"メモ日記トゥディ"カテゴリーの記事一覧
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私は、年齢的にはまだ老人というほどではないが、肉体労働などはほとんど不可能である。つまりは、身体障害者と同じである。器具の世話にならずに日常の行動はできるが、1キロも歩くことはできないだろう。そういう現状を考えると、私の肉体の耐用年数は、長くてあと5年程度かと思われる。もしかしたら、2、3年のうちに器具無しでは歩行不可能になるかもしれない。耳や目などの感覚器官も同様で、こちらはあと7、8年くらいかと思う。頭脳はもう少し長く持ちそうで、あと10年くらいは大丈夫かな、と期待している。もちろん、記憶力は低下しているが、判断力はむしろ若い頃よりずっといい。それに、もちろん、長く生きてきた分の知識や世間智はある。
さて、こうして自分自身の棚卸をして、全体としてあと何年ほどの耐用年数があるかと考えると、まあ、5年くらい。長くて7,8年だろう。つまり、目や耳などの感覚器官がダメになった時点で、私という人間の使用価値はなくなると思われる。頭さえしっかりしていれば、使用できるという考えもあるが、そういう職場など、どこにも存在しないだろう。つまり、この社会では、肉体的な使用期限が、その人間の使用期限なのである。
そうすると、金を稼ぐ能力が無いのに、生きていかねばならないということになるのだが、もちろん、これまで私が政府に納めてきた年金は、老齢年金の形で返却して貰うにしても、私が支払った分に相当する金額は、せいぜい10年分にしかならないだろう。それ以上を受け取るのは、受取超過である。
となると、年金受給から10年経った時点で、私は自決するのが、社会的正義にかなっていると考えられる。もちろん、年金を支払って、受給しないままに若死にした人間の分があるから、長生き老人の分はそれで相殺されるとも考えられるが、私としては、それもインチキめいていて嫌である。それに、体も利かず、頭もぼけた状態になってまで生きていたくない。
ということで、年金受給後、10年経っても私が生きている場合、私は自殺するつもりだが、問題は、現在の社会は、自殺することに対して批判する声が多すぎることである。私は、寝たきりになって、いちいち他人の介護を受けて生きるよりは、ぜひ自殺したいのだが、世間は自殺に対して厳しい目を向ける。それが自分に対してだけなら(どうせ死んでいるのだから)いいが、残された家族に向けられる冷たい目が予測できるのである。
そこで、私が考えたのが、この「自決宣言」である。私が自殺するのは、私自身の人生哲学・社会哲学の結論によるものであり、家族とはまったく無関係であることを、私はここに宣言しておく。このことで、私の家族を批判したり、悪口を言ったりすることは許さない。(とは言っても、その時には私は死んでいるのだが。)
私は、老衰した状態で「生かされ続ける」ことが嫌なのである。しかし、その頃になると、頭がぼけていて、私は意思表示ができなくなっているかもしれない。そこで、あらかじめこの「自決宣言」をしておくわけだ。つまり、これは尊厳死を求める「リヴィング・ウィル」なのである。
こうしてブログに載せておけば、後で私の死について、面倒な議論は起こらないだろうと期待している。もちろん、自分で死ぬよりも誰かに殺してもらう方が楽であるが、国家はわざわざぼけ老人を殺すほどの親切心は無いだろう。本当は、そういう「老人処理センター」を国家が作ってはどうか、と提案したいのだが、いつまでも長生きしたいという老人たちが、自分たちへの厭味だと受け取って大騒ぎになる可能性もあるから、「老人処理センター」の話は、今はしないことにする。もうしてしまったが。
念のために言うが、私が自殺するのはまだ先の話である。まあ、あと5年から10年先を考えている。
2010 9.11(同時テロ記念日に)PR -
沖縄は、今年の夏は西日本で一番涼しかったのではないだろうか。夏の沖縄の日差しが熱い(暑いの誤記ではない。まさしく、熱いのだ)のは当然だが、日陰に入ると、案外と涼しいのである。というのは、沖縄は小さな島だから、風が熱い空気をすぐに吹き流してくれるからである。
そして、九月に入った今では、早くも秋の気配が漂っている。朝起きたら、ほのかな寒さを感じるほどだ。もちろん、日が昇れば暑くなってくるだろうが、それでも空気が秋の空気になってきている。
今年の夏は猛暑だとかいうニュースが連日のように流されていたが、それは都市部のことである。つまり、地面を完全にコンクリートとアスファルトで覆ってホットプレート状にしてしまったことの結果であり、いわば自業自得的なものではないか。しかも、ほとんどの家やオフィスはクーラーを使い、その排気を屋外にどんどん出しているのだから、家の外が地獄の熱さになるのも当然の話である。そうした中で、クーラーを持たない貧窮家庭の人間が熱中症で死んでいくわけである。現在、都会に住む人間にとってクーラーはけっして贅沢品ではないだろう。だが、生活保護を受けている人間などがクーラーを買ったりすると、生活保護を打ち切られたりするのではないか?
