チョーセンマリオモドキ神の暴挙で、とうとうGPIFの運用益が「トータルでもマイナス」入りですw 直近1年間で13兆のマイナス。運用改革後のトータルでも、1兆以上のマイナスです。これでネトウヨの「トータルでは勝ってるから」理論が破綻w つうか、塩漬けになっている「売るに売れない」株が多くて、実際にはもっと大きな損失が出ているはずだ。GPIFは、新たな目標値に向けた資産構成への変更がほぼ終了した昨年7-9月期に自主運用開始以降で最大の評価損を計上した。 今、日銀やGPIFが手をひいたら、日本の株価は大暴落するだろう。それも大変なんだが、もっと困るのは、政府筋が株主になる事によって、企業のコンプライアンスが崩壊するという事。たとえばPCデポだ。あれだけの不正、インチキをしておきながら、いまだに公的機関は動かない。何故か? 国営企業だからですw 政府筋が、PCデポの株を大量に持っている。だから、手が出せない。本来ならあれだけの不祥事をしでかしておいて、倒産に追い込まれていても不思議でない会社が、何の追求も受けない。どっかで見た景色だな、と思ったら、東京電力だw 東電は、もともと東京都が筆頭株主で、公的機関の持っている株が多い会社です。そういう会社は、どんな不祥事をしでかしても保護される。ソヴィエト連邦の国営企業みたいなもんだw |
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「紙屋研究所」から転載。
膨大な著作の内容(あるいは暗黙のうちに伝えている内容)を、その結論が裏切っている、というのが面白い。そして、多くの著作において、その「結論」は、実は子供の頃から頭に刷り込まれてきた社会的ドグマでしかないのではないか。
仮に、この「ペリリュー・沖縄戦記」を読書ガイドなどの書き手が一言で要約するなら、その「内容を裏切る結論部分」に基づいて、「正しい戦争はある」もしくは、「アメリカの、あの戦争は正しい戦争だった」ということになってしまうわけだろう。
そして当然、日本の側も「日本の、あの戦争は正しかった」とする声はいまだに多い。
アメリカほどその声が大きくないのは、これまでは戦争被害者、戦争の惨禍を現実に知っている人がたくさんいたからだ。(靖国神社とは、要するに、戦争で死ななかった上級国民関係者が、自分たちに代わって戦争で死んでくれた人々を祭る、「正しい戦争」の象徴なのである。)
戦争の実体験者の多くは年齢的にはかなり高齢化し、戦争体験を子や孫に伝えている例は少ない。誰が、最悪の記憶を他人に語りたいものか。語るなら義務感からだけであり、それは「反戦活動」という政治的行為、すなわち、一般庶民がもっとも嫌う行為をすることになるのである。人々が政治的行為(特に反体制的政治行為)を嫌うのは、それがしばしば「家族の迷惑」になるからだ。あの家は「アカ」の家だ、と睨まれたくないからである。
さて、「正しい戦争」はあるか、という議論をするか、「防衛戦争は必要だ」という議論にするかで問題は変わってくるわけだが、下に引用された本の内容は、そういう議論以前に「戦争の実体、最前線の実体」を伝えているという点で実に貴重な文章のようである。
日本にも水木しげる(「しげる」の字は漢字だったかもしれないが、失念。)氏の漫画や一部の戦記小説などで最前線の様相は描かれているが、実は、それらを読んでも読者には「戦場の臭い(悪臭)と騒音」は伝わらないのである。
言葉で書かれていても、それは言葉でしかなく、読者にそれを自分の頭で再構成する想像力が無いと何も伝わらない。映画「プライベート・ライアン」冒頭部の戦闘描写は「戦場の騒音」を見事に描いているが、悪臭は伝わらない。弾丸の飛来や爆弾の破裂片の飛来もリアルに感じられるが、硝煙の臭いは伝わらないのである。
膨大な死体の数も、後になればただの数字になる。
多くの死の思い出も忘れられ、膨大な戦死者たちは思い出の中からも消えるという「第二の死」を迎えるわけだ。
(以下引用)2016-08-30 絶対非戦は「お花畑」か 『ペリリュー・沖縄戦記』
ユージン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』

「戦争はいやだ」という感情に対して
「戦争はいやだ」という反戦・厭戦的感情に対して、ネット上では(あるいはリアルでも)よく「そうだよな。だれも戦争なんか望んでいない。だから攻められたときにはそれを押し返す軍事力で対抗するんだよ(もしくは「だから」ではなく「だけど」でつなぐ場合もあるだろう)」という返事が返ってくるのをよく見る。
たしかに、ぼく自身も個別的自衛権の行使、すなわち自衛戦争を否定する人間ではない。
不合理な侵略があれば、憲法9条のもとで合憲組織として存在している自衛隊が反撃すればいいではないか、と思う。
しかし、9条を擁護する人のなかには、絶対非戦を主張する人もいる。そのような人を「お花畑」と揶揄する空気があることも承知している。*1
「自衛戦争は大義がある。そのための戦争は仕方ないではないか。黙って降伏せよというのか」。こうした意見にたいして、絶対非戦論は、真正面から「戦い」を挑むことになる。自衛戦争に代表される「正しい戦争」(正戦)であっても、決して戦うべきではない、という主張をする絶対非戦論には、ひとつの倫理的な優位がある。戦争は莫大な犠牲をともない、勝者も敗者も深い「傷」を負う愚かしい行為だと主張するからである。むろん、絶対非戦論者は、アメリカのベトナム侵略にたいしても、ベトナム側が立ち向かったような戦争はすべきでない、と主張することになる。
「どんなことがあっても戦争という愚かしい行為はすべきではない」。
この主張・感情は、まずたいていは戦争被害を一方的にうけた人たちから起こりうる。たとえば空襲をうけた住民とか、原爆で人生をめちゃくちゃにされた家族とか、侵略兵に蹂躙された村人とか、そういう人たちである。
敗戦国側の兵士からも起こりうる。絶望的な戦況のなかで無残な死を感じるであろうから。
しかし、戦勝国側からは、どうだろうか。戦勝国にとっては、その戦争は「正戦」であったはずであり、戦争の記憶や記録は、輝かしく彩られることになるのは、容易に想像がつく。戦勝国から「どんなことがあっても戦争という愚かしい行為はすべきではない」という主張は出てきにくいように思われる。
「戦争はすべきでない」とは言わないが…
しかし、ユージン・B・スレッジ『ペリリュー・沖縄戦記』はそうではない。本書は、第二次世界大戦で太平洋の島であるペリリューでの戦闘と、つづいて日本の沖縄での戦闘に参加した、米海兵隊の一員による戦闘記録である。戦勝国側兵士の戦記でありながら、
戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である。(p.466)
と結論付ける。そして、それは読み終えた者がおそらく共通して抱く感慨に違いない。
ただし、急いで付け加えるなら、スレッジは次のように本書を結んでいる。
やがて「至福の千年期」が訪れれば、強国が他国を奴隷化することもなくなるだろう。しかしそれまで自己の責任を受け入れ、母国のために進んで犠牲を払うことも必要となる----私の戦友たちのように。われわれはよくこう言ったものだ。「住むに値する良い国ならば、その国を守るために戦う価値がある」。特権は責任を伴う、ということだ。(p.467)
つまり、スレッジは「戦争は愚かしいものだ」ということには同意するが、「決してしてはならない」ということには同意しない。「正戦」には参加する義務があるとしているのだ。
だが、本書の価値にとって大事なことは本書を読み終えたあと、「戦争は愚かしいものだ」という膨大な事実をぼくらが受け取るということだ。そこから得る最終的な価値判断は、読者に開かれているのであって、スレッジ自身の判断はたまたま「正義の戦争であれば戦わねばならない」ということであったにすぎない。実際、本書の圧倒的部分は「正戦は必要」という主張とは無縁のものである。作品はひとり作者(著者)のものではない。世に送り出された瞬間に、作品は社会のものである。スレッジ個人の最終意見はどうでもいいのだ。スレッジが書いた本書の社会的役割は、まさに「戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である」ということを世に問うことにある。
自分に置き換えて読む
では、本書は、意図的な反戦・厭戦感情の記述で埋め尽くされているかといえば、まったくそんなことはない。
逆である。
従軍のさいに著者がもっていた聖書にはさまれた膨大なメモにもとづき、叙述される詳細な戦闘事実の記録にまず驚かされる。
スレッジが、大学にとどまって士官の身分になれることを放棄し、一刻も早く対日戦に参加するために一兵卒となることを志願するところからはじまって、短期間のうちにブートキャンプで訓練をうけ、ペリリューに強襲部隊として乗り込むまでが最初に描かれている。
学生がどのようにして兵士になっていくのかが、記録としてよくわかる。
そして、ペリリューに上陸する日、それを待機する瞬間の緊張が、わがことにように伝わってくる。アムトラック(水陸両用トラクター)に乗り込み、海上でアイドリングしているあいだのことを硝煙やディーゼル燃料の臭い、艦砲射撃の轟音などとともに叙述した後、スレッジはこう書いている。
