植物工場が、作れば作るほど赤字だというんだが、なんか、妙に流行ったよね。柿田川にもあるんだが、どうしても値段が高くなるので、真冬以外は価格競争力がないです。なんでレタスか、というと、製品になるまでが早いから。山葵を植物工場で作れないか? という話もあるんだが、2年もかかるので採算が合いませんw 2年分の電気代、水だって、他の作物と違って、常時垂れ流しにしなきゃならない。水温も、一年中14度に保たなきゃならない。どう考えても勘定が合わないw作れば作るほど赤字...福島・植物工場で悲鳴 電気代が大きな負担、稼働率50% つうか、普通の農家はビニールハウスとか温室作って、自然光で水耕栽培やってます。電気代使って採算が合うわけがないw バカでも3秒考えれば結論の出る話だ。 |
"経済・政治・社会"カテゴリーの記事一覧
-
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
-
私は、かなり前から、未来の農業はそのほとんどが「屋内農業」になるべきだ、と書いているから、「植物工場が、作れば作るほど赤字だ」という話は聞き捨てにはできない。とは言っても、私の言う屋内農業と現今の植物工場は別物なのだが。
そもそも、
「つうか、普通の農家はビニールハウスとか温室作って、自然光で水耕栽培やってます。電気代使って採算が合うわけがないw バカでも3秒考えれば結論の出る話だ。」
であり、「天然の太陽ならタダ」であるのに、なぜ高い電気代を使う形態の「植物工場」にするのか。根本がおかしいのである。
私の言う「屋内農業」の利点は、何より「密閉空間」で農作物を作り、農作業をすることで、病害虫の被害を防ぎ、農作業を効率化する、ということにあり、その意味では植物工場の「安心・安全な農作物を提供できる」という部分と共通している。問題は、ひとえに「馬鹿高い電気をなぜ使うのか」という点にあるのである。
ビニールハウスのような、すぐに風に吹き飛ばされる脆弱なものではなく、大企業本社のビルのような堅牢な構築物を作り、その外壁は透明なアクリル樹脂にでもすれば、自然光をタダで使った農業工場になる。そこには害虫は入れないから農薬は不要だ。土壌は収穫ごとに入れ替えればいい。つまり、区画ごとに入れ替え可能な設計にすればいい。収穫後の作物の不要部分(茎や枝や根など)は、堆肥にすればいい。完全リサイクル農業である。
これに太陽光発電と海水淡水化設備などを付属させれば、水不足などにも対応できる。土地そのものも、高層化によって「増やせる」のである。
むしろ、海岸にこそ、この種の「農業工場」が作られるのがいいかもしれない。陸上は居住地のみに使えば、狭い国土の有効利用ができる。
私は、日本の農業の未来をそう夢想している。
(以下引用)天然の太陽ならタダ
PR -
「カマヤンの燻る日記」旧記事だが、これは凄い論考だと思う。
今の日本も「上と下」、あるいは「身内と外」が厳然と区別され、そのそれぞれに対する規範がまったく違い、上や身内に対しては法すらが適用されず、下や外に対しては「上による法の恣意的使用」が行われているのは確実だろう。そこで、今、「憲法」を対立軸として政府と国民一般との間に大きな闘争が起こりかかっているのだが、これは日本国民がやっと「近代的市民」に近づきつつあることを示していると思う。
この時にあたって、下の考察をできるだけ多くの人の目に触れさせ、日本という国の根本的欠陥がどこにあるのかを認識してもらうのは大きな意義があると思う。
先に、私が特に強い印象を受けた部分を赤字で引用しておく。もちろん、この論考の文章全体が重要な記述に満ちているのだが。
十五年戦争は軍官僚らの私的関係を優先し、日本全体を破壊した戦争
冒頭に述べた如く、天皇制国家は神政政治体制だ[10]。権力は公式には神に由来する。天皇からの距離が階級である以上、階級が上位であるほど神に近いことになる[11]。職業軍人たちは神々の末端だ。徴集兵は、神性を持たないという意味で人間であり、神々への供物だった。徴集兵らが「涙ぐましいほど忠実に仕え」たのは、半神たちに仕えていたからだ[12]。これを「忠孝」と当時は呼称した。神に拠らず、人間が人間を統治するのが近代国家だ。戦中日本は神が統治した。
日本の開国と「近代化」は、そもそも欧米に対し体面を整えるためのものだった。近代化の本質である「法の遵守」も体裁にすぎない。
法を参照点にしない悪癖は、日露戦争にすでに萌芽がある。
十五年戦争は日露戦争への無反省が招いた。
そして、十五年戦争への無反省、および社会全体の「法の軽視」は、安倍一派による憲法破壊の企図の成功と海外派兵を招き、再び日本に戦争の惨禍をもたらし、日本を破壊し尽くすだろう。
法の遵守こそが近代化の本質である、という指摘は重い。国民の人権は、国民全体の「法の遵守」(特に、「上」に法を守らせること)によってのみ守られるのである。
(なお、文中の「大義名文」は「大義名分」の誤記だろう。私もよくやるミスである。些細なことだが、こうした「重要文書」には、一点の誤記も誤字もあってほしくないから、指摘しておく。)
(以下引用)2005-02-27
■[現代史][思惟]レポート;『インパール兵隊戦記』に見る、日本の「二重規範」の問題


〔以下は、2002年12月に書いたレポート。「情実主義」について。〕
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1039180795/2-22
このレポートでは、黒岩正幸『インパール兵隊戦記 「歩けない兵は死すべし」』(光文社NF文庫、1999年)*1をもとに、日本軍と日本政治の「二重規範」について考えたい。
1;二重規範
「法のもとの平等」は、近代国家の前提の一つだ。だが、戦前の日本、特に十五年戦争期の日本には、この前提が欠け、法治国家として壊れていた、と、私は考える。結果、その身分によって適用される法が異なる、という前近代性が、かなりあからさまに現れた。このレポートではそれを「二重規範」と呼ぶ。「二重規範」という語は社会科学系でしばしば用いられるが、「二重規範」を俗な言葉に砕くと、「二枚舌」「不正直」ということになると、私は理解する。
「法のもとの平等」が壊れる萌芽は、天皇制自体にあったと言える。皇道派の理解した天皇制は神政政治体制だ。1930年以降の日本は、神政政治体制になったと私は考える。法源が天皇の権威に求められ、法執行者の正当性が天皇との距離に求められる体制は、「身内」と「身内以外」を差別する二重規範の温床となる[1]。軍官僚らから見ると、「神」により近いのが「身内」、「神」からより遠いのが「身内以外」だ。「身内以外」という意味で、敵も下級兵士も、軍官僚から見ると、同じだ。
「二重規範」は、公式には士官未満への自決命令と士官以上への担架輸送待遇を、非公式には「軍隊は泥棒の養成所」の精神を生む[2]。
古参兵士から下級兵士への暴力による制裁が加えられたとき、「軍隊では真実を語ってはならない不文律があった」と黒岩は書いている[3]。不正直であれ、と、軍隊は兵士に教えているのだ。
〔注釈〕
[1] たとえば丸山真男は終戦直後に「超国家主義の論理と心理」で日本の神政政治的側面を指摘している。丸山真男「超国家主義の論理と心理」『増補版 現代政治の思想と行動』(未来社、1998年)21頁。「遵法というものはもっぱら下のものへの要請である。」*2
[2] 黒岩正幸『インパール兵隊戦記「歩けない兵は死すべし」』(光文社NF文庫、1999年)184頁。
[3] 同前、64頁。
2;インパール作戦について
インパール作戦の全体像は掴みにくい。「統帥権」が国政から切り離された後の昭和史は、断片の集合という様相を示し、なかなかその全体を見通すのが困難だ。合理性を喪失した歴史だからだろう。十五年戦争史自体断片の集合であり、インパール作戦はその典型だと感じる。以下、自分なりに理解したインパール作戦の性格を述べる。
インパール作戦は、決行する必要のなかった作戦だ。軍官僚たちの人間関係(情実)を過度に重視した情緒主義が、戦略的合理性を欠いたこの作戦の実施に至った。インパール作戦の悲劇は、作戦が不成功であることが客観的に明確になったあと、牟田口司令官がそれを認めず作戦が中止されなかったことで凄絶なものとなった[4]。「戦闘で敵に殺された戦死者よりもはるかに多くの将兵が、飢えと病気と味方の弾で死んでいったのである。[5]」
十五年戦争は軍官僚らの私的関係を優先し、日本全体を破壊した戦争だと理解するが、インパール作戦はその典型だと言える。
[4] 「インパール作戦 賭の失敗」戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁二郎『失敗の本質』(中公文庫、1991年)171頁。 *3
[5] 黒岩 前掲書、9頁。
3;『インパール兵隊戦記 「歩けない兵は死すべし」』について(以下、『戦記』と略す)
黒岩は、「下っ端の兵士」として、この回顧録を書いた。
「下っ端の悲しみは、生きているときも死ぬときも、同じ下っ端の兵士でなければ分からない」からだ[6]。
この回顧録は戦後39年を経て発表された。アラカンの桜のエピソードを軸につづっている。書かれている個々の事柄は事実だろうが、実際に書いたものと書くのをためらったものとの葛藤を私は文章から感じる。
「純情」という言葉が『戦記』には三回登場する[7]。現在において「純情」という語はあまり用いられないし、必ずしも現在は美徳とはされない。黒岩は軍隊の残酷な二重規範に「純情」を対峙させている。「純情」という語で示そうとした心情は人権と公正を求める正当な人道意識だ。
黒岩は「輜重兵は軍馬を食わない」と記述している[8]。情の移った「身内」は特別扱いするのが当然だ、とする考えだ。情としてこれは自然だが、この論理は軍隊の二重規範をある面で下支えしてしまう。もちろん自然な情を否定するべきではなく、法という参照点で公正な裁定がなされないこと、審判の不在に問題があるのだが。
『戦記』の1944年七月二十七日の記述はやや幻想的だ。この日に人肉食をした兵士の記述がある。また七月三十一日には「人間である限りノドを通らないものがあるはずである」「わが中隊ではないが、野獣化した兵士が」「新しい死体の腰からももの肉を切りとって」などの記述がある。黒岩は否定しているが、これは黒岩が実際に見聞した第三中隊内部の人肉食事件を示しているのではないかと私は思う[9]。前述の軍馬の記述は、人肉食を非難する意図が強いのだろうと私は思う。中隊内での人肉食を語ることを避けるため、黒岩はアラカンの桜のエピソードを中心につづるという手法を選択したのではないかと私は想像する。
[6] 同前、10頁。
[7] 同前、21頁、30頁、72頁。
[8] 同前、167頁。
