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「阿修羅」記事から転載。この記事に書かれていることは、私もまったく同じように感じていたことである。私は、「あの」小林よしのりさえ、最初の頃はオウム真理教に単身で戦いを挑む勇気のある人間だと高く評価していたくらいである。そういう気骨のある人間が、権力からエサを与えられ、急速に権力の犬になっていく様子は、見ていて悲しいものがある。文中にある「転ぶ」という表現はなかなかいい。「転びキリシタン」ならぬ、「転び言論タレント」である。
(以下引用)
そうしてクルマを運転しながら、どうして爆笑問題はこんなになってしまったのだろうと思った。
昔はそれほど嫌いではなかった、むしろ好きだったのに、、、
実は、この爆笑問題のように「最初はいいナ」と思っていたが、あっという間に転んでしまった人というのは他にもいる。
テリー伊藤もその一人である。
私はテリー伊藤が書いた「お笑い大蔵省極秘情報」という本を読んだ時に驚いた。この本に登場する大蔵官僚の、まあなんと傲慢なことか。当時から私は日本は霞が関の官僚による独裁国家だと思っていたが、その中でもトップに位置する大蔵官僚の本音が見事なまでに引き出されている。
これまで、目を皿のようにして新聞を読んでいたとしても、あるいは必死になってテレビやラジオのニュースを聴いていたとしても、大蔵官僚というのがここまで傲慢であることを教えてくれるものはなかった。
この本が出版されたのは1990年代の中ごろだったと思う。当時はまだパソコン通信の時代だったが、私は参加していたフォーラムの会議室(掲示板のようなもの)に、「これが本当のジャーナリズムじゃないかな」と書き込んだことを今でも覚えている。
ところが、テリー伊藤もその後、どんどんおかしな方向へ進み、爆笑問題と並ぶ自民擁護、民主罵倒の急先鋒となった。
さらにもう一人。小林よしのりについても前二者と同様のことを感じるのである。
「週刊SPA!」が「週刊サンケイ」から衣替えをし、小林よしのりのゴーマニズム宣言が連載され始めた当初、私はこの漫画を高く評価して毎週、楽しみにしていた。漫画家の立場から権力の本質を見抜き、最後にゴーマンをかまして落とすというスタイルは新たな権力批判の手法だナとさえ思った。
また、SPA!では不掲載になったという雅子妃結婚の際のゴーマニズム宣言を読んだ時は、これは平成の時代の風流夢譚ではないかと思ったりもした。
ところが、この小林もその後、急速に右傾化していく。
当時、私がこの過程を見ていて思ったのは、小林よしのりはゴーマニズム宣言を比較的軽い気持ちで始めたのではないかということだった。さほど思想的に深いわけでもなく、なんとなく自分の思っていたことをそのまま漫画にしたのではないか、と。ところが、これが意外にもウケた。
一方、この漫画の影響力に危険な匂い、危ない芽を感じた人々がいた。それが、ものすごく大雑把に言うと「権力」だったのではないかと思う。私の想像では、彼らは「これはなんとかしないといけないナ」と考えた。そうして権力に付随するメディアが総力をあげて小林よしのりを取り込んだ。これに対して小林はもともと深い思想があったわけではないので、簡単に取り込まれてしまった、、、というのが私の見方である。
そうして、これはテリー伊藤や爆笑問題にも共通しているのではないかと思う。
もともとマスメディアに属する連中は、権力からすればいかようにでもコントロールできる(現在、メディアに登場する記者連中を見れば一目瞭然)。しかし、時々、そのコントロールの及ばないところから意外に権力の急所を突いてくる人物が出てくることがある。
日本の権力=霞が関というのは、とにかく国民を、そして世の中を自分たちの目の届く範囲の中で思い通りにコントロールすることだけを常に考えている。彼らにとって想定外の出来事が起きることは悪なのである。したがって、自分たちの頭の中で描いているシュミレーションを壊すような危ない芽はとにかく摘んでおく。それだけでなく、自分たちの側に引き込んで、逆にそのキャラクターを最大限利用してコントローラーの一部として利用しようとする。
そうして取り込まれたのが、爆笑問題、テリー伊藤、小林よしのり(他にもたくさんいるが)、、、といった面々なのだと思う。
しかし、権力にとって新たな不確定要素が登場した。それがネットであり、そこで繰り広げられるWeb言論だ。これについては、もはや制御のしようがない。しかもドンドン増殖している。
何もかもコントロールしたい権力にとって、これほど腹立たしいことはないはずだが、とにかくどうしたらいいかわからない。