戦場では待機する時間がかなりの割合を占めるものだが、後にも先にも、ペリリュー島への進攻の合図を待っていたあの耐えがたい拷問のような時間ほど、極度の苦悶に満ちた緊張と不安を味わったことはない。艦砲射撃が苛烈になるにつれて、いやが上にも緊迫感が募り、体じゅうから冷や汗が噴き出した。胃がキリキリと痛む。喉が詰まってつばを飲み込むのもままならない。(p.92)
上陸してただちに海岸を離れないと格好の標的になること、さえぎるものが何もない飛行場をわたらねばならないときのことを、「ぼくだったらどうするか」と置き換えて読んだ。スレッジの残したメモは膨大だったのだろう。細部にわたる詳細な叙述は、その光景をまざまざと思い起こさせるので、読者はぼくのように置き換えて考えざるをえない。
身を隠すところもない飛行場をわれわれは足早に進んだ。…自分の脚力だけを信じて走っていた。…敵の銃弾が金属的な音を立ててはじけ、体の両側を腰の高さで曳光弾が飛び去っていく。だが炸裂する砲弾のなかでは、小銃弾などどうでもよい気がしてくる。爆音が響き、飛び散る破片がぶんぶんと唸りながら宙を切り裂く。吹き飛ばされた珊瑚の高まりが顔や手を刺し、鋼鉄の破片が都会の道路に降る雹のように硬い岩の上にぱらぱらと落ちる。どこを見ても、砲弾は巨大な爆竹のように閃光を走らせていた。/立ちこめる硝煙を透かして、被弾した海兵隊員たちが次々ともんどり打って倒れるのが見えた。私はもう右も左も見ずに、ただまっすぐ正面を見すえる。前進するほど敵の攻撃は熾烈を極めた。爆発の衝撃と騒音が万力のように耳を圧する。今にも被弾して倒れるのではないかと、歯を食いしばってその衝撃を覚悟する。身を隠せそうな窪地がいくつかあったが、前進しつづけよとの命令が頭をよぎる。誰一人として飛行場を渡りきることなどできないように思われた。(p.122~124)
この記録を読むと、こんな身を隠す場所もないところで、傷ついて倒れた戻って戦友を介抱している。身を隠す場所のない米軍でさえこうなのだから、武田一義『ペリリュー 楽園のゲルニカ』で日本兵が戦友を介抱するのは十分にありそうなことだろうと思った。
わが身に置き換えて読むと、一刻も早くこの戦場を離れたいという感情が沸き起こってくる。そして、死なずに負傷をした場合は、名誉を保ったまま、戦場を離脱することができる。「後遺症が残らない程度に負傷して最前線を早く離れたい」。こんな感情がおきても不思議ではない。負傷して後送される兵士をみて、スレッジが「百万ドルの負傷」と呼ぶのは、まさにそれである。
こうした戦闘そのものだけではなく、スレッジが戦闘中に味わった水のまずさや、充満する死体の臭いの叙述も印象的である。
水がない状況で渇きに耐えられなくなった部隊の一人が、井戸の底にたまった乳白色の水を飲んで激しく嘔吐する。そのあと、作業班がもってきた缶の水をのむスレッジ。
意外にも水は茶色かった。それでもかまわず口を満たした----そしてひどく喉が渇いていたにもかかわらず、思わず吐き出しそうになった。ひどい味だ。錆と油をたっぷり含み、悪臭がする。あらためて手元のコップをみて仰天した。鼻を突く茶色い水の表面に、青い油の膜がゆらゆらとゆれていたのだ。腹がよじれるように痛んだ。/いかにひどくても、この水を飲むか、熱ばてで倒れるかしかない。飲み干すと、コップの底にコーヒー滓のような錆の澱が残り、胃がキリキリ痛んだ。(p.120~121)
死体や排泄物、放棄食糧の放つ悪臭は、繰り返し登場する。
そして、ペリリューの場合は、硬い珊瑚で覆われているために、死体が土に還らず、ウジとハエが大繁殖すること、沖縄の場合は、雨が続き泥まみれになる中で放置された大量の日本兵の死体の臭いが充満していることが描かれる。
お互いの兵士が、敵兵の死体をどう損壊し、辱めるか、あるいは、米兵が日本兵の金歯をとろうとして、瀕死の日本兵にどんな残虐を働くのか、また、日本兵に対してわきあがってくる憎悪についても、スレッジは容赦なく描写している。
ぼくの中で「日本軍の抵抗の無意味」が刻み付けられる
このようなスレッジの叙述全体から、ぼくがうけた抱いた感想は、次のようなものだ。
- 戦勝国アメリカといえども、最前線の兵士は本当に消耗品のようにどんどん死ぬ状況なのだということ。冒頭でスレッジの兵卒志願を「砲弾の餌食」だと嘆く家族の気持ちがものすごくよくわかる。
- できるだけ多く一人でも殺そうとする行為の無意味さ。米兵の側に立った叙述を読むと、日本兵の「頑強な抵抗」の無意味さが際立った。ペリリュー以降、日本軍は「バンザイ突撃」をしてあっけなく死ぬのではなく、網の目のように張り巡らされた陣地を構築して「縦深防御」による徹底抗戦、一大消耗戦をやるようになり、日米ともに犠牲が激増する。もはや戦略的に決着のついた戦争に、「一人でも多くの敵兵を殺すことが祖国侵攻を1日でも遅らせる」と言わんばかりに、戦術的抵抗を試みる。戦術的にみれば「強大な米軍をきりきり舞いさせ、ふるえあがらせた日本軍」であるが、日本兵にとっても、米兵にとっても、そんな戦闘で死ぬ、または悲惨な経験を植え込まれることにどんな意味があったのだろうか。スレッジがp.390で日本兵の死は家族には「天皇陛下の御ために名誉の戦死をした」と告げられるけども「実際は、無駄死にだった」「満足な理由もなく、ただいたずらに失われていったのだ」としているのは、憎まれ口ではなく、まさにこの無意味さへの憐憫である。「カミカゼ」特攻も沖縄でスレッジは見ているが、日本兵は無駄死(犬死)をすることで「尊い平和の礎」になったという感慨がぼくに迫ってくる。
- それは「戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄」という世界観を深化させること。自衛戦争や「正戦」のためであっても、こんな愚劣なことをすべきなのか。早いうちに「負けました」といって、犠牲を生み出さない選択をするほうが、たとえ侵略に屈するにしてもまだマシではないか、そういう感慨にとらわれるのである。絶対非戦論を「お花畑」と批判する人は、逆にこのような戦争の現実を知らない「平和ボケ」の「お花畑」ではないのか。
- ペリリューと沖縄でこんな巨大な消耗をしてしまったら、日本本土侵攻は「米兵百万人の犠牲」が出ると信じても無理はないと思ってしまったこと。「米兵百万の犠牲と日本人20万人の犠牲、どっちがいい?」という神話が生まれる現場はここだろうと思った。ぼく自身が被爆の実相を知らなければこうした神話に傾きかねなかった。
絶対非戦論への再敬意
繰り返すが、ぼく自身は自衛戦争の必要性を依然として主張する左翼である。そのために自衛隊を使うことは必要だと考えている。この点(何らかの正戦の必要性を説く点)はスレッジと似ている。
しかしそうであっても、戦争は愚かしいという思想を、本書を読むことで、深めることができた。うーん、なんと言っていいのだろうか、「戦争はおろかだ」というのはとてもシンプルな世界観なのであるが、それが戦記を読むことでいっそう深まりをもってとらえられるとは正直思ってもみなかった。別の言い方をすれば、絶対非戦論への再敬意である。本当に深い絶対非戦の主張に対して、決して「お花畑」という悪罵を投げつけることなどできないはずだということである。
戦勝国側の戦記がこのような「レベルの高い記録」(p.472)たりえたのは、本書の解説で保阪正康が述べているように、著者スレッジの内省のたまものだろう。保阪はこう書いている。
平時になって著される戦記には、建て前のみが強調されたり、兵士として狂気をかかえこんでいる事実が伏せられていたり、戦場においての残虐行為を避ける記述がめだつ作品も多く、それがゆえに戦闘の実態がわからない書も多い。まるでゲーム感覚のような戦記があらわれてくるのは、著者自身に内省化する能力と知識がないからだろう。本書にはそうした特徴がまったく見られない。(p.472)
そして、保阪が敗戦国である日本側の戦記の状況について次のように記して解説を結んでいるのは、まことに印象的である。
日本軍の将校、下士官、兵士からこのような内省的な作品がかかれなかったことに、私は改めて複雑な思いをもったのである。(p.476)
本書は2008年にようやく出版されたばかりだ。
もっともっと知られてよい、すぐれた戦記である。
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1年間で13兆円の損失www
いや、笑いごとではない。そのうち、年金の給付額の減額というのが確実に起こりそうだ。これが国民の選んだ政権らしい。まあ、ギャンブルが趣味ですと自ら公言する男と結婚する女はあまりいないだろうから、これは結婚詐欺のような政権である。
国がバックにいてすら株で損をするのは、国より巨大な資金を持つユダ金が相手のバクチだからだろう。あるいは、わざとユダ金にカネを献上しているのか。
GPIFが最初は儲けていた、というのも、バクチの胴元が初顔の客に勝たせてやるようなものだったのではないか。それで浮かれて、どんどん大金を張り始める。後は、身ぐるみ剥がれるまで一直線である。最近の大人、特に経済人や官僚は映画も見ないし小説も読まない馬鹿(自分のカネは酒と女と高級服飾にしか使わない馬鹿。)が多いのだろう。こんな賭場の常識など、昔の大衆小説にも時代劇映画にもよく描かれたものだ。
(以下引用)トータルでもマイナス
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MSN(マイクロソフトニュースか?)から転載。
