"経済・政治・社会"カテゴリーの記事一覧
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「泉の波立ち」から転載。
細かいコメントはしない。しかし、この筆者の人間性が良く表れた文章である。
(以下引用)
◆ 全児童 避難計画
「 20mSv は危険だから、子供をそこから避難させよ」という見解がある。しかし、費用や場所や養育が問題となる。
これを解決する名案がある。魔法のような名案。1円もかけずに一挙に解決。 (^^);
──
政府の方針は「 20mSv 以上の地域は危険だから、そこからは避難せよ」というものだ。(計画的避難地域)
これに対して、批判がある。次のように。
「 20mSv 未満の土地だって危険だぞ。 20mSv の地域の子供を放置するなんて、けしからん。非人道的だ。この地域の子供を避難させよ」
しかし、 20mSv 未満の地域を含めると(たとえ 10mSv 以上と区切っても)、範囲が広がりすぎてしまう。
→ 放射線の分布地図
面積的には大したことはないのだが、福島市や郡山市のような都市の中心部が含まれてしまう。こうなると、対象人数が増えすぎてしまって、大混乱となりそうだ。また、費用もかかりすぎる。
それは別として、子供たちを収容するための施設が不足する。ただでさえ津波の被災者のために住居が不足しがちなのだ。(福島近辺では空き部屋がなくなっている。)ここで、さらに空き部屋などを求めると、大混乱になりそうだ。
以上は、政府の事情だ。
一方で、「子供たちを避難させよ」という人々の気持ちもわかる。
これはジレンマだ。あちらが立てばこちらが立たず。どうすればいい?
──
ここで、魔法のようなすばらしい名案を提案しよう。次のことだ。
「 20mSv 未満の地域の子供たちを避難させよ、と主張している人道的な人々が、子供たちを自宅にホームステイさせてあげる」
原則、無償とする。
ま、費用としては、食費が少しかさむが、子供の食費なんて、たかが知れているから、負担可能だろう。(被災地で全財産を奪われた人に比べれば、はるかに小さな負担だ。)
とにかく、「子供を救え」と叫んでいる人道的な人々はたくさんいるのだから、そういう人々が子供を自分で救ってあげればいい。
「菅直人は無能だ。馬鹿野郎。さっさとやめろ。子供を救え!」
と叫んでいる人道的な人はいっぱいいるから、そういう人々が子供を自分で救ってあげればいいのだ。無能な菅直人に任せず、有能な(そして心優しい)自分自身が子供を救えばいいのだ。
そう言われたとき、まさか、
「やだよ。おれはやりたくない。あくまで人任せだよ」
とは言い出すまい。きっと率先して、子供たちを救ってくれるだろう。私はそう信じている。 (^^)v
たとえば、「無能な菅直人はさっさと辞任しろ」と言った西岡参院議長は、きっと何人もの子供を引き受けてくれるだろう。もし「うちは老人しかいないので世話ができない」というのであれば、この慈善活動のために多額の寄付をしてくれるだろう。
また、「 20mSv を浴びる子供を救え!」と twitter で大騒ぎした孫正義は、6000億円の財産のなかから、6000円ぐらいは寄付してくれるだろう。(桁を間違えたかな? (^^); )
また、「福島の子供を救え」と訴えて大騒ぎを起こした 山本太郎 は、自ら十人ぐらいの子供を引き受けてくれるだろう。何しろ心優しいのだから。ひょっとしたら、「福島の子供は避難せよ」と呼びかけた言葉の責任を取って、避難したがる福島の子供を全員引き受けてくれるかもしれない。(まさか「やだよ」と言って断るような無責任なことはするまい。 (^^)v )
というわけで、心優しい人々の善意によって、福島の子供たちを大量に避難させることができる。そのためには、国の税金は1円もかけずに済む。1円もかけずに、子供たちを救えるのだ。
今のネットには、「菅直人はさっさとやめろ! この無能野郎!」と騒ぐ人があふれているし、「福島の子供たちを救え!」と騒ぐ人もあふれているのだから、この提案はきっと見事に実現するはずだ。
全児童避難計画。費用はゼロで。……すばらしいアイデア!
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「宮台ブログ」から転載。
学者風の難しい言葉が途中に混ざるのが難点だが、書かれた内容は現在の日本の分析と日本の未来像についての示唆に富んでいる。
日本の未来を建設していくための土台となる優れた考察の一つであると思うので、全文を転載する。
(以下引用)
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「どう生きるのか」という
本当の問いに向き合うとき
宮台真司
■キーワードは依存
僕は仙台に生まれた。父親が転勤族だったので子どものころしかいなかった。だが今でも憶えている土地はたくさんある。知り合いも多い。だから今回の地震の震源地が三陸沖だと知って他人事ではいられなかった。家族、友人、知人、いろんな人と連絡を取り合った。
弟が福島第一原発から35キロ離れた福島県いわき市に住んでいた。震災後なかなか連絡が取れずに気を揉んだ。ツイッターで原発事故情報を流しはじめたのも弟が見て連絡をくれるかもしれないと思ったことが理由のひとつだ。5日後にやっと連絡が取れた弟は幸い無事だった。
震災と原発事故で日本人の自明性に亀裂が生じる可能性を直感した。日本には平時を前提にした行政官僚制しか社会を動かすものがない。民衆も政治家も行政官僚制を掣肘できない。そのことを意識しないまま民衆も政治家も行政官僚制に依存する。キーワードは依存だ。
行政官僚は既存のプラットフォーム上で最適化の席次争いをするのが責務。そして本来の政治家は社会環境の変化で既存のプラットフォームが不適切になればそれを刷新するのが責務。行政官僚はプラットフォームが適切であれ何であれ、政治家による刷新に抵抗しようとする。
ご存じの通り冷戦体制終焉後の急速なグローバル化=資本移動の自由化で、経済分野では、どのみち新興国に追いつかれる産業領域で平均利潤率均等化の法則で労働分配率の低下が起こるから、新興国との競争に耐えて経済指標を好転させることに成功すれば勤労者が貧しくなる。
政治分野では、かつてあり得たような再配分政策は機能しなくなる。再配分の原資を調達すべく所得税率や法人税率を上げれば工場や本社が国外に移転する。もちろん税収が減って財政がいっそう逼迫し、生活の安定や将来に不安を抱く人々は貯蓄に勤しんで消費をしなくなる。
かくしてデフレが深刻化すると購買力平価の均衡則によって為替レートが円高となり、企業は輸出競争力を低下させ、それに抗おうとすれば国外に工場や本社を移転するしかなくなる。かくして税収が減って財政がいっそう逼迫し、不安になった人々はますます消費を控える。
こうした循環状況は、経済システムや政治システムがかつて前提とした環境がもはや存在しないという意味で「平時」ならざる「非常時」に近い。従ってプラットフォームが変わらねばならない。つまり、産業構造改革や、租税制度改革や、行政官僚制改革が、必須になるのだ。
「平時」にしか働かないシステムに依存したヘタレな国が稀代の震災と原発事故に対応できるはずがなかろう。震災と原発事故で日本人の自明性に亀裂が生じと思ったというのはそういう意味だ。日本社会がそれなりのものだといった信頼が木端微塵になるということである。
「平時」にしか働かないシステムへの依存。あるいは「平時」への依存。こうした依存がいかにもろい前提に支えられているかを震災と原発事故が暴露した。多くの人は津波が何もかも押し流す映像に現実感覚が湧かなかったと言う。「平時」に依存した思考停止のなせる業だ。
震災と原発事故を契機に思考停止が若い世代に継承されなくなってほしい。可能性は辛うじてあろう。僕のゼミにもやむにやまれずボランティアに出かけ、遺体の数々が木枝に串刺しになっているのを見た学生らがいた。彼らが新たな前提の上で社会を再建することを切に望む。
■「安全デマ」にまどわされた人たち
僕は震災直後から国内外発の原発関連情報をツイッターで大量にリツイートした。ツイッターでも述べたが二つの動機がある。第一は、東電や政府の発表やそれを垂れ流すマスコミ情報を鵜呑みにするのは危ないということ。これらの情報は愚民政策を前提としている。
本文でも紹介したエリートパニックの概念がある。エリートが民衆のパニックを恐れてパニックになって社会を滅茶苦茶にする。人々の合理的行動計画にはマクシミン(最悪事態最小化)戦略を可能にすべく最悪シナリオの認識が必須だが、官邸がこれを意図して妨害した。
官邸による妨害を単に愚昧なエリートパニックと詰ることはできない。そこには確かに愚民政策がある。だが我々が愚民でないとは断言できない。政府発であれマスコミ発であれ誰発であれ、この情報さえ信じれば大丈夫という依存癖がある限り、我々は愚民そのものだからだ。
つまり、内外の原発関連情報を敢えて玉石混淆のままリツイートした第二の動機は、こうした自明性への依存癖がどれほどのものかを確かめたかったということ。案の定、否定的反応と肯定的反応が極端に分かれ、原発問題でおきまりの「陣営帰属&誹謗中傷」が反復された。
「不安を煽るのか」「デマを飛ばすな」「いつから反原発になったのか」…。2週間続いた。この間、政府・東電・マスコミ・御用学者は「放射能漏れは僅か」「終息しつつある」という情報を流した。だが3月末に最悪シナリオが具現化し、反発ツイートは一挙に消滅した。
愚民ぶりも露わな反発ツイートの背後に何があるのか。震災数日後には東京を離れた標高1200mの山荘に僕や知人の子どもたちを疎開させた。政府が各地放射線量を計るリアルタイムモニタリングを公表しない以上、政府情報は「安全デマ」だと判断したからだ。