仕方がないので、現在は自分たちの手の内にあるマスメディアや御用文化人といった国民コントロール装置のボリュームを最大限まで上げて、増殖するWebに対抗しているということなのだと思う。PR -
昔、天安門事件というのがあった。中国政府の「民主化」を求めたデモ隊に警察が発砲し、数人の死者を出して、その後、無数の逮捕者を出したという事件である。
私が驚いたのは、このデモの首謀者のウアル・カイシという学生やその他のリーダーたちが、事件が破局に至る直前に、あっという間にアメリカに亡命したことであった。いくら何でも、こうした大事件の関係者がそんなに簡単にアメリカに渡航できるわけがない。これは、事件の前から亡命準備をしていたとしか考えられない。ということは、この事件は「アメリカが起こした事件」である、というのが私の出した結論であった。ウアル・カイシを脱出させたのはCIAであろう、と推理したわけである。
(以下、ウィキペディアから引用)
その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、中国共産党首脳部の指示によって、人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が天安門広場を中心にした民主化要求をする学生を中心とした民衆に対して投入された。一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で争乱を繰り返す民衆に対して無差別に発砲した[6]他、装甲車で市民を轢き殺すなどして多数の民間人を死傷させた[7]。
この様な無差別な武力鎮圧は数時間に渡り行われ、6月4日未明以降も天安門広場に残った民衆の一部は、最終的に人民解放軍の説得に応じて広場から退去した[8](また、スペインの放送局が撮影した映像によると、学生を含む民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を含む民衆はまだ広場に残っていた)。なお、学生運動の主立ったリーダー達の一部は武力突入前にからくも現場から撤収し、支援者らの手引により海外へ亡命した。
(引用終わり)
その当否はともかく、国際的事件に対して私が常に眉に唾をつけて眺めるようになったのは、多分この事件からである。自分が騒ぎを扇動しておきながら、事件が破局に至るその直前にじぶんたちだけ逃亡するという、この行動の醜さにあきれたということもある。
そういう意味で、私はアウンサンスーチーがビルマ(ミャンマー)民主化闘争の旗手であるとも思っていない。彼女が本当に体制にとって危険な人物なら、これほど長い間、その生命が無事であるはずがない。結局はこれも体制側と裏で手を結んだ八百長芝居にすぎないのである。そして、その背後でシナリオを書いているのが欧米国家である。アウンサンスーチーの背後関係を探ったら、必ず欧米国家との関係が出てくるはずだ。表に出ているだけでも次のように欧米べったりの人物である。
(以下、ウィキペディアから引用)
アウンサンスーチーはビルマの首都だったラングーンに生まれた。
1960年に母親のキンチーがインド大使に着任すると、アウンサンスーチーはデリーで学ぶことになる。1962-63年にはデリー大学レディ・スリラム・カレッジで政治学を学ぶ。1964-67年にはイギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジで哲学、政治学、経済学を学び、学士号を取得する。なお1990年には名誉フェローに選出された。 ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)で研究助手を務めた後、1969-71年にはニューヨークの国際連合事務局行政財政委員会で書記官補となる。
1972年にオックスフォードの後輩でチベット研究者のマイケル・アリスと結婚し、アレキサンダーとキムの2人の息子をもうける。ブータン外務省研究員、オックスフォード大学ボーダリアン図書館の研究員を務める。
(引用終わり)
同様に、チベット問題も欧米国家がシナリオを書いているに決まっている。ダライ・ラマはチベットにすら住んでもいず、国外から反中国を焚きつける扇動的言動をしているだけだ。
(以下ウィキペディアから引用)
CIAとの関係