[9] 同前、189頁、281頁。
4;二重規範の背景
「二重規範」が何によって生まれるのか、二つの側面から考えたい。一つは「神政政治という理屈」の側面、もう一つは「二重規範」を許すに至った経緯・歴史的側面から。
4-1;「神政政治という理屈」
冒頭に述べた如く、天皇制国家は神政政治体制だ[10]。権力は公式には神に由来する。天皇からの距離が階級である以上、階級が上位であるほど神に近いことになる[11]。職業軍人たちは神々の末端だ。徴集兵は、神性を持たないという意味で人間であり、神々への供物だった。徴集兵らが「涙ぐましいほど忠実に仕え」たのは、半神たちに仕えていたからだ[12]。これを「忠孝」と当時は呼称した。神に拠らず、人間が人間を統治するのが近代国家だ。戦中日本は神が統治した。
上級兵は下級兵を、ビンタで/理不尽な暴力で、教育した。これは以下の効果がある。
・理不尽な暴力を被ると、自身の価値感覚を低減させ、人命への価値意識を低減させる[13]。
・理不尽な暴力は、道理への感覚を磨耗させる。理不尽な暴力は、被害者の内面でしばしば自責感自罰感に合理化され、時には一層の献身(マゾヒズム的な献身)を喚起することがある[14]。
[10] 前掲「超国家主義の論理と心理」『増補版 現代政治の思想と行動』15頁。「天皇の神性が否定されるその日まで、日本には信仰の自由はそもそも存立の基盤がなかったのである。」
[11] 同前、23頁。「上から下への支配の根拠が天皇からの距離に比例する。」
[12] 黒岩、前掲、40頁。
[13] エーリッヒ・フロム 鈴木重吉・訳 『悪について』(紀伊国屋書店、2001年)。とくに「死を愛することと生を愛すること」*4
[14] 理不尽な暴力の被害者が、加害者を肯定する心的動きについては、児童性虐待などの研究で散見する。
4-2;経緯・歴史的側面
私は以下のように日本近現代史を理解する。
日本の開国と「近代化」は、そもそも欧米に対し体面を整えるためのものだった。近代化の本質である「法の遵守」も体裁にすぎない。法を参照点にする、という意識を内面化させるには遥かに時間がかかった。法を参照点にしない悪癖は、日露戦争にすでに萌芽がある。明治天皇及び伊藤博文との約束を破って、陸奥宗光と桂太郎が日露戦争をはじめたのは、前例として挙げていいと思う。
十五年戦争は日露戦争への無反省が招いた。
十五年戦争は、石原莞爾が法的手続きを無視して独断で満州事変を起こし、政府がそれを追認してしまったことに起因する。軍人永田鉄山が待ったをかけたにも関わらず、若槻首相と幤原外相が追認した。永田は日本の文民統制を守ろうとしたのに、政府がそれを自ら棄ててしまった。
これが範型となり、蘆溝橋事件の戦線拡大を近衛首相が追認し、軍部は政府のコントロールから離れた。これらはいずれも手続きの正当性を逸脱した行動だ。大義名文のない、戦争目的のない、軍官僚たちが私利私欲ではじめた戦争だ。モラルハザードを招き、戦争の基本的性格が、追認と二重規範となった。
若槻と幤原は、なぜ満州事変を追認したのか? 1931年には、三月事件十月事件と、軍によるテロという圧力があった。テロという国家反逆行為に対して、政府は適切に懲罰しなかった。日本政府は暴力に易々と屈した。天皇制国家は実にたやすく、法に則らない暴力による体制へ転落した。
5;二重規範の招くもの
軍紀は、日本では、体裁を整えるためだけのものだ。その不合理さが表れた究極形が自決命令だ。
自決強要・自殺命令は、「戦陣訓」と、事務上の処理の都合による[15]。優先順位の甚だしい錯誤だ。体裁を整えるためだけに自国民を殺し続けた軍隊は、兵士に仲間を殺させた。仲間を殺させることで共犯意識を強要した。自国民を殺しつづけた軍官僚たちの責任は曖昧化され、一方個々の兵士…多くは徴集兵…には「仲間殺し」の共犯者意識で沈黙させる。このメカニズムは、児童性的虐待の加害者が被害者である児童に共犯意識を植え付けることで沈黙させるのと同じだ[16]。
「身内」「身内以外」の区別は、天皇という権威の源泉を中心に、恣意的に拡大縮小される。その、境界線の操作は、戦後の十五年戦争を語る言説を混乱させる[17]。言説を不毛化させ、責任を不明瞭化させるために、境界線は恣意的に操作される。戦場では『戦記』にあるように、上層の職業軍人と下層の徴集兵は区別されたが、戦争責任論議では、しばしばこの区別など存在しなかったかのように語られ、下級兵士を二重に苦しめる[18]。
[15] 黒岩、前掲、206頁。
[16] たとえば ロバート・K・レスラー 河合洋一郎・訳 『FBI心理分析官/異常殺人者ファイル(上)』 など。児童性的虐待では「子供は大人に従うべきだ」という通念を利用し、加害者は性搾取をし、被害者に沈黙を強要する。被害児童は罪悪感を抱え、沈黙する。*5
[17] 「日本人」の境界線の歴史的変遷については、たとえば 小熊英二『〈日本人〉の境界― 沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮植民地支配から復帰運動まで』(新曜社、1998年)など。
[18] 小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、2002年)などを見ると、この二重の苦しみを与える言説は、吉本隆明による丸山真男批判がはじまりのようだ。この手の上層下層の区別を不明瞭化する言説は、吉本の意図とは別に、いわゆる保守言説に流用され、戦争責任問題を曖昧化するための言説として利用され一般化してしまったように思う。*6
6;二重規範をどう超えるか
6-1;「自由」と「忠誠」の分岐点
「下級兵士にビンタが雨あられと飛んでくるのは後方のことで、前線では少なかった。後方では無抵抗ででくの坊だった兵隊が、前線では実弾をこめた銃を持っているから、上官もうかつには殴れなかった」と、黒岩は書いている[19]。これは面白い示唆を与えている。
近代は銃によって生まれた。武芸を積んだ騎士も農民の銃砲によって死ぬ。これが欧州の「自由」思想を下支えした。一方、日本では豊臣秀吉の刀狩以降、武装反抗の手段が民衆から奪われた。日本では「忠孝」というマゾヒズムが推奨され培われた。「自由」と「忠孝」の分岐点は、ここにある[20] 。
6-2;優先順位の混乱
十五年戦争期の日本政治には、「優先順位」の錯誤・混乱が常にあると思う。戦争も政治行為の一つであり、軍部も行政の一つだ。この「優先順位」の錯誤・混乱は、現在まで続く宿痾だ。兵站を無視した作戦、目的の不明な戦争、これらは「優先順位の混乱」によるものだ。その「混乱」は、「身内」「身内以外」の二重規範とその境界操作で、言説としてはしばしば不毛化され、的確に客体視した言葉が、広く浸透したものになっているかどうか疑問だ。
6-3;政策提言の試み
日本史学は政策提言を目的とした学問ではないかもしれないが、それでも過去からの反省を現代政治へ生かすための提言を試みるのは悪くないと思う。それを以下試みる。
「近代」の範型となったキリスト教社会には、聖書解釈の強靭な伝統がある。条文と条文の間の矛盾をどう優先順位をつけて解釈するかの伝統がある。それは瑣末な事柄を延々議論する伝統でもあるが、その蓄積は重要だ。中世キリスト教社会では教会による「司法権」が絶大だった。日本にはこの伝統は、ない。近代政治に不可欠な審判が、日本政治には欠けている。それが「統帥権」の暴走を許すことにもなった。解釈には、その知的背景となる原則が必要だと私は思う。それを欠くと解釈は「事情変更の原則」により、追認の言説へ転落する。
現在の日本の憲法論議も同じだ。条文間が対立したときどういう原則であたるべきか、日本ではまずそれを明言化しておく必要があるように思う。憲法を判定する基準として、現在の日本ならば
A;国家は国民に危害を加えない。
B;国家は国民(主権)の命令に従う。
C;国家は国家自体を守る。
このような原則を立てて明言化し、判定基準とするべきだと考える。この三原則はSF作家アシモフのロボット三原則の変奏だが、同時にこれは工業製品に求めらる「安全性」「利便性」「耐久性」の原則を表している。近代国家は人工物だ。この三原則は、政治では「基本的人権」「国民主権」「防衛・福祉」に相当すると思う。
政教分離原則のない戦中の日本の招いた悲劇から、私たちは何かを学ぶべきだろうと思う。
[19] 黒岩、前掲、216頁。
[20] だが、各自武装と武装解除のどちらが望ましいかは、難問だ。
-
「阿修羅」から転載。
私が前々から言っていることを英国フィナンシャルタイムズ記者が言っているのだから、私の経済観というか、経済勘もなかなかたいしたものではないか。まあ、ギリシャはデフォルトによって得しかしないというのは当然の話である。借金踏み倒しで損をするのは貸した側、得をするのは借りた側に決まっている。(笑)借金踏み倒しをすれば村八分にするぞ、と言われても、その村にいることで借金はどんどん積み上がっていくのだから、村八分大いに結構、ではないか。
グレグジットという聞き慣れない言葉が出てくるが、おそらくギリシャのEUからの離脱ということだろう。GREXIT、つまり「GREEKのEXIT」から作った言葉だと思う。ネットで調べるより、推測した方が早いし面白いから、そう推測しておく。
「これら2つのシナリオを比べていたら、酩酊状態は醜さとは異なり、徐々に消え去る性質だと言ったウィンストン・チャーチルの言葉を思い出した。1つ目のシナリオはとにかく醜く、常に醜悪であり続ける。2つ目のシナリオは二日酔いをもたらすが、その後は必ず素面になる。」
は、このままだと面白みが感じられないのではないか。
これはチャーチルの有名な逸話で、チャーチルが二日酔い状態で議会答弁をした時、それを野党の婦人議員に厳しく咎められて、
「私の二日酔いは明日になれば醒めるが、あなたの醜さはそうはいかない。そちらの方が問題でしょう」
とか言って大騒ぎになったという出来事である。フェミニストが「男性至上主義者の豚め!」と怒りそうな話だが、咄嗟にこういう言葉が出てくるチャーチルの頭の回転の良さには感心する。
安倍一派の答弁や野次とはだいぶレベルが違うのではないか。
(以下引用)
決断迫られるギリシャ、失うものは何もない 債権団の提案を拒否し、デフォルトした方が得策(Financial Times)
http://www.asyura2.com/15/hasan97/msg/711.html投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 6 月 16 日 01:03:05: igsppGRN/E9PQ 
ギリシャの首都アテネの議会に掲げられたギリシャ国旗〔AFPBB News〕