ちなみに自宅近所の世田谷区や目黒区の幼稚園や小学校では終業式前後の段階で半数ほどが疎開した。疎開させた親はむろん政府・東電・マスコミの情報を信用していなかったことになる。ならば疎開させなかった親は政府・東電・マスコミの情報を信用していたのか。
必ずしもそうではなかろう。僕や妻もそうだし知り合いの編集者(とその妻)らもそうだが、苦労して疎開先を見繕った。気を遣わせ過ぎたり遣い過ぎたりしない関係性で、なおかつ疎開先がそれなりの居心地を与えてくれること。ああでもない、こうでもないと話し合った。
話し合いをしながら感じた。僕たちは日本社会ではラッキーな方だろう。相談できるくらいにはソーシャルキャピタル(人間関係資本)がある。でも若い夫婦の多くはそうではなかろう。かつてスワッピングの取材で「二人寂しい夫婦」が如何に多いのかを知って驚愕した。
人間関係資本を持たない人々は、政府や東電やマスコミの「安全デマ」を信じるしかなかったのではないか。頼れる人間関係がなけれは、「放射能の危険があるとして、子供をどこに疎開させる?当てがない」という苦しい状態に陥る。ならば、宮台ツイートこそがデマなのだ。
自分にとって回避できないもの––例えば自分自身の属性––に合わせて、整合するように他の事物を認知的に歪曲しがちだとするのが、フェスティンガーの認知的不協和理論やハイダーの認知的バランス理論だ。総じて認知的整合性理論congnitive consistency theoryと呼ぶ。
ソーシャルキャピタルというと日本では上下水道の如きソーシャルインフラを意味するが、この言葉を最初に用いたハニファン(1916年)によると、メンバー相互の善意、友情、共感、社交を指す。金銭に還元できる資本とは異なる、金銭に還元できない資本という比喩である。
巷間では格差社会というと経済の格差を含意するのが専らだ。だが今回の震災で露わになったことの一つは人間関係資本の格差だ。これは目に見えないぶん気付きにくい。そのせいで、人間関係資本の脆弱さに由来する事柄が、行政官僚制の不備として糾弾されたりしている。
■仮設住宅の自殺・孤独死の可能性にどう対処するか
人間関係資本の不足は被災地支援における末端ディストリビューションにおいて現れた。海江田経産相が不足物資を送れと号令をかけた結果トラックが列をなして現地に行った。でも末端でのディストリビュージョンができない。義援金は集まったけどなかなか配分されない。
行政を糾弾する向きが多い。だが行政は所詮平時を前提とするシステム。問題は〈共同体自治〉と〈市民自治〉の脆弱さだ。これらが脆弱だと行政は被災者個人と向き合うことになる。でも行政は身分証明のない個人に被災証明を出せず、被災証明がないと金銭は分配できない。
各国の例を見ても大災害時には地縁共同体や教会組織を介さねば末端ディストリビューションは無理だ。それを示す例が今回も見られた。実は創価学会の避難所が物質的にも精神的にも最も安定していた。信者仲間としての共通前提ゆえに数多のものをシェアできたからだ。
一般の避難所では配給物資を手にする順番を巡って険悪な雰囲気になりがちだった。避難所の規模が大きい程そうなりがちだった。だから配給物資が少しずつ届いていても全員分揃うまで配給できない滑稽な事態が見られた。こうした事実の背景要因に対する指摘が少なすぎる。
人間関係資本の問題は復興計画にも関わる。阪神大震災では4万3000世帯9万人が仮設住宅に入ったが、震災後4年間に仮設住宅での自殺と孤独死は合わせて250人に上った。今回の震災では5月10日時点で12万人が避難生活をしている。このままでは大変なことになろう。
阪神大震災後の悲劇は金銭や住居があるだけでは人が生きていけないことを示す。経済的資本だけでなく人間関係的資本なくしては“生きる甲斐”がなくなる。それに関連するが、被災者は元の村ごと移転するのを望む。当然の希望だが、それでは移転先で分断と差別をもたらす。
移転先に元々ある地域社会が移転者たちを包摂する新たな〈共同体自治〉を構築する動きに向かうべきだ。こうした動きを支援するための知的かつ経験的な議論が必要だ。移転先に元々ある地域社会もどのみち空洞化している。だから共同性再構築の絶好の契機にもなる。
三宅島噴火のとき村ごと強制移住命令が出て住民は東京都や神奈川県に分散した。数年後帰宅許可か出た。だが帰島した人は1割もいなかった。移住先で既に生活基盤とりわけ人間関係ができていたからだった。こうした適応––住めば都––は日本人のいいところでもある。
その意味では仮設住宅受け容れに併せて各地で定住化政策を進めるべきだ。定住化の希望が出てから対処するのでは遅すぎる。かつての震災の経験に学んで行政が先回りすべきだ。こうした提案は被災者からは出てこない。当事者の要求に対応するのが最善とは限らない。
後述するが、同じことは震災後の街作りにも言える。当事者のコンビニエンスやアメニティの要求に応えることを最優先すれば、沖縄の米軍用地返還後の跡地利用(北谷や天久)がそうだったように、大型スーパーとコンビニと量販店からなるショッピングモール化が進む。
コンビニエント(便利)な街やアメニティ(快適さ)溢れる街はどこにでもある。そこでは場所と人の関係が入替可能になる。結果としてそこは住む人にとって便利で快適ではあっても幸福を欠いた実りのない場所になる。そうした事態を避けるための議論が少なすぎる。
人々のニーズに応じた結果、人々が必ずしも望まない街作りがなされる。この逆説は古くから知られている。逆説を回避するには迂回路が大切だ。環境倫理学者キャリコットによれば、こうした逆説は、功利主義にせよ義務論にせよ、人間を主体として考えるから生じる。
人間を主体として考えるのでなく、陸前高田という町を主体として考える。我々人間は、陸前高田という町に寄生する存在に過ぎない。陸前高田はそれではどんな生き物なのか。歴史を遡ることによってそれを精査し、陸前高田という生き物に相応しい将来を考えるのが良い…。
■〈良き共同体〉とはなにか?
この数年間僕がずっと言ってきたことは「任せる政治から、引き受ける政治へ」あるいは「(市場や国家など)システムへの過剰依存から、共同体自治へ」ということだ。システム過剰依存は思考停止をもたらす。思考停止は安全保障上重大な帰結をもたらす。今回がそうだ。
本文中でも議論になったように、「完璧な」安全策を講じた原子力発電所にせよ、「ギネス級の」高い堤防にせよ、今回の震災は、システム過剰依存が、システム機能不全の際、生活世界に如何に恐ろしい事態をもたらすのか、まざまざと見せつけた。
システム過剰依存の危険は、事故対策や防災対策に限られない。既に様々な場所で記した通り、欧州では既に1980年代から、共同体が市場メカニズムや行政官僚制に過剰依存する危険を、スローフードやスローライフを通じて共通認識としてきた。
システムへの反省的視座が一般化した契機は、1970年代の福祉国家政策の破綻を契機とした新自由主義--小さな国家&大きな社会--と、1986年のチェルノブイリで急加速した、食の共同体自治(スローフード)と、エネルギーの共同体自治(自然エネルギー)の動きだった。
日本は、1970年代後半以降の製造業一人勝ちによる右肩上がりの継続が、新自由主義的方向へのシフトを妨げ、自民党的再配分政治を継続させた。チェルノブイリが他人事だったラッキーがアンラッキーにも1990年代以降の食とエネルギーの共同体自治を妨げた。
加えて1980年代半ば以降の日本は、欧米とは対照的に、一方でコンビニ化&フェミレス化に象徴される市場依存が進み、他方で日米構造協議の末に日本政府が応じた430兆円の公共事業に象徴される行政官僚制依存が進み、共同体が空洞化し続けた。
89年から91年にかけて冷戦体制が終わり、グローバル化と呼ばれる資本移動自由化が進んだ。その結果、バブル崩壊以降の日本では、社会の穴を辛うじて埋め合わせていた経済が回らなくなり、社会の穴が顕在化した。共同体の空洞化である。
それが、英国の3倍、米国の2倍にも及ぶ高自殺率であり、超高齢者所在不明問題や乳幼児虐待放置問題であり、続発する孤独死や無縁死である。どれも恥晒しな事態だが、システムがうまく回る「平時」を自明視化する愚昧のツケである。
1997年の酒鬼薔薇聖斗事件以降、全国各地で動機不明の凶悪な少年犯罪が続発し、取材で日本各地をまわった。多くの事件がかつてと変わらぬ風光明媚な場所で起こっていた。だがかつての絆が消えていて、隣家がどんなトラブルを抱えているのか誰もシェアしていない。
だから、隣家の子が親を殺したという事件があっても、何が起こったのか誰も分からない。田舎で隣近所なのだから分かるはずだ、と僕は思っていた。多くの人が取材に応じて、80年代に入ってから人間関係が変わったと答えた。現在は共同体の空洞化はもっと進んでいる。
今回、東北地方の相互扶助が美風として語られた。確かに高齢世代も残っているから、事があったときには「昔とった杵柄」でかつてあった相互扶助が再活性化することはあろう。でもそれはソルニットの言う一時的な「震災ユートピア」であることを忘れてはいけない。
凶悪少年犯罪の取材でもう一つ分かったことがある。多くの地域が新住民と旧住民の対立を抱えていることだ。自殺をもたらすような激烈なイジメ事件の背後には多くの場合この対立がある。犠牲になるのが新住民の子の場合も旧住民の子の場合もある。原因は新旧住民にある。
旧住民側の問題は閉鎖性で、新住民側の問題は入替可能性だ。旧住民の絆は多くの場合「消防団ネットワーク」で、これは「中学校OBネットワーク」と等しく、新参者は入れない。新住民は便益と快適ばかり追求して負担を負おうとしない。絆に必要な絆コストを払わない。