感動の押し売りという点ではオリンピック報道も同じだろうwww そのオリンピック報道への批判の声、つまりマスコミによるマスコミ批判は一切なされない。この「24時間テレビ」批判は、フジテレビ批判と同様に一つのテレビ局への批判であり、あるいは一つの番組への批判だから、マスコミも許容していると言えそうだ。
もちろん、私も「感動ポルノ」は大嫌いで、実に秀逸な命名だと感心している。人が感動するのはいいが、最近のそれがいつも難病者や障碍者(私は「障害者」と書くほうが、偽善的でなくていいと思うのだが、これは障害者全体へのアンケートでも取ってもらってから基本線を決めるといい。)をネタにしているというのにはうんざりしている。それを見て「感動」している人間が気持ち悪い。いや、難病者や障碍者をネタにして「感動させよう」として番組を作る製作者の心根が気持ち悪い。つまり、これは「性的興奮」だけを目的に小説や映画などを作るのと同じ根性だから、まさに「ポルノ」なのである。実に上手い命名ではないか。
だがまあ、ポルノにも膨大な需要層があるわけであり、「あんたかてスケベやろ。わてかてスケベや」で、話は終わってもいいわけである。ただ、ふつうのポルノと違って、感動ポルノには、気持ち悪い偽善性があり、「受動喫煙」にも似た迷惑感がある。悪臭が周囲(社会全体)に漂うのである。
この悪臭を感じている人間が多いからこそ、NHKのこの「バリバラ」という番組が大きな共感を得たのだろう。
ただし、障害者や難病者を社会的に支援すべきだ、というのは当然至極の話である。そこは誤解されるべきではない。(乙武氏の不倫事件やその報道も同様だ。一個人の話と、集団の問題を混同してはならない。)
だが、そうした支援は政治的かつ恒常的な措置で為されないと意味がないのである。24時間テレビへの寄付金で一部の難病者や障碍者が利益を得たところで、それは一過性のものでしかない。だから、30年も「愛は地球を救う」をやり、地球は一向に救われず、テレビ局は「毎年できるネタがあって良かった」となるわけである。
オリンピック報道もまた、24時間テレビ同様の感動ポルノだ、と言えば、スポーツ愛好者たちからは反論されそうである。いや、私もスポーツ観戦は大好きなのだが、スポーツにまつわる「美化行為」「厚化粧」、つまり偽善性は大嫌いなのだ。
あんなのは、大の大人が「子供の遊び」をやって、その妙技を、自分ではそれができない「子供大人(頭は子供の大人)」が喜んで見ているだけにすぎない。しかも、それで大金が動く「ビジネス」であるから、オリンピックなど現実にはカネの祭典である。子供のころから英才教育をして金メダル獲得に向けて非人間的な努力を重ねてこないと、まずオリンピックレベルの選手には育たない。つまり、それだけのカネが無いと、スタートからしてまず無理だ、というとんだ「感動話」である。感動話どころか、当人にとっては残酷物語ですらある。いやまあ、サディズムも「ポルノ」の要素なのだがwww
(以下引用)
24時間テレビを「感動ポルノ」と痛烈批判 NHK障害者番組バリバラに絶賛の声 -
マイナンバーは死んだかと思っていたら、亡魂がさまよい出てきたようだ。
(以下引用)【社会】総務省、図書館カードなどをマイナンバーカードに一本化 ID情報を国がつくるクラウドシステムに集約
1:Charlotte ★2016/08/28(日) 00:05:41.62 ID:CAP_USER9.net
2016/8/27 12:30
総務省は自治体が住民に発行する公共施設の利用カードをマイナンバーカードに一本化できるようにする。図書館やスポーツ施設などの利用カードのID情報を国がつくるクラウドシステムに集約。
利用者が施設でマイナンバーカードを提示すれば施設の利用に必要な情報を呼び出せるようにする。2017年度に一部の自治体で試行し、18年度の全国展開を目指す。
自治体は図書館の貸し出しカードや美術館、高齢者福祉センターの利用・・・
以下ソース
http://mw.nikkei.com/sp/#!/article/DGXLASFS26H68_X20C16A8MM0000- 2:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 00:06:28.36 ID:krMd/0iv0.net
- お、便利やん
マイナンバーめんどくさくてまだ役所に取りに行ってないが
436:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 02:06:58.59 ID:8K1rSjyD0.net
>>2
一体どのあたりが便利だと思ったんだ?- 6:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 00:07:33.50 ID:pmT+zzl00.net
- あっ
思想把握しておきたいんや
525:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 02:26:53.72 ID:3fOVgxyV0.net
>>6
今時図書館で借りなくてもいくらでも読めるけど- 8:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 00:09:18.57 ID:TSKyGg+M0.net
- 個人情報ダダ漏れ待ったなし
- 9:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 00:09:32.56 ID:k6fWerKc0.net
- カード類多過ぎなんだよな~。定期的に整理せんと財布パンパンになる。
- 11:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 00:10:55.84 ID:5d20XeOS0.net
- マイナンバーカードって、最近聞かないけどどうなったの?
24:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 00:15:10.68 ID:e+Ey3mzq0.net
>>11
申請して半年くらいたったら交付される- 15:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 00:12:48.30 ID:yDNl/HKGO.net
- 個人情報とやらが漏れても大した問題ないからなw
- 20:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 00:14:33.00 ID:uYPlVCY30.net
- 申し込んだが取に行っていない
つーか取りに行く気がしない
- 22:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 00:14:52.75 ID:5e7qDvOj0.net
- なんか、危ないな~
- 23:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 00:15:03.72 ID:fxgbFpMU0.net
- また総務省の天下り組織ができるのか
- 25:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 00:15:51.39 ID:aM9O88nz0.net
- ほらこうなる
行政が暴走しすぎなんだよ
全部アベが悪い
- 28:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 00:16:07.87 ID:u3UlViAk0.net
- マイナンバーカードの発行が芳しくなくて手当たり次第に色んな機能付けさせて普及させようとか
本末転倒過ぎるわ馬鹿
- 29:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 00:16:13.59 ID:5Q6dZ4Ec0.net
- カードが多過ぎる
生体認証は、そんなに都合が悪いんかね
- 33:名無しさん@1周年2016/08/28(日) 00:17:25.43 ID:58xdQhWU0.net
- マイナンバーを他人に知られないように!とか言いながら素性もよくわからない
受付のバイトや派遣に晒させる安倍政権w
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「大摩邇」所載のあいば達也の「世相を斬る」から記事末尾部分を転載。
記事タイトルが「確信犯的な」云々となっていて、昨日娘とその「確信犯」誤用問題についての会話をしたばかりだったから興味を持って読んでみた。
私自身は、「確信犯」という言葉の世間一般での使い方、つまり「悪いこと、間違ったことだと知っていながら、あえてやる」の使い方がなぜ悪いのか、以前に調べたが忘れていたので娘に聞いてみると、「世間的には悪事とされていても、自分はそれを正しいと信じてやる」ことのようだ。どちらも「確信」しているのは同じなのだから、これは「確信犯」という言葉そのものが誤解されて当然なダメ言葉だと言えるのではないか。たぶん、法律(刑法か)用語だと思う。「誤用」のほうが使う機会も多く、それに代わる適切な言葉も無いのだから、これは法律用語(多分、だが)としての「正用」を無視して使うしかないのではないだろうか。娘の言葉を少し変えて拝借すれば、「私は確信犯として、『確信犯』という言葉をこれからもあえて誤用するつもりだよ」である。