決断迫られるギリシャ、失うものは何もない 債権団の提案を拒否し、デフォルトした方が得策
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44039
2015.6.16 Financial Times JBpress(2015年6月15日付 英フィナンシャル・タイムズ紙)
さあ、ついにこの局面が訪れた。ギリシャのアレクシス・チプラス首相が提案を受け入れるか否かの二者択一を迫られた。首相はどうすべきなのか。
チプラス氏は2019年1月まで選挙に直面せずに済む。今どんな行動方針を決めるにせよ、その方針は向こう3年以内に実を結ばなければならない。
■提案受諾は二重の自殺
最初に、2つの極端なシナリオを対比しておこう。債権者の最終提案を受け入れるか、あるいはユーロ圏から去るか、だ。提案を受け入れることで、チプラス氏は6カ月以内に国内総生産(GDP)比1.7%に相当する財政再建に同意しなければならない。
筆者の同僚のマーティン・サンドゥブは、そのような規模の財政再建がいかにギリシャの成長率に影響を与えるか試算した。筆者は債権者が要求している通り、丸4年間の財政再建策を盛り込むよう、この試算の範囲を広げてみた。
双方向のプロセスである財政政策とGDPの相互作用に関してサンドゥブが立てたものと同じ前提に基づくと、4年間の累計でGDPの水準に12.6%の打撃が及ぶという数字が出た。ギリシャの対GDP債務比率は200%に近づき始める。
筆者の結論は、トロイカのプログラムの受諾は二重の自殺に相当するというものだ。ギリシャ経済にとって、そしてギリシャ首相の政治的キャリアにとっての自殺である。
では、正反対のシナリオである「Grexit(グレグジット)」は、それよりましな結果を生むだろうか。もちろん、そうなる。それには3つの理由がある。
■グレグジットの方が好ましい3つの理由
グレグジットの最も重要な効果は、ギリシャが馬鹿げた財政再建を放棄できることだ。ギリシャはそれでも小幅なプライマリーバランス(利払い前の基礎的財政収支)の黒字を出す必要があり、それには一度限りの調整が必要になるかもしれないが、それだけだ。
ギリシャはすべての公的債権者――国際通貨基金(IMF)、欧州中央銀行(ECB)、欧州安定メカニズム(ESM)、欧州債権国からの2国間融資――に対してデフォルト(債務不履行)することになる。だが、数年後に市場に対するアクセスを取り戻すという戦略的な目的を持ち、民間ローンの元利払いはすべて継続する。
2つ目の理由は、リスクの低減だ。グレグジットの後は、誰も通貨変更のリスクを心配する必要がなくなる。また、ギリシャはすでに公的債権者に対してデフォルトしており、民間投資家の信頼を取り戻すことに懸命になっていることから、全面的なデフォルトの可能性は大幅に低下している。
3つ目の理由は、経済の対外ポジションに対するインパクトだ。
欧州北部の小さな経済国と異なり、ギリシャは比較的閉ざされた経済国だ。GDPの約4分の3は国内での生産だ。
残りの4分の1のうち、大半は通貨切り下げで恩恵を受ける観光業から来る。
通貨切り下げの総合的な効果は、アイルランドのような開かれた経済で行われた場合の効果には遠く及ばないものの、有益であることに変わりはない。3つの効果のうち、短期的に最も重要なのは最初の効果だが、長期的には2番目、3番目の効果が大きい。
グレグジットには、もちろん、落とし穴がある。主に、非常に短期的な観点での落とし穴だ。新通貨を突然導入すれば、大混乱する。政府は資本規制を導入し、国境を閉鎖せざるを得ないかもしれない。そうした1年目の損失は大きなものになるが、混乱が収まった後、経済は急速に回復するだろう。
■酔っ払いはいずれ素面になるが・・・
これら2つのシナリオを比べていたら、酩酊状態は醜さとは異なり、徐々に消え去る性質だと言ったウィンストン・チャーチルの言葉を思い出した。1つ目のシナリオはとにかく醜く、常に醜悪であり続ける。2つ目のシナリオは二日酔いをもたらすが、その後は必ず素面になる。
だから、もしこれが選択肢だったとすれば、ギリシャ人はグレグジットの方を好む合理的な理由を持つことになる。だが、これは今週下される決断ではない。選択肢は、債権者の提案を受け入れるか拒否するか、というものだ。グレグジットは、提案を拒否した場合の潜在的な(ただし、確実ではない)結果なのだ。
もしチプラス氏が提案を拒否し、最終期限――6月18日に予定されているユーロ圏財務相会合――に間に合わなければ、7月と8月に期日を迎える債務返済でデフォルトする結果になる。
その時点では、ギリシャはまだユーロ圏内にとどまっており、ECBがギリシャの銀行に供与する流動性を許容可能な限度以下に絞った場合に限って、ギリシャはユーロ圏離脱を余儀なくされるだろう。これが起きる可能性はあるが、避けられない結果ではない。
ユーロ圏の債券者はその時点で、ギリシャの債務減免について協議することが自分たち自身の利益になると判断する可能性が多分にある。各国の立場を考えてみればいい。
■ギリシャがデフォルトすれば、仏独だけで1600億ユーロの大損
もしギリシャが公的部門の債務すべてをデフォルトすることになれば、フランスとドイツだけで、およそ1600億ユーロの損失を被ることになる。ドイツのアンゲラ・メルケル首相とフランスのフランソワ・オランド大統領は史上最大の金銭的な敗者として歴史に名を残すことになるだろう。
債権者は現在、債務減免に関するいかなる交渉も拒否しているが、ひとたびギリシャがデフォルトし始めたら、状況は変わるかもしれない。
交渉すれば、すべての人が恩恵を受ける。減額された債務負担の元利を払うための財政再建はより容認できるものになるため、ギリシャはユーロ圏にとどまるだろう。一方の債権者は、そうでなければ確実な損失の一部を取り返すことができる。
要するに、ギリシャは今週の提案を拒否することで、本当の意味で損をしようがないのだ。
-
「逝きし世の面影」から転載。
「東大話法」の規則がまとめられていて便利である。これから政治家や詐欺師や官僚になろうという方々には習得必須の技法だろう。(一般企業でも、出世を目指すならば役に立つ。)
この東大の「秘伝」が、安富氏によって広く一般公開され、野心家たちが死ぬほど勉強して東大に行く必要もなくなったのは革命的な出来事ではないか。もっとも、20か条にするほど各項目に違いがあるとも思えないから、せめて10か条くらいにまとまらないか、とも思う。さらに、これを10か条ならぬ一言で言えば「強弁による我田引水」となるか。口のうまい奴、というのは昔からこの東大話法を駆使していたのであり、弁護士が「三百代言」と軽蔑されたのも、庶民にはそのことがよく分かっていたからだろう。
(私が昔書いた「生活の技術」という文章の一節を再掲載しておく。ここに書いたことは半分冗談だが、半分は本気だ。ただし、こうした「エリート」の人生が幸福な人生だとは私はまったく思わないのである。
「私が人生を生きていく上でもっとも大事なことの一つと考えているのが「嘘」と「演技」である。この両者は本質は同じだ。どちらも、事実ではないことを事実として見せることだから。そして、嘘と演技の能力こそは、社会人として上に登るためには必須の能力にほかならない。
わざわざこうして論じることからもお分かりの通り、私は嘘と演技が大の苦手である。無精な人間にとっては、嘘も演技も面倒臭いことこの上ない。嘘にも演技にも、それを厭わない「献身性」が必要であるのは、あらゆる技術と異ならない。自分のついた嘘を覚えておくだけの記憶力もない人間が嘘つきになれるわけがない。かくして、世間には怠け者で記憶力が悪いために、やむなく正直である人間が無数に存在する。嘘と演技の能力は、一部のエリートだけに許されているのである。」)
東大話法の話はともかく、関東の放射能禍は「深く静かに」進行しているようであり、特に小児にその被害は著しいようだ。これは隠しても隠し切れない事実だろう。
なぜ、それらの子供の親たちは政府と東電に対する訴訟を起こさないのか、まったく不可解である。(いや、日本の裁判制度の下で国に対する訴訟を起こすことの絶望的な困難さはよく知ってはいるのだが。……)あるいは、小児甲状腺がん検査で陽性と出た子供を持つ全世帯に対し、内密の慰謝料が支払われ、あるいは脅しが行われているのではないか。
それで泣き寝入りをしているとすれば、それは我が身のために子供を犠牲にする行為である。親が子を犠牲にするなら、親の資格はない。
栃木県で国に対する原発訴訟が起こされたというニューストピックを瞥見したが、詳しい内容はまだ知らない。栃木よりもまずは福島から訴訟が起きるべきだと思うが、福島は「原発戒厳令」の施行下にある(つまり、銃を突きつけて民衆を支配下に置くような超法規的状況)のかもしれない。もちろん、これは比喩だが、事実に近いのではないか。
(以下引用)
千葉県松戸市の小児甲状腺がん検査で異常無し(A1)は4人に1人以下(市民がパニックにならないよう結果を1ランク低く勝手に書き換える千葉県松戸市)
『民主主義の大原則を忘れて、死んだネズミのように大人しい日本人』
首都圏の千葉県松戸市の子供達の甲状腺エコー検査では異常なしは24%以下だった。東京に隣接する松戸市の小児甲状腺がんの検査結果では二次検査の必要なBC判定が50人に1人の比率で出ているのである。
しかし、それにしても世間をなめた極悪松戸市の子供騙しのインチキな手法には呆れ返るばかりで、最早末期症状。終わっているのである。
日本以外の韓国など外国で同じことが起きれば、本来なら怒り狂った市民によって市長は殴り殺されているし、市役所などは焼き討ちや略奪にあって跡形も無く破壊されている。
『上から与えられた民主主義』の大人しい日本人では、投票に行くことが民主主義の基本だと思っている。
ところが、本来の『自分で勝ち取った民主主義』の世界基準では、明確な不正があれば一般市民が手に手に武器を取りバスティーユ要塞を襲撃することこそが基本原則なのである。(権利と行使は一体構造であり幾ら権利が明記されていても、行使しないで放置すれば何時かは無くなる)
ところが日本では180度逆で、あからさまな権力の不正に対して穏健な抗議行動さえ一切起きていない。日本人ですが、死んだネズミのように大人しいのである。
(海洋警察の説明に怒り殴りかかる韓国旅客船セウォル号乗客家族)
極悪非道の千葉県松戸市による、誰にでも分かる子供だましな低級な悪事(客観的な事実)を書いた『逝きし世の面影』記事に対して、
カワイ タイチ @taichi_k 6月12日
『嘘やごまかしで安全を喧伝する連中を軽蔑しますが、拡大解釈や曲解で不安を煽る連中もどうにかしたい。
私は原発事故による子供の影響を心配する一人ですが、少なくともこの記事は大いに疑問。
松戸市の検査は子供限定でもないしガン検査でもない。』