そんな中、うまくいっている少数の地域には共通する原理がある。旧住民ネットワークが分厚くて包摂的なことだ。祭りや出産の機会を通じて新住民を旧住民ネットワークに包摂していく。かくして新住民の若い世代が知恵を持ち込んで、地域のリソースはより潤沢になる。
旧住民ネットワークの包摂性は地域の人間関係資本を再活性化する。旧住民が閉鎖的であることは人間関係資本が細っていくことを意味する。そういう場所が開発で便利で快適になっても新来の新住民は旧住民と交わらない。この分断が地域と人間の入替可能化をもたらす。
旧住民が新住民を包摂することで地域の共同性を刷新する。そうした刷新なくして〈悪い共同体〉を克服できない。「今さらやめられない」という制度的惰性や同調圧力が妥当性や合理性についての議論を失墜させるのが〈悪い共同体〉だ。
こうした「物言えば唇寒し」の〈悪い共同体〉は地域社会に限られない。民間企業組織にも行政官僚組織にも蔓延する。〈悪い共同体〉が生むのは思考停止だ。この思考停止が、環境変化が要求するプラットフォームの刷新を悉く阻む。そのことが日本を墜落させてきた。
■「今さらやめられない」という思考停止
現在の原発推進政策は合理性や妥当性が無視された選択だ。原発がローコストだと言うが間違いだ。本書に収録されていないが、「マル激」でも「<原発は安い>は本当か?」というテーマで、立命館大学教授の大島堅一先生に話を聞いた(第523回/4月23日放送)。
電力会社が発表したコストは1キロワット時あたり原子力は5.3円で、火力や水力と比べて一番安い。でもこれはモデル計算で、本当のコストはわからない。ここには「バックエンド費用」として使用済燃料処理費や廃炉費用などが計上されているが、積算根拠が曖昧で甘い。
それでも2004年の政府審議会報告書ではバックエンド費用の総額18.8兆円。電気料金に上乗せされている。コストの3%まで利益として良いとの総括原価方式で、どんなにコストが高くても電気料金に上乗せできるどころか、コストが高い方が利益が増えるのだ。
諸外国と違って、日本の電力会社は地域独占供給体制のもとで発電・送電・配電の全てを押さえている。人々は電力会社を選べない。公開競争入札もない。だから電気料金が馬鹿高い。2003年の資源エネルギー庁の比較だと、家庭用で米国の2.1倍。産業用で2.5倍である。
民主党政権がとりまとめた東電賠償スキームだと、損害賠償費用を電気料金値上げで捻出して良いことになっている。だが原発災害について国民に責任はない。地域独占供給体制と総括原価方式をそのままにして、馬鹿高い電気料金に更に値上げを許すのは狂気の沙汰である。
話はそれでは済まない。税金から拠出される国の「エネルギー対策費」はほとんどが原子力関連で、原発立地地域への補助金に使われる。1970~2007年度の一般会計エネルギー対策費は5兆2148億円。97%の5兆576億円が原子力関連予算だ。これらはコストに算入さていない。
原発事故では何兆円もの賠償額になるが、原発はローコストだというときの費用に算入されていない。真の廃炉費用。真の使用済燃料処理費。税金からのエネルギー対策費。事故の損害賠償費用。原発につきものの揚水発電コスト。全て合算したら幾らになるか。試算さえない。
CO2が出ないからクリーンだというのも嘘。ウランの採掘、濃縮、運搬、原発建設の過程でどれだけCO2を出すか?しかもCO2は毒ではないが放射性廃棄物は毒。六ヶ所村の再処理施設はほとんど動かず、再処理したプルトニウムで動く高速増殖炉もんじゅは16年間も停止中だ。
ウランは石油よりもはるかに埋蔵量が少なく、長くても70年で枯渇する。太陽光発電など自然エネルギーの発電コストが急激に下がりつつあるから、40年経たずに採掘コストが見合わなくなると言われている。早晩廃れるしかないエネルギー技術であるのは分かりきったことだ。
確かにウランの枯渇に対処するための高速増殖炉に希望が託された時期もある。だが実用化コストが馬鹿高いことから日本以外の国は全て断念した。日本の高速増殖炉もんじゅは実験段階の事故で16年間も停止中。政府は少なくとも2050年までは実用化があり得ないと認めた。
ところが、こういうこと––原発にはコスト的にもリスク的にも環境的にも合理性や妥当性がないこと––は原子力ムラの専門家ならば全員すでに知っている。ならば、なぜ原発推進政策が止まらないのか。原子力ムラの元住民が教えてくれた。「今さらやめられない」からである。
どこかで聞いた言葉だ。日米開戦の直前、陸海軍将校と若手官民エリートからなる総力戦研究所がシミュレーションした結果、開戦すれば日本が勝つ確率はゼロ%との結論が出た。陸軍参謀本部や海軍軍令部に上げられたが、開戦した。やはり「今さらやめられない」からだ。
「短期決戦ならば勝機はある」が口実となった。だがそれを心底信じるエリートがどれだけいたかは怪しい。極東国際軍事裁判では多くの被告は、自分としてはどうかと思ったが、空気に抗えなかった、今さらやめられないと思った、というような証言を残していたからである。
今さらやめられない。これは単なる権益への執着を意味するものではない。実存や関係性に関わる意識を含むと解するべきである。やめようと言ったら、自らに矜恃を与える役割、役割を与えてくれる組織行動を否定することになり、自らの立つ瀬がなくなると意識されるのだ。
「マル激」にも何度も登場した小出裕章京都大学原子炉実験所助教が面白いことを言っていた。70年代から原発の合理性欠如を主張して、数知れぬ論争に負けたことは一度もないが、議論に負けた推進派研究者が最後に言う。「小出君、僕にも家族がいる。生活があるんだ」と。
80年代から原発に距離をとった(フランスを除く)西ヨーロッパ各国にも当初は推進派研究者がいたし、彼らにも家族があり生活があったろう。だが、そうした〈内在〉的事情ゆえに何が真理かという〈超越〉的事情を曲げて恥じぬが如き研究者が溢れるかどうかは、別問題だ。
オーソドックスな社会学者なら、ここに宗教社会学的な背景の差異を見出す。唯一絶対神的な信仰生活の伝統が欠如するために〈内在〉を前に〈超越〉はいつも頓挫すると。だが、だからといって御用学者を免責すれば、合理性や妥当性が頓挫する社会から永久に出られない。
我が国が行政官僚制肥大を克服できない理由は、単に行政官僚が政治家よりも頭が良いからとか強いからという話でなく、我々自身に、関係性内部での立ち位置ばかり気にして真理性や合理性を優越させない〈悪い心の習慣〉があり、それによって〈悪い共同体〉を営むからだ。
■完全に過去の技術である原子力
ちなみに、日本は原発技術を世界に誇るというのも嘘だ。日本の原発の技術は半人前だ。東芝は米国のウェスティングハウス・エレクトリック社を買収し、日立はGEと提携して技術を手に入れた。これは、日本が独自に原発をワンパッケージ建てる技術がないことの証明だ。
このように、日本の原発推進政策は、コストについてもリスクについても技術水準についても虚偽の情報で塗り固められた上で成り立っている。しかし、昔からそうだったわけではない。公平に見た場合、日本が原発推進政策を採用しない道は全くあり得なかったと思う。
日本は、二発の原爆を落とされて敗戦して後はポツダム宣言どおり武装解除され、平和憲法を樹立させられ、サンフランシスコ講和直後に日米安保条約に署名させられた。そのことで去勢意識を埋め込まれた。去勢意識が「核の平和利用」への固執をもたらしたのだと思う。
巷間、原発政策には核兵器転用の目論みがあるとの議論がある。だが、日本の監視を主要目的とするIAEA(国際原子力機関)レジーム内にあり、米国が日本の核武装を絶対に許さないことに鑑みれば、日本の核武装可能性はゼロ。要は政治オンチのタワゴトにすぎない。
だが、原発推進政策の是非をめぐる価値判断を背後で支える自明性の地平は、「核の力による、去勢意識の埋め合わせ」という潜在意識といつも表裏一体だった。元々プルトニウム原爆製造のために要求された原子炉だが、戦争利用か平和利用かを問わず、力の象徴だったのだ。
そして1960年代は、原子力ロボット「鉄腕アトム」、原子力潜水艦「スティングレイ」、原子力ロケット「サンダーバード3号」の時代だ。原子力はSF的なアカルイミライと結びついていた。60年代に原子力研究の道に入った人は、小出助教を含めて当時で一番の知性だった。
かくいう僕も小学生時代は核融合の研究者になりたかった。作文にもそう書いた。麻布中学に入ってからはSFとガモフ全集と天体写真撮影にハマった。紛争が契機で文転して東大に入学したが、当時理科系では原子力工学が最も進路振分けの足切り点が高い学科の一つだった。
それが70年代末の話だが、僕が東大助手になった80年代後半になると、すでに原子力人気に陰りが出ていた。過渡的技術に過ぎず未来がない原子力(核分裂)研究にはもはや優秀な人材は集まらない。日進月歩の自然エネルギーやスマートグリッドの研究に優秀な頭脳が集まる。
原子力政策と周辺にはもはや知的議論の厚みがなく、自然エネルギー政策と周辺には知識議論の厚みが増しつつある。事故があろうがなかろうが近い将来に原発は捨てられる。捨てる時期を、旧技術の後遺症回避と、新技術の先行者利得獲得の観点で、吟味する段階だったのだ。
頭脳も集まらず、技術的進歩もさしてなく、新規立地も出来ず、現在運転中のものの安全性を高めるだけでも莫大な費用がかかり、寿命が来つつある多くのものの廃炉にも気が遠くなる年月と費用がかかる。そんなクズみたいな技術をありがたがる時代はとっくに終わっていた。
だが、そうした時代の流れを日本人の多くは知らないままで来た。「平時」に回るシステムが「非常時」に回らなくなったらどうなるかを想像するには、知的な努力が必要だ。だが、日本ではそうした努力がないがしろにされ、「平時」に回るシステムへの過剰依存が蔓延した。