都会の人間は、都会の地面の一部を土に戻し、屋上を緑化し、壁面に蔓性の植物を這わせるか、ゴーヤーかヘチマで「緑のカーテン」を作るなどして、都会をもっと自然な住環境に変えていくことを考えてはどうだろうか。もちろん、高層化された住宅が立ち並んでいては、それにも限度があるだろうが、それなら都会への人口の一極集中をやめる工夫をするべきだろう。今の時代、都会に人口を集中する意味などほとんど無いはずである。ただ、東京に文化と権力を集中しておきたい一部の人間のエゴ以外には。 -
「私の闇の奥」というブログから転載。記事の書き手、藤永茂氏はたしか、理系の大学教授だった人で、現在、アフリカにおけるアングロサクソン支配の問題を中心に注目すべき記事を多く書いている。オバマの欺瞞性については、彼が大統領職に就いた直後から警告を発しており、世界政治への深い知識と見識のある人物の一人である。権力の飼い犬であるマスコミ知識人とはまったく異なる良心的知識人の代表と言ってよい。長い文章なので、その一部だけを紹介する。
日本の状況、世界の状況に対し、鋭敏な良心の持ち主ほど無力感や絶望感に襲われることが多いようである。私は、「汝の手に堪ゆることは是を為せ」(聖書の箴言より)というモットーで生きており、他人の評判とか評価、他人の愛情、他人の行動はすべて自分の努力ではどうにもなるものではないと思っているから、それらを気にすることもほとんどない。もう一つ、「行蔵は我にあり。褒貶は他人のこと」という勝海舟の言葉も私の生活信条の一つである。それが、この世の不如意や不条理から精神を守る秘訣でもある。これを言いかえれば、大昔のアニメ漫画「ポパイ」で、彼が口癖として言っていた「俺は俺さ」ということだ。原文では「私は私が在るところのものである」という言葉だが、それは、他人のことをあんまり気にしすぎるな、ということである。建設的な批判が実を結ぶかどうかは「他人のこと」であり、我々はそれに関与できない。しかし、批判はそれだけでも世界を良くする役に立つのである。
藤永氏も、(あるいは、彼に似た性格の人々も)もう少し気楽にしたらどうだろう。この世は悪に満ちているが、それと同時に様々な善にも満ちているのだから。
(以下引用。記事前文後文省略)
人間そのものに対して決定的な失望を私に与えたのはイスラエルの行動でした。今の若い人々には想像もつかないでしょうが、ナチ・ホロコーストは私の世代の人間にとって大変な事件でありました。人間の残忍性、一つの人間集団がもう一つの人間集団に加えうる言語に絶する残虐の抹消されえぬ証拠であり、その認識にもとづいて、その悪を徹底的に糾弾し、その悪からきっぱりと手を切るという選択以外に人類が進む道はないと、私たちは思ったのです。それは平和主義の考えなどというよりも、もっと実存的な個人的心情のレベルで痛感したことでありました。ところがどうでしょう。シオニズムを信じる人々は、ユダヤ人が受難したホロコースト、あるいは、ショアーは全くユニークなものであり、ユダヤ人以外の人間集団に対してイスラエルがショアーに類似の苦難を与えてもかまわないという立場をとって何ら恥じる所がありません。このことは、パレスチナ人には、イスラエル建国の直後から分かっていたことだったのでしょうが、「アンネの家」などの仕掛けに騙され続けていた愚昧な私がそれにはっきり気がついたのは、この10年ほどのことに過ぎません。残りの持ち時間が少なくなった私がすっかり落胆し、腹立たしい思いに苛まれる最大の理由の一つは此処にあります。