とのデマをツイッターで垂れ流す大馬鹿者が出現して、心底驚いた。
当該記事は一月も前に掲載されたもの。
ツイッターなどインターネットは密室での呟きでは無く、世界中に広く公開されている。デマによる誹謗中傷には当然社会的な責任が生まれる。
ブログ記事の資料は、松戸市の公式ホームページであり間違いようが無い『明らかな事実』である。
松戸市の検査は実態も宣伝文句も、子供限定のガン検査。
松戸市の公式ホームページを読めば、『子供限定のガン検査』である程度は、日本語が理解できれば、誰にでも例外なく簡単に判るのである。内容を勘違いするなど有り得ない。
今回のように都合が悪いからと、口先で否定しても客観的な科学的事実は微動だにしない。
それを頭から否定するとは呆れ果てて言葉も無い。
丸っきりの『安倍晋三症候群』である。
根本的に狂っているか、救い難い低脳であるか。
『私は原発事故による子供の影響を心配する一人』と善意や中立的立場を装い『少なくともこの記事は大いに疑問』と誘導する。
最後に『松戸市の検査は子供限定でもないしガン検査でもない』と断定する、典型的な東大話法を駆使するこの人物ですが、普通に判断すれば『放射能は安全安心。何の心配も無い』との極悪非道な利権集団である原子力ムラのネット工作員である。
『原発危機と「東大話法」傍観者の論理・欺瞞の言語』安冨 歩
東大話法20の規則
(1) 『自分の信念』ではなく、『自分の立場』に合わせた思考を採用する。
(2) 自の立場の都合のよいように、(自分勝手に)相手の話を解釈する。
(3) (自説にとって)都合の悪いことは無視し、(自分にとって)都合の良いことだけを返事する。
(4) 都合の良いことがない場合には、関係ない話をしてお茶を濁す。
(5) どんなにいいかげんでつじつまが合わないことでも(タレント政治家橋下徹のように)自信満々で話す。
(6) 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
(7) その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
(8) 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
(9) 『誤解を恐れずに言えば』と言って、うそをつく。
(10) スケープゴートを侮辱することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
(11) 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
(12) 自分の議論を『公平』だと無根拠に断言する。
(13) 自分の立場に沿って、都合の良い話を集める。
(14) 羊頭狗肉。
(15) わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
(16) わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
(17) ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
(18) ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
(19) 全体のバランスを常に考えて発言せよ。
(20) 『もし○○○であるとしたら、おわびします』と言って、謝罪したフリで切り抜ける。
『平凡で陳腐な日本人的善意が、「凡庸な悪」以上の最悪の日本的ファシズムの呼び込む』
目の前の明らかな事実を正反対に自信たっぷりで描くこの人物ですが、狂っているか、低脳か、工作員か、しかし、たぶん真実はその何れでもない。
これは超日本人的『善意』の常識的で平凡な判断による、勘違いであろう。
いま全ての日本中のマスコミも護憲左派の政治ブログも沈黙している。
松戸市の姑息で子供だましな悪事は唯一『逝きし世の面影』だけが書いているので、それなら事実ではない(デマだ)と思ったのだろうが、愚かにも健全な科学的懐疑心がゼロ。ホームページの極短い文章でさえ読解力がゼロ。180度逆さまに理解しているのである。
一般市民の判断力は悲しいかなこの程度の水準なので、十分避けられる不幸が歴史上で何回でも何時までも繰り返されるのである。
勘違いした理由は極単純で、地位や権威があるものは(嘘がばれた時に恥ずかしいので)見え透いた子供騙しの嘘は付かないと信じているのである。
丸山真男が分かりやすく指摘したように、ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニの様な明確な指導者が存在しない日本型ファシズムとは、このような平凡な善意の集合体が生んだ怪物だったのである。
『喉もと過ぎれば熱さ忘れる』の諺のとおりで、350万人もの尊い日本人の命で購った70年前の教訓が少しも生かされていない。過去の失敗を完璧に忘れているのである。
カワイ タイチ @taichi_k 6月14日
春以降、すっかり野鳥たちが姿を見せなくなった。カワセミはおろかサギ類もほとんど見られない。何が原因だろう。食べ物が減ったか寝ぐらを追われたか…。
首都圏在住らしいHN『カワイ タイチ』氏ですが、幾ら暢気にフクシマの放射能被害を口先で全面否定しても、やはり目の前に迫り来る異変には気がついているらしいのである。
フクシマの放射能被害は明らかであり、立ち入り禁止区域内では野鳥も野生動物も激減している。 核事故から4年が経過して最早日本は時間切れで『御名御璽』。既に終わってるのである。
『東京電力(日本政府)の事実上のフクシマの収束作業の放棄宣言』
フクシマのレベル7の未曾有の核事故の発生では面積では日本の3分の1、人数では全人口の40%が放射能に汚染されると心配されたが、一番危険だと思われていたのはメルトダウンした1号基2号基3号基の原子炉では無くて、青天井で剥き出しの4号基の燃料プールの崩壊である。
その一番危険だと思われていた4号基燃料プールは去年末までに全ての核燃料が取り出されて、安全な保管場所に収納することに成功している。
それなら、次に取り掛かるべき最優先事項とは1号基から3号基までの燃料プールからの使用済み核燃料棒の取出しであることは論を待たない。
燃料プールがある原子炉建屋ビルはほぼ崩壊しているが、辛うじてプールの崩壊だけ免れているが何時次の大地震がフクシマを襲うかは誰にも分からない。
マスコミが騒ぐ放射能汚染水の垂れ流しよりも、(マスコミが誰一人騒がない)よほど野晒し状態の燃料プールの核燃料が問題である。
ところが6月10日、東電は唐突に2~3年先に先延ばしすると発表する。
そもそも本当なら3号基プールからの取出しを半年も前に始めている筈なのですよ。半年間もサボった挙句に、今度は『2~3年先』と言い出したのですから、何かの理由で核燃料の取り出しを実施したくないか、したくても出来ない新たな難問が生まれたのである。多分4年たったフクシマの根本的な危険が目の前に迫っているのである。
責任を投げ出して『後は野となれ山となれ』で、これは東京電力(日本政府)の事実上のフクシマの『収束作業の放棄宣言』である。 -
「阿修羅」から転載。
記事全体の内容よりも、各地方自治体のマンネリそのものの「地方創生」への取り組みが笑わせる。
・地元の高校生とワークショップをする、
・地方創生の戦略策定会議に若手経営者や女性・外国人を招き参加してもらう、
・ワールドカフェなどの方法で住民同士や職員たちが対話を重ねる、
・愛郷心に訴えかけるイベントを開催する、
・地元出身の大学生にインタビューをする、
・地域を出ていった出身者からアドバイスをもらう、
・ネットで今後の意見を考える投票行動をする、
・NPOや若者を中心にライフスタイルをデザインする取り組みを考える、
・ふるさと納税の営業先を拡大させる・・・・
これらの取り組みはNHKニュースでも良く取り上げられる話題だが、見るたびに、「また、最初から失敗するに決まっていることをよくやるよなあ」と思うのが常だ。やっている当人たちも、案外それが分かっていながらやっているのではないか。特に、担当役人は、「上に命ぜられたから、何とかお茶を濁そう」としか思っていないのでは、と邪推してしまう。だが、それにかかる金は、結局は税金である。金の無駄遣いそのものだ。
では、実効性のある地方創生の方策をお前が考えろ、と言われるかもしれないが、それを考えるのは地方自治体のトップの役目である。それだけの能力の無いトップを選んだのなら、それはその地方の住民の責任だ。
記事の意見(失敗学云々)については、「役人が失敗を反省するはずはないだろう。それより官僚の無責任体質、役人互助システム、親方日の丸意識を根本から変えるシステムを考案するしか無いのでは?」 と言っておく。たとえば、プロジェクトは必ず責任者(担当役人のトップ)の名前を冠につける、というだけでも一定の効果はあるのではないか。誰がやった事業なのかが分からない、というのが役人に責任を取らせるのが困難な理由なのだから。失敗に終わった事業の残骸を見るたびに、人々が「あの○○プロジェクトの跡だよ」と囁くのを聞けば、よほど厚顔無恥な人間でなければ「絶対に失敗するまい」と考えるはずだ。まあ、橋下のようなタイプの人間には効果はまったくないだろうが。
(以下引用)
自治体の地方活性化はなぜ失敗の山になるのか? 地方創生に必要なのは先進事例よりも「失敗学」だ(JBpress)
http://www.asyura2.com/15/hasan97/msg/690.html投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 6 月 15 日 00:35:05: igsppGRN/E9PQ 
自治体が地方創生で成果を出すためには何が必要なのか?(写真はイメージ)
自治体の地方活性化はなぜ失敗の山になるのか? 地方創生に必要なのは先進事例よりも「失敗学」だ
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43967
2015.6.15 西村 健 JBpress「地方創生」の取り組みが全国の自治体で本格化している。
・地元の高校生とワークショップをする、
・地方創生の戦略策定会議に若手経営者や女性・外国人を招き参加してもらう、
・ワールドカフェなどの方法で住民同士や職員たちが対話を重ねる、
・愛郷心に訴えかけるイベントを開催する、
・地元出身の大学生にインタビューをする、
・地域を出ていった出身者からアドバイスをもらう、
・ネットで今後の意見を考える投票行動をする、
・NPOや若者を中心にライフスタイルをデザインする取り組みを考える、
