだ当分は死にそうになかった。
乱は帰郷するとすぐにその交渉の為に父親の屋敷に行ったが、交渉は不調に終わり、その際に乱が激怒して、父親に向かって「お前を殺してやる」と言ったということは、数人の人間の証言がある。もちろん、その場にいた濫三郎の放蕩仲間や飲み屋の女の証言だ。それに対して父親も黙ってはいなかっただろうが、その返答は不明である。憐は当然ながら、その場にはいなかった。飲み屋の女や父親の遊び仲間がいる場には、彼はほとんど顔を出さなかったのである。後になってこの「殺してやる」が大きな問題となったのだが、激怒した人間はそういうことを言いがちなものであり、とりたてて重視するほどのものではないと乱に同情的な意見を述べる者もいた。しかし、その人々も、乱という人物の人間性をあまり信じてはいなかったようである。 -
その殺人事件が起こったのは明治の中期で、場所は山梨県の、F川流域の上流に近い小都市らしい。小都市というよりは、村に近い人口だが、製糸工場などもあり、軽便鉄道の駅もちゃんと通っていたようだ。町の名は仮に、話の人物たちの姓に合わせて軽魔町としておこう。その町に、製糸工場を経営している業濫三郎という男がいた。この町がまだ小さな村落だったころにはただの水飲み百姓だったが、どういうわけか大地主の娘を垂らしこんで、入り婿となった。一説によると、村に巡業に来た旅役者に弄ばれて妊娠した娘を、腹の中の子供ごと引き受ける約束で結婚したものらしいが、その真偽はわからない。(それが本当なら)その子供は幸いなことに流産し、濫三郎は、余計な荷物無しにめでたく家付き土地付きの女房を手に入れたわけである。品性はともかく、濫三郎自身も、若いころはなかなかの二枚目だったらしく、地主の娘も彼を婿にすることには文句は無かったようだが、結婚してからは大いに後悔したようである。というのは、この濫三郎は、わけのわからない人間で、傲慢と卑屈、吝嗇と放蕩、軽薄と狷介の入り混じった複雑な性格をしており、それほど残忍というのでもないが、自分が結婚を利用してのし上ったことに引け目を感じていて、その反動からか女房を冷淡に、または邪険に扱ったらしいのである。女房の方も、もとは下賎の者にすぎない亭主から不当に軽んじられることに腹を立てて、結婚して二日目からはほとんど口もきかなくなったようだ。そのまま三年ほどが過ぎ、それでも亭主との間に二人の子供を生んだが、その後、何かの病気であっけなく死んだ。一説では、旦那が殺したのではないかとも言うが、この話には関係がないので、そうではないとしておこう。
女房が死んで、濫三郎は大泣きして悲しんだが、勿論それはお芝居に過ぎないと言う人間がほとんどで、実際、葬式の翌日には、女房の生前から関係のあった女を新しい女房としておおっぴらに家に入れた。これであきれて、前の女房の実家の人々は彼との交際をぷっつり打ち切ったが、それこそ濫三郎には望むところであった。(もちろん、そんな心理は憶測するしかないのだが、いちいち「~だろう」と付けるのも煩わしいから、今後は憶測でも何でも断定的に書くことが多くなることをあらかじめ断っておく。)
新しい女房は、濫三郎との間に子供を一人生み、これで業家の兄弟は三人になった。上から「乱」「論」「憐」というふざけた名前だが、それぞれの性格を現してもいるようだ。だが、それはまだ先の話である。