しかし、人間の残忍性について腹の立つことは他にもあります。それは日本人一般の、罪を犯したと思われる人々に対する残忍さです。テレビのニュースでは、犯罪の容疑者のことを伝える場合、ほとんど例外なく、容疑者の男性を「おとこ」、女性は「おんな」と呼びます。私の耳には、これはひどい差別語に響いて仕方がありません。容疑者はあくまで容疑者であるのですから、えん罪の可能性もあります。ただ普通に「その男性」、「その女性」と呼んだらいいではありませんか。腹立て爺として、ついでに申し上げますと、この頃流行のいやな言葉使いに従えば、“呼んであげたらいいではありませんか。” このやにさがった言葉使いが内包する “思いやり”の欺瞞性に私は身震いすることがあります。近頃、もう死んでしまった親が生きているかのように装って、長寿の祝い金や年金を貰い続けるという罪を犯した人々がしきりとニュースになりました。詐欺は詐欺ですから処罰されるべきですが、あれほど大ニュースとして取り上げる必要があったでしょうか。こういう、こそ泥的な罪人たちがマスコミで嗜虐的にいじめられる一方で、大掛かりな公金泥棒は野放しです。 -
家のパソコンが不調で、インターネットとの接続ができず、昨日は記事が書けなかった。サイバー時代の根本的危険性は、我々の依存しているこの情報網のシステム的脆弱さにある。仮に私が銀行口座から何から、すべてオンライン化されたシステムのみに依存していた場合、何かの事故でそのラインが切れた場合は私は生存の基盤を失うわけである。今は不要不急の情報網だけがオンライン化されているだけだからまだいいが、生活手段のすべてをオンライン化するのはあまりに危険だろう。すべて一元化(一元管理)は大きな危険を伴っているのである。
私の女房は、紙の新聞を取るのをやめようと前から言っているが、インターネットの持つそうした脆弱さを考えると、情報へのアクセス手段として、まだまだ新聞という原始的メディアには存続価値がありそうである。まあ、家を管理する女房からすれば、毎日毎日、紙のゴミが出るという不満はあるだろうし、新聞記事の内容自体、マスゴミと言われるとおり、確かにゴミみたいなものが多いのだが。 -
以前の記事の訂正。興南我喜屋監督のかつての2回連続初戦敗退というのは間違いで、そのうち1回は2戦目での敗退だったようだ。その時はたしか、まったく打てない4番打者をずっと4番に置き続けて、チャンスをことごとく潰すという無様な試合ぶりだった。なにしろ、バットがまともにボールに当たらない打者が打線の真ん中にいるのだから、相手にとってはやりやすかっただろう。
今回の4番、真栄平選手も今大会は不調だったが、それでも時々はタイムリーヒットも打っていたし、彼以外の打者が打ちまくっていたから無事に済んだが、接戦では4番打者が打てるかどうかは試合の分かれ目になっただろう。確かに、4番打者は打つだけではなく、相手投手にプレッシャーを与える威圧感が必要だという我喜屋監督の持論には一理あるが、短期決戦の高校野球では、不調の選手を打線の中心に置いたままにするというのは、やはり間違っていると思う。結果によってすべてを正当化するのではなく、反省すべき点は反省し、これからも進化した野球を我々に見せてほしいものである。もちろん、真栄平選手の潜在能力の高さは誰よりも私は買っているのである。しかし、高校野球は先発メンバー、ベンチ入りメンバーだけの戦いではなく、3箇年野球を続け、ベンチ入りもできなかった選手たちをも代表しての戦いなのである。最善を尽くして戦うのが、ベンチ入りできなかった選手たちへの義務だろう。
たしか私は興南高校が選抜大会で優勝したときも、まだまだ改善の余地はあると書いた記憶がある。それを見事に改善し、「高校野球の一つ上を行っている」と言わしめた興南野球だが、沖縄の他の高校の野球指導者はそれに恐れをなすことなく、興南野球打倒を目指して工夫努力してもらいたい。それによって沖縄の高校野球自体を「別次元の野球」と言わせるくらいに県全体の野球が進化してほしいと思う。 -