・ふるさと納税の営業先を拡大させる・・・・などなど、地方創生の総合戦略策定に向けて自治体はそれぞれ工夫をしようと頑張っている。
こうした活動は若者に様々な気づきを与えることができる。例えば、実は地元には尊敬できる大人が(結構)いること、大人がいろいろと考えて苦労してこの地域社会を支えていたこと、一生懸命匠の技を磨く後ろ姿は格好いいこと、皆がそれぞれ素晴らしいアイデアや意見をもっていること、なんだか将来頑張ればまちも活性化できるように思えること・・・などに気づき、地域で生きることのイメージや希望を持つことができるようになるかもしれない。
■反省がなければまた同じ失敗を繰り返すことに
しかし、自治体がすでに策定した「地方版総合戦略」を見ていて気になったことが2つある(注:政府は自治体に、地域活性化と人口減少克服のための「地方版総合戦略」を2015年度中に策定するよう求めている。内容は、自治体が取り組む地方再生計画や長期的な人口目標など)。
第1に、過去の施策や事業の焼き回しに過ぎない文章が続くことである。
構想日本の加藤秀樹氏が紹介しているように、地方創生に関する国の今年度の事業の総予算7200億円のうち約85%の事業が前年度からの継続事業だという指摘がある。確かに、総合戦略に記載されている内容には、「看板を変えただけ」に見えると思われる事業がいくつも見受けられる。
第2に、過去に実施された政策・施策・事業の結果に触れられていない点である。目標達成度、目標未達成時の理由、成果指標の変化、総合評価などの考察がほとんどなされていないのだ。
これまで似たような施策や事業を行ってきたことの反省がなければどんな結果を招くのかは、容易に想像がつく。そう、近い未来、失敗を繰り返してしまうということだ。
これまで地方自治体は定住促進、子育て支援による若者移住、企業誘致、新産業おこし、イベント開催など「地方創生」的なことを熱心に行ってきた。多くの自治体のホームページを開き、「行政評価」のページで、施策評価シート・施策評価表を見てみればそれが分かる(参考:「地方公共団体における行政評価の取組状況等に関する調査結果」総務省)。
ちなみに、「行政評価」とは自治体の施策や事業・事務を評価するシステムで、北川正恭知事時代の三重県で始まった。三重県と、私が以前勤務していた日本能率協会グループが共同で開発したものである。
現在、都道府県及び特例市以上の市ではほぼ全団体、またその他の市区でも8割以上の団体が行政評価の手法を導入している。また、行政評価を導入している団体のうち、約7割が評価結果を予算要求等に反映しており、そのうち9割以上が予算査定等においても評価結果を反映している。
しかし、残念ながら行政評価には失敗の分析がない。地方創生の総合戦略には、特に過去の反省や失敗の検証結果をきちんと反映させるべきであろう。
■「行政の無謬性」という神話
地域ごとに、その失敗の原因や、そこからの「教訓」は様々だ。施策や事業の特性ごとに失敗の解釈も様々だ。つまり、各自治体はそれぞれの事情、特殊性に応じた「失敗学」に挑戦すべきである。
以前ブームを巻き起こした「失敗学」。畑村洋次郎・東京大学名誉教授が唱えた考え方である。失敗を肯定的に利用し、失敗を生かすことが個人や組織の成長に貢献することを実証している。
畑村先生をさかのぼると、『失敗の本質─日本軍の組織論的研究』という社会科学のスタンダードとなった本もある。ノモンハン事件を皮切りに日本軍がなぜ失敗したかを丁寧に実証している。
ただし、この失敗を研究するという動きは、行政経営には取り入れられなかった。
確かに、行政にとって「失敗」はありえない。これまで、わが国には「行政の無謬性」という神話がまかり通ってきた。日本の行政は先史以来、そこそこうまくやってきたことも確かだ。安土桃山時代に日本を訪問した外国人の記録や江戸時代を見れば、その社会の安定に貢献してきたことも事実だろう。だから、行政は間違わないという神話も一定の賛同を得て、広がってきた。
しかし、どうだろう。過去100年、第2次大戦後に「アメリカに勝てるとは誰も思っていなかった」と告白した政治家や軍幹部たち、様々な公害、原発事故など大きなレベルから、誰も使っていないハコモノなどの小さなレベルまで、「行政は失敗しない」ことのありえなさを国民や住民は今ではよく知っている。
■「責任追及」と「批判」はしない
では、具体的に地方活性化の「失敗学」をどのように進めていけばいいのか。
まずは失敗の定義を明確にすることが前提だ。目標数値を達成できなかったこと、大きな外部要因が働かなかったことなどが条件になるだろう。
失敗の分析の進め方としては、事象、経過、推定原因、対処、原因や外部要因の整理と総括、さらに条件の抽出が必要だ。特にポイントとなるのが、原因の追求である。トヨタ自動車やコマツのように徹底的に「なぜなぜ分析」を繰り返し、外部要因や自己能力を正しく見極めていく。
地方自治体では、そもそも目標設定があいまいだったり、希望的観測で目標が設定されたりしがちである。そのため、目標設定時にさかのぼって「なぜそうした目標を立てたのか? そう思うようになったのはなぜか?」と深堀りしていく必要がある。
また、心しておくべきなのは、「責任追及」と「批判」をしないことである。批判をすると、真相追及に至らなくなる。「失敗学」は失敗から学ぶことが最大の目的であって、誰かを批判するためではない。関わった人の感情にも気を配る必要があるだろう。
■失敗は「仕方がなかった」は本当か
これまでの自治体には、一度立ち止まって徹底的に考える姿勢が欠けていた。だから、ついつい安易に新しい「先進」事例や「カッコいい」提案に飛びついてしまうのだ(地方活性化コンサルタントはそういった提案をしてくる)。そして、職員や住民が熱心に頑張っても空回りに終わり、数年後に疲弊してしまうケースが出てくることになる。
私が2年前まで行政改革コンサルタントをしていたとき、地方自治体の幹部会議・評価会議に出席し、「失敗した」施策や事業を議論する機会が多かった。その際、「うちの市じゃしょうがないよ」「景気が悪かったから」「目標が高すぎた、というか目標を設定する能力がなかった」という意見をよく聞いた。「仕方がなかった」「予測が外れた」という言葉を聞いて、私は「本当か?」という疑問をずっと感じていた。
確かに、1つの事象だけをとっても複合的な要因が絡み合っている。しかし、そこを追及しないのはどうなのか。税金で雇用が安定的に保障されている、公共的な立場だからこそ、それは責務だと思うのは私だけだろうか。
地方創生に取り組むにあたって、過去の検証や「失敗学」的な考察をしないで、単なる人口分析、戦略立案だけをしているだけでは不十分である。ぜひとも「失敗学」を実施してみる自治体が出現することを期待したい。
-
最近、「反知性主義」という言葉が、新自由主義やネオコンの人々への批判としてよく聞かれるが、私は単に頭が悪いだけの人間をそう呼んでいるだけのことかと思っていたから、この風潮にあまり好感を持っていなかった。自分自身がけなされているかのように思うからだ。私は、村上春樹ではないが、壁に投げつけられる卵の側に、自然に立ってしまう人間だからである。
だが、これは「主義」であるようだ。へえ、そんな主義もあるのか、と驚くが、要するに、「知性を振りかざす人々への嫌悪や反感」が主義の次元にまで至った連中を「反知性主義者」と言うらしい。
そう言われても私はまだ自分が一種の「反知性主義」かもしれない、と感じる部分はある。アカデミズムの持つ「ギルド」的側面や「御用学者」的側面への反感や批判の気持ちが私には根強くあるからだ。それは知性そのものへの嫌悪ではないが、いわゆる「エッグヘッド」連中(額の広い奴ら、知性を振りかざす、インテリぶった連中)があまり好きではないのである。
私自身がある種の「反知性主義者」であるとすれば、それは、「論理をそれほど信じていない」という部分だろう。理屈と膏薬はどこにでもくっつくものであることは、反知性主義の旗手である橋下徹がそれを証明している。(私の橋下徹への嫌悪は、彼の「反知性主義」的部分にではなく、彼が大嘘つきであることと、権力や金力の走狗であることにある。)
屁理屈と理屈の区別など、即座に見分けがつくものではない。その論理のいい加減さを後になって証明したところで、現実は常にその先まで進んでいるのである。これこそ、「反知性主義」の勝利だろう。。
さて、論理というものがいかに現実に対して無力なものか、ということの一例が下のツィートにある。これは、論理の基本である、「言葉のつながり方」がどれほど容易に捻じ曲げうるか、という実例だ。
「尊い犠牲」
わずか2文節の短文だ。「尊い」と「犠牲」だけである。ここには誤読の余地など無さそうに見える。だが、「犠牲」は、言葉としては1単語だが、「我が身を何かのために捧げる」という複雑な事象である。ここで論理のすり替えが可能になるのである。
右翼的な人々が「尊い犠牲」と言うとき、尊いのは「死ぬこと」であり、その死が捧げられた「何か(国家)」である、とされるわけだ。「尊い生命が犠牲になったことを悼む」ように見せかけながら、実は「生命より大事なものがある」ことを人々の心に刷り込む意図がここにあることを、国民の多くは理解していない。理解できるのは小田嶋隆くらい言葉に敏感な人だけだろう。そして、小田嶋隆は多分「反知性主義」の跳梁跋扈を危惧する側に立っていると思うが、現実世界では、もともと(「主義」というほど意識的ではないだろうが)反知性的言動、すなわち直感的言動や脊髄反射的言動こそが圧倒的優位なのではないか、と私は思っているのである。
妙なたとえだが、「バッターボックスの中で「考えている」時点で(打者の)負けだよ」、というようなセリフが、ある野球漫画の中にあったが、現実世界にはそういうところがある。日常の言葉のやりとりですら、反射運動に近いと私は思っている。考えて喋ろうなどとすれば、間に合わないのである。これで、知性が現実生活の中でどう勝利できるだろうか。知性が意味を持つのは、「書かれたもの」の中だけだ、と私はひそかに思っているのである。
だが、書かれたものは、人の心に静かに浸透していく。それが、長い間には現実を変える、とも思っている。
私がこの一文を書いたのは安倍政権への批判として「反知性主義」という言葉を使うのはやめた方がいいと思うからだ。この言葉が学者や評論家などの間から出されたら、大衆は必ず、それは学者たちの思い上がりの言葉であり、自分たち大衆やその支持する人間を不当に非難する言葉だ、自分たちへの侮蔑の言葉だ、と思い、学者たちのリベラルな言説(憲法擁護の発言など)そのものを否定する気持ちに傾くだろう。これは絶対にそうなる、と私は思っている。そうなっては困るのである。つまり、これは「戦略的にマズイ」のである。