1998年10月2日、ダライ・ラマ14世側はCIAから170万米ドルにのぼる資金援助を1960年代に受けていたことを認めた。援助資金は、志願兵の訓練や対中華人民共和国戦用のゲリラへの支払に費やされた。またダライ・ラマ14世への助成金は、スイスや米国での事務所設立や国際的なロビー活動にも充てがわれた。長年にわたってチベット独立運動を支援したCIAの秘密工作は、中華人民共和国・ソビエト連邦などの共産圏を弱体化させる目的の一環でもあった[44]。
(引用終わり)
私は別に中国政府やミャンマー政府の肩を持つ気はないが、世界のマスコミは欧米資本の支配下にあるのだ。その欧米マスコミが言うことをすべて信じて、国際的な政治問題を判断することがいかに危険であるかに注意を促したいのである。
実に簡単な判断方法がある。それは、国際的な政治事件が起こったら、まず欧米支配層を疑え、ということである。もっと一般化して言えば、「それで利益を得るのは誰か」という、推理小説の原則を適応せよということだ。
一般に、「民主化闘争」とは、欧米国家にとって都合の悪い国家や政府を転覆させるための工作にすぎないことが多い。特に、それが暴力闘争になってきた場合は、必ずその背後に欧米国家の手がある、というのは中南米の近現代史を見れば常識に近いだろう。
ということで、上に挙げた人物たちの崇拝者たちには済まないが、私は彼らを芝居の役者もっとはっきり言えば、欧米のスパイだとしか思っていないのである。 -
私もその一人だが、政治についての発言や論争をなぜ人は好むのか。
それはおそらく、そうした発言をすることで、自分が大きくなったような気がするからだろう。「自分は、現実生活では無名の庶民だが、実は頭の中では世界のすべてを把握しているのだ」という気持ちのいい妄想に浸ることができるわけである。
そういう誇大妄想を全開させてくれる気持ちのいい場所がインターネットであるわけだ。
しかし、有力ブロガーになると、実際にインターネット上での発言が現実世界の世論に影響を与えることもあるので、これを必ずしも誇大妄想と一言で片付けるわけにもいかない。たとえば自公政権の転落に「きっこの日記」その他のブログが果たした役割はけっして小さなものではない。体制側も「工作員」やマスコミを動員して応戦に努めたわけだが、あえなく敗れ、ここに日本で初めての「無血革命」が成功したわけである。
つまり、「現実を動かすのは言葉である」ということだ。
無名の庶民の床屋政談でも、多くの人の賛同を集めれば、政治そのものを動かす力になっていく。現代は、そういう面白い時代である。 -
年少の無邪気なプロレスファンには、夢を壊して悪いが、プロレスが「筋書きのある戦い」であることは周知の事実である。ほとんどのプロレスファンは、それを承知した上でプロレスという「ショー」を楽しむのだが、中にはプロレスを本当の勝負だと思い込んでいるファンもいる。あれほど体を鍛えた連中が本気で戦ったら、毎試合、死人・重傷者続出になるだろう。
以上は前置き。
国際政治というものもいわばプロレスのようなものではないか。各国首脳の間では問題のほとんどは了解済みだのに、表面上はすったもんだしているように見せかけて、それをマスコミ報道させることで自分たちに都合のいいように世論を導いていくわけである。
北朝鮮という国は、プロレスで言う「ヒール(悪役レスラー)」のようなものである。ヒールがいるからこそプロレスが成り立つように、政治の世界にもヒールがいるから軍隊の存在が必要だと世間は思ってくれるわけである。
案外とキム・ジョンイルとオバマ(以前ならブッシュ)は仲良しではないか、という想像もできるわけだ。(このあたりは、北朝鮮が日本海にミサイルを打ち込んだ時の中村正三郎氏のブログ記事にヒントを得ている。)そして、必要な時には北朝鮮に頼んで事件を起こしてもらえば、一辺でアジアの緊張は高まり、軍備不要論や安保不要論は消し飛ぶわけである。
そのためにこそ北朝鮮という国の存続が許されているのであり、その気になれば、あの程度の国は簡単に消滅させることもできるだろう。朝鮮戦争でアメリカが苦戦したのは、言うまでもなく北朝鮮の背後にいたソ連や中国のためである。今では、ソ連も中国も資本主義国家の仲間である。
というわけで、たとえ韓国政府が自国の戦艦の沈没は北朝鮮の攻撃によるものだと声明を発表しても、私はまったく信じていないのである。「韓国・北朝鮮・アメリカ」の三者合同のお芝居が始まったな、としか思っていない。もちろん、以上はただの憶測であり、何の根拠も無いが、「真珠湾攻撃」や「トンキン湾事件」や「9.11事件」などの国際政治の謀略の歴史から見れば、そうであっても不思議ではない。 -
昨日の来訪者数は過去最高の数字であった。連日、高値を更新している株式みたいでびっくりだ。多分、これは南堂氏のブログで取り上げてもらったせいかと思うので、南堂氏には感謝の言葉を捧げたい。まあ、向こうは、迷惑だと言うかもしれないが。