さて、年金積立金管理運用独立行政法人という長い名前の組織が国民のカネをバクチに注ぎ込んでいることを国民の多くは非難しているが、その政府を選んだのは国民であるらしい(笑)。私は安部政府など選んだつもりはまったく無いのだが。
まあ、民主主義など、「選挙を支配する者」次第でどうにでもなるわけである。
選挙の恐ろしさ、大事さを国民が理解する日が来るのを気長に待つしかないだろう。私自身はどうせ長くもない余生だろうし、カネが無くなれば野垂れ死にすればいいだけだ。
(以下引用)
≪ 年金運用損、将来世代にツケ? 「損失処理の仕組みを」
公的年金積立金の運用損が膨らんでいる。年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が運用基準を見直してからの通算成績は、初めて赤字に転落した。想定以上の赤字が出れば将来世代へ負担を先送りすることになりかねず、専門家は新たな仕組みづくりを求めている。
「今回のような短期的な運用の評価損は、年金額に影響しません」。GPIFの担当者は26日の記者会見で明言した。年金の支払いに必要な年間約50兆円の財源のうちGPIFの運用で賄うのは 10%未満。運用する積立金約130兆円のうち国債20兆円分の償還金だけで、当面の財源を捻出できる見通しだという。現在の運用基準は「見直す必要性はない」と強調した。
ただ、株式の比率を50%に倍増して以降の運用成績はマイナスに。この傾向が続くなら、将来的な年金額への影響は否定できない。
高齢化は今後さらに進む見通しのため、年金財政は償還金だけでは賄えず、積立金を取り崩していく計画だ。現時点では評価額だが、将来、運用損が確定すれば、積立金を取り崩しても年金の財源を賄えない可能性もある。その赤字分は将来世代の負担になる。
日本総研の西沢和彦主席研究員は「新しい運用方針を決めた政府を選んだのは私たち。今の世代で生じた損失は、今の世代で処理すべきだ」と主張。スウェーデンやカナダでは、政府の想定以上に積立金が減ったと判断した場合、自動的に年金額を減らし、保険料を上げる仕組みがあるという。日本にはこうした仕組みがないため、西沢研究員は「損失処理の仕組みをつくるべきだ」と提言する。
民進党は26日に年金に関する会合を開き、「株式運用比率を倍増したことが失敗だった」(山井和則・国会対策委員長代理)などと確認。臨時国会で政権を追及していく構えだ。
≫(朝日新聞デジタル:久永隆一、高橋健次郎)
朝日の記事の中で、≪日本総研の西沢和彦主席研究員は「新しい運用方針を決めた政府を選んだのは私たち。今の世代で生じた損失は、今の世代で処理すべきだ」と主張。スウェーデンやカナダでは、政府の想定以上に積立金が減ったと判断した場合、自動的に年金額を減らし、保険料を上げる仕組みがある≫と云う個所があるが、これは、役人が言えない部分を、日本総研の西沢に言わせただけで、安倍政権の、政権維持の為に使われた国民の財布の減少を、安倍政権を選んだ国民が悪いのだから、一緒に痛みを分かち合わなければならないと暗に示している。
こう云う時だけ、民主主義を振り回されたのでは、国民も浮かばれない。安倍政権を、思慮分別なく選択した国民が、応分の負担を強いられるのは、一定の範囲で致しかたないのかもしれない。しかし、初めから、このような事態を迎えるであろうことは、権力を握る側は知っていたわけで、その罪は大きい。単に、選挙に勝つために、目先の利益を優先し、国富や国民の財産を根本的に傷つける可能性もあるような、と思いながら、政権維持を優先した結果なのだから、安倍政権に責任を取って貰ったうえで、応分の負担に応じたい。こういう事態が起きると、北朝鮮のような国の野蛮なお仕置きが魅力的に見えてしまう。どうも、筆者の感情も、かなり劣化してきている(笑)。 -
ローカルな話題だが、他府県民でも、「日常生活と隣り合わせの危険」というものは目を向ける必要があるのではないか。
こうしたものは「お役所」が対策してくれている、と我々は何となく思っているが、そうでもないことは、この「3年間で79人が用水路で転落死」という事実が示している。これは岡山県だけの話ではなく、他府県でもこれに類した事実がありながら、問題視されていないだけなのではないか。もちろん、用水路だけの話ではない。
ところで、「用水路」という言葉を何気なく使っているが、私はその定義を知らない。まあ、人工的に作られた小川を用水路と言っているような気がする。べつに、その中を流れる水を「用いる」のではなく、自然の河川につないで雨水を流すものではないか。それなら、「排水路」と言うほうが妥当な気がするが、「用水」と言うにはその水を「利用」するのか何なのか。
記事に付属した写真を見ても、これはただの排水路であるように見える。
そして、一番の問題は、これが道路の傍に、柵も何も無しに隣接していることである。そのように見える。こりゃあ、真昼間だろうが、足元の不確かな年寄りなら転落するよなあ。年寄りなら、浅い水でも溺死するよなあ。別に、「3年間で79人が用水路で転落死の『異様』」なのではなく、3年間で79人が転落死して「当然」なのではないか。(もちろん、この記事の写真は事件現場の一例にすぎないだろうが、他も似たり寄ったりではないか。)
要するに、「健常者」だけしか視野に入っていない道路行政に問題がある、ということだ。
これは、たとえば歩道橋などでも見られることだ。年寄りや身体障害者が歩道橋を上ることがいかに困難かをまったく考えず、あるいはわざと無視して全国に歩道橋は作られてきた。
高齢社会になるに従って、そうした過去の「健常者主義社会」の欠陥はどんどん露わになってくるのではないだろうか。
(以下引用)3年間で79人が用水路で“転落死”の異様…それも8割が明るい時間帯 岡山県調査

岡山県内で多発する用水路などへの転落事故を防止しようと、26日、岡山市北区の県運転免許センターで「第2回用水路等転落事故防止対策検討会議」が開かれた。
県や県警、自治体の担当者ら約100人が参加し、事故の発生状況を踏まえた効果的な安全対策について検討。県の調査で、過去3年間に用水路への転落による死者が79人に上ることが明らかにされた。
消防の出動1143件…
県は、平成25~27年の用水路転落事故に関する調査を県内の各消防局に依頼。その結果、3年間で出動件数は1143件で、死者は79人に上った。死者の約7割が65歳以上の高齢者で、50歳以上が約9割を占めることが明らかになった。死者の約7割が徒歩で、事故通報の時間別では「午前6時~午後6時」の明るい時間帯が約8割を占めることも報告された。
県によると、今年1~6月の県内各消防局の用水路転落関係の出動件数は199件で、死者は17人。県は「過去3年間の半年の平均件数と同程度の結果。現時点では啓発が浸透していない可能性がある」とした。
県警は今年2月の第1回会議で、把握している用水路の危険箇所は421カ所(対策済み172カ所)と報告。だが、同会議後、さらに調査した結果、6月末現在の危険箇所は533カ所(対策済み243カ所)に上るとした。また、県警が把握している県内の用水路転落死亡事故(6月末現在)は2件(前年同期比1件減)であることなどを説明。警察のまとめでは歩行者の事故が計上されないためとみられる。
県は今後、用水路などへの転落事故を未然に防ぐためのガイドラインの策定を目指しており、「(ガイドラインができることで)事後から事前への対策転換が図られ、用水路への転落防止が期待できる」と話している。
マンションのすぐ近くを流れる用水路=岡山市南区 (徽宗追記)「岡山の用水路」では、こんなのが普通にあるようだ。地域性の問題なのか何なのか。おそらく、何度も事故は起こっているだろうに、改善されないのはなぜなのか。怪談噺などより、よっぽど「ぼっけえきょうてえ」話である。
なお、用水路(道路の上の水たまりにしか見えない)の中の物体は、四輪車が横転して半水没したものであるらしい。
町内会長パンイチロー@yantona 14 時間前
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「株式日記と経済展望」から転載。
特に緊急性は無い話題だが、これも大きな社会問題の一つである。特に、これからどの大学のどの学部に行こうかと悩んでいる受験生には、こういった「その仕事の社会的ニーズと所得水準」は是非とも知りたい情報だろう。だが、学校の先生も塾の進路指導担当者も案外、こういう知識に疎いことが多いようだ。
私自身、塾の講師をしていた頃には法学部を目指す子供を何人も教えていたし、彼らの針路に疑問を呈したことは一度も無かった。あの頃、将来はこのように弁護士余り状態になるとは予想していなかったのだ。むしろ、日本も米国並みに裁判事件が増えるだろうから、弁護士の需要はもっと多くなるだろう、と予想していたくらいだ。
そもそも、裁判費用を払える庶民などほとんどいないような「総貧乏人」国家になるという予想をしていた人間などほとんどいないだろう。
小泉以来の格差社会化が、実は「一億総貧乏人国家」化でもあったわけだ。
貧乏人が大企業を相手に訴訟を起こしても、まず勝てない。相手はエリート弁護士を抱え、場合によっては裁判所まで左右する力がある。米国のように、貧乏人対大企業では貧乏人が勝つことが多い社会とは話がまったく別なのである。
では、貧乏人が貧乏人相手に訴訟を起こすか? 裁判に勝ってもカネは取れない。訴訟費用だけは確実に獲られる。(本当は「取られる」だろうが、イメージ的には「獲られる」であり、「盗られる」だろうwww)そんな裁判を誰が起こすものか。