〈悪い心の習慣〉と〈悪い共同体〉、〈過剰依存〉と〈思考停止〉がキーワードになる。これらの悪病が社会の隅々にまではびこっている。これらを放置したまま、東電や経産省をやり玉に挙げるだけでは、悪病は根治できない。根治できなければ、また別の問題が噴出しよう。
■「幸せ」は、「快適」「便利」とは違う
社会や人生の〈最終目的〉の話をしよう。〈過剰依存〉は様々な形を取る。国家(おカミ)への依存。市場への依存。所属組織への依存。「絶対安全」な堤防への依存。「絶対安全」な原発への依存。総じて「平時」にしか回らないシステムへの依存=非自明な自明性への依存。
非自明なこと(作為)を自明性(自然)と取り違える癖を丸山眞男は「作為の契機の不在」と呼び、「抑圧の移譲」(上から抑圧されると下を抑圧すること)などと並んで、問題のある社会や組織(の行動)を、他の国々のように変えることができない理由ではないかと考えた。
こうした非自明な自明性への依存は、社会や人生の〈最終目的〉を見失わせてしまう。原発を自然エネルギーに置き換えようという話は出てきても、北欧諸国のように将来的にはエネルギー消費を半分以下に減らそうという話が出てこないのは、自明性への依存癖によるだろう。
十年前は世界2位だった個人別GDPが23位に落ちたと嘆かれるのもそうだ。そもそも世界2位だった時期でさえ、様々な幸福度調査で世界75位以上になったことがない。社会や人生の〈最終目的〉が、皆の・自分の幸いだとすれば、GDP低下を嘆く前にすることがある。
原発をやめると今まで通りエネルギーを消費できなくなるという、それ自体は電力会社の嘘に騙された不安もそうだ。従来のエネルギー消費が、経済水準はともかく幸福水準にどれだけ関連しているのかを見直し、幸福水準を上げつつエネルギー消費を下げる道が模索されない。
子供を疎開させた山荘には北欧の部材を使った。床に30センチ厚、壁に25センチ厚の断熱材、三重ガラス、極めて密閉性の高い窓と扉の御蔭で、外気が零度10度以下になる冬でも、朝2時間の暖房すれば後は暖房せずに余熱と日照熱で快適だ。床暖房がなくても床が暖かい。
実際、世田谷区にある自宅に比べて、同じ期間過ごした場合の光熱費は、すごい寒冷地にある山荘の方が圧倒的に安い。幸福度よりもレベルが低い快適度の話なのだが、エネルギー消費水準を圧倒的に落としながら逆に快適度を上げる工夫に、北欧の反省的態度を見て取れよう。
北欧では、このハイテク時代でさえ暖房方法として暖炉を手放さない。手放さずに暖炉のハイテク化(効率化と低炭素化)に技術の粋を集める。暖炉の回りに人々が集まって談笑しながら寛ぐ時間が与える幸福に注目するからだ。こうした反省的構えが社会の隅々に浸透する。
原発という電源を自然エネルギーで置き換えるという話をする前に、あるいは、原発という電源を失うとエネルギー消費水準が下がるという話をする前に、僕らが何のためにエネルギー消費を維持し、それで経済水準を維持するのかを反省すべきだ。僕らの幸福のためにこそ。
ツイッターやブログで「煽るのか」「不安にさせるのか」とイキり立つ遣り取りを見るたびに、自己維持のためのメタゲームの浅ましさ、陣営帰属&誹謗中傷の浅ましさ、人間関係資本の乏しさゆえの認知的整合化の浅ましさ、総じて不幸な人々の浅ましさを感じて悲しかった。
こうした浅ましさは日本の変質と関連する。1980年になるころから日本では法化社会が進んだ。何かというと管理者や設置者の責任を問う構えが拡がり、小川は暗渠化され、屋上や放課後の校庭はロックアウトされ、公園から箱ブランコが撤去され、監視カメラ化されてきた。
隙間や余剰やノイズが除かれ、クリーンで安全で平準化した社会が出来上がった。子供はノイズ耐性を失い、やがて、トラブル解決ができず、何かというとキレ、隣人騒音で警察を呼び、超高齢者所在不明や乳幼児虐待放置を行政のせいにするような、浅ましい大人が増えた。
総じて僕らは、コンビニエンス(便利)やアメニティ(快適)をハピネス(幸福)と取り違えてきた。更に深い水準ではハピネス(幸福)とウェルビーイング(存在の取替不可能)を混同してきた。だからエネルギーを馬鹿食いする高GDP社会で、不幸な人々ばかりになった。
非常時が訪れ、快適さも便利さも失われたとき、つまりシステムに依存できなくなって初めて、「幸せとはなにか」「どう生きるのが良いのか」という、幸福と存在の取替不可能に関わる本当の問いを僕らは突きつけられる。問いに答えるための議論の厚みを手にする段である。 -
クズ右翼の記事だけで終わるのも不愉快なので、もう一つ転載する。こちらは被災地状況を教える有益な記事だ。投稿者が赤かぶであるのは気に入らないが、「人によって言を廃せず」である。
被災者を雇用して被災地復興をせよ、というのがずっと前からの私の主張だが、どうやら他県の大手業者との契約のためか何かで、現地被災者の雇用は行われていないようだ。
これは被災者避難場所の件と同じ問題で、被災者救助や被災地復興という本来の目的が、災害を利用した「金儲け」に変わっているのである。つまり、行政と企業のズブズブの利権になっているわけだ。
何が本当に被災者や住民のため、国民のためになるかを考えれば、行政のやるべきことは自然に決まってくるはずである。
(以下引用)
陸前高田の本音をリポート 2カ月経っても大いなるミスマッチ(日刊ゲンダイ)見ると聞くとじゃ大違い
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/336.html
投稿者 赤かぶ 日時 2011 年 5 月 18 日 17:04:04: igsppGRN/E9PQ
陸前高田の本音をリポート 2カ月経っても大いなるミスマッチ
http://gendai.net/articles/view/syakai/130491
2011年5月17日 掲載 日刊ゲンダイ
見ると聞くとじゃ大違い
●「仕事がしたい」と有償のガレキ撤去作業を望む避難住民。
「地元業者がなぜ復旧作業からツマはじきなんだ」と嘆く建設業
「腐った魚と汚泥が放つ悪臭がすごい」――と思っていたが、意外と臭いはなかった。日刊ゲンダイ本紙記者が「壊滅状態」になった岩手・陸前高田市の2カ月後を訪ねた。
現地を訪れたのは14日。「日本百景」で知られる高田の松原海岸はすっかり消え、内陸部に広がる街は廃虚と化していた。
海岸から数百メートルに位置する建物は土台部分だけをわずかに残し、2、3キロ離れた場所は、汚泥に埋まった冷蔵庫、テレビ、机、コンクリート片、木材などが散在。横倒しや裏返し、ペチャンコになったサビだらけの車や漁船も放置されたまま。壁と骨組みを残して傾く家屋には「捜索終了」の張り紙。人影はなく、昔の映画ニュースで見た原爆投下直後の広島や長崎市内のような景色だった。
陸前高田市は人口約2万3000人。うち、岩手県全体の被害者の約3割に上る2200人の死者・行方不明者を出している。東北でも被害が大きい市なのに、2カ月経っても震災直後と変わらない。道路上は片付けられているが、膨大なガレキの山は手付かず状態だった。
市内でガレキ運びやドブさらい掃除に当たっているのは学生や県外からのボランティアたち。だが、作業環境は劣悪だ。
「ガラスの破片がそこら中に散らばっていて、ちょっと足をケガをしただけでも汚泥の影響で抗生物質が必要になるケースがあるのです。だから長靴の底に鉄板を敷いて作業しています。ホコリもすごいから、マスクとゴーグルも欠かせません」(ボランティアのひとり)
「千年に一度」の津波の直撃を受けた被災地の頼みがボランティアだけとは呆れた。国や自治体、自衛隊はどこにも見えなかった。社員旅行でボランティアに参加していた都内の松田洋一さん(61)は「2カ月過ぎても何ら手付かずの状態に驚いています。これではガレキを片付けるだけで何年もかかりますよ」とビックリしていた。
住民の避難所生活も過酷だ。今も約500人が避難している市立一中の体育館。高さ50センチほどの段ボールに囲まれた約10平方メートルが1家族あたりの居住スペース。プライバシーはゼロだ。
●「義援金はまだもらっていない」
避難所生活を送る左官業の男性(61)がこう説明した。
「震災直後は1000人ぐらいが避難所にいた。はじめは体育館のカーテンを掛け布団代わりにして寒さをしのいだよ。食べ物も2日目ぐらいまでコップ1杯の水。今は物資は足りている。テレビが1台置いてあるだけだから、情報を得るのはもっぱら新聞。配られるのは50部で、読みたい人は朝4時30分から並んで待っているよ。ひとりで3部も4部も持っていく人がいるからすぐになくなるけれど……。義援金?まだ1円ももらっていない。仕事をなくした被災者が多いから、有償でガレキの撤去作業をやらせてくれればいいと思うが、そうならないんだ」
隣の大船渡市では4月にガレキの撤去などに被災者を雇用する支援事業を始めた。日当7200円。第1次募集で110人が雇用された。宮城県石巻市でも、被災者242人が避難所管理や支援物資の仕分けなどを行う臨時職員に採用されている。しかし、陸前高田では、こうした被災者向けの雇用支援の話がなぜか進んでいない。
避難所生活を送る建設業の男性(61)も「ここには船大工も多いし、体もなまるから復旧作業に携わりたいが、大阪の建設業者が現場を押さえていて入れないんだよ」とボヤいていた。
本腰を入れて就職活動するには生活基盤となる仮設住宅が必要だ。しかし、5月の連休明けに全員入居できる計画が遅れに遅れ、一部が校庭に完成しただけ。2~3カ月も先延ばしされている。
進まないガレキの撤去、整備されない仮設住宅、配られない義援金――。三重苦、四重苦の生活を送る“忘れ去られた”陸前高田の被災者はもっと怒っていい。 -
「東海アマ」ツィッター経由で、タイトルのよく分からないブログから転載。(transnational historyがタイトルか?)