しかし、そのように過去最高の人数が来てくれた時の記事が「バーバレラ」というお色気映画の話だとは、いかにも私らしい間抜けさである。あれを書いた時には、そんなに多くの人が来るとは思ってもいなかったのだ。あれで、私をただのスケベ親父だと思った人間も多いだろう。それは否定はしないが、「バーバレラ」が素晴らしい映画であることも確かなので、ぜひ機会があれば見てもらいたい。
ロジェ・バディムという監督は実にセンスのいい監督で、名前は忘れたが、彼がロック・ハドソンを使ってアメリカで撮ったハイスクールが舞台の映画なども実に面白かった。まるで大島弓子の「つぐみの森」を喜劇的スリラーにしたみたいで、しかもエロチシズムも詩情もある。日本での題名があまりに通俗なのでまったくヒットしなかった映画だが、これも見る機会があれば、ぜひ見たほうがよい。彼の映画は洒落っ気が生命なので、その軽快さのために実力を過小評価されていると思う。ユーモア感覚がありすぎるのも考え物である。(今、インターネットで調べたら、ロック・ハドソンを使った映画は「課外授業」であった。共演はアンジー・デイッキンソン。たしか、原題は「行列作った可愛い子ちゃんたち」くらいの意味で、それが映画の謎と実は関係があるのだが、「課外授業」ではそれが伝わらない。もっとも、この原題もうろ覚えの記憶である。) -
沖縄の基地問題について論じる場合には、これまでの経過・歴史を知る必要があるかと思うので、沖縄の基地問題に興味のある人のために、簡単なダイジェストをしておく。典拠は「沖縄の素顔」(新崎盛暉編 テクノ社)。編者の新崎盛暉氏は沖縄大学教授である。要約文の文責は徽宗皇帝にある。
① 日米両政府は、基地を安定的に維持し、民衆の基地反対運動を抑えるために、一貫して、沖縄社会が基地に依存せざるをえなくなるような政策をとってきた。
② 戦争直後、米軍基地に土地を奪われた農民は、基地で働かざるをえなくなり、基地関連企業、米軍関連企業も生まれてきて、県民所得の約3分の1が基地関連収入で占められる状況が作り出された。
③ ベトナム内戦への介入に失敗したアメリカは、基地維持の高いコストに悩みはじめ、米軍支配への民衆の反抗もあって、沖縄の(単独)支配権を放棄し、日本政府の協力の下に沖縄基地を維持する政策に転換する。(徽宗注:これが「祖国復帰」の内実である。)
④ 沖縄返還後、日本政府は、軍用地の使用料を大幅に引き上げ、基地交付金や基地周辺整備事業費という名目の迷惑料を地方自治体にばらまき、日米地位協定上はアメリカが負担すべき基地労働者の人件費を肩代わりしてその待遇改善を図るなどの基地維持政策をとってきた。その結果が、現在の沖縄の公共事業依存体質、中央政府依存体質である。
⑤ 沖縄返還後の経済規模拡大や観光産業の発展によって、軍用地料、基地労働者の賃金、基地交付金、米軍人軍属の消費といった基地関連収入の割合は県民所得の5~6%、観光収入の2分の1以下となっている。
というわけで、米軍基地が出ていっても、県民所得は5~6%しか下がらない、ということだが、いや、それでも大きいし、現在、それで生活している人間はどうなるのだ、という声もあるだろう。もちろん、基地が出ていった場合の基地労働者や軍用地地主に対するアフターケアは必要だが、基地撤去で沖縄経済が崩壊するということにはならないだろう。こんな島国で基地以外に何の産業がある、というのも知恵の無い話であり、それなら、沖縄と同程度の島はすべて貧困にあえぐことになる。
たとえば、現在の医療崩壊の日本なら、沖縄を医療先進県にし、老後を沖縄で過ごすための設備を大規模に作っていけば、それも一つの産業になりうるはずである。あるいは沖縄独自の亜熱帯農産物を主とする農業改革によっても経済は発展するはずだ。普天間基地の跡地に大遊園地を作って世界中から観光客を呼ぶのもいい。最初から駄目だと考えていては何も始まらない。あと10年もたてば、あの頃は基地が無ければ生活できないと考えていたのが笑い話になるかもしれないのである。フィリピンはクラーク基地、スービック基地を撤去して、その後は大発展しているという話である。
少なくとも、基地が無くなれば、アメリカの戦争のために沖縄から飛行機が飛び立ち、無辜の民を大量殺害しているという「加害者への加担」という良心の痛みからは救われることになる。
まあ、そんな良心など子供の寝言だとおっしゃるなら、それもよいだろう。それは人それぞれである。米軍によるイラクの子供たち、アフガニスタンの子供たちの殺害に対して、何も感じないという人間でも、この社会では人間と見なされてはいるようだから。 -