金持ちと金持ちは仲間同士だから、揉め事は「紳士協定」で解決し、裁判などしない。
つまり、日本では、(今の状況では)弁護士需要は無いのである。
子供を指導していたころに、こういう知識(むしろ社会の現実に対する判断力、つまり知恵と言うべきか)があれば、自分からドブに飛び込む子供たちを救えたのに、と思うと慚愧の念に堪えない。
(以下引用)日弁連がまとめた『弁護士白書2015年版』によると、2006年に
1200万円だった弁護士の年収は、2014年には600万円と半減。2016年8月22日 月曜日
◆32歳弁護士 毎食カップ麺でコンビニおにぎりがご馳走 8月22日 NEWSポストセブン日弁連がまとめた『弁護士白書2015年版』によると、2006年に1200万円だった弁護士の年収は、2014年には600万円と半減。電機メーカーの平均年収730万円より下だ。この荒波に立ち向かう4人の現役弁護士が一堂に会すると、『弁護士白書』にも書かれていない弁護士たちの悲哀の声が噴出した──。
ひまわりを象ったバッジを胸に集まったのは自分で開業せず、他の弁護士の事務所に籍を置く居候弁護士、いわゆる「イソ弁」のA氏(42)、イソ弁として1年間働いたのちに自宅を事務所として開業した「宅弁」のB氏(35)、法律事務所への勤務経験なし、弁護士バッジを手にして即座に独立した「即独弁護士」のC氏(32)、そして昨年から自分の事務所を構え、今年から新卒のイソ弁2人を抱える「ボス弁」のD氏(49)である。
イソ弁A:イソ弁って法律事務所勤務ではあるんですが、社員契約ではなく「業務委託」であることが多い。事務所の名前を借りて仕事をしているだけだから、あくまで「個人事業主」なんです。サラリーマンのような雇用関係はないため、社会保障費は全額自己負担しなければなりません。
宅弁B:事務所から給料をもらえても、それはあくまで「業務委託に対する報酬」ですからね。業務委託契約が切られれば、収入は突然ゼロになる。極論をいえば明日仕事があるかどうかもわからない。つまり、何の保障もないんです。
大手事務所なら1年目から1000万円超えの給料がもらえるらしいのですが、そんなところに入れるのはエリート中のエリート。5度目でようやく司法試験に受かった僕なんて、箸にも棒にもかからなかった。
即独C:それにひきかえ、どこの事務所にも所属せずに、すぐ独立した私なんて、年間で手元に残るのは100万円ちょっと。独り身なので家賃5万円のアパートに住んで節約しているんですが、毎月支払う弁護士会費(*)の負担が大きくて、生活はかなりキツい。
【*東京弁護士会所属の登録5年目の弁護士で月額4万8700円の負担だが、弁護士会によっては年間で100万円以上を支払わなければならないこともある】
宅弁B:私がかつてイソ弁だった時代は毎月35万円の給料をもらっていたけど、そこから社会保障費を支払って、さらに毎月5万円の弁護士会費を払っていて、手元に残るのは20万円ちょっと。安定している分、新卒サラリーマンの方がまだマシです。
ボス弁D:弁護士ではなく、我々から会費を取って安定した給料を得ている弁護士会の職員になりたかった、と思うことさえあるよね(笑い)。
イソ弁A:ウンザリすることはまだまだあります。私たちは、“自由業”という扱いだから住宅ローンの審査も通りにくい。
宅弁B:最近は弁護士の貧乏事情がバレつつあるのか、大手航空会社のCAと合コンしても「イマドキの弁護士さんって大変なんでしょ?」と同情されるばかりで、全くモテません。
即独C:僕はお金がなくて合コンすらいけませんよ! 毎食カップラーメンで、たまにコンビニのおにぎりをつけるのが、ご馳走です。ただ、ストレス発散のための寝る前に飲む缶チューハイはやめられない(苦笑)。
ボス弁D:司法制度改革を契機に、弁護士が転機を迎えたのは間違いないね。
(私のコメント)
司法試験は国家資格の中でも最難関の資格ですが、平成18年では1008名の合格者だったのが、18年以後の新制度になって合格者は毎年2000名を超えるようになった。最近の法改正には訳の分からないものが多く、司法試験合格者の激増にはどういう意味があるのだろうか?
法科大学院や裁判員制度などは、意図が不明であり十分な説明も無いままに行われた。弁護士が足らないからというのなら分かりますが、現状は増えすぎてしまって弁護士では食えないような低収入弁護士が誕生している。法科大学院制度も訳の分からないものであり、法務省役人の天下り先の為の制度だろうか。
テレビのコマーシャルでは「過払い金バブル」と言われるほど仕事が増えて、弁護士事務所のCMが目立ちますが、若い弁護士にはそのような恩恵はまだないようだ。弁護士では食えないと言うような評判が立っては弁護士を目指す若い人はますます減る一方だろう。
弁護士の仕事はほぼ一定なのに、弁護士の数が倍増しては仕事にあぶれる弁護士が出てくる。確かにアメリカに比べれば弁護士の数や比率も低いのでしょうが、アメリカは弁護士の数が多すぎて訴訟天国になってしまっている。ダメもとで裁判に訴えて来るくらい、弁護士の仕事は奪い合いになっている。
司法試験に限らず、国家資格の合格者を需給バランスが崩れるほど合格者を増やせば仕事にあぶれる事務所が増える。司法試験に合格して弁護士になったとしても、医者と同じで実務経験を積まないと腕利きの弁護士にはなれない。だから司法試験の合格者の激増は弁護士の質の低下にもつながるだろう。
昔なら弁護士になれば一生安泰であり、年収も1000万円以上が当たり前であり、社会的な地位も高かった。司法試験に合格すれば弁護士だけではなく裁判官や検察官にもなれますが、それらには採用試験があるから合格すれば成れるわけではない。
だから裁判官や検察官が一定なのに、弁護士ばかり増えては力関係や社会的な地位でも差が出て来るだろう。最近ではおかしな判決を出すおかしな裁判官が増えて来ていますが、司法試験の制度改正と関係があるのだろうか? 裁判官と検察官は裁判所などでいつも一緒に仕事をしていますが、弁護士は裁判よりも示談交渉の方が多い。
離婚沙汰にしても相続争いでも、裁判で争う事よりも当事者同士の話し合いの交渉役になる事が多い。アメリカのように何でも裁判で争うやり方は日本では馴染まない。実際にも裁判が起こされても判決まで行く事は少なく途中で示談で解決される事が多い。
確かに日本の裁判は時間ばかりかかって非常に長引く事が多い。ならば裁判官や検察官を増やすべきであり、一人の裁判官が抱える裁判の数は非常に多い。一人で200件から300件も抱えていては裁判も長期化するわけだ。弁護士がダブついているのに裁判官や検察官は殺人的な忙しさであり、法務省は何を考えているのだろうか? -
コンビニは、もはや庶民にとっては「生活の要件をほとんど満たしてくれる」まさにコンビニエントな場所だが、それは、ライフラインが一元化されているということでもある。現在は数社の競合があるため、サービスも良いし、価格もリーズナブルだが、これが独占企業になったり、あるいはある地域から全社が撤退したりしたらどうなるだろうか。
私の住んでいる所は、京都近郊だが、市内に出るには1時間に1本くらいしかないバスに乗らないといけない。コンビニが無くなれば、公共料金納付や国民健康保険料納付をするためにバスに乗って遠出するしかなくなる。市町村合併で町役場や村役場の多くが無くなった結果、このような「役場の無い土地」も増えたのだろう。
というわけで、コンビニはまさに民営化トレンドの象徴のようなものである。そのうち国政選挙の投票もコンビニで行われるのではないか。
もちろん、私はコンビニによる「生活要件の過度の集中」の将来を危惧しているのである。ライフラインの一元化は普段は便利だが、いざ事故が起これば大事故につながることが多いのは誰でも知っている。
下の記事は4ページある記事から最初の1ページだけ引用した。問題提起だけで十分だからだ。表(おもて)の便利さの陰には、裏で不便さや苦労を蒙っている存在があるわけである。そのうち、この不満は表面化するだろう。
(以下引用)
もう振込用紙を持って来ないで! コンビニが「収納代行」を止めたい理由 (1/4)「電気・水道・ガス・電話などの利用料金はコンビニで振り込んでいる」という人も多いだろう。しかしこの「収納代行」……とにかく面倒で、コンビニオーナーだけでなく本部も「止めたい」と思っているのではないだろうか。
[川乃もりや,Business Media 誠]著者プロフィール・川乃もりや:
コンビニ本部で社員をして10年余り、いわゆるスーパーバイザーなるものを経験し、何を思ったか、独立オーナーに転身した。齢40にして、自分の仕事についての足跡を残したくなり、仕事の合間に誠ブログ「とあるコンビニオーナーの経営談議」を始める。
旅行とお酒が大好きだが、コンビニ経営をしていると、なかなか旅行に行く時間がとれない。その一方で、アルコールの量は増えるばかり。
ご一緒に“おでん”いかがですか:
多くの人が一度は利用したことがある「コンビニ」。決して大きなスペースではないが、そこで何が起きているのだろうか。陳列台にはたくさんの商品が並んでいるが、何が売れているのか、またなぜ売れているのか。コンビニの現在と過去を紐解きながら、ちょっとした“謎”に迫っていく。
筆者は大手コンビニの本部社員として活躍し、現在では店舗を構えるオーナー。コンビニの表と裏を見てきた者だけにしか書けないコラムはいかがですか?
