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死の支配の奴隷か、死の超越か

「極東ブログ」から一節だけを抜粋転載。
抜粋文章の前や後との関係は無視して、この部分には面白い問題提起があると思う。ただし、末尾の「実はそこで、人は死の支配の奴隷になっているのである。」という言葉(この部分の小結論と言っていい。)に私は首をひねるのである。
むしろ、「自分の死を支払えば人を殺したっていい。(何をやってもいい)」というのは死の超越であり、死の支配からの解放ではないのか。
いわゆる「無敵の人」の誕生である。もちろん、こういう人間が出てくるのは社会にとっては困ったことである。死刑論争の論点の一つが、「死刑を恐れない人間に対しては、死刑は犯罪抑止力にはならない」というものだ。まあ、死刑を恐れる人間が大多数だから死刑制度は立派な犯罪抑止力になっていると私は思うが、自分の死によって失うものは何一つ無い、社会全体から疎外された「無敵の人」にとっては死刑など怖くも何ともないはずだ。
さて、私には、「自分の死を支払えば、人を殺したっていい」という思想が「死の支配の奴隷になっている」となぜ言えるのかは分からない。おそらく、「死に思考全体を支配された思想である」ということかと思うが、よく分からない。抜粋部分の前後に書かれていたのは信仰(キリスト教信仰)の話なので、宗教を信じることと死の支配は対立するものなのだろうか。
人が、自分の死の恐怖を乗り越えた時、彼は「無敵の人」になる。だが、残念なことに、現代の無敵の人は、そこから犯罪などの反社会的行為へと走ることになる。なぜならば、彼がそうなるべく追い詰めたのが社会だからである。
ここで話をきれいにまとめるならば、「あなたはこの美しい世界に、その美しさを理解できる人間存在として生まれただけで、最高のプレゼントを得たのではないか」と言うこともできる。だが、ガザで死んでいった赤ん坊や幼児の写真を見れば、人間としてこの世に生まれることが「神の贈り物」だとはとうてい思えないだろう。
「罪無くして流された一粒の涙のゆえに、僕は神に対してこの世界への入場券をお返ししたい」(「カラマーゾフの兄弟」のイヴァンの言葉)という言葉は、神という存在への絶対的否定の言葉となると思う。にもかかわらず、ドストエフスキーはキリストを信じ、神を信じたのである。そこが私にはどうしても理解できないところだ。
信仰はもちろん論理ではないのだが、私にはさすがに「不合理ゆえに我信ず」とも思えないのである。




(以下引用)


つきつめれば、自分の人生のなかで、真理とされる最終条件は何かというふうに考えてもよい。
 それはなにか?
 自分の死である。
 自分にとって自分の死ほど確実なことはない。自分の死は認識できないから自分にとって死はないと言うこともできるし、それを信じてもいい。だが、人は心の底で自分が確実に死ぬことを信じている。あるいはそう信じなくても処罰の最終に置かれるのは死刑である。
 しかしその先には、そうであれば死を決意しえすればなんでもできるはずだという思いが潜む。この世が与える罰は死刑までだ(そこに至るまで苦しみはいろいろ選べるが)、自分の死を支払えば人を殺したっていいことにだってなる。
 実はそこで、人は死の支配の奴隷になっているのである。



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