週の始まりから呑気な話を書くのも何だが、先ほど、映画「バーバレラ」のDVDを見て、それがとても面白かったので紹介する。
ただし、私はこれを青少年の頃に見て、あまり面白く感じなかった、というか、理解できなかったのだ。というのは、(今わかったのだが)、これは「ジェーン・フォンダを楽しむ映画」だったからである。私は若い頃には性というものに罪悪感や不潔感を感じていたので、エロチシズムというものの味がまったく理解できなかったのである。ジェーン・フォンダの裸が出てくる度に目を逸らしていたのだから、この映画が理解できるわけがない。何しろ、この映画からジェーン・フォンダの裸を除いたら何も残らない(もちろん、これは誇張表現)くらいの映画なのだから。
特に、一番最初に出てくる「宇宙服ストリップ」は大傑作である。私は、女性の裸が美しいとはあまり思っていないし、ストリップなど面白いとも何とも思っていなかったが、このジェーン・フォンダのストリップは、美しいし、楽しいし、ジェーン・フォンダは可愛い。なるほど、実生活での恋人でもあった監督のロジェ・ヴァディムが多くの人に見せたいと思ったわけである。ついでながら、「エイリアン」でも女性飛行士のストリップ(?)があったが、案外とあれは「バーバレラ」へのオマージュだったのではないか。
話全体は、「武器というものが存在しなくなった宇宙世界で、武器を作った男を、バーバレラが追って逮捕しようとする」というもので、「平和的ナンセンスSF喜劇」とでもカテゴライズすべき物だが、今見ても十分に面白い映画である。というより、戦争や争いが世界を支配している「古代」の今だからこそ面白いのかもしれない。
明るいエロチシズムというものが全体の土台になっているので、子供と見るというわけにはいかないが、「大人」にとっては楽しく、面白い映画であることは保証する。女性が見ても、案外気に入るのではないだろうか。ジョン・フィリップ・ローは本当に天使みたいだし、中学生が革命軍司令官をやっているみたいなデビッド・ヘミングスは可愛いから。もちろん、女性がジェーン・フォンダの美しい裸を鑑賞して喉を鳴らしてもいいわけだ。 -
「泉の波立ち」の記事に対する私の意見に、「泉の波立ち」管理人の南堂氏からの反論があったので、興味のある方はそちらを御覧になっていただきたい。南堂氏は経済学者だったと思うが、基地が沖縄にあることによる利益のみを見て、基地があることによる機会損失の不利益を見ていないと私は考える。つまり、基地が無ければ自然に発展していたはずの経済が、発展できなかったということだ。(こう言うと、「自然な経済発展など無い」と言われそうだが)
もちろん、米軍基地があることで戦後の沖縄には膨大な金が投下されてきた。そのために、戦前の「芋と裸足」の沖縄から、やっと全国平均の7割程度まで所得は向上したが、しかし、補助金行政をあてにしているために沖縄経済が自立できないということは明らかである。このままではいつまでたっても日本の中の貧乏県から脱出はできないのである。
軍用地代も補助金も、南堂氏流に言えば、いわば「天から落ちてくる金」であったのだ。そしてそれをあてにして生きるのは、それこそ乞食根性というものだろう。本土の人間が言う以前に、沖縄の人間自体がそう思っているのである。だから、補助金も軍用地代もいらないから、基地を撤去してくれ、と言っているのである。それで沖縄の人口が3万人程度になれば、それも結構である。私も沖縄の人口は多すぎると思っているのだから。
私のこの無名ブログでの発言に、当の本人からの反応があったことに驚いている。沖縄県民といっても、利害関係によって思想も発言も使うデータも、その解釈も異なるので、私の意見はその一つだと考えてほしい。とりあえず私は「左翼」という扱いでもいいが、できれば「左翼」と言うよりは「現状改革派」とでも言ってもらいたい。まあ、南堂氏を右翼「的」だと言ったのはこちらが先だが。
私の立場は簡単であり、日本国内に米軍基地があることは、現在では日本という国にとって利益にはなっていないというものである。ならば、沖縄にそれが存在するのも不利益のほうが大きいだろう。もちろん、目の前の金が欲しいという一部の人間にとっては利益だが。 -
「内田樹の研究室」より、転載。