コンビニが扱うサービスは、どこまで広がっていくのだろうか。スタート時は、近所の酒屋さんが長時間営業を始めた程度だったが、しばらくすると、弁当やおにぎりを売るようになり、収納代行も扱うようになった。
この「収納代行」という業務は、コンビニの価値を大きく変えることになった。コンビニが、買い物をするだけの場所ではなくなったからだ。それまで、電気・水道・ガス・電話代は銀行や郵便局といった金融機関で振り込まなければいけなかった。しかし多くの人が「お金を振り込むだけなのに長時間待たされる……」といった不満を感じていた。
それが、近くのコンビニでわずか数分、いや数十秒待つだけで処理できるようになった。しかしここ数年、「収納代行業務を止めよう」という動きがあるのだ。その理由として「もうからない」ことを挙げる人がいるが、意味は少し違う。収納代行業務は手数料商売で、1つの取り引きで数十円の収入がある。なので「もうからない」という表現は、少し誤解を生む。
「もうからない」のではなく、「収入に対してリスクが高い」と言ったほうがしっくりくる。どんなリスクがあるかというと、「受付漏れ」による損失だ。受付のピークは毎月15日から25日かけて。その間、1人で数件の受付をこなしていくわけだが、年に数件受付漏れが発生するのだ。どういう事態になるかというと、領収書はお客さんに渡っているが、料金はもらっていないことになる。
以前は、店の控えにお客さんの情報が印字されていたが、昨今の個人情報規制によって、店でお客さん情報を管理することができなくなっている。結果、「払った」「いや払わなかった」の水掛け論になってしまう。当然、領収書を出している側が不利になるので、店が立て替える形になるのだ。残念ながら、回収できる見込みはほぼゼロ。店側のミスなので、仕方がない部分もあるが、それでも収納代行業務をしている以上、ミスはなくならない。
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「東京新聞電子版」から転載。
節減すべき冗費はほかにたくさんあるだろう。まず、東京オリンピックを中止し、その費用を全額福祉に回せばいい。フクシマ問題が解決されていない今の日本(関東地方)でオリンピックを実施することは、殺人に等しい行為ではないか。他に、外国への支援など膨大なカネを提供してきたのだが、それらはすべて国会の承認無しで決定されたものだろう。内閣の無駄遣いをやめれば、教育や福祉に必要なカネなどいくらでも出る。
なお、貧困者に与えたカネは即座に消費に回るから、景気回復のためにもそれが最良の政策なのである。
(以下引用)福祉用具レンタルの原則自己負担方針 本紙報道に反響続々

福祉の充実に使うと言っていたお金はどこへ-。要介護度の軽い人たちについて、福祉用具レンタルを原則自己負担化するとの財務省案。利用者から悲鳴が上がっていると三日の本紙朝刊暮らし面が伝えたところ、読者らから反響が相次いだ。安倍政権が掲げる「一億総活躍」に反し弱者いじめそのものでは、というのだ。 (編集委員・白鳥龍也)
記事では、車いすや段差解消用のリフトを月五千五百円(一割)の負担で利用する高齢男性の例を紹介した。東京都八王子市の七十代女性からは本紙読者部に「レンタル代が十倍になったら(年額)六十万円を超える。老後が心配」と、電話で意見が寄せられた。
本紙編集局の各部が設けるツイッターなど交流サイトには記事の転載をした参加者が「自己負担できない人はどうする」といった書き込みをした。「高齢者の甘え」とする声もあったが「(政府は)弱い者いじめばかり」「(弱者切り捨ての)この状態なのに『一億総活躍社会』を推し進めるって」と批判が多かった。
「通院や外出、日常生活に著しい支障が出る。状態が悪化し寝たきりとかになってしまいそう」など政策効果を疑問視する声も。「軽度者」への用具貸与のため政府が介護保険から給付しているのはことし二月分で九十五億円。介護保険全体の1・4%にすぎない。
事業者団体の日本福祉用具供給協会が、利用者約五百人に行った調査では、用具利用以前は半数以上が転倒を経験していたが、利用後は九割以上で転倒の不安が軽減したという。一方、用具が使えなくなったら、種類によっては25%の人が「訪問介護を依頼する」と回答。これを基に、国全体で訪問介護の費用がどのくらい増えるか試算したところ、低くとも年間千三百七十億円のコスト増になり、介護人材も新たに十万人以上必要になるとはじいた。
脳出血で左半身まひとなったが、車いすと介護タクシーで片道一時間の通院や買い物もこなす盛岡市の内村タヱさん(68)=要介護2=は「車いすは体の一部。全額負担になったら家さこもって暗くなってなくちゃいけないんだべなと思ってる。現場をちゃんと見て決めて」と訴える。
◆介護軽度者を見直し
政府が二〇一五年六月に閣議決定した「骨太の方針」は福祉用具のレンタルを含む軽度者向けサービスの見直しを明記。政府は訪問介護の生活援助やバリアフリー化の住宅改修費の見直しも検討している。財務省は介護保険の給付から外し、一部還付も念頭に置いた原則自己負担を主張。厚生労働省社会保障審議会介護保険部会は年内の結論を目指し議論を進めている。
本紙は三日暮らし面で「対象の高齢者から悲鳴が上がっている」との記事を掲載。車いす生活の七十六歳の女性が「用具がなければ(家事や外出などが)全部できなくなり、認知症になりかねない」と不安がる様子などを紹介した。
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「少年犯罪データベースドア」というサイトから転載。
非常に面白い。
私自身が読んできた明治大正昭和前期の本(ほとんどが小説だが)を思い起こしても、
戦前は生徒たちも自尊心がやたらと高くて反逆的で、小学生でさえ何かというと徒党を組んで同盟休校や教師の吊し上げをし、体罰教師のクビを要求します。
戦前の親は権利意識が強くてすぐに学校に怒鳴り込んできますし、訴訟を起こします。学校側は平謝りで、治療費を出したり加害者教師を他校に追いやったりすることでなんとか示談に済ませようとします。
法律で体罰は禁止されているのですから、訴訟となると教師に勝ち目はありません。校長も責任を取らされるので平身低頭してもなんとか訴訟まで行かないで収めようとするのです。
という記述は正しいと思う。夏目漱石の「吾輩は猫である」の中の、旧制中学校の生徒の行状が書かれた部分や、同じく漱石の「坊ちゃん」などには、この事実を伺わせるものがある。こうした社会の気風というものは、小説などでしか読み取れないものだ。
今のモンスターペアレントなどには辟易するが、親や生徒(あるいは労働者)の「自尊心」という面では、今の社会は戦前よりかなり退化しているように思う。相手が校長だろうが警官だろうが社長や上司だろうが、相手の理不尽な言動に対しては堂々と立ち向かうという気風が現代にあるだろうか。
(以下引用)
2013年02月15日00:51拙著『戦前の少年犯罪』の参考文献にも使った江森一郎『体罰の社会史』なんかを基に、欧米のように殴ったりせず子どもをのびのび育てる日本の江戸時代からの伝統をまとめた「日本の体罰の前史」というページがあるんですが、途中で戦前には体罰がなかったとかあったとかいう妙な話になっています。
我が国の歴史の基本的な処がこうも混乱したままで、正しい日本像が日本人に共有されていない状態では困りますので、整理しておきます。
戦前にも体罰はありましたが、戦前は体罰が絶対悪で、明確に「犯罪」として処理されていたのです。
なんか、戦中は違うと読み取る方が多いみたいなので、念のため書き加えておきますが、戦時中も体罰が絶対悪で、明確に「犯罪」として処理されていたのです。
変わったのは戦後になってからです。
戦前の新聞を読んでいる方なら、教師が生徒を殴ったりすると警察が出てきて傷害罪で取り調べをすることはご存じのはずです。
学校内での生徒同士の傷害事件や、戦前にはよくあった生徒が教師を殴るような事件には警察はまず手を出しませんが、教師には厳しく臨みます。新聞が体罰事件を大きくあつかって、常に教師を袋叩きにしていたことも影響しているのでしょう。
戦前は生徒たちも自尊心がやたらと高くて反逆的で、小学生でさえ何かというと徒党を組んで同盟休校や教師の吊し上げをし、体罰教師のクビを要求します。
戦前の親は権利意識が強くてすぐに学校に怒鳴り込んできますし、訴訟を起こします。学校側は平謝りで、治療費を出したり加害者教師を他校に追いやったりすることでなんとか示談に済ませようとします。
法律で体罰は禁止されているのですから、訴訟となると教師に勝ち目はありません。校長も責任を取らされるので平身低頭してもなんとか訴訟まで行かないで収めようとするのです。
このあたりは、拙著『戦前の少年犯罪』を参照していただければ。
『職工事情』では、明治時代の工員を虐待する事件が数多く掲載されていますが、加害者である経営者はみんな逮捕されて、禁固刑などの刑罰を食らっていることが記録されてます。