曽野綾子や渡辺昇一が人間の屑であることは良く知っていたが、そういう人間が自分たちの本性を堂々と公にする発言をしても生息が許されるこの日本社会もクズ社会である。
「電気が停止した時点で民主主義も停止する」のだそうだ。要するに、非常事態には権力の一極集中が行われ、戒厳令的行政が行われていいということだろうが、日本の民主主義は津波で停止される程度のものなのか。ならば、民主主義をふりかざして他国を侵略する我が宗主国アメリカに向かって、そう言え、というものだ。民主主義のためならイラクやアフガニスタンを焦土にしてもかまわない、リビアという平和な国を詐欺的革命で動乱国にしてもかまわないというお国柄だ。まあ、本当は権力者にとっては民主主義ほど苦々しいものは無いのだろうが。
こういう右翼人種の精神構造というものは分析する価値はある。彼らに共通するのは、自分を権力(力)の側に置いて、弱者を憎悪するという心性である。まあ、ニーチェのコピーだ。彼らがそういう権力擁護・体制擁護発言で金銭的・経済的メリットや社会的地位を得ているという面はあるにしても、それだけで彼らの弱者憎悪の発言にはならないだろう。
私にとっては、本当はクズ右翼の発言を読むのも苦痛ではある。何でこのようなくだらない発言を読むことで貴重な時間を使わねばならないのか、という苦痛だ。しかし、放っておくと社会に広がるバイキンのような連中の「クズ発言」を記録しておくのも意味はあるだろう。
元記事では引用部分は囲み記事になっていて、筆者の感想部分との区別が容易だったが、私のブログではその囲み線が消えていて、やや読みづらくなっていることをお詫びする。
(以下引用)
2011-05-18■[あきれた][珍保守]曽野綾子「東電に責任はない」「放射線の強い所は、じいさんばあさんを行かせればいい」 309
月刊誌『WiLL』とかいう雑誌に、渡部昇一、曽野綾子のトンデモ対談が載っているということで、金をドブに捨てる思いで買ってきた。
内容といえば、予想していた陳腐な対談をはるかに越えるものでした。
『WiLL』6月号
●昇一先生の美女対談
不幸からの贈り物が日本人を鍛える (渡部昇一、曽野綾子)
(前略)
過剰な原発アレルギー
曽野 「こんなにひどい津波は見たことがない、一千年に一度の災害、と言われていますが、予想の範囲を超えていて、誰にも責任はないことをハッキリしないといけません。その代わり、決められていたよりも手を抜いてつくられていたものに対しては、厳罰を下す。そこを分けて考えないと、誰もやる人がいなくなります。
私は水力発電のことしか知りませんが、建設には仕様書があって、どこまでの事態を想定するのか、決壊したら何トンの水が何分後にどこに到達するのかが考慮されています。しかし、それを考えるのは東電ではありません。そもそもの想定が甘かったなら、責任は東電ではなく設計側にあります。」
編集部 「天災には文句が言えないので、東電がスケープゴートになっている面がありますね。」
(中略)
渡部 「過剰な原子力・放射能アレルギーのある日本社会のなかで、これだけの原発を建設した人たちは偉いと思う。今となっては、これ以上の地震がきても耐えられるように、より頑丈にするから応援してくれ、というしかないでしょう。」
(中略)
「誰にも責任はない」だとか、「責任は東電ではなく設計側にあります」だとか何を言ってるんだコイツは。その設計を依頼してるのが東電でしょうに。
で、その設計の安全基準に問題があるってことは、これまでさんざん指摘され続けてきたわけで、それを無視して「安全です」と言ってきた東電に当然、責任はあるだろう。
まぁ、一口に責任といっても、権限や権力の大きさによって重さのレベルは変わってくるだろうし、監督すべき立場にあった経済産業省の原子力安全・保安院や、他にも「安全神話」の旗を振って推進してきた政治家や御用学者などにも責任があるわけだけどさ。
瓦礫を薪にして暖を取れ
曽野 「原発や被災者支援などに対するマスコミの質問もおかしかったですよ。「明日はどうなるんですか」「物資は公平に配られていますか」ですって。もうやめてもらいたいですね。この非常時に、予定どおりの明日がくるなんて誰にも分からない。
そして、電気が消えた時点で、民主主義というものは停止するんです。公平も平等も機能しないんです。それがわかっていない。もっとひどいのは、「その委員会はいつ立ち上げたんですか」。緊急の時に過去のことなんか聞くな、でしたね。
私は報道に関しては、あれだけの地震や津波の映像をきっちり記録してすぐに国民に知らせたり、原子力保安員や東電がきちんとぺーパーをつくって毎日現状報告をしていることは、すばらしいことだと思う。」
(中略)
曽野 「私は、未だに答えのない疑問を持っているんです。「避難所が寒くて凍えそうだ」「低体温症で体調を崩している」「温かいものが食べられない」という報道がありましたが、あれはなぜ? そこらじゅうにあんなに薪があるじゃないですか。瓦礫の処理が大変だと言っていますが、どうして木片は燃やさないんですか。
同じ高さの石を三つ積めば竈(かまど)ができるんです。そこに、あれだけ燃やすものがあるんだから、あとはどこからか鍋を拾ってくればいい。私だったら、あそこで薪を集めて食事をつくります。」
(中略)
「電気が消えた時点で、民主主義というものは停止するんです。公平も平等も機能しないんです」とか意味がわからないわけだが。
倒壊してる他人の家の木材を薪にしろだとかも、木材が津波で濡れてて火がつかないことぐらいちょっと頭使えばわかるんじゃないの?
鍋にしたってなん週間も放置されているならともかく、被災した直後に鍋を拾ってこいだとか、泥棒しろってことなの?
日本人は立派すぎる
(中略)
渡部 「日本が立派すぎるんだな。」
曽野 「ほんとうにそうなんです。そこがいいところではあるんですが、甘さにもなる。だから、ゲリラ学を教えたいんです。
もう一つ言うと、私は定年制には大賛成で、ある程度、歳がいった老人は黙ってろ、と思うんです。けれど、世の中には実にたくさんの体験を持つ高齢者がいらっしやる。今回のような場合、そういう人たちの知恵を暫定的にどんどん使えばいいと思う。
放射線の強いところだって、じいさんばあさんを行かせればいいんですよ。何も若者を危険にさらすことはない。私も行きますよ。もう運転免許は失効していますが、あそこは私有地だから無免許でも構わないでしょう(笑)。
ほうれん草からヨウ素が出たときも、ある人が「五年後に症状が出るなら、そのころは八十五歳だからちょうどいい」なんて言っている人がいました。」
渡部 「養老院で使うとかね。」
曽野 「かえって元気になるかもしれません(笑)。水道水だって、ヨウ素は八日経てば半減するんでしょう。私は空き瓶に水道水を詰めて日にちを書いておくことにしました。飲まないでいるうちに八日以上経ちましたから、もういいはずですね。」
(以下略)
>放射線の強いところだって、じいさんばあさんを行かせればいいんですよ。
>(放射能で汚染された野菜を)養老院で使うとかね。
>かえって元気になるかもしれません(笑)
ほんとこいつらクズだわ。 -
「阿修羅」記事とそのコメントを転載する。記事は官僚によるマスコミ恫喝についてだが、それよりも面白いのがコメント欄である。記事に対して筆者の長谷川氏の揚げ足取りをする01のコメントが真っ先に投稿された。すると、それをネット工作員だと見破ったコメントが相次ぎ、しかもそれがおそらく公務員によるものだという推定がなされた。
こうしたやりとりを見ると、ネット工作員というのも、すぐに正体がばれるようなネット・リテラシーが出来上がりつつあるようで、慶賀の至りである。
だが、ネットに触れることのない情報弱者は、相変わらずマスコミ報道を頼りに、知らず知らずのうちにB層化していくのだろう。
今や、テレビを見るのは馬鹿ばかり、もちろん、テレビに出るのも馬鹿ばかりという時代である。
いやまあ、自分が馬鹿でないなどと言う気はないのだが。
(以下引用)
本人に直接言わず、上司に電話 「オフレコ破り」と抗議してきた経産省の 姑息な「脅しの手口」(長谷川幸洋)
http://www.asyura2.com/11/senkyo113/msg/300.html
投稿者 otoppi 日時 2011 年 5 月 17 日 15:39:18: cUHXG0u8x2am6
本人に直接言わず、上司に電話「オフレコ破り」と抗議してきた経産省の姑息な「脅しの手口」「枝野批判」の情報操作がすっぱ抜かれ大あわて
2011年05月17日(火) 長谷川 幸洋 現代ビジネス「ニュースの深層」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/5036
「銀行は債権放棄を」という枝野幸男官房長官発言に対して、細野哲弘資源エネルギー庁長官が「いまさら、そんなことを言うなら、これまでの私たちの苦労はいったい、なんだったのか」と言ったオフレコ発言を14日付けの当コラムで紹介した。
幸いにも多くの読者を得たようだ。その中の1人、経済産業省の成田達治大臣官房広報室長が私の職場に"抗議電話"をかけてきた。霞が関がマスコミ操縦に使う「脅しの手口」がよく分かるので、紹介したい。
成田は私に直接、電話してきたのではない。私の「上司」に電話したのだ。
上司がすぐ私に教えてくれたので、こちらも気がついたが、私はすぐ成田に電話した。以下は、その際のやりとりである。
「それは上司に聞いてください」
「なにか私の記事の件で『上司』(やりとりでは実名、以下同じ)に電話したそうだが、どういうお話だったのか」
「それは『上司』に聞いてください」
「オフレコ話を書くのはけしからんとか、書いては困るといったような話と聞いたが」
「いや、私は書くなとは言ってませんよ」
「じゃ、どういう話なのか」
「私が言ったのは、懇談会の冒頭で私から『一部オフレコの部分もある』と言い、細野からも「ここはオフレコで」と言ったが、とくに反論や意見はなかった。終わった後で長谷川さんからも反論や意見はなかった。それなのにネットで書いたのは、どういう判断なのか。そちらはそういう会社なんですね。信頼関係が崩れている。とても信頼できない。これからは、そういう前提で対応を考えさせてもらう」
「対応を考えさせてもらう、というのは、どういう意味か」
「こちらは信頼できないと言っている。どうするかは、そちらの判断だ」
「分かりました。ありがとうございました。あなたから、そういう電話があった件もまた書かせてもらう」
「ちょっと待ってください。どういうつもりか」
「忙しいので、これで失礼する」
以上である。ほんの2、3分の会話だ。
官僚はこのようにマスコミと困った事態になると、記者当人ではなく「上司」に文句を言ってくる。たいていの記者は上司から注意されると出世に響くと思って、口をつぐんでしまう。「記者もサラリーマン」という弱みにつけ込んだ「恫喝」である。
本人との直接対決はできるだけ避けようとする。直接対決すると新たな接触が、またネタになる可能性がある。「もしかすると、また書かれてしまうかもしれない」と考えて、リスクを最小化するのである。まったく卑しい手口である。
そういう事情なので、相手は初めから私とまともに議論するつもりはない。「脅せば十分」という話である。
「オフレコ」という情報操作の手口
ここでは問題の本質である「官僚のオフレコ話」について書いておこう。
記事について、元官僚で現在、ある大学教授の方もツイッターで「私も官僚時代はよくオフレコで話をした。これは信義則違反ではないか」という「つぶやき」を記している。官僚にとって「オフレコ」というのは極めて重要なマスコミ操作の手段になっている。だから、記者のオフレコ破りは官僚にとって無視できない重要事なのだ。
官僚は記者クラブの会見などで「ここはオフレコだが」と前置きして、ちょっとした背景説明とか裏話を披露する。マスコミに書いてもらいたくないからではない。まったく逆で、実は自分の正体は明かさずに、マスコミにぜひ広めてもらいたいのだ。
背景説明とは、簡単に言えば官僚が世間に広めたい一定の「相場観や理解の仕方」と考えればいい。たとえば官僚に都合のいい解釈や政治家の悪口話、ほめ言葉などだ。
「あの人は政策通」とか「あの人は官僚を使いこなせない」とかいった話がよくマスコミに出るだろう。それはたいてい、官僚の話が出所になっている。
記者のほうは、そういう話を聞くと、なにか秘密の話を聞いたような気になって、知らず知らずのうちに官僚の相場観に染み込まされていく。それがオフレコの狙いである。
だから、官僚が「ここはオフレコで」といったときこそ、本当は記者が官僚の狙いに気づかなければいけない。今回の例で言えば、細野長官の狙いは二つ考えられる。
まず「枝野長官の『債権放棄話』などとんでもない」という相場観を記者に染み込ませたかった。「霞が関は絶対、受け入れない」という相場観である。これが一つ。もう一つは本当に枝野発言に頭に来ていて、枝野の評判を落としたかった。これが二つ目だ。私はおそらく二つ目の思惑がより大きかったと思う。枝野が邪魔者になってきたのだ。
枝野発言はその限りでは「もっともな話」であり、今回は細野たち官僚の相場観と世間の相場観があまりにかけ離れていた。今回のオフレコ話は、それくらい経産省という役所がダメになっている証拠でもある。
「オフレコ破り」をつるしあげる記者クラブの記者
では、論説懇のオフレコ破りは許されるのか。
私は基本的に大勢の記者が参加した場で「オフレコ」はあり得ない、と思っている。
官僚1人に対して記者数十人では、だれかがどこかで喋ったり記事にすることは十分にあり得る。官僚はそんな可能性はとっくに承知していて、書かれることを前提に喋っている。ただし、絶対匿名で。相場観を広めることが狙いだから、自分の正体が明かされては元も子もない。
私はそんな相場操縦を狙った官僚の手伝いをする「ポチ」ではない。重要局面で官僚の立場と基本的発想、狙いを書くのは大事な仕事の一部と思っている。今回はオフレコ話に経産省・資源エネルギー庁の考え方が象徴的に出ていた。だから書いた。当たり前だ。
論説懇は記者クラブでもない。役所が記者に呼びかけて開いた「政策説明会」のようなものだ。記者クラブだと、オフレコ破りした記者はしばしば、他のクラブ記者からつるし上げられたりするので書けなかったりする。記者クラブのもっとも悪い面である。
だからといって、私がオフレコに応じないというわけでもない。基本的に1対1で、しかも十分に信頼に値する相手なら応じる場合はある。1対1でなければ、自分と情報源以外の第三者によって情報が外に漏れる可能性があるので、意味がない。先に言ったとおりだ。
だいたい数十人もの記者を相手に、初めから「信頼関係」うんぬんを持ち出すほうがおかしい。自分たちが「ここはオフレコ」といえば、記者がみなその通り、黙って従うとでも思っているのだろうか。そうだとすれば、記者もよほど官僚になめられたものだ。
残念ながら、なめられ切ってしまったのが現状である。この件は面白いテーマなので、折に触れてまた続報を書くことにしよう。
(文中敬称略)
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コメント
01. 2011年5月17日 16:04:15: 37CfdAJ7Hg
>オフレコ発言を14日付けの当コラムで紹介した。
つまり長谷川幸洋はオフレコだと認識した上で、金儲けのために公開して書いたというわけだ。
最低の行為だ。
人と人との信義を金で売ったわけで、売られた人間が長谷川を信用しなくなるのは当然のこと。
この一件で長谷川を信用するのは危険ということが、知れ渡ったわけだ。
今後長谷川が入手できる情報は限られたものになるだろう。
02. 2011年5月17日 16:42:45: beQiOMZZVw
01>
お前みたいなバカ犬がいるから、日本の報道は狂ってきたのだ
官僚のポチで、餌でももらって、卑屈にこそこそしていろ!