(以下引用)
小田嶋隆 @tako_ashi 7時間前- 尊い生命が失われることは「尊い」ということとはとまったく相容れない、悲惨で不当で醜い出来事だ。にもかかわらず、「尊い犠牲」という言い方を繰り返す人々は、いつしか「生命が失われること」そのものを尊い行為であるとする考え方にたどり着く。
- 残された遺族の立場から見れば「尊い犠牲」という言い方は「かけがえのない尊い生命が失われたこと」を悼むものだ。が、国や軍隊を主語とする文脈の中では、同じ「尊い犠牲」という言葉が、「国のために生命を投げ出した行為」ないしは「死そのもの」を称揚するフレーズになる。
-
ジンバブエが自国通貨の使用を停止したというニュースがあったが、そのジンバブエのハイパーインフレの根本的原因が、幾つかのまとめサイト記事を見ても今ひとつ納得できないので、探してみて、下の記事に出会った。この記事でもまだ納得するには至らないが、多くの「欧米からの情報」だけでこの問題に安易な答えを出すのは危険なようだ、という印象は受ける。
私がジンバブエのハイパーインフレを見て思うのは、第一に「貨幣経済」そのものの脆弱さであり、もう一つは「自由貿易」の陥穽というものだ。後者は「貿易依存の経済」と言い換えてもいい。つまり、ジンバブエが鎖国をしていた場合、これほどのハイパーインフレになることは可能だっただろうか、という疑問を私は持っているのである。
ジンバブエには農業資本が十分にあり、鉱物資源もある。仮に、この国が他国との貿易をゼロにした場合、(すなわち国内だけで商品の流通が行われた場合)「売る側」は、買い手がいなければ困窮するわけだから、どこかの時点で売値の高騰には歯止めがかかるはずだ。それがそうならないのは、売り手が「国外」にいた場合だけである。国外の売り手が絶対的に巨額な資本を持っていて初めて、「売らないでいつまでも待つ」ことができ、売値がどれほどキチガイじみた値段になろうと(つまりハイパーインフレになろうと)、売り手側は平気である、という事態が発生するのではないか。
それ以外の理由で、これほどのハイパーインフレが起こるメカニズムを説明できるかどうか、私は疑問に思う者である。
失業率95%というと、恐るべき混乱状態を想像するが、暴動も革命も起こっていない、という点も、私には奇妙に思える。単なる「恐怖政治」でそれが可能だろうか。あるいは、失業率95%でも国民が暮らしていけるというのは、「地上の天国」なのではないか、と私のような怠け者は想像してしまうのである。(笑)何しろ、人口のわずか5%だけが働けばいい、ということなのだから。ところで、ジンバブエの公務員は5%もいないのだろうか。そう考えると、この失業率95%という多分「欧米発」の情報も怪しいように思われるのである。
ある意味、今のジンバブエは「資本主義」と「自由貿易システム」の小さな実験室と考えてもいいのかもしれない。
(以下引用)2013年11月5日火曜日
仕組まれたジンバブエのハイパーインフレ。独裁者ムガベの影で動く欧米、中国、北朝鮮、イランの思惑
ジンバブエは2013年1月29日、国庫金の残高がついに217ドル(20,000円)になりました。ムガベ大統領の独裁政治による失策が重なり、この事態を招いたとされていますが、本当にそうでしょうか。ジンバブエと言えば、独立以来33年間、ムガベ大統領が権力の座についており、ハイパーインフレがあまりにも有名になっています。
ジンバブエのハイパーインフレについて、一般的に言われている原因をまとめてみました。1999年 コンゴの内紛への派兵に専念したことによって、経済、医療、教育が悪化した。
2000年 白人農場の強制収容(白人の所有する土地を黒人に譲渡しなければならない法律)によって、白人が海外へ逃げ出した。白人が持っていた効率的な農業技術が失われたために、これまで国の経済の柱だった農業(かつてアフリカの穀物庫とも呼ばれていた)が崩壊し、食糧危機と外貨不足に陥る。部品を輸入に頼っていた工業部門にも外貨不足は影響し、経済は極度に悪化する。食糧不足とアメリカと欧米各国による経済制裁によりハイパーインフレが発生。
2007年 国内の外資系企業に対し、保有株式の過半数以上をジンバブエの黒人への譲渡を義務付ける法案を通過させ、企業もジンバブエから撤退する。さらに物資不足となり、物価はさらに高騰。2007年 価格統制令(製品やサービスを強制的に安く売らせる、売らずに保管しても逮捕)を出したことで、企業は次々に倒産。2008年 デノミ(通貨単位の切り下げ)を実施し、100億ジンバブエドルが1ジンバブエドルになる。ジンバブエのインフレ率2001年 132%2002年 139%2003年 385%2004年 624%2005年 586%2006年 1281%2007年 66212%2008年 355000%2009年1月29日、ジンバブエドルは発行されなくなった代わりに、USドルと南アフリカランドが法定通貨として使用されるようになった。
ジンバブエ、調べるのが本当に難しい。BCC、CNNなどの欧米メディアの取材は禁止されている。ジンバブエ側から出てくる情報の量は乏しく、質が疑わしい。
中立的な情報が圧倒的に少ない。
いろんな疑問が湧いてきました。ムガベは独裁者なのか。失策は意図されたものではないのか。ハイパーインフレは止められなかったのか。これだけ失業率と貧困率が高いのに、治安が安定しているのはなぜか。失策を重ね、経済も政治も混乱させ、国民を貧困に導いたムガベが、89歳で任期5年の大統領選挙に圧勝できるのか。ムガベについてムガベ大統領は、カトリック教徒として育てられ、マリスト会やイエズス会の学校で教育を受け、17歳で教師の資格を取ります。南アフリカのフォート・ヘア大学で英語と歴史学を学び、南アフリカ大学も卒業。ロンドンスクール・オブ・エコノミクスで経済学を学びました。
1964年に逮捕され、10年間を獄中で過ごしながら法律を勉強した。独立後、初代首相になってからは、白人社会との融和政策を進め、「アフリカでの黒人による国家建設のモデル」と称賛されます。白人の協力も得つつ、順調な政治運営を行いました。教育や医療に資金を充てたことで、低い乳児死亡率とアフリカ最高の識字率を達成し、ジンバブエの奇跡として国際社会から絶賛されています。そのムガベ大統領が、独裁化し、おかしな政策を推し進め、国際社会から見放されることになります。金などの資源は豊富で、かつては農業、工業、鉱業のバランスのとれた国だったジンバブエが、経済破綻し、失業率95%の悲惨な国へと変わっていきました。
白人農場の強制収容をすれば、白人は逃げ出し、経済は悪化する。教育や医療に資金を充てれば、低い乳幼児死亡率と高い識字率を達成することができることを知っている人間のやることとは思えません。
そしてもう一つ、白人が逃げ出したことで農業技術が失われて食糧不足へ陥り、物価が高騰したことについて。工業分野に比べ、農業分野は多くの複雑な知識を必要とすることはありません。特別な技術を用いていたとしても、雇用主を無くした農場を、これまで農業に従事してきた黒人が代わりに運営することができなかったのでしょうか。政策とは、その効果や影響を予測し、必要だと判断されたときに施されます。経済への悪影響が予測できなかったのでしょうか。白人が逃げ出すことを予測して、農場運営の対策を考えなかったのでしょうか。考えなかったとしても、結果は出ます。その結果から、原因を理解することのできるだけの学歴と経歴を持っているムガベだと思いますが、2007年に、外資系企業に対し、ジンバブエの黒人に株式の過半数以上を譲渡するように命じます。同じことをまたやったのです。その後の価格統制令についてもそうです。まるでハイパーインフレと経済の破綻を狙っているかのようでもあります。しかし、豊富な資源というもう1つの外貨収入軸がジンバブエにはあったので、インフレに歯止めを効かせる方法はあったはずです。ここにアメリカ、ヨーロッパからの経済制裁が加わります。
ハイパーインフレを歯止めの効かないものにしたのは、欧米各国からの経済制裁です。ムガベ退陣を狙った経済制裁であれば、狙いは大きく外れたことになります。「私欲のためのコンゴ派兵を止めさせること」という表向きのメッセージはあったようです。派兵後、コンゴ大統領は暗殺されております。コンゴにはムガベの妻の名義で保有している鉱山があります。
コンゴ派兵に資金を注ぎ、ジンバブエ国内の経済が悪化して国民が疲弊しているとなれば、国際的に非難される理由にはなりますが、経済制裁を加える理由があったのでしょうか。安全保障理事会に経済制裁案が提出された際には、中国とロシアは「内政問題」ということで反対し、却下されました。与党の弾圧、法案の強行、言論の制圧、国民へ向けた暴力。ムガベは独裁者の定義に当てはまります。
80年代には反ムガベ派武装勢力を鎮圧する際、市民ら推定2万人を虐殺する事件がありました。
ムガベによる弾圧のすさまじさが、人々に恐怖を植え付けているようです。力によって民意を支配しているのです。この人権侵害も、経済制裁の理由となっているようです。前回の選挙ではムガベの退陣が争点となっており、ツアンギライが勝利する見通しが強かったものの、弾圧により、ツアンギライは出馬を辞退することになりました。この選挙で、200人以上が殺害されています。
ツアンギライ首相は、ムガベの政敵として知られています。
今年、トラックに衝突され、奥さんを無くしました。入院しているツアンギライをムガベは見舞いに行っています。これまで、4度、暗殺未遂を経験しているそうですが、当然犯人は確実に殺しに来ているわけで、4度も死なずに乗り越えていることも怪しさがあります。2013年7月31日の選挙で、各国から不正が行われないよう監視される中、ムガベは61%の得票率で圧勝しました。
ツアンギライは大きな不正があったと主張しており、欧米もこの結果に、公平な選挙が行われていない可能性を指摘しています。アフリカ連合や、南部アフリカ共同体はこの結果を指示しているようです。
ムガベを指示する人も確かにいるようです。白人を嫌う人達、農地を割り当ててもらい利益を上げた人達がそうです。
殺されるのが怖いからムガベに投票した人もいると思われます。89歳で5年の任期、過去の失策、暴力による支配、独裁を深刻な問題と考えると、ムガベには投票しないのが普通だと思います。ハラレに住むジンバブエ人の何人かに聞きましたが、ツアンギライに投票したという人はいましたが、ムガベに投票した人には会っていません。
前回の選挙のように死者が出ていないことから、平和的な選挙だったことは間違いないようですが、公正な選挙であったかどうかは、突き止める方法がありません。ムガベ=独裁者という強烈な印象がジンバブエを取り巻く情勢を見え辛くしています。