「英語帝国主義」という概念は、まだ日本人一般には浸透していないが、要するに、英語が世界公用語化することによって、非英語圏民族・非英語圏国家は政治・文化の階層の下層部分に自動的に組み込まれるということである。これは「目に見えない」差別構造であるだけに、一層厄介な問題なのである。あらゆる英語教師は、そういう差別構造の形成に奉仕しているとも言える。もちろん、英語自体が悪いわけではないのだが、この問題を意識しない限り、非英語圏民族は国際的に不利を蒙る状態が続いていくのである。
この問題への一つの解決案が、以下に書かれた考えである。これ以外にも、「エスペラント」を用いるという方法もあり、そちらの方が、英語にくらべて習得は格段に易しいと言われている。「プア・イングリッシュ」あるいは「プレイン・イングリッシュ」「ピジン・イングリッシュ」などと並行してエスペラントを世界公用語にしていくのが、私はベストだと考えている。
(以下引用)
2010.05.12
リンガ・フランカのすすめ
大学院のゼミで、シェークスピアの受容史について論じているときに(いったい何のゼミなんだろう)通訳翻訳コースの院生から、私の論の中にあった「言語戦略」という概念についての質問を受ける。
言語は政治的につよい意味を持っている。
母語が国際共通語である話者は、マイナー語話者(たとえば日本語話者)に対してグローバルな競争において圧倒的なアドバンテージを享受できる。
なにしろ世界中どこでも母語でビジネスができ、母語で国際学会で発表ができ、母語で書かれたテクストは(潜在的には)十億を超える読者を擁しているのである。
自国のローカルルールを「これがグローバル・スタンダードだ」と強弁しても、有効な反論に出会わない(反論された場合でも、相手の英語の発音を訂正して話の腰を折る権利を留保できる)。
だから、自国語を国際共通語に登録することは、国家にとって死活的な戦略的課題である。
ご案内のとおり、20世紀末に、インターネット上の共通語の地位を獲得したことによって、英語は競合的なヨーロッパ言語(フランス語、ドイツ語、ロシア語)を退けて、事実上唯一の国際共通語となった。
世界中どこでもグローバルな競争に参加するためには英語を習得することが義務化している。
そして、その「グローバルな競争」なるものは「英語を母語とする人々」がすでにアドバンテージを握っている「構造的にアンフェアな競争」なのである。
一言語集団にこれほどまでの競争上のアドバンテージが与えられたことは、人類史上おそらくはじめてのことである。
ことの良否はわきに置いて、まずそのことを事実として認めよう。
多くの人はリアリストであるので、「では英語を勉強せねば」と考える。
そして、英語学習に励むことになるのであるが、その場合にマイナー言語を母語とする英語学習者に示される学習方法は、ほとんど例外なしに「オーラル・コミュニケーション」を中心にしたものとなる。
「会話はいいから、まず文法と講読を」ということを言う英語教育者はきわめて少数である。
誰もが「まず発音」と言う。
なるほど。
だが、このような学習法の提案がもっぱら英語を母語とする人々から提言されていることを見落とすべきではない。
なぜ、彼らは「オーラル重視」ということ「ばかり」言うのか。
彼らは英語が国際共通語になり、多くの人が英語を解することからもちろん利益を得ている。
なにしろ、世界中どこに行ってもIs there anyone who can speak English? と問えばだいたいの用事は済むのである。この問いに誰も答える人がいなければ、肩をすくめて「野蛮人の国に来ちまったぜ」とひとりごとをいえば気持は片付く(用事は片付かないけど)。
けれども、英語が国際共通語になり、自在に英語を使う人間がある程度以上の人数を超えた時点で「英語を母語とする国民」が現在享受しているアドバンテージは失われる。
当然である。
それが国際共通語になった国語のかかえる「背理」である。
自国語が国際共通語であることは自国民に多くの利益をもたらす。
けれども、国際共通性があまりに高まると、その利益は失われる。
国際共通語には「損益分岐点」が存在する。
それは「こちらの言うことは向こうに通じるが、向こうが耳障りなことを言い出したらこちらには通じなくなる」程度の英語力である。
それが非英語圏の人々がとどめおかれるべき理想的な英語力レベルなのである。
外交交渉でも、ビジネスシーンでも、国際学会でも、英語話者がしゃべる話はその場の全員が理解できて当然であるのだが、非英語圏の人間が話すことについては英語話者は「まるで幼児の話を聴いているような見下し目線」をとることが許され、「何を言っているのかわからない」といってリジェクトする権利が留保されている、そのような非対称的な言語状況においてはじめて自国語が国際共通語になったことによって得られる利益は「最大化」する。