自分が腐れ犬だからといって、自分の腐臭をまき散らかすな!
腐れ犬の飼い主きどりの官僚は
国家の堕落の責任を取れ!
03. 2011年5月17日 16:43:29: VhVPyke9Vs
>01
そんなにくやしいか。
04. 2011年5月17日 16:56:35: EGhwZ1aSoE
01は、官僚の犬か?
この件では、長谷川氏を全面的に支持する。
官僚の恫喝に屈せず、がんばってほしい。
こういう官僚の恫喝に屈しないマスコミ人がどんどん増えて欲しい。
ジャーナリスト魂がわずかでもあるなら、
大メディアの記者は、長谷川氏を見習って欲しい。
05. 2011年5月17日 16:58:36: EGhwZ1aSoE
01=37CfdAJ7Hg の他の投稿を見る限り、官僚(検察官僚)の犬で、反小沢だな。
06. 2011年5月17日 16:59:05: EszHBBNJY2
腐れ官僚に負けるな!
長谷川 幸洋氏 がんばってくれ!
味方が増えている。
07. 2011年5月17日 17:33:33: iswMqnXGjg
長谷川幸洋氏、グッジョブ! 頑張ってください。
オフレコなんか関係ない。どんどん暴露してください。
それで圧力や被害を被ったら、それも公開してください。
長谷川氏が所属する東京新聞も、3.11以降、特に「こちら特報部」で秀逸な記事を連発している。頑張ってほしい。
08. 2011年5月17日 17:42:39: DyXm8VR90c
ネットで広がった以上は
もう遅い
経産省の優秀な【成田達治】大臣官房広報室長の名前をしっかり
覚えておきましょう。
さらし首にして。
09. 2011年5月17日 17:42:47: QmyrjoZuIs
>>01よ
お前のようなのが居るからマスゴミと云われるのだ。
腐った悪臭を放つ官僚との談合をして恥ずかしくないのか?
尤も恥ずかしかったらこんな所に出てこないだろう。
二度と出て来るな!
10. 2011年5月17日 17:51:28: 1bI51T5To6
長谷川幸洋さんありがとうございます。
こうして官僚が記者を脅しているんだとわかりました。
官僚は日本のガンだ。
11. 2011年5月17日 18:39:25: 1ymXkUhGHw
01,おまえ 日本人か。
去れ、アホが
12. 2011年5月17日 18:46:10: esmsVHFkrM
01は官僚のポチというより本当に官僚なんじゃないのか。
ヤフーコメでの不思議な現象について知っているか。
普段あそこはネトウヨだらけでどんな話題であろうと良くこれだけ悪口が叩けるものだと思うほど「意地悪」な連中ばかりなわけだが、話題が公務員の給与引き下げ問題(最近では例の10%引き下げ)になると、とたんに「公務員はかわいそうだ」とか「それは不当だ」とか「優しい」人たちばかりになってしまう。
今時、公務員に「優しい」人たちって公務員自身しかいないわけだし、話題によってコメするメンバーが急に変わるわけはないから、同じ人たちがやっていると言うことで、つまりなんとネトウヨは公務員だったわけだ。(ちなみにこの公務員に「優しい」人たちは、コメ分量的に大体8割なので、ヤフーコメの場合はそのときの投稿人数の8割がコメ中の全国の公務員の数となる)
と言うわけで、公務員は暇なのをいいことに日夜ネットでコメしまくっている。
01は小沢嫌いなんだし、実際公務員で、特にこのネタに死活的関心を持つ官僚であることは十分ありうる。
13. 2011年5月17日 18:54:58: djcL9TMkKQ
マスメディアで唯一信用できる
東京新聞の論説委員
「長谷川幸洋」さん
圧力に負けず、頑張ってください。
14. 2011年5月17日 19:00:05: Mzuk7nNvWk
こういう記事を紹介すると、直ぐ01のようなのが引っかかってくるのが半ば楽しみになりつつある。
必ず誰よりも早くコメントする。
必ず本文から少し引用し、官僚的な価値観で趣旨をすり替え罵倒する。
これは最早、所謂「工作員」の所業。
今回もこのお仕事だけはきちんとされていますな。
それにしても、「工作員」のお仕事って、あなたもこれでお金もらっているの。
15. okonomono 2011年5月17日 19:00:14: ufgCmUGS6CG6M : aXuxOwT8q2
初歩的で恐縮だが、高級官僚の細野哲弘(資源エネルギー庁長官)を、民主党の細野豪志(内閣総理大臣補佐官)と混同しかけた。庁の長官というのは官僚ポストなのか。フムフム。
この記事もおもしろかったが、そのきっかけになった長谷川幸洋氏の前の記事も参考になった。
「被害の全容がはっきりしていない現段階で、[東京電力を]法的整理してしまうと、その時点で債権債務が確定してしまい、その後、新たに被災者は賠償債権を請求できなくなってしまう」という、べつな官僚の言い分からは、どのようなロジックで官僚が政策を主導しているのかがうかがわれて、興味深い。
「「銀行は東電の債権放棄を」枝野発言に資源エネ庁長官が「オフレコ」で漏らした国民より銀行、株主という本音」 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/4911
-
「阿修羅」より転載。
元記事は「ちきゅう座」で、前にも書いたように、私の「お気に入り」にも入れているサイトだが、真面目記事が多いので読むのが億劫だから、読むのは一番最後になる。飯山一郎や井口和基などの毒舌ジジイの文章は面白いから最初に読むのである。まあ、そういうものだ。
原発のコストの高さなど、少し考えれば火力や水力より高いはずだろうと感覚的にも分かることである。なにせ、「原爆を管理してエネルギー源とする」のだから、その設備の建設も維持も施設廃棄費用も大変な金になるはずである。火力や水力の比ではない。税金投入分をきちんと費用に入れれば、それだけでも火力と水力を上回るわけである。しかもこれには、いったん事故が起こった場合の巨大な被害額など入っていないし、おそらく原発廃棄物の処理費用なども入っていない。もちろん、原発被害に対する補償など、計算も不可能な金額だろう。一発の原発事故で国家予算相当の金額が発生するような発電システムが「もっとも安価な発電方式である」などとよくも言えたものである。
原発擁護派のプチ右翼若者なども、自分の考えに都合のよいサイトだけを読まず、「東海アマ」や「ちきゅう座」「つむじ風ブログ」なども読むとよい。
(以下引用)
★阿修羅♪ > 原発・フッ素11 > 267.html
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原子力発電のコストは、火力、水力と比べ最も高い!立命館大学の大島堅一教授がデータを使って説明(ちきゅう座)
http://www.asyura2.com/11/genpatu11/msg/267.html
投稿者 会員番号4153番 日時 2011 年 5 月 16 日 06:24:03: 8rnauVNerwl2s
「原子力発電が一番安い!」なんてのは、代替エネルギー開発を阻止するために原子力マフィアが仕掛けた宣伝戦略。
立命館大学の大島堅一教授が、その誤魔化しをデータを使って説明してくれたそうです。
「電源開発促進税(1Kw当たり37.5銭=約100円/月:国民負担)等の税金(税金投入が多いのが原子力!)を入れて計算すると、発電単価は原子力が10.68円、火力9.9円、水力7.26円・・・」
むかついた。利権に群がるダニたちの誤魔化しはもう沢山だ。
電気料金値上げで、自分たちの儲けのツケを国民に払わせようとする東電は許し難いクズの集まりだ。
ちきゅう座から
http://chikyuza.net/n/archives/9640
■「原子力発電のコストは、火力、水力と比べ最も高い!