ムガベが独裁者であることは間違いないです。しかしジンバブエはそれ以外の問題も抱えます。
ハイパーインフレの最も大きな要因は、欧米からの経済制裁です。そして現在は、ジンバブエは紙幣を管理する機能を失い、USドルが流通しています。これは、アメリカ経済に完全に依存させられる状態になったことを意味します。ジンバブエには、金、プラチナ、クロムの他に、ウランの鉱山もあります。イランとウランの取引についての密約を交わしたとの報道もあります。中国との仲は良く、北朝鮮も歩み寄っています。今も制裁を続け入国制限や、資産凍結を行っている国もあります。
標的になる理由を持った国です。欧米、オーストラリア、中国、北朝鮮、イラク、アフリカ諸国、国内政党、、、複雑に入り混じった思惑が、「独裁者ムガベ」の陰に隠れます。ムガベの行動が本人の意思によるものか、何かしらの圧力を受けているものなのかは、我々には分かりませんが、不自然さは確かにあります。現地で最も不自然に感じるのは、治安の良さです。失業率が高く、人々が貧困に陥った国では、国民の怒りの矛先は、政府へと向かいます。デモや暴動が起きたり、モノを奪い合ったり、治安が悪化するのが自然ですが、ムガベが再選した後も、特に大きなデモなどは起きておらず、治安は良いです。それどころか、ハイチや南アフリカに比べると、物乞いが圧倒的に少ない。確かに物乞いはいますが、ハラレの中心部ではほとんど見かけませんでした。失業者で溢れ返っている印象もありません。
伝え聞くジンバブエの情報と、体感的な治安のギャップに不気味さすら感じます。真実は手の届くところにありません。中立的な情報があまりにも少なく、答えを得ることができません。ハイパーインフレは仕組まれた、とまで強く主張はしませんが、一般に言われているような、「独裁者ムガベがバカだった」からインフレが起きたことは否定したいと思います。
-
「新国立競技場」問題と「戦争法案」は、日本の政治的体質を示している点で、双子ではないか、というのが私の強引な問題設定だ。
どちらも、最初から「結論」ありきで話がスタートし、その後問題点が続出して紛糾し、混乱の極みにある。これは、日本が太平洋戦争に突入し、敗戦に突き進んだ道でもある。日本近代の政治(政府)の宿痾とでも言うべきものではないか。その中心にあるのは「無能官僚のメンツ問題」「官僚とその周辺の無責任体質」だろう。
新国立競技場問題は、いわば「ポツダム宣言」を突きつけられた状態であり、その受け入れを拒否し続けたら(つまり現実認識を拒否し続けたら)、広島長崎に原爆が落ちるような被害拡大が起こる、というわけである。
(以下引用)
トップページ- マル激トーク・オン・ディマンド
- 国立競技場は設計段階からやり直すしかない
2015年6月13日- 文字サイズ
- 大
- 中
- 小
- 印刷
国立競技場は設計段階からやり直すしかない

- 森山高至氏(建築家・建築エコノミスト)

- マル激トーク・オン・ディマンド 第740回
東京オリンピックの目玉プロジェクトの一つとされる新国立競技場の建設が暗礁に乗り上げている。いや暗礁に乗り上げているというよりも、一度も船出ができないまま、下手をするとお蔵入りになる可能性すら出てきていると言った方がより正確かもしれない。
しかし、何にしても決断を急がなければ、このままでは国立競技場の建設が2019年のラグビーワールドカップはおろか、2020年の東京オリンピックにも間に合わなくなりかねない深刻な事態に陥っている。
報道レベルでは下村文科相が東京都に新競技場の建設費として500億円を負担するよう求め、舛添東京都知事がこれを一蹴したことが報じられているが、問題の本質はそんなことではない。新国立競技場の建設に伴う様々な問題を指摘し続けている建築エコノミストの森山高至氏によると、現状は、そもそも国際コンペで決定した当初の計画通りに競技場を建設することが本当に可能なのかどうかすら定かではなく、また仮に可能だったとしてもコストがどこまで膨れあがるかがおよそ見当がつかないといった状態にあると指摘する。そのため、旧競技場の解体がほぼ完了している現段階でも、本体工事の受注業者さえ決まらない状態が続いているのだ。
ここに来て、オリンピックには屋根無しで臨むという話や、8万人収容の計画を5万人規模にまで縮小する案などが乱れ飛んでいるのも、当初計画のままでは実現可能性が見えてこないことが背景にあると森山氏は言う。
新国立競技場は東京オリンピックの招致が決まる前の2012年に国際コンペを実施し、話題性に富んだド派手で近未来的なデザインを提案したイラク出身の英国人建築家ザハ・ハディド氏の案が選ばれた。しかし、「脱構築」で有名なザハ氏の近未来的なデザインは、実際の建築物に落とし込むのが容易ではなく、いまもって総工費が幾らになるのか、そもそも東京霞ヶ丘の旧国立競技場の跡地にそれを建てることが可能なのかすら、明確な見通しが立っているわけではない。既に旧競技場は解体してしまったのに、である。
もともと新国立競技場の建設は1300億円の予算が見積もられていた。これはロンドンオリンピックのオリンピック・スタジアムの700億円、北京オリンピックの北京国家体育場の600億円と比較しても、当初から破格の予算だった。ところが、ザハ案をそのまま実現しようとすると3000億円を超えるとの見通しも囁かれるなど、ドタバタが続き、未だに受注業者すら決められない状態が続いている。どの建設会社がいくらであればザハ案を実現できのかについては、現状では大成建設と竹中工務店との間で調査契約を結び、調査を行っている段階であり、まだ全く見通しは立っていないのが現状だと森山氏は言う。
前回の番組でも森山氏が指摘しているが、そもそもザハ案は日本の消防法との整合性に問題があり、またキールアーチと呼ばれるザハ特有の構造が、予定地の条件と合わないなど、建築設計上無理があることもわかってきた。それを無理矢理建てようとすれば、膨大なコストがかかる上にどれだけ時間がかかるかも定かではないということのようだ。
ここは誰かがリーダーシップを取り、ザハ案を破棄し、より現実的な計画への転換を図ることが最も現実的だと森山氏は言う。通常のスタジアムの建設であれば、まだ時間は十分に間に合うし、コストも従来のスタジアム並で済む。そもそもオリンピックの招致は決まっているわけだし、IOCのトーマス・バッハ会長もスタジアムのデザインにはこだわらないと助け船を出してくれているのだ。
ところが、この現実的な選択肢を選ぼうとすると、コンペを実施して有識者に選んで貰ったザハ案を破棄するという決断を下せる人が誰もいないという、ガバナンスの問題が立ちはだかる。直接の監督官庁は文部科学省になるが、文科省は数億、数十億円規模の教育施設の建設は扱ったことはあるが、1000億円単位のプロジェクトとなるとお手上げなのだという。
今回、日本がオリンピックの招致に成功した背景には、日本人の勤勉さがもたらす技術レベルの高さやプロジェクトの緻密さなどへの評価があったと言われている。ところが、その日本で、オリンピックのメインスタジアムの建設が間に合わなかったり、国際コンペまで行って一度決めたデザインが宙に浮いたままになっているという状態は、日本の信用にかかわりかねない重大な問題と言わねばならない。
行政官僚が、一度決まったことは何があっても推し進める「暴走列車」的な習性を持っていることは、数々の無駄な公共事業がごり押しされる場面でわれわれはこれまでも繰り返し見てきた。それを仕切れるのは政治しかない。
ザハ氏は優れたデザイナーかもしれないが、元々、明治神宮の風致地区でも神宮の杜には、ザハ氏の巨大な脱構造的建築物は似つかわしくないとの異論が根強かった。そして、それが構造的にもコスト的にも、そして何よりも時間的に難しいことがわかった以上、政府は一度下した決定に固執せずに、ここで設計変更の英断を下すべきだと森山氏は言う。それができなければ、本当に2019年のラグビーワールドカップや2020年のオリンピックまでに間に合わないなどの最悪の事態も覚悟しなければならないところまで事態は来ている。
新国立競技場問題の現状と今後の見通し、そしてそのドタバタから透けて見える「日本国の問題」について、森山高至氏とともに、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。
-
これはビッグニュースだろう。
毎日新聞のニュースランキングでも一位になっているようだが、全国紙全部が一面で取り上げるべきニュースである。
自民党内部でも「戦争法案」を危惧する議員は多いようだが、声を上げているのは村上議員一人だけという情けなさである。だが、下記記事のように、保守系大物議員4人が反対表明をしたのは影響力が大きいのではないか。
4人それぞれの発言内容も国と国民を思う真情に溢れ、道理にかなっており、読む側の政治思想の左右を問わず心打たれるものだと思う。全国民の心にこれらの言葉が届いてほしい。(以下引用)
毎日新聞 2015年06月12日 19時03分(最終更新 06月12日 21時06分)
集団的自衛権行使容認を柱とする安全保障関連法案について、山崎拓・元防衛庁長官ら戦前生まれの政治家4人が12日、日本記者クラブで記者会見を開き、「歴代政権が踏襲してきた憲法解釈を一内閣の恣意(しい)によって変更することは認められない」などと反対を表明した。出席したのは山崎氏のほか亀井静香・元金融担当相=無所属、武村正義元官房長官、藤井裕久元財務相。亀井氏以外は政界を引退しているが、いずれも要職を経験した名だたる保守系政治家だ。彼らがなぜ、反対の声を上げたのか。会見の模様を詳報する。【石戸諭/デジタル報道センター】
「我々の共通点は戦前生まれで、戦争を直接、間接に体験した」。防衛政策に詳しい山崎氏はこう切り出した。4人に共通するのは、集団的自衛権行使容認に対する強い危機感だ。
「安保法制は集団的自衛権行使容認の法整備、自衛隊の活動の舞台を地球規模に広げること。この二つが大きな柱になっている。前者に注目が集まり、自衛隊の海外活動の強化という観点が議論されなくなっている。(安倍晋三総理は)『積極的平和主義』の名の下に、審議を進めているが、この言葉に確たる定義はない。今でも日本は積極的平和主義に徹している。裏付けになっている憲法上の理念は9条に書かれている。『積極的平和主義』は、軍事力を使うことが『積極』の部分に当たるのではないか。これはやってはならない。後方支援は兵站(へいたん)活動であり、戦闘行為をやるということだ」(山崎氏)
亀井氏は国会での議論を批判した。「(自衛隊員に)リスクがあるかないかなんて生易しいものではない。一内閣で議論を進め、しかもそれを一国会でやる。子供が考えてもむちゃなことがまかり通ろうとしている。国会議員だけで国是を変更していいのか。(国の)基本の問題は国民の意思を問うのが当たり前だ」