グレッグ・マダックスと言えば、抜群の制球力で300勝を達成した大投手だが、彼の投球フォームには大きな特徴がある。それは、投球を開始してから片足が完全に上がるまで捕手を見ないで、足元しか見ていないということだ。普通は、制球力をつけるには捕手から目を離すな、と教える指導者が多いと思うが、彼はそのまったく反対でありながら、最高の制球力を身につけている。ただし、片足が完全に上がり、体重が軸足に乗ってからは、ボールが手を離れ、フォロースルーが終わるまで、彼の視線は捕手から一瞬も離れない。ここが多くの平凡な投手との違いである。制球力の悪い投手は、投げるその瞬間に、やはり捕手から目が離れているはずだ。さらに言えば、マダックスの目は、捕手ではなく、自分の投げるポイントに焦点を当てているように見える。つまり「あの辺」という漠然としたエリアではなく、「あの点」に向けられており、そのポイントと自分の肩を結ぶラインにボールを流しこむというイメージで投げているような感じだ。この「投球ライン」という考えはある野球教本で読んだのだが、マダックスの投球分解写真は、まさしくその実例のように思える。
人間の集中力は、時間が短いほど効果が高い。マダックスが投球の最初の段階でわざと下を向いているのは、捕手をずっと見ている時間をできるだけ短くすることで、集中力を高める工夫だろう。わずか数秒の間でも、その間に集中と弛緩があり、それをコントロールできる人間とコントロールできない人間との間に大きな開きが生まれるのがスポーツである。
興南の我喜屋監督が選手に教えた「反応打撃」、つまり、投球の予測をせず、来た球に即座に反応する打撃も、極端に短い時間の中での集中力を高めることで大きな効果を得たものだろう。 -
祝、興南高校ということで、「迷スカウトニュース」から転載。この「迷スカウトニュース」は、将来プロ野球選手になれそうなアマチュア選手をワッチングするブログで、その管理人の蔵建て男氏の選手鑑定眼はプロのスカウトも参考にするほどのものだという。
(以下引用)
2010年の夏の甲子園も、今日が決勝戦。結果は、13-1で興南高校が、春・夏連覇を達成し、春の雪辱から立ち直った東海大相模を破りました。選抜帰りの興南高校を、春季九州大会で生観戦。島袋投手をほとんど登板させることなく、九州大会を制した姿を見て、このチーム本当に強いんだなと強く実感致しました。
特に私が観戦した樟南(鹿児島)戦では、左腕から140キロ台の速球を投げ込む戸田 隆矢(2年)左腕と言う、ちょっと簡単には高校生では攻略できそうもない本格左腕(来年の間違いなくドラフト候補です)を、簡単に打ち崩す姿を目の当たりにして、このチームは「島袋がいなくても、どんだけ強いだよ!」と、驚かされました。普段、大学・社会人の試合を中心に観ているので、高校野球を観ても高校生に驚かされることは少ないですが、この興南はひと味も二味も他の高校とは違いました。果たして興南より強い学校が全国に他にあるのか?これが、私の選抜以降の一つの観戦のテーマでした。しかしそういったチームは他にはないことがわかり、妙に今は納得させられているところです。選抜以後、ほぼ完全に島袋をオーバーフォールさせ夏に備えさせた我喜屋優監督。夏の予選だけをみて、連投=酷使と言う浅はかなものの見方をする人間をあざ笑うが如く見事な手腕を示しました。連投・酷使と言われる中でも、この夏最速となるMAX147キロの速球を投げ込み完投した決勝戦こそが、すべてを物語っている気が致します。ビバ 興南高校! -
興南高校が春夏連覇を達成した。今大会での島袋投手は、いい頃の彼に比べると制球力が今一つで、そのために安打を打たれることも多かったが、要所を締める投球はさすがで、打線もよく彼の失点をカバーした。まず、理想的な高校野球のチームと言っていいだろう。そういうチームを作り上げた我喜屋監督や興南関係者を称賛したい。春の段階ではやや運に恵まれた優勝という印象もあったが、この夏の試合ぶりは、堂々たる横綱相撲だった。特に準決勝の報徳戦は、5対0の劣勢を逆転しての勝利であり、興南の底力と精神力の強さを印象づけた。これまでの沖縄の選手は、優勢なときは強いが、劣勢になるとそれを跳ね返す気力に乏しかったが、今回の興南の試合は、沖縄の県民性の中の頼りない部分が良いほうに変わってきたという感じである。