(電気料金が高くなる)
立命館大学の大島堅一教授がデータを使って説明」
・5月12日のテレビ朝日、モーニングバードは、3・11原子力災害始まって以来の、真実に一歩近づいたかと思える放送をしていた。
いわく、「発電コストは、(水力、火力に比べ)原子力発電が最も高い」。そんなことは、アンチ原子力派で、少しでも原子力を勉強した人にとっては常識!かも知れない。しかし大手マスコミは、今まで一貫して、電気事業連合会が発表してきたあらかじめ一定の計算モデルに従った、発電単価(1Kw当たり)を国民に垂れ流してきた。それによると、1Kw当たり発電単価は、原子力が5.3円、火力が6.3円、水力が11.9円。(2004電事連)
これに対して、立命館大学お大島堅一教授は、これまで原発に払ってきた総コストを発電実績で割り、それに電源開発促進税(1Kw当たり37.5銭=約100円/月:国民負担)等の税金(税金投入が多いのが原子力!)を入れて計算すると、発電単価は原子力が10.68円、火力9.9円、水力7.26円となることをすっきりと視聴者に見せてくれた。これらの数字は、有価証券報告書を元に計算されたもので、これらにさらに、原子力に欠かすことの出来ない再処理費用を入れると、何をかいわんやである。同じく同TVに登場した河野太郎議員によれば、自民党時代も現在も、経産省は一度も発電コスト計算に係る生のバックグラウンドデータを出すことはなく、その部分はいつも「黒塗り」だったそうだ。どこかの会社の原子炉生データ開示せず!と、そっくりではないか。
・こうして、私たち「普通の国民」は、騙され続けてきた。
数年前に筆者が、10人の主婦友達に聞いたところ、原子力に多く投入される電源開発税が、自分たちの電気料金に上乗せされていること、そしてその単価を知っている人物は、残念ながらいなかった。我々も不勉強だったかもしれない。
しかし、そこに、一貫して、政府よりの情報を流し続けてきた大手マスコミの責任はなかっただろうか。今回の報道のように、最近のTV報道には、若干の変化が見られる。その理由は、イ.東電は今後、TVコマーシャルに経費を計上するどころの騒ぎではなくなり、スポンサー価値が下がった。ロ.若い層のみならず、いまや国民の中で合言葉になりつつあるのが、「テレビ、大手新聞は当てにならない」。さらに若い層になると、「TVなんて見ない。ネットしか信用できない」と言う言葉を、身近でよく聞く。TV局もさすがにあせっているだろう。時代の趨勢もあるだろう。しかし、すべての国民が、(被災地で情報源が限られる遅滞も含め)インターネットに堪能で、自分にとって「より真実に近い」と思われる情報を、瞬時に得ることが出来るのだろうか。否である。福島現地の若いお母さん方と話す機会があったが、「ママ友」で日常、ネットをやらない環境の「主婦友」は、若い層でもとても多いそうだ。また、インターネット世代でない層への情報開示も非常に大事だ。
・3番目に、手前味噌かもしれないが、たんぽぽ舎メルマガで以前もお勧めしたように、各TV、新聞社、雑誌社へのFAX作戦は、大変功を奏す。特にTVは、視聴者からの反応にとても弱い。どんどん意見をぶつけよう。FAXをどんどん送ろう。そうして、一人でも、原子力発電の発電コストは安い!などという、誤った呪縛から解放されれば良いではないか。
最後に「コメンテーター」がつぶやいた、「誰のための原子力かって、ことですよね。いかに今まで、考えずに、知らずに、生きてきたか。歴代の推進大臣は土下座して当然と言うことが段々わかってきた」と言う言葉が重く感じられる。
(H)
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コメント
01. 2011年5月16日 06:59:10: FFuNfLHeO2
すべての電力会社は、原発定期検査の被爆者リストと被ばく量データを公開せよ。下請け会社名、給与の状況も。これまでの被ばく訴訟の事件も。電力会社の隠ぺい体質を変えないといけない。
02. 2011年5月16日 07:09:07: wGaSu5Yb0U
この試算には使用済み燃料の再処理、既に2兆数千億が注ぎ込まれたらしいが、その費用はふくまれていないと言う。
しかも数百年に亘る管理費用も今のところ無視。
いったいこれで、どこをつっつけば格安だという結果が出てくるんだ?
03. 2011年5月16日 07:21:36: A4GQ7o9O02
未だ未完成(永遠に完成せえへんわ)の使用済み核燃料処理、7年にの日経記事あっしらさんが投稿されてましたが、経産省の見積もりでは、60年間で45兆円かかるのだとさ(笑)
04. 2011年5月16日 07:26:50: 1O50gULOE2
いらない基地を作る、いらない迎撃ミサイルや、イージス艦を買う。
いらないダムを作る、いらない道路、橋、トンネルをつくる、みんな一緒。
権力者が利権が転がりやすいところに税金を投入させる、ということ。ただそれだけ。
そして、その周りを付和雷同コバンザメたちがおこぼれをもらいに集まる、ということ。
自分自身の子孫のことすら、なーんにも考えない。今日の酒池肉林が大事。
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「阿修羅」より転載。
前から書いているが、私はボランティアというものを好まない。労働には対価があるべきであり、只で他人を働かせて平然としているその神経が私には不愉快だ。
また、対価を払わないから、その仕事がしばしば無責任にもなるし、途中で放棄することも起こる。ボランティアをする人間の善意は私も評価するが、ボランティア(善意の無償労働)を行政が最初から計算のうちに入れるなどというのは、あきれた話である。ボランティアというのは、途中で全員が消えても仕方がないものと思うべきだろう。
まして、ボランティアにうるさい注文をつけたり、「ボランティアは間に合っています」などとアナウンスをしておきながら、ボランティアがいなくなると慌てだすのでは、喜劇、いや茶番劇もいいところだ。
コメント02にあるように、政府がまともな賃金を払って、災害救助と復興の作業員を雇えばいいのである。今の日本で、一番有意義な仕事がそれなのだから、まともな賃金さえもらえれば、やりたい人は多いだろう。現に、コメント02に同意する意見が続いている。もっとも、その政府の払う賃金は国民の税金の負担増になってくるのは避けられないだろうが。
(以下引用)
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ボランティア激減の被災地が悲鳴 (東スポWEB-東京スポーツ新聞社)
http://www.asyura2.com/11/jisin17/msg/326.html
投稿者 七転八起 日時 2011 年 5 月 14 日 23:14:33: FjY83HydhgNT2
http://www.tokyo-sports.co.jp/hamidashi.php?hid=13647
悪夢の大地震発生から2か月、被災地のボランティアは余っているかと思いきや? ゴールデンウイーク前「被災地にボランティアが殺到する」として、受け入れを制限する被災地自治体が多かったが、GW終盤からボランティアが激減。関係者からは「週末だけでも来てほしい」と悲鳴に近い声が上がっている。
震災で大きな被害が出た岩手、宮城、福島各県の災害ボランティアセンターによると、3県では4月29日からの大型連休中、延べ約7万8000人が活動した。ピーク時には1日当たり1万1000人に上ったが、最終日の8日には半分以下の約5000人に急減。
8日以降に減った原因として考えられるのは、休みを利用して駆け付けた社会人や学生が一斉に引き揚げたことが考えられるが、GW中の5日からボランティアは減少傾向にあったという。その理由は、事前に「GW中のボランティアは間に合っています」とメディアで伝えられたことも大きい。しかし、実際は仮設住宅への引っ越し支援など力仕事を中心とした新たな需要が増しており、ボランティアは足りないのだ。
また、震災から約2か月が経過し、個人負担の問題も無視できない。
ボランティア経験者は「被災地に行く前に知人から『迷惑になるからやめろ』と散々言われた。迷惑にならないために食料も宿泊場所も用意してから行きました」と話す。ボランティアはすべて手弁当で準備する必要がある。よほどの覚悟がない限り、個人も団体も継続的な活動をするのは困難だ。
このような状況下で出てきたのが政府が労働者を雇い、被災地で復旧活動をしてもらうという案だ。永田町関係者は「満足な数のボランティアがいることが前提の復興政策に無理が出てきた。政府で労働者を雇い、有志のボランティアがフォローするという形にできないか」と、ボランティア頼みでは行き詰ると指摘する。
一方で、「無償の人と有償の人が混在するのはよくない。個人に給料を出すのではなく、ボランティア団体に資金を出して使ってもらうのがいいのではないか」(自民党関係者)との意見もある。
問題になるのは辻元清美ボランティア担当(51)だ。「GW後に人手が足らなくなることも予測できる。辻元氏には『これまで何をしていたんですか』と聞きたい」(同)。
GW中、辻元氏は被災地を駆け回っていた。ツイッターでは「休み明けの体制作りをボランティアセンターのみなさまと話し合う」とあるが、どんなアイデアが出てくるのか…。
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コメント
01. 2011年5月14日 23:31:34: qqCNcK3o9g
結局、辻本は、何の為に、大臣をやっているのだ!