だから、私がいまアメリカ国務省の小役人で、言語を戦略的に考えるポストにあれば、「非英語圏の人間には、オーラル中心の語学教育法を勧奨すべし」というレポートを長官に提出するはずである。
なぜオーラル・コミュニケーション中心の学習法が言語の非対称性を維持する上で有利であるかについてはこれまでに何度も書いた。
植民地ではオーラル中心の語学教育を行い、読み書きには副次的な重要性しか与えない。
これは伝統的な帝国主義の言語戦略である。
理由は明らかで、うっかり子どもたちに宗主国の言語の文法規則や古典の鑑賞や、修辞法を教えてしまうと、知的資質にめぐまれた子どもたちは、いずれ植民地支配者たちがむずかしくて理解できない書物を読むようになり、彼らが読んだこともない古典の教養を披歴するようになるからである。
植民地人を便利に使役するためには宗主国の言語が理解できなくては困る。
けれども、宗主国民を知的に凌駕する人間が出てきてはもっと困る。
「文法を教えない。古典を読ませない」というのが、その要請が導く実践的結論である。
教えるのは、「会話」だけ、トピックは「現代の世俗のできごと」だけ。
それが「植民地からの収奪を最大化するための言語教育戦略」の基本である。
「会話」に限定されている限り、母語話者は好きなときに相手の話を遮って「ちちち」と指を揺らし、発音の誤りを訂正し、相手の「知的劣位」を思い知らせることができる。
「現代の世俗のできごと」にトピックを限定している限り(政治経済のような「浮世の話」や、流行の音楽や映画やスポーツやテレビ番組について語っている限り)、植民地人がどれほどトリヴィアルな知識を披歴しようと、宗主国の人間は知的威圧感を感じることがない。
しかし、どれほどたどたどしくても、自分たちが(名前を知っているだけで)読んだこともない自国の古典を原語で読み、それについてコメントできる外国人の出現にはつよい不快感を覚える。
日本の語学教育が明治以来読み書き中心であったのは、「欧米にキャッチアップ」するという国家的要請があったからである。
戦後、オーラル中心に変わったのは、「戦勝国アメリカに対して構造的に劣位にあること」が敗戦国民に求められたからである。
私はそれが「悪い」と言っているのではない。
言語はそのようにすぐれて戦略的なものである。
英語圏の国が覇権国家である限り、彼らが英語を母語とすることのアドバンテージを最大化する工夫をするのは当然のことである。
非英語圏に生まれた人間は「それだけ」ですでに大きなハンディを背負っているような「仕組み」を作り上げる。
これを非とする権利は私たちにはない。
日本だって70年前には東アジアの全域で、「日本語話者であることのアドバンテージが最大化する仕組み」を作ろうとして、現に局所的には作り上げたからである。
けれども、ハンディキャップを負う側にいる以上、「どうやって英語話者の不当に大きなアドバンテージを切り崩すか」ということを実践的課題として思量するくらいのことはしてもよいと思う。
私からのご提案はとりあえず一つだけ。
それは、びっくりされる方もおられると思うが、「英語」という包括的な名称の廃絶である。
かわりに暫定的に「lingua franca」という言語カテゴリーを作る。
かつてヨーロッパにおいてはラテン語がそうであった。
知識人たちはローカルな国語を生活言語として持つ一方で、ラテン語で著述し、書簡を取り交わした。
私はこの「リンガ・フランカ」はフェアな仕組みだったと思う。
というのは、ラテン語については「ラテン語を母語とする国民」というものが存在しなかったからである。
知的競争に勝つチャンスは、とりあえずヨーロッパの言語圏においては平等に分配されていた。
この状況を21世紀のリンガ・フランカについても適用すべきではないかと私は思う。
では、「英語」ではないところの「国際共通語(リンガ・フランカ)」とは何か。
福岡伸一先生がこんなエピソードを紹介していた。
アメリカで分子生物学の学会があった。
福岡先生がその開会セレモニーに参加したとき、学会長の挨拶があった。
学会長はドイツ人の学者であった。
彼はこう言ったそうである。
「この学会の公用語はEnglish ではありません」
会場はどよめいた。ではいったい何語で学会は行われるのであろうか・・・
学会長はこう続けた。
「この学会の公用語はPoor Englishです」
私はこの構えを支持するものである。
Poor English はシェークスピアやポウを読むための言語ではない。
それは「英語を母語としない人々同士が意思疎通を果たす」という目的だけに限定されたリンガ・フランカである。