藤井氏は「集団的自衛権行使容認に問題の根がある。(存立危機事態など武力行使の)『新3要件』はインチキだと思っている。すべて個別的自衛権の話だ」と語気を強めた。「集団的自衛権とは対等な軍事同盟を意味する。中国との問題は、軍事同盟ではなく国連で対応すべきだ。このままでは日本が誤った道を歩む」と警告した。
武村氏は「安倍さんは70年続いた『平和主義』をがらりと変えようとしている。海外で武力行使をしない日本が、行使できる国になる。『専守防衛』こそが最大の抑止力ではないか。安易な解釈改憲という道で、議論が未成熟なまま一挙に手をつけようとしている」と指摘。さらにこう提起した。「自衛力を強化する道を選ぶことはあってもいいだろう。集団的自衛権の導入が必要と考えるなら堂々と国民投票を前提にした憲法改正の道を歩むべきではないか」
山崎氏は自身の戦争体験にも触れ、「空襲で天井を突き抜け焼夷(しょうい)弾が落下してきた。不発弾だったので、命は助かった。山に上がったら福岡市全体が燃えさかっていた。翌日、町中に遺体がごろごろしていた。目を背けるような状況があった」と振り返った。
自民党内で戦争を体験した議員が減るにつれ、安全保障関連の議論が変質してきたという。「今の自民党の政治家はことごとく戦争を知らない世代。平和と安全は、空気や水と同じようにタダで手に入るという感覚を持った世代。安全保障問題に関心がない」(山崎氏)
藤井氏は会見に先立って配布した声明文で、安倍政権に対してこう警告した。「現総理の祖父・岸信介(元首相)が現行憲法では海外派兵はできないし、したがって憲法改正が必要だと考えていたことを重く受け止めるべきである」
-
日本が、憲法9条が形骸化してアメリカの下請け戦争を請け負うかどうかという瀬戸際なので、海外情勢に対する興味がやや低下し、「櫻井ジャーナル」や「マスコミに載らない海外記事」ともご無沙汰していたが、今の日本が直面する大問題は「戦争法案」が成立するか否かだけではない。それと同等くらいに危険なのがTPP問題である。
このTPPは、「ドラキュラと同じで、正体が白日の下にさらされれば自然消滅する」はずのものだが、なかなかその正体を世界中の人間の前に引きずり出すことができていない。というのは、私のいわゆる「表マスコミ」すなわち、大新聞やテレビは、TPPを推進するユダヤ商人(これは、シャイロック的発想を持つ商人ということで、民族としてのユダヤ人ではない。中には東洋人もいれば白人も黒人もいる。オバマはその下僕である。)の支配下にあるからである。
何度も言うが、マスコミを支配する者は世界を支配する、というユダヤプロトコルそのままである。
世界中の人々は、全員がユダヤプロトコルを熟読して、世界の現実というものを知るべきだろう。これがユダヤ人の手になったものではないにしても世界支配の原理を知るにはこの上無い教科書であるのは確かだ。ユダヤプロトコルを読んだことが無ければ、その政治的発言はほとんど聞くに値しない、とすら言えそうだ。ユダヤプロトコルとかシオン長老の議定書という名前が民族差別的でマズイと言うのなら、別の名前をつけてでも、社会に広めるべきである。まあ、「悪の現実政治学(リアルポリティクス)」くらいでどうか。
(以下引用)
◆http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/tpp-ff64.html
マスコミに載らない海外記事 2015年6月10日 (水)
◎我々を墓場へ手招きするオバマTPP演説
☆http://www.counterpunch.org/2015/05/18/
obama-on-the-tpp-beckoning-us-to-the-graveyard/
21世紀には “勝つか負けるか”思考 では“双方が負ける”
John V. Walsh 2015年5月18日 counterpunch.or
“必ずアメリカが世界経済のルールを打ち立てるようにしなければならず、
しかも我々の経済が世界的に強い立場にある今、我々はやらなくてはならない。
もし我々が世界中の貿易ルールを打ち立てなければ、中国が打ち立てる。
そして彼らは中国人労働者や中国企業が有利になるような形で
そうしたルールを打ち立てるだろう。”
- オレゴン州、ナイキ工場での演説で、
環太平洋政略的経済連携協定TPPにふれたバラク・オバマ大統領 2015年5月8日
TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)支持を得る為の 最も広く流通している、
彼のPRの取り組みとして、
我が帝国エリート思考の徹底的な代表の、きわめて僅かな、オバマの言葉は、
余りに内面をさらけ出し、余りに多くのレベルで、大いに間違っており、
大いに危険なので、一体どこから手を着けたら良いかわからないくらいだ。
実際は、連中は、我々の破滅の種を運んでいるのだ。
そして、彼らは中国に焦点を当てている。
第一に、それがアメリカ・エリートのお決まりとは言え、
声明の傲慢さと、覇権への意思は驚くほどだ。
広大な太平洋対岸の 人口3億人の国アメリカ合州国に、
人口13億人の国、中国を含む東アジアの貿易ルールを決める権利を、
一体何が与えたのだろう?
アメリカは、購買力平価で評価した総GDPは、IMFによれば、
現在、中国の次なのだから 経済力に基づく特権をもはや主張することはできない。
中国とアメリカ経済の相対的な力の明らかな証拠は、
アジアやそれ以外にも開発資金を提供する大いに必要とされていた
アジア・インフラ投資銀行(AIIB)の中国による立ち上げに対する世界の対応だ。
そのような開発に必要な資金調達レベルは、
アメリカが支配する世界銀行やIMFによってずっと拒否されてきた。
アメリカ同盟諸国のイギリスやイスラエルさえ、
連中を止めるためのアメリカのいじめにもかかわらず、次々とよろめいて、
AIIBに参加し、アメリカと、東アジアにおけるアメリカの手先、日本だけが
孤立することになった。
更に驚くことに、アメリカが、中国と東アジアの貿易ルールを決めることができる
と思っているのだ!
新たな経済的現実を考えれば、そういう時代は終わったのだ。
実際、オバマは、我々を脅かして、この方策を受けいれさせようとして必死になって、
恐らく無意識にこの事実を認めたのだ。
“我々はそうすべきだ(TPPを成立させる)、我々の経済が、世界的に強い今”
と言った際、一体彼は他に何を意味していただろう。
彼が言っていることは、明日一体どうなると、言外に意味しているのだろう?
第二に、オバマの言葉には、勝つか負けるかという考え方に満ちており -
そこが彼の演説の最も恐るべき部分だ。
要するに、我々アメリカ人が、我々の利益、そして他者が不利になる様に、
ルールを決めるのだ -
さもなくば、他の連中が、連中の為に、同じ狙いでルールを決めるのだ。
これはもはや持続可能な世界観ではない。
そういう考え方の結末は一体どうなるだろう?
結局は、衝突となり、次は支配と屈従 -、
経済であれ 他のものであれ、お互い同士の戦闘だ。
21世紀以降、世界には想像もできない威力のハイテク兵器が蔓延しており、
そのような紛争は、たとえ人類の終わりではないにせよ、
何十億人もの人々に、口で言い表せない苦難や死をもたらすことになる。
そのような兵器は、いつでもまた再生産できるので、禁止するだけでは不十分だ。
どのような核廃絶論者が考えて見ても恒久的な対策はありえず、
一時的なものしかない。
この考え方は、両者が満足のいく状況を生み出そうとして倦まない中国の見解と真逆だ。
勝つか負けるかではない。
“味方か、さもなければ敵だ”ではない。
そうではなく“両者が満足するのだ”。
人は、中華日報を読むか、ある程度のバランス感覚の為に、あるいは、
中国かちの報道のいずれかを見るべきで、
そうすれば、両者が満足のいく哲学が存在しているのに気がつくだろう。
中国は明らかに、いいところに気付いている。
その方向にこそ、世界の平和、繁栄と発展の可能性がある(保証ではなく可能性だ)。
オバマやアメリカの帝国エリートが指し示す方向では、
中東や北アフリカ中で、そして今、アメリカがそそのかしたクーデター以来、
ウクライナで、我々が目撃したものが待っている。
日本を含む東アジアの人々は、彼らの国か、他の国を、
地域の“同時勝利者”にしてやるというアメリカの誘惑の言葉を警戒すべきだ。
実際、オバマの(貿易であれ、何であれ)ルールを決めようという呼び掛けは、
東アジアや違う場所の国民への警告だ。
彼らにとっての結論は、もしアメリカが、自分で彼らを封じ込めたり、
鎮圧したりする規則を書かなければならないと決めれば、
結局そうなるだろうということだ。
まさにこの声明そのものによって、アメリカは世界の指導者たる権利を喪失したのだ。
まさにこの声明そのものによって、アメリカは世界に、
この国以外のあらゆる国は、なくても困らないと語ったのだ。
第三に、アメリカの進歩派連中のTPP反対論で滅多にふれられないのが、
その帝国支配の手段としての役割だ。
真実は、こうした人々が言っている通り、TPPは、
オバマが我々をそう信じさせようとしている様な、アメリカ人労働者を助ける
ことを狙うものではない。
真実は、それは大企業だけが儲かるものなのだ。
真実は、秘密で、それゆえ、きわめて反民主主義的な協定だ。
この最後の点については、到底疑いようがない。
議員達は、それが書かれつつある時点で、少なくともTPPのある部分は見る機会がある。
しかし、この協定の深く暗い秘密を見る際、
彼らは側近や専門家を同行させることができない。
議員達は、ノートもとれず、文章のコピーもとれない。
議員達は、その内容を、国民にあかせない。
そこで、我々国民は、TPPに一体何が盛り込まれているのか全く知らされずにいる。
帝国エリートが、その特徴として主張したがる 民主主義やら透明性と、
これほどほど遠いものはない。
これと対照的に、ナイキ幹部連中であれ、強欲な国際銀行幹部であれ、
裕福で有力な連中は、TPPについて自分達に必要なことは全て知っており、
それに対して大変な影響力を持っているのは確実だ。
だが、そうした連中は、アメリカ人と、アメリカの地方支配者のことしか考えない。
そうした連中は、我が国の主流進歩派が滅多にふれない言葉である戦争と平和や
アメリカ帝国の現実という問題を無視する。
そう、TPPを止めるべく動こう。
だが、この戦いは、単にもらって嬉しい
ちょっとしたものをもっと得るためのものでないことは覚悟しておこう。
TPPは、実際、ある種の自暴自棄とパニックで、
アメリカがそれに至る道を舗装しているように見えるハルマゲドンへと向かう道
への更なる一歩なのだ。