他人の揚げ足を取るのは得意なんだろうけど、自分で物事を熟していくという事が難しいと悟ったか!サッサと大臣など返上しろ。居るだけ無駄だ。
02. 2011年5月14日 23:45:33: LmUh3QRgh2
>「無償の人と有償の人が混在するのはよくない。個人に給料を出すのではなく、ボランティア団体に資金を出して使ってもらうのがいいのではないか」(自民党関係者)との意見もある。
はとんでもない話。金がどこに行くか判ったものではない。
労働者への直接支給が原則である。これこそが本当の公共事業であろう。失業者救済にもなる。
これまでの公共事業か胡散臭かったのは、わざわざ無駄なことに大金を使い、中抜きで儲けるやつがいて末端には僅かしか回ってこないということ。
宿と飯と往復旅費さえ用意してくれれば給与は安くとも行く人は多いだろう。私もぜひ参加したいと思う。
いくらボランティアといえども余程よゆうがなければ現状の全て自分持ちでは行ける人も限られてくる。
ボランティア頼みはこのくらいにして、国の復興事業としてやるべきである。
03. 2011年5月15日 00:30:03: 8RoyrPShHo
02の言う通り。
04. 2011年5月15日 01:19:18: zg1HQqJF1o
02氏に賛成。
外国の例でも、怪しげなNGOに食い物にされた例があると聞く。直接の被災者でなくても災害の影響で仕事を失った人、休業状態になった人もいる。その人たちの救済にも役立つ。私も参加したいかも。
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原発擁護派の言い分はたいてい決まっていて、「原発が無いと必要な電力が確保できない」「お前たちは自分も電力の恩恵に与っているくせに原発に反対するのは卑怯だ」の2点である。
これは安保問題とまったく同じで「米軍基地が無いと日本の安全が確保できない」「お前たちは米軍基地の恩恵を受けているくせに米軍基地や安保に反対するのは卑怯だ」という論法で攻撃するのである。
どちらも論理破綻していることは、今や自明であると思われるのだが、それでもまだそういう発言や考えをする人間は多い。そして、そういう発言をする人間に共通する特徴は、当の本人たちは原発や米軍基地の存在によるメリットは受けていても、デメリットを受けることのない土地に暮らしていることだ。あるいは、そういう土地に暮らしていても、大きなメリットを受ける人間か、その親類縁者であることだ。つまり原発利権、米軍基地利権関係者である。あるいは、親兄弟がガチガチの右翼思想である人間だ。
まあ、そういう人間は、原発という存在を許容することが全人類に対する犯罪行為であることも、軍隊という存在を維持するために世界中で戦争が「作り出されてきた」ことも理解はできないのだろう。
下記記事は「ネットゲリラ」からの転載である。原発など無くても、いくらでも自然エネルギーは作れるし、原発などよりはるかに安価でもある。自然エネルギーの不安定性などが言われるが、「潮流発電」や「地熱発電」なら安定性は高いし、今では蓄電技術もある。電力会社の陰謀によって自然エネルギー開発が邪魔されてきただけの話である。
下記記事にあるように、原発を廃棄した跡地を自然エネルギー発電所にするのはいい考えである。
ところが、そういう「節約」は金儲けにつながらないから、政府はむしろ金のかかる方法や計画を好むのである。
地震や津波の被害者を収容するのに旅館やホテルを借りるほうが被災者にも旅館やホテルにも有益だのに、仮設住宅建設需要のほうが「金がかかる」から、そちらを選ぶわけだ。大金が動けばそれで儲ける人々がいるということである。その間に数百人の被災者が劣悪な避難生活のために死んでも彼らにはまったく気にならないのだろう。
(以下引用)
浜岡原発の敷地内には、たぶん三機だと思うんだが、巨大な風力発電の風車があって、いつもクルクル回ってます。もともとあのあたりは「遠州の空っ風」と呼ばれるほど風の強い土地で、人があまり住んでないところなので、原発がなくなったら風力発電と太陽光発電の基地にするといい。東海地方は日本でも有数の、日照時間の長い地域なので、太陽光発電にも向いてますね。実際、清水港には中電がソーラー発電の巨大プラントを建設中だし、原発作るのには一基で何千億とかかかるんだろうから、それを思えば、風車や太陽光パネルの値段なんざ知れたもんだ。とりあえず原発があったところというのは、既に送電設備は完備されているし、働く人もいるし、住んでる人は少ないし、次世代発電の基地としてはうってつけです。 -
今日はあまり文章を書く気力が無いので、「阿修羅」記事から今後の日本の在り方について書かれた文章を私の意見の代わりに転載する。下記記事は、ある弁護士の文章のようだが、物事を真面目に謙虚に考える人間なら、たいていはこのように考えるはずだ。
ところが、世間には、「それでも原発は必要だ」という意見の人間が少なくないらしい。
このような、取り返しのつかない大事故、全人類に対する犯罪とも言うべき事故が起こってさえも原発は必要だという人間は、我々とはもはや人種が違うとしか言えない。
自分が快適な暮らしをするためなら、全人類が今後何万年もの放射能被害に遭ってもかまわないという、そういう考えなのだろうか。
「お前たちだって、原発の恩恵に与っているじゃないか」というのは詭弁である。我々は電気の恩恵に与っているのであり、原発の恩恵になど与ってはいない。原発など稼働させなくても今の日本に必要な電力は十分に供給できるというのは、とっくに証明済みだろう。
だが、日本の中の保守思想、あるいは右翼思想というものは、根が深い。そうした人間は(若い人間ほど、なぜか右翼思想にかぶれやすいのだが)原発同様に「日米同盟は絶対に不可欠である」「日本に米軍基地があることは日本のためである」と信じ込んでいる。
もはや、彼らの政治思想は、オウム真理教などと同様に宗教化しているのである。
(以下引用)
基本的に人間は自然の前に無力だ。
近代以前、災害列島に住んできた人々は、そうした思いを連綿と受け継いできたはずだ。
自然に対するそうした謙虚さを踏まえれば、地震国日本にはおよそ原発は不向きなエネルギーであることは自明であろう。
このことは「エネルギー不足」という風評や流言飛語に惑わされなければ誰しも認めるところだろう。
日本では、どのように原子力発電の技術が進歩しようが、常に「想定外」の災害が起こり得る。原発の危険性は除去できない。
地震国だけの問題ではない。
原発の燃えかすである放射性廃棄物は、10万年の単位で管理されなければならない。
現にノルウェーが、10万年の間、放射性廃棄物を保管するために、沖合の島に深さ500mの坑道を掘削して保管場所を作ろうとしている。完成は、2100年だという。
そして、10万年の間、密閉して保管するという。
何万年などという単位は、人知の及ぶ時間ではあり得ない。
人類最初の文明の発祥が紀元前4000年頃とされている。
たかだか人類が文明と呼ぶものを有するようになってから、6000年しか経過していないのだ。
原発の燃えかすは、人類が文明を有するようになってから現在までの時間の十数倍の時間、厳重に保管しなければならない。
そのようなことは、人知を超えている。
原子力発電の技術が容易に原子爆弾に転用可能なことを措いても、このような人知を超えるものに人間は手を出すべきではない。
自然に対して、謙虚でなければならないのと同様に、人知を超える時間を持った原子力に、人は謙虚であるべきだと思う。
僕は、十分な代替エネルギーが開発できるかどうかは、政策次第で容易なことだと考えている。
しかし、もしも、代替エネルギーでは、現在の生活水準を維持する電力が確保できないというのであれば、進んで過剰な部分をそぎ落とすべきである。
無駄と思われる部分はいくらも見つかる筈だ。なぜ便座は便座カバーではなく暖められていなければならいなのか、なぜウォシュレットでなければならないのか、なぜ24時間ずっとテレビが放送されていなければならないのか、なぜ至る所に自動販売機が置かれていなければならないのか、なぜくそ暑い夏も仕事から解放されてはいけないのか…
原子力に手を出さなければ、維持できない生活を確保しようとすることは、人間が身の丈に合わない欲望にとらわれていることを示すのに他ならない。
経済の最低限の目標は、人の衣食住を満たすことだ。
原発がなくとも、すでに経済は、十二分に人の衣食住を満たすレベルに達している。
必要なのは、経済の仕組みを人間の身の丈にあったものに変えていくことなのだろう。
我々は、自然や原子力ではなく、いったい何を恐れる必要があるというのだろうか。 -
「株式日記と経済展望」の引用記事の、そのまた一部を転載。
伊藤貫という人の文章らしいが、主義主張の是非は別として、まったくTORAさんの目配りの広さには感心する。
以下に書かれた内容自体は、私がずっと前から主張している、「世界はまだ帝国主義の段階にある」つまり、国際政治に道義は存在しない、というのと同じことである。「言葉ではなく行動を見る」ことをきちんとやれば、大国の我欲に満ちたあさましい行動は歴然としており、アングロサクソン国家が海賊国家であることなど明らかであるのだが、なまじその「言葉」を聞こうとするからわけがわからなくなるのである。口ではいくらでもきれい事が言えるというのは人間社会のリアリズムであり、口は嘘を言うためのものだと理解したほうが、他人に騙されずにすむ。ところが、実生活ではリアリストを気取っている人間たちが、政治のことになると表マスコミ情報を疑いもせずに信じるのである。「馬鹿に馬鹿を足しても馬鹿だ」とは亀井静香の名言だが、「嘘付きに嘘付きを足したら嘘付き集団になる」のが当然なのである。
なお、下記記事中の「ウィルソニアン・パラダイム」という聞きなれない言葉だが、第一次大戦後に米大統領ウッドロー・ウィルソンが世界平和のために国際連盟(「国際連合」とどっちがどっちなのか、今でも混同する。だから中学高校の社会科は嫌いなのだ)を提唱したことを指すのだろう。一般的に使われている言葉か、筆者独自の造語かは分からない。
(以下引用)
思うに、人類というのは、世界政府とか世界立法院、あるいは世界裁判所とか世界警察軍、そういうものをつくることができない体質なのです。もちろん、いかさまな国際裁判所をありますけれど、「本当の正義」を実現する力など持っていません。ルワンダやセルビアやカンボジアといった弱小国が“見せしめ”としてお仕置きを加えられるだけです。世界の強国であるアメリカやロシアや中国は、けっしてお裁きの場に引きずり出されることはありません。結局、みんなで寄ってたかっていじめてもかまわないような国だけが、国際裁判にかけられるのです。
アメリカのイラク戦争だって、ロシアがグルジアに攻め込んだのだって、国際法違反の侵略戦争ですしかし力の強い大国に対しては、どこの国も処罰できない。米中露イスラエルのように利己的・独善的で軍事力と国際政治力の強い国は、何をやってもいい。これら諸国が侵略戦争をしようが凶悪な戦争犯罪を繰り返して民間人を無差別虐殺しようが、いっさいお咎(とが)めなしです。
「いったん強国が一方的に軍事力を行使すると、どうしようもなくなってしまう」というのが、過去3千年間続いてきた国際政治の現実なのです。残念ながらこの現実は、21世紀になって変わっていないのです。米中露イスラエル等の覇権主義国家は、本音レベルでは、「真の実効力を持つ世界政府や世界裁判所などをつくると、自国の行動の自由を束縛されるからイヤだ」と考えています。それゆえ、「ウィルソニアン・パラダイム」が強調する相互依存とか国際組織とか対話促進と信頼醸成とかいったものに平和を委ねるのは危険だ、というのがリアリスト派の基本的な考え方になっています。
ところが戦後の日本の大学で教えられているのは、ほとんどが「ウィルソニアン・パラダイム」に属する相互依存派や制度派の思考パターンです。なぜかというと、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して(前文)……国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する(第9条)とする日本国憲法を維持する立場からは、そのほうが都合がいいからです。