Poor Englishをオーラル・コミュニケーションの場で用いる際のいくつかの規則をここで定めておきたい。
(1) 決して話者の発音を訂正してはならない
(2) 決して話者の文法的間違いを訂正してはならない
「発音の間違い」や「文法的な間違い」が指摘できるということは、「正しい発音」や「正しい文法的表現」が「正解」として知られているということである。正解がわかっているからこそ、それが「誤り」であるとして訂正可能となるのである。
正解がわかっているということは、話者が「何を言いたいのか」はすでに知られているということであり、それはPoor English においては十分なコミュニケーションが成立しているとみなされる。
(3) ただし、自分より話すのが下手な人の「言いたいこと」をより適切な文に「言い換え」て対話を継続することは許される。
(4) Poor Englishは学校教育のどの段階から開始しても構わないが、教師は「英語を母語としないもの」とする。
とりあえず、私が思いついたルールは以上の4点である。
非英語圏の英語教育は「リンガ・フランカ教育」と「英語教育」に二分すべきだと思う。
この二つは別のものでなければならない。
日本の英語教育が失敗しているのは、この二つを混同しているせいである。
「リンガ・フランカ」では日常的コミュニケーションでもっとも使用頻度の高い語から教える。
「英語」でははやい段階から英米文学の古典を教える。
「リンガ・フランカ」では身ぶり手ぶりもピジンもすべて正規の表現手段として認められる。
「英語」では、古典を適切な日本語に翻訳すること、修辞的に破綻のない英文を作ることを教育目標に掲げる。
中学なら時間割の時間配分は5:1くらいでよろしいであろう(もちろんリンガ・フランカが5)。高校になったら3:1くらいにして、大学ではできたら2:1くらいまでに持ってゆく。
これは「英語がほぼ独占的な国際共通語になった」という歴史的状況に対処するための、たぶんいちばんプラクティカルなソリューションであると私は思う。
小学生程度の英語を流暢に話す技能を「英語ができる」と評価することに私は反対である。それは「リンガ・フランカがよくできる」という項目で評価し、「英語ができる」という言い回しは「仮定法過去完了」とか「現在分詞構文」とかがぱきぱきと説明でき、He is an oyster of a man というようなセンテンスを嬉々として作文に使う子どものために取っておきたいと思うのである。
どうであろうか。
難波江さんの意見聞きたいんですけど、どうでしょうね。
uchida : 2010年05月12日 18:57 | パーマリンク
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「阿修羅」のある記事へのコメントの一つから、転載。前に書いた「思考素」の一つとして有益。元の記事には誤字がいくらかあったので、一部訂正してある。
(私はマスコミは大嫌いだが、この記事に出てくる「マスゴミ」のような言い方、つまり「レッテル貼り」は嫌いである。相手を「アカ」と呼べば、それだけで思考停止してしまう思考回路がレッテル貼りにはつきものであり、我々自身、そうならないように気をつけるべきだと思う。「レッテル貼り」については、そのうち論じてみたい。)
(以下引用。一部修正)
アンヌ・モレリという人が「戦争プロパガンダ、10の法則」という本を書いている。
マスゴミの論調とネツトの論調を冷静に比較するために、
1、「我々は戦争をしたくない」
2、「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」
3、「敵の指導者は悪魔のような人間だ」
4、「我々は領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」
5、「我々も誤まって犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為に及んでいる」
6、「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」
7、「我々の受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」
8、「芸術家も知識人も正義の戦いを支持している。」
9、「我々の大儀は神聖なものである」
10、「この正義に疑問を投げかけるものは裏切り者である」
いろいろと語句を置き換えてみるとお楽しみ、ご参考に。