春に一度全国の頂点に立ち、ある意味では目標を失っただろう興南野球部が、夏までモチベーションを維持し、他チームの挑戦をすべて跳ね返して再度頂点に立ったという、この偉業は、どんなに褒めても褒め足りない。興南高校野球部、万歳! -
ブログなどというものは他人のために書くものではないはずだが、長く続けていると、他人の期待なるものを勝手に想像して、それに合わせて記事を考えるという傾向がでてくるようだ。このブログも最初は好き勝手なことを書いていたのに、最近は政治経済面の話に固定されてきたので、今後はもう少し話題を自由に広げたいと思う。まあ、今は政治的話題が乏しいということもあるが。もちろん、そういう時期こそ、水面下では政治的な策謀が活発に動いている可能性はあるが、素人には知りようもないことだ。
野球の話。興南高校が甲子園でベスト4まで勝ち進んだ。島袋投手は、圧倒的な力で相手をねじふせるというタイプではないので、プロ野球のスカウトの評価はあまり高くないのではないかと思うが、高校野球の投手としては(もしかしたらプロ野球でも)理想的である。というのは、打たれても、試合の途中で軌道修正をする能力があるため、大崩れはしない投手であり、そのため「負けにくい投手」であるからだ。もちろん、これは捕手の山川選手の力でもある。山川捕手はリード面が素晴らしい。他の選手もそれぞれ自分のポジションで力を出し切っており、個々の調子の良い悪いはあっても、どこかで誰かが力を発揮して、その結果がベスト4となったわけだ。後は、打球の速さでは高校最高レベルと思われる4番の真栄平選手の調子が上がってくれば、全国制覇、春夏2連覇も夢ではない。もちろん、疲労のたまっている島袋を2番手3番手投手が助けることも条件だ。
興南の我喜屋監督は、かつて甲子園で2回連続初戦敗退という無様な試合をし、監督としての能力を疑われたが、選手を育てる能力は高いようだ。甲子園での試合運びにも慣れてきたのか、試合采配も安心して見ていられるようになった。かつての失敗が、選手にも監督にもいい経験となったのだろう。このように失敗を自己向上のための経験にできるというのは、素晴らしいことだ。そう考えると、外部の人間が、他者の失敗について、近視眼的な考えであれこれ言うべきではないということが言えそうである。 -
ここのところ日常茶飯事の記事ばかりで、読む意欲の起こらない内容の多かった「きっこの日記」だが、8月15日(日)の記事は久々に読み応えがあった。
「警察による言論弾圧事件」というタイトルで、内容はいわゆる新興俳句弾圧事件の話で、そういう事件があったということを知っている人は多いだろうが、その詳しい内容は知らないはずだ。その詳しい内容を実にわかりやすく読みやすい文章で書いている。やはり、きっこ氏の文才はたいしたものである。元特高の奥野誠亮(のちに自民党に入り、大臣にまでなった)の悪辣さ、卑怯さなど、読んでいて「こういう奴こそリンチにかけろ!」と叫びたくなるほどだ。こうした「犯罪者」が政治家として出世する日本という国は、いったいどういう国なのだろう。また、そうした人物を選挙で選び続けた地元の人間はどういう人間たちなのだろう。
まあ、現在でも、かの「殺人・レイプ」疑惑の小泉やその息子を選挙で選んでいるところもあるし、わが沖縄だって、先の参議院選挙で自民党を勝たせて全国的に非難を浴びてはいるのだが。
さて、特高の悪虐さについては何となく知ってはいるが、それは過去の話だろう、と思うと、それがそうでもないのは「高知白バイ事件」などがよく示している。つまり、官僚組織というものは内部の利益を最優先するものであり、その意識がしばしば国民の人権を無視した行為につながるのである。したがって、それを規制するなんらかの制度が必要になるのである。たとえば、警察の取り調べは常に弁護士の立会のもとで行うなどの方法が考えられる。