陸軍で体罰が発覚すれば、傷害罪で軍法会議に掛けられ戦時中は罰金20円ほどを取られました。(陸軍法務官で軍法会議の判事を務めていた原秀男の『二・二六事件軍法会議』参照)
伍長の給料一ヶ月分、上等兵の二ヶ月分です。兵隊は衣食住が支給で、給料はこずかいみたいなもんですから安く、当時の銀行員大卒初任給75円で換算すれば、いまの5-6万円の罰金と云ったところでしょうか。実際に取られるとなると結構痛い額です。
現代も、体罰教師や従業員を虐待する経営者を、戦前のように「犯罪者」としてきちんと罰すればそれでいいんですけど、なぜやらなくなってしまったのか。そこが問題なのです。
日本の軍隊がなにゆえ体罰に厳しいかと云いますと、明治維新で徴兵制をはじめたときにあちこちで暴動とか起って大変なことになったからです。死人が大勢出ています。
徴兵制の軍隊が国民からそっぽを向かれては成り立ちませんから、「軍隊というところは、家族的で暖かくてとってもいいとこなんですよ。体罰なんてとんでもございません」と一生懸命宣伝したのです。口先だけで内容が伴ってないと、若者たちが故郷に帰って「あれ嘘だったよ」って云われてまた暴動とか起きたら大変ですので、国民に愛される軍隊目指して頑張ったのです。
頑張ったからと云って体罰を完全に無くせたわけではないんですが、ともかく体罰は絶対禁止で「犯罪」として厳しく取り締まったのです。やってたのは、あくまでも不法な「私的制裁」であり、つまりは「いじめ」です。
明治維新で小学校ができたときにも、あちこちで暴動が起きて校舎焼き討ちとかされたんですけど、戦前は何かというと父兄が学校に怒鳴り込んできて、生徒も徒党を組んで同盟休校とかするのは、この流れなのだろうと思います。
学校も軍隊も、父兄にものすごく気を遣っていたことが、戦前の新聞を読むと判ります。いまの父兄のように甘くはないので、へたすれば暴動で焼き討ちですから。
西洋的な学校だとか軍隊だとかの日本の伝統に反するシステムを庶民に受け入れてもらうだけでも流血の騒ぎになったのに、さらに日本の伝統に反する体罰が受け入れられるはずもなく、絶対禁止にせざるを得なかったわけです。
体罰を軍隊を弱くする犯罪として嫌い、徹底的な調査や対策を取っていた陸軍も、戦前は一部の者だけがやっていると認識していたようで、ある程度の封じ込めには成功していたようです。
国民皆兵というのはまったくの嘘で、戦前の徴兵率は極めて低く、徴兵検査を受けた男子の二割しか実際には軍隊に入っていないので、いずれにしても一般社会への影響はあまりありませんでした。
ところが、日中戦争がはじまると「支那事変下に於ける軍隊の内務は遺憾なから極めて不振」「私的制裁其の跡を絶たざる」と、体罰が日常化して軍紀が乱れているのでなんとかやめさせろと陸軍上層部が全連隊に警告する事態になります。(陸軍省『支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策』。『軍紀・風紀に関する資料 十五年戦争重要文献シリーズ6』収録)
これは戦前にはいなかった三年兵以上が出てきたためです。徴兵は二年なのでその間はある程度おとなしくしているものなのですが、やっと兵役が終ったと思っても日中戦争が泥沼化するとまた続けて召集され、いつ故郷に帰れるのか判らなくなって不満が爆発し、無茶苦茶をやりはじめたのです。
強姦や強盗なんかをやるようになったのもほとんどは三年兵以上。新兵を殴るだけではなく、上官を殴ったり刃物で刺したりする事件が続発するようになり、軍隊が学級崩壊しました。(陸軍省『大東亜戦後ニ於ケル対上官犯ノ状況』。上記シリーズ6収録)
兵隊が増えると将校や下士官も足りなくなったために、大卒の<幹部候補生>が促成栽培で仕立て上げられ、しかしこんな即席の素人将校や素人下士官が反抗的な部下を制御なんかできませんから、安易に殴るようにもなります。
学徒出陣が始まる前の大卒の<幹部候補生>は歳も食ってて、妻子や仕事を抱えてるのに強制的に将校にされて、三年兵以上と同じ不満を抱えて、彼ら自身が上官殴ったりの非行を働いたりしますし。
そのために、体罰が「犯罪」だという観念が将兵全員からなくなってしまいました。
陸軍上層部は、「体罰はなにより大切な軍の団結を挫き、民間人の軍隊忌避感情を掻き立て、軍を弱くする」「部下には慈愛を持てという軍人勅諭の教えにも反する」「天皇陛下の股肱たる兵を殴るとは何事か」と、体罰が軍にも天皇にも反逆する恐ろしい「犯罪」であることを説いてなんとかやめさせようとしたのですが、誰も聞かなくなってしまったのです。ほとんど全員が関わるようになってくるので、軍法会議も追っつきません。
最後には東條英機陸軍大臣が出てきて、『戦陣訓』で軍紀を正して、強姦や強盗、体罰もやめるように呼び掛けますが、まったく効果がありません。
軍隊経験者でも、体罰が軍に反逆する「犯罪」であることを知らず、軍の正式な制度だと思い込んでいる人が結構います。ほとんどがそうですかね。軍ヲタも、あんまり理解していないんじゃないでしょうか。
海軍も士族出身者しかいなかった創設当初は、お手本であるイギリス海軍流の体罰を導入することに抵抗したようですが、やがて完全なる西洋かぶれとなり果てて、日本の伝統に反する体罰を制度として正式にやるようになりました。
徴兵された一般国民がほとんどで体罰は絶対に受け入れられずに禁止された陸軍とは違い、海軍は極めて少数のためほぼ全員が志願兵で、また海軍に志願する者は西洋的なものに憧れてやってくるので、そういう西洋的な体罰も受け入れたのでした。
「俺を恨むな。恨むなら英国海軍を恨め」(阿川弘之『軍艦長門の生涯』)と云いながら殴ったり、英語で「バッター」と呼んでたり、<精神注入棒>が日本の伝統にはない西洋伝来のものだということは強調されてました。
志願兵だけで一般社会とあまり接点がなかったので、海軍が体罰を受け入れても世の中への影響はなかったのです。
しかし、そんな閉じた組織だった海軍が、戦争末期には肥大化して徴兵された一般人や少年志願兵を大量に迎えるようになって、西洋的な「正しい体罰」を経験させたことは大きかったかも知れません。
戦後はこういう体罰体験をした大勢の若者が社会にあふれ、学校などでも体罰が「犯罪」であるという観念がなくなってしまったわけです。軍隊の影響とは、体罰そのものを覚えたことではなく、日本伝統の正しい善悪の基準が崩壊してしまったところにあるのです。
戦後すぐは、体罰というのは若い教師がやることだということになってまして、軍隊の秩序崩壊を直接経験した世代から価値観が変わったことが判ります。
自由をはき違えたアプレ世代がこういう軍の学級崩壊の「いじめ」である体罰が当たり前だと主張するようになって、戦前のきちんとした規律と伝統を壊してしまったのでした。まともな規律も守れず、日本の伝統に無知蒙昧なる輩がはびこるのはまったく嘆かわしい限りです。
その価値観の転換によって歯止めが無くなり、実際に戦前より戦後は学校内の体罰が激しく日常的になったと云っていいと思います。
日中戦争勃発時に30歳以上で軍隊に行っていない世代が学校でもマスコミでも現役だった昭和30年代くらいまでは、まだ体罰が「犯罪」だという観念は残っていたと思いますが。
なお、師範学校出の<短期現役兵>制度についてですけど、昭和2~14年の制度ではわずか五ヶ月間だけの訓練で伍長となって小学校に帰ってしまい、しかも予備役ではなく第一国民兵役になるので、本土決戦でもやらない限りは軍への再招集も絶対にないという、ものすごい特権でした(空襲の時だけ駆け付ける義務を持つ「防衛召集」の対象になる可能性は後にできた)。
すでに日中戦争も始まって、同世代は戦地に送られてるというのに。
大恐慌の頃に疲弊した農村では給料が何ヶ月も払われず、逆に戦争で好景気になるとほかにいい仕事がいっぱいあるので、これくらいの特権がないと小学校教師のなり手がいないのです。
高等小学校を出たあとに師範学校で5年も勉強するよりも、高等小学校だけ卒業してすぐに就職したほうがいい給料をもらえるんですから。昭和14年にこの制度を廃止したときも、小学校教師志望者がいなくなるのではないかとずいぶん論議になりました。
つまりは実際の戦力になることをまったく期待されていない、たんなる体験入隊のお客さんのようなもので、それでいて一応はエリートの下士官養成で一ヶ月毎にどんどん昇級しますし、平和な内地ですし、体罰とは無縁の軍隊生活だったでしょう。
海軍で五ヶ月間の訓練を受けた人もいるみたいですけど、さすがの海軍も下士官養成コースで、しかもお客さんにイギリス海軍流の体罰を加えたりしましたかね。
このあたりの体験談は読んだことがないので、知りたいところですが。
戦前の教師については、軍隊よりも師範学校の寄宿舎でのいじめのほうが大きい問題だったでしょう。
じつは小学校教師で師範学校出は少数派で、中学や女学校卒、代用教員なんかのほうが二倍くらい多かったんですけどね。
ともかく、戦前の学校では、教師の体罰は絶対悪の「犯罪」だという観念が揺らいだことはないと思います。
生徒同士のリンチは、イギリスのパブリックスクールの伝統をマネようとしたところがありますが、不思議とパブリックスクール流の教師の体罰には生徒も猛反発して、学校も絶対禁止の姿勢を崩しませんでした。
明治時代から法律で禁じられていたので当たり前と云えば当たり前なのですが、いまでも法律はあるんですけどね。
東京高等師範学校の校長を24年も務め、戦前の教育界の元締めだった嘉納治五郎の教育哲学も影響していると思います。
このような体罰を絶対悪として決して赦さない日本の伝統については学者がきちんと説いて、私なんかが出る幕はないと思っていたんですが、誰もまだちゃんとした発言をしておりませんかね。
正しい日本像を日本人全員が共有するためには、私が『戦前は体罰が絶対禁止だった』というような新書の一冊も出しておいたほうがいいんでしょうか。いまはあんまり余裕がないので、できれば他の人にやっておいてもらいたいのですが。
学校と軍隊の両方の体罰について詳しい人というのはあんまりいなさそうでもありますが。
かく云う私も、海軍方面はちと弱い。とくに体罰問題となると、帝国海軍の源流である英国海軍、それも帆船時代まで遡らなくてはならないと思いますが、このあたりは徹底的に弱いというか、知識ゼロです。
一応、以下のようなことは調べましたけど、ここで行き詰まっています。海軍に詳しい方はご教示いただけると幸いです。
朝日新聞昭和54年11月12日夕刊で、作家の宮内寒弥が「旧海軍バッタの由来を訪ねて」という手記を書いてます。戦争末期に徴兵された水兵の宮内さんは毎日<精神注入棒>(バッタ)で殴られたんですが、これを輸入したのは東郷平八郎だという話を確かめるためにイギリス国防省を訪れるのです。
そこの海軍中佐が云うことには、英海軍でも少年水兵を鞭やクリケットバットで殴っていたが、東郷元帥が留学した頃すでにクリケットバットは禁止されていた。パブリックスクールではいまでもクリケットバットでお尻を叩く体罰が残っているので、それを見て影響されたのではないかというのです。
東郷元帥が長期留学から帰った2年後の明治13年に、海軍省が『英国海軍条例』を翻訳していて、国会図書館サイトがアップしているので、こちらで読むことができますが、ご覧のように18歳以下の少年水兵のお尻を鞭で叩く体罰が規定されていて、クリケットバットや、大人の水兵を叩く規定はありません。
こちらの英海軍の体罰についての詳細なる英文サイトでも同様で、イギリス海軍中佐の話は正確なようです。
<精神注入棒>は平べったくてクリケットバットそっくりの形状ですので、パブリックスクールからの影響というのは説得力があります。
東郷元帥はイギリス海軍兵学校への入学は許可されず、商船学校に留学したので、そこでは使われてたのかも知れませんが。
いずれにしても、あくまで少年水兵に対して、軍紀違反への刑罰として艦長や士官など立ち合いのもとに正式にやっていたので、宮内さんのような大人の水兵が毎日のように意味なく殴られたのとはずいぶん違います。
阿川弘之『軍艦長門の生涯』では、第一次大戦後の軍縮で海軍では進級が遅くなって万年二等兵があふれ、この古参兵たちが士官に隠れて腹いせに意味なく殴るようになったと記されていて、ちょうど陸軍が日中戦争泥沼の古参兵ストレスから体罰が蔓延したように、海軍も古参兵ストレスのため大正末辺りから始まったたんなる「いじめ」の新しい現象なのかも知れません。
つまり、海軍では正式な制度としての体罰と、不法な<私的制裁>の二本立てで、戦後に回顧されるのは主にこの犯罪行為である「いじめ」のことらしいのです。米内光政海軍大臣が私的制裁禁止令を出すと、より一層に酷くなったとか。
この当りの切り分けや、時代による変化など、東郷元帥も含めて詳しい方はご教示いただければ。いきなり訪ねてきた外国人に正確な歴史を伝えることのできる英海軍と比べて、どうも日本の軍隊の歴史はあやふやで困ります。
宮内寒弥さんはもう一点、イギリス海軍兵学校のテキストには「下士官兵は動物にして人間に非ず」と明記されているという話を確認することが目的でした。
高塚篤『予科練 甲十三期生』でも先に記されていることで、これが当時の帝国海軍で噂としてあったのか、のちに高塚さんが個人的に耳にしたことなのかよく判らない書き方なんですが、ともかくおふたりとも、この士官は貴族、水兵は平民というイギリス海軍の階級社会意識を帝国海軍士官がそのまま身につけたために、海軍では体罰が横行して、自分たちも酷い目に遭ったと考えています。
実際に階級社会ではないはずの日本の海軍士官が、何故かイギリス貴族になったような妙なエリート意識があって、水兵を見下していたのは確かなことです。宮内さんも海軍についての著作を出すために元士官に取材しようとしても「水兵の分際で生意気千万」と何人にも罵声を浴びせられて拒否されたと云ってます。
ところが、イギリス国防省の海軍中佐は宮内さんにこう答えます。
「それは誤伝であると申し上げるより外ありません。何故なら、わが英国海軍士官の三分の一は、兵から昇進した特務士官でして、貴族出身の士官ばかりではないのですから、そういう人間差別は許されなかった筈なのです」
しかし、英海軍は帝国海軍のように兵から昇進した特務士官を士官と明確に分けて差別してないんでしょうか。イギリス海軍兵学校のテキストとともに詳しい方はご教示いただければ。テキストはたぶん、ウェブにもアップされてるのではないかと思うのですが。
帝国海軍では特務士官だけでなく、大卒の予備学生もあくまで予備士官であって士官とは明確に身分差があるという、陸軍で大卒の幹部候補生が将校だったのとは違う階級差別社会でした。
日本では、兵学校の士官候補生に対しても体罰が横行していたようで、英海軍の士官はどうだったのかも気になります。
つまり、私的制裁とは違う、海軍公式の体罰のほうがよく判らんのですね。<精神注入棒>を目立つところにぶら下げてるのですから、公式の体罰はあったはずなんですが、規定がどうもはっきりしない。
このあたりは英国海軍の帆船時代まで遡らないとけないかと思うのですが、その手の本をちょっと見てみましたが、体罰に関する記述は見つけられませんでした。
文献がありましたらご教示をよろしく。的確なものがなければ、『ホーンブロワー』や『ジャック・オーブリー』などのシリーズで体罰や士官と下士官兵に対する階級意識に関する記述のある場所を教えていただければありがたい。これらは小説ですが、時代考証はしっかりしてるやに聞いております。全部読む時間も気力もありません。
平民の中から貴族に従順な者を引き上げて下士官の下っ端にして殴らせ、怨みはそちらに向け、平民同士でいがみ合わせるという支配構造の道具として体罰を利用したなんてのは考えすぎですかね。
長期間の航海を強いられ、なんせ冷蔵庫もないですから毎日腐ったものを喰わされた帆船時代は、なんらかの叛乱防止システムが必要だったことは確かだと思うのですが。
イギリスはパブリックスクールで貴族の子弟にも体罰を加えますし、海軍だけの問題でもないし、やはり勘ぐりすぎでしょうか。
また、英海軍の実態よりも帝国海軍がどのように考えて受け入れたのかのほうが重要で、なんであんな鼻持ちならない貴族意識ができてしまったのか、経緯をご存じの方はご教示をよろしく。8年も留学して、日本でも英語を使って嫌われた東郷元帥がやはり関わっているんでしょうか。留学と云っても、イギリス海軍兵学校へは入れなかったことが、妙な捻れを生んでるような気がしないでもないですが。
まあ、日本ではラグビーをやってる人たちのように、何故か自分がイギリス貴族になったような妙なエリート意識を持つおかしな人種がいるので、そう不思議でもないかも知れません。
宮内さんは、日本の海軍士官について「鵜の真似する烏」と形容しています。
なお、留学する前に日本の海軍兵学校へ入った東郷元帥は、気に入らない教官を袋叩きにしたりと、日本の伝統的な反逆的学生をやってました。
※教官を殴ってたのは山本権兵衛でした。勘違いしてました。恐縮至極です。
なお、乱暴の限りを尽していた山本らを英国流の体罰で押さえつけようとイギリス海軍少佐の教官が提案しましたが、中牟田倉之助校長は武士である生徒を殴れば日本刀で教官を斬り殺して切腹するだろうと断乎拒否しました。
山本が殴ってた日本人教官や他の生徒も士族出身なんですけどね。生徒が教師や他の生徒を殴るのはよくても、教師が生徒を殴るのは赦されないことだったようです。
戦前の学生が教師を殴りまくっていたことについては、拙著『戦前の少年犯罪』を読んでいただければ。
いずれにしても、体罰が日本の伝統に反する、海外から入ってきたものであることには変わりありません。
「美しい日本を取り戻しましょう」や「戦前の体罰論」も参照していただければ。
上記に記載のない参考文献
『帝国陸海軍事典』大浜徹也 小沢郁郎 編
『日本の海軍』池田清